まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

病気に感謝している

2018-03-31 18:41:17 | 行動計画 & 積極的思考
朝ごはんどころか水分も飲まずにかかりつけの内科へ。
血液検査とエコー。

昨年2017年9月に行ったとき、血液に関していえば(2014年9月の帰国後の再就職時から2017年3月の再々就職前の健康診断よりははるかに)きれいな数値であった。

しかし2001年頃からあることを指摘されており、中国での健康診断時も存在した胆のうポリープが要精密検査ばりの大きさになっていた。
(さらには小さいものが増えていた。)

帰国後に増えた体重を5kg近く落とし、さらに(決して薬だけに頼らずに)血圧も改善されつつあるわけであり、半年の猶予期間をいただいてあった。

この半年に行ったこと。

・帰国後出勤日の朝に必ず食べていたチーズを止めた
・甘いものが好きなのだが、我慢できる限り控えた
・毎夕食時に梅干し1つ食す
・ラーメンはともかく人よりは少なったのだが、できる範囲でインスタントものを減らした
・肉よりは魚を選択することを増やした
・なるべくストレスをためない
・2017年3月から減らしてはいたが、2018年旧正月からお酒は週に1回ワンカップ程度に留めた(付き合いのときは仕方がないが・・・)

まあこの程度であり、忙しさもあり運動量はそれほど増えてはいない。

そんなドキドキで病院に向かったわけであり、昨晩あまりぐっすりは寝ていない。

それもあり病院での血圧測定は(今朝自宅で測ったよりも)かなり高かった。

だが(医師から言われたわけではなく、技師からは)重大性のあるものはなかったと言われた。

つまり前回よりは小さくなっているのであろう。

努力はしてみるものである。

とりあえずこの週末は好きに飲み食いし、来週から(この半年ほどではないに違いないが)健康を意識した生活に戻ろうと思っている。


昨晩考えた。
「(生まれつきあちらこちら悪い私ではあるのだが)年を取りいくつかの病気を経験したことは有り難いことなのかもしれない」と。

悪いところがあるからこそ、健康に気を使うのである。

2017年3月初旬に経験した息切れはもしかしたら心筋梗塞系のものであったのかもしれない。
最近になってそう思うようになった。
(元々心肺機能は自信がないのだが、病院では一度もひっかかったことがない。
強いてあげれば一時期肺機能を指摘されたぐらいか。)

それと3月下旬の再々就職前の健診で血圧が今までの最高値となり、体重も最高値でなければ、間違いなく血圧治療で内科に駆け込むことはなかったに違いない。

悪性のものではないから言えるのかもしれないのだが、病気に感謝している。
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焦らないでくださいね。いつかわかってくださいますよ。

2018-03-29 22:12:50 | 授業全般(日本語)
日本語教師をしているときに、自分がなぜそのようなことを力説するのかわかっていただけないことなど当たり前であった。

その多くは日本語ではなく、一般教育としてのもの。
日本語教師も教師であるからには学習者の日本語だけ伸ばせば良いというわけでもない。

もちろん教育機関によってはそんなものなど求めていない場合もあるかと思う。

だが人としての行動が伴っていないのに、外国語でコミュニケーションできるとは思えない。

当然大きな誤解を与えることもある。
ただみなさん自身に置き換えてみていただきたい。

「学校生活の中で、先生のお話のすべてに賛同できていたとしたら、ある意味怖い」のではなかろうか。

そして卒業してから恩師の言動の意味に気づいたこともあるに違いない。
なぜあのセンセが厳しくしていたか、なぜあのセンセが涙を浮かべながら話していたのかを。

「今はわかっていただけなくてとてもつらいかもしれませんが、(何年後、何十年後になるかもしれませんが)必ずあなた様の伝えたかった真意に気づいてもらえると思いますよ」


さてここから先は以前も記した内容。

普通に日本語教育としての授業であっても、当然賛否両論ある。
例えば私は(学校形態によって中級で行うこともあるが)上級で簡単な(?)翻訳を入れることがある。

だが学校いや上司によっては「外国人教師が授業で通訳・翻訳に手を出さなくても良い」という考えもあったりする。

そんな中でも私は堂々と行っていた。

簡単にいえば、中国人教師のやることに立ち入ってもらいたくないのかもしれないし、中国語がわからない教師、授業で使わない教師との差別化を防ぐためなのかもしれない。

だが私は授業で中国語を使うかといえば、そうでもない。
私自身ネイティブ教師である以上、日本語だけで教えたいと思っているのだし。

そして私の狙いは(ナチュラルな日本語翻訳にこだわっているわけではなく)学習者が楽しく自分で口を開かせるきっかけづくりであったりもする。
さらには秘かなクラスコントロールの下地も隠されている。

それにはとある日本語教師ブログの大御所の記事が下地となっている。
私は地域や教育機関、学習者が違えば、まったく同じことをしても通じないと思っているので、必ず自分なりのオリジナルをぶち込む。

日本語訳を発表していただくだけでは楽しくない。
日本語訳のあとに、自分の母語や生活で使っている/使っていた言葉、日本語の他に得意な外国語などでも発表していただいていた。

特に中国語のように様々な方言があるわけで、それが中国語普通話とかけ離れていればいるほど、面白く聴こえたり・・・。
少数民族の方もいるので、朝鮮語などで発表があったりもする。
(この場合は絶対に強制させないこと。)

もちろん最後に私も参加する。
与えた中国語文を(普段よりも)日本人の中国語丸出しで朗読したり、読み上げたり。
当然学生はツッコミを入れてくる。

ポイントは上級(または中級)であり、ある程度私の伝えたいことを理解できるところにある。

何が言いたいかといえば、敷居を下げることが大切だということ。

「敷居を下げる」と記すと、大きな誤解を与えそうなのだが、実際は「普段なかなか自分から積極的に発話しない学習者に『みんななんだか楽しそう。私も参加しちゃえ~』」と思わせるといえば、多少は理解していただけるかもしれない。

そのように考えると、初級でもゼロ初級でも学生をノセることができたりする。
(間違っても初級で翻訳などぶち込んで玉砕しないでくださいね・・・。)

実際何をやってもノッテこない学習者もいる。
中にはその手のことが大嫌いな方もいる。

(だが実は「楽しい」と思っているけれども、それを表に出せない方もいるのである。)

ここで大切なことは、授業も音楽と同じで静けさも盛り上がりもなければならないということ。

私など教案作りながら、だいたいどの辺で「クスっ」と笑わせ、どの辺で「大爆笑」させようかと考えていたりする日本語教師か漫才師かわからない教師であった。

教師の数だけ教え方は存在する。
何が正しくて、何が邪であるか、その判断はとても難しい。
ただ自分に合った教え方というものは必ずある。


まあ一番やりたいようにやらせていただいたのは最後の4年間お世話になった上司夫妻なのだが、彼らは本当に私の扱い方を知っていた。

仮に(あくまで仮にですが)私がとても優秀だとする。
だがそれを使えない上司では宝の持ち腐れ。

では(仮に)優秀な私の教える学習者がとても優秀だとする。
その教え方に気づかない私は実は優秀ではないことになる。

だがしかし「クラス全員に自分という教師を理解していただくことは不可能」である。
しつこいようだが(何年後になるか何十年後になるかはともかくとして)あるとき学習者が気づきます。
先生の真意に。

「実際疲れますよ。授業の準備もして、クラスコントロールもして、ネイティブ教師として学習者のそばにいることは・・・」

みんな同じなんで~す。
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大切なものは身近にあり、シンプルなものであったりする

2018-03-24 23:39:39 | 行動計画 & 積極的思考
平日はビジネスリュックだが、平日はさすがにリュックまでは必要ない。
というわけで小型のショルダーバッグを使っている。

昨年夏に買い換えたバッグはホームセンターで手に入れた実用性重視のものであり、値段がそのままわかるようなもの。
(ビジネスリュックもホームセンターの安物だが、これは使い勝手どころか見栄えもかなりのもの。)

だが思うところがあり、3週間前に多少見栄えが良いものに買い換えた。
ミラーレスのカメラが入らないことはないのだが、やはり見栄えを考えて普段はコンパクトカメラを偲ばせてある。

帰国後はスマホもLGを使ってたし、今はiPhoneを使っており、スマホのカメラでもかなり信頼できる。

それでもカメラ専用機のほうが便利なときもある。

そしてコンパクトカメラであっても、ミラーレス以上に味がある写真になることもけっこう多かったりするわけで。

今カバンに忍ばせているコンパクトカメラは以前仕事で使っていたものであり、プライベートではこの3月から本格的に使い出したと言っても過言ではない。

そのためどこまで味のある写真が撮れるかはわからない。
元々仕事用であり記録重視のものであるし。

もちろん最初から何か撮影目的があるときはミラーレスを持っていくけれども、この辺りに自分の心境の変化が現れているような気がしている。

おじさんになり今までと同じ生活がきつくなってきた。

私はある意味様々なものにこだわりがある。
しかしあまりにこだわり過ぎると、他の良いものを見逃すことがある。

もちろん段々と自分がわかるようになってきたこともあるのであろうが、最近思うのが「『大切なものはけっこう近くに存在する』のではなかろうか」ということ。

もちろん必要なものは購入したり、追い求めたりする。
だがすでに自分が持っているものに目を向けてみると、意外な発見があるかもしれない。
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だからぁ、日本語教師をしたくても生活できんのだよ

2018-03-21 22:13:33 | 授業全般(日本語)
いろいろな方に聞かれる。
「もう日本語教師はやらないの?」と。

答えは「(だからぁ・・・何度も言っているけれど)やりたいけれど、生活できないから・・・」。
自分一人ならば、自分の老後の問題だけを考えれば良いのかもしれないのだが、私はじいさん、ばあさんを抱えている。

「日本語」「教師・講師」「国際関係業務」などを諦めたわけではない。
特に一番やりたいことは「日本語教師」。
一番好きな仕事も「日本語教師」。
今はそういう時期ではないと思うだけ。

小さなことに忠実であれば、そのうちに何か良いことがあるのではなかろうか。

ただひとつ言いたいことは人の生活や体の問題をもてあそぶような機関はごめんだということ。

人を騙してお金を儲け、それを還元しないようなところはいつか天罰がくだるであろう。
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わたくし雨好きは大嘘つきで天邪鬼

2018-03-19 21:56:17 | いろいろ
最近思う。
「俺って究極の嘘つきだなぁ・・・」と。

あれだけ決意をした韓国語。
このブログでそれを記したのは己を追い込むため。
だが少しは勉強してはいるものの、何もブログには記していない。

私は大嘘つきと言われても仕方がない。
特に一部言語を除いた外国語学習計画に関しては。

そう、以前もポルトガル語やイタリア語について、このブログに記したとおりにはやっていなかった。

もちろんそれは自分のおかれている状況が大きく変わったからであり、仕方がない。
とはいえ、男が一度口にしたことを軽々と放棄することはよろしくない。

最近思う。
「俺ってホントに嘘つきだなぁ・・・」と。
仕事上では白黒はっきりしないと進んではいかない。
だが、プライベートに関しては欲しいものを欲しいと言えない。
別に遠慮しているわけではないと思っている。
自分で感じていることは「自分がある種の天邪鬼」だということ。

昔はね、本当にはっきりしていた。
欲しいものは欲しいとはっきり意思表示ができていた。
怖いものがなかったからなのであろうか。

欲しいもの。
それは平和。

平和にも小さなものから大きなものまで存在する
そして個人の心の中から地球、宇宙規模まで存在する。
そのように記している私はやっぱり天邪鬼。
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