まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

亥年もすでに半分 と 素敵な方向音痴

2019-06-30 18:46:50 | いろいろ
・亥年を中国では猪年と表す。ただし、中国語で猪は豚のこと
・本日の記事は「・・・」がとても多い


出国前の休みの前日の晩に良く(翌朝に作る中華料理の)食材を買っていたスーパー。
なぜか日曜日の晩も寄ることがあった。
それがATM利用であったのか、酒でも買っていたのかは思い出せない。

急に本日の夕方の買い物でそこを利用したくなったのは、中国に渡る前の己の奮闘を思い出したので。

今も昔も車を停めるエリアは変わらない。
例え雨の日であっても。


元々その傾向はあった。
だが、以前はけっこう簡単に道を覚えることができた。
それなのに、中国で生活を始めた途端、方向音痴度のメーターは急にレッドゾーンへ跳ね上がった・・・。

中国生活を始める前も、大雨の中の夜の香港で全然違う方向に歩いていたことがあるけれども。

そう、道は間違えない(はず)。
あくまで方向感覚がおかしいだけの話。

何かのお店から出たとき、歩き出す方向を間違えたりする。

方向音痴というものは、右だとか左、まっすぐ、後ろというような感覚で覚えていたり、覚えたりする。

話を元に戻す。
中国でさらにひどくなった方向音痴度。
それは日本に帰国してからさらなる才能を爆発させた。

本日も見舞い先の病院駐車場でやらかしている。

自分が車を停めた場所がわからない・・・。
そんな私はその病院の場合、出口から駐車場に入り、その方向に歩けば見える場所に車を停めるようにしている。

昨日に引き続き、本日も2回父親の見舞いに行っている。
午後はどちらかといえば、母親の回収のため。
昨日も同じ状況で車を探した。
そこで本日は駐車場に入り、その方向に歩けば、車が見える位置に停めておいた。

それなのに、午前ひとりだけで車に戻るときに車を探している。

午後はもっとひどかった。

わかりやすく言えば、Bのエリアに停めるつもりであったのだが、そこがいっぱいであった。
そこで私はAに停めた。

病室まで行き、母親を連れて歩き出し、Aに停めてあることを伝えた。
だが、車はAになかった。
そう、Cに存在した・・・。

なぜこんなことになるかといえば、その辺りは普段私が車を停める場所ではないため。
この2日間はあくまで母親が歩くルートを考慮して車を停めている。
それが間違いの原因。

方向音痴の私は、常にわかりやすいところに車を停めるようにする。
多少歩くにせよ。


何年か前、大型スーパーの4階駐車場に停めたのに、3階駐車場で車を探し回ったことがあった・・・。
それをSNSに上げたところ、何人かの友人から「スマホに写真を残す」ことを勧められて実行するようになった。

そしてその数か月後、友人を名古屋近辺の観光地に案内した。
最終目的地で車を停めるところがなく、いつもとは違う駐車場に停めた。
そこは写真を撮ってもあまり意味がなかった。
ただ大きな誤算があった。
おしゃべりに夢中になり、広い通りに出た場所を頭に叩き込まなかった。

案の定、帰りに駐車場までの道を間違えている・・・。
友人に「こっちだったと思うけど」的に言われて、無事に車に辿り着いた。

その1年後、他の用事でその辺に来たおりに、その駐車場を探した。
だが、駐車場自体を発見できない。

おそるべし! 観光地!!

これは駐車場だけの話ではない。
大型スーパーの屋内駐車場に戻る入口がわからなくなることも。

その通路出入り口には可愛い看板があったはず。
だが、いくらウロウロしても、看板がない。

たまたま一時的に置いてあったらしい・・・。

以降、簡単に移動できるものを目標物にしないことにした。
そして必ず通路の両脇の店舗名入りのイメージを徹底的に頭に叩き込む。

すると今度はまた自分の車を探して歩き回ることになる。

良く知っている大型スーパーであれば、エスカレーターや階段、エレベーターを利用する前に、「帰りに登ってきたら、どちらの方向に車があるかを」覚えておくだけで良い。

しかし大型ショッピングモールで、さらに年に1、2回しか行かないような場所であると、確実にどこかでウロウロすることになる・・・。

そう、私はけっこう猪突猛進型の人であったりする。
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もうすぐ帰国5年目を迎える(その3)

2019-06-28 23:42:55 | 行動計画 & 積極的思考
5年も過ぎると、感覚が狂う。
ラスト授業は2014年6月28日だと思っていたら、27日であった。
何にしても、正規の日本語教育の授業としては5年前から行っていない。
もっとも日本語教育ではない、日本語指導ならば他の仕事で行ったけれども。

その年の27日は金曜日。
28日土曜日から、日本本格帰国に向けたさらなる準備に追われることとなった。

部屋の片付けだけでなく、悔いを残さないために(日帰りではあるが)あちこち出歩いた。

当時は帰国後の不安、やっと帰国できる喜び、もっと中国にいたいという気持ちが入り混じっていた。

帰国後の一番の不安は「お金が無くなる前に就職できるであろうか」、二番目は「日本という国で仕事をしてゆけるであろうか」であった。

だがしかし、それよりも大きな不安は「帰国までに部屋が片付くかしら・・・」であった。

実はその半年以上前の年末大掃除の頃から、様々な処分を始めていた。
それは遅くても(当時のパスポートで教師として滞在できる)2015年秋までには本格帰国をすることを決めていたので。
つまり、2014年夏の更新を最後にしようと決めていたことになる。

ところが、(3週間という最長となった春節前後の)一時帰国から戻って1か月後(である3月下旬最初)にその夏の帰国を決意することとなった。
それも上司の一日遅れの誕生日パーティーの後、上司に誘われて二人で行った足湯の最中でのとっさの決断。

上司は躊躇いながら私に言った。
「数年以内に学校をクローズするつもりであるため、その夏の契約更新はしない」ということ。
さらに、私が望むのであれば、「他の学校への移動の協力をする(実はすでに私も知っている学校に根回しをしてあったらしい)」と。

しかし、私はすぐに7月下旬で日本に帰ることを決断した。

瞬時に決めることができた下地は以下のとおりであった。

1.2012年12月下旬から「いつ急に日本帰国となっても、後悔しないような教師生活、中国生活を送ろう」という気持ちで過ごしていた

2.そのひと月前に一時帰国から中国に戻るとき、「両親のためにもできるだけ早く戻ろう」という気持ちがとても強くなった

3.私自身、そろそろ日本に帰りたくなった


話を2014年6月末に戻す。

私が住んでいた村は「村」という名が不釣り合いなほど、何でも揃っていた。
帰国する1年前にはコンビニもできていた。
唯一なかったのがクリーニング屋さんであったと記せるぐらい、便利で開けた村であった。

学生街から、近くの大きな工場で働く方々のための街になりつつあった。

ある日の未明、粗大ごみを村で一番奥のゴミステーションに出したときのこと。
そこは村の外れにある私が住むアパートよりも奥であり、そこを抜けると幹線道路に抜けることができるが、本当に田舎道。

村の表玄関も幹線道路沿いであったが、バス停から若干離れていた。

反面、私のアパートから、一番近い繫華街に行くときや、急行路線バスに乗って最大の繁華街方面に行くとき、その細い田舎道を通るのが便利であった。

いつも通るので、その林の向こうに池があることには気づいていた。

(村でたった一人住む最後の日本人が出したと気付かれないように)こっそり粗大ごみというか資源ごみを置いたそのとき、蛍を見た。
それはそれはきれいな蛍であった。

あのときの光景は今も目に焼き付いている。

これは天から私へのプレゼントであったと思っている。
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もうすぐ帰国5年目を迎える(その2)

2019-06-26 21:08:33 | 行動計画 & 積極的思考
母親を乗せての帰宅途中。
「こんなところに日本語学校がある・・・」

いや、1か月ぐらい前の仕事帰りに発見していたようにも思える・・・。

日本語教師であったし、できることならば今も戻りたい世界であるため、たまに求人情報を見る。
だが、その学校の情報は見たことがない。


最近日本語学校が増えている。
まあ、お金儲けも大切だが、学生の将来も考えてくださることを願っている。


冒頭で記したが、何故に平日の夕方に母親を車に乗せて帰宅したか。

父親が入院した。
元々病気でもあるのだが、違うことから大事をとっての入院。

二日続けて仕事帰りに顔を出し、そのまま母親を連れて帰宅。

2001年の4、5月にも入院しており、毎日仕事帰りに顔を出していた。
私が中国に行ってからも数回入院している。
当然それらは見舞いなど行けるはずもない。

見舞いと簡単にいうが、顔を出せる見舞いもあれば、簡単には顔を出せないものもある。
それは物理的な距離や忙しさだけの話ではない。

そういうこともあり、帰国して5年で初めてのお見舞い。
その対象が父親というのも、思うところが大きい。

なぜかといえば、今現在距離的にはけっこう近くで働いている。
それも親(特に父親)に何かあったとき、すぐに動けるように考えてのこと。
(もちろん私自身も長時間通勤は体力的にきついし。)


帰国後の仕事。
その多くは両親や親族のことを考えて選んでいる。

日本語教師に戻れない・戻らない理由もそうである。
他にも実にやりがいのある良い仕事から転職した理由もそう。

もちろん私自身の老後のための貯金もあるが、出たり入ったりで貯蓄額は3年前とほぼ変わらない。
それでも両親の傍にいながら生活してゆけるのならば、それでヨシとしている。

無理やり時間を作って記していることもあり、あまり考えなくキーを叩いているのだが、(何度も何度もしつこいぐらい記しているように)日本語教育や外国関連の仕事、その他教育の世界で活躍できるのであれば、とても幸せだと思う。

ただ、私や私の親族は不思議なぐらい何かに守られて生きている。
つまり、現在の私の生き方は必然なのであろう。

この5年いろいろあった。
人生の折り返し地点に来てから、様々なことを勉強させていただいた。
それを考えると、私は将来間違いなく教育関係に戻るような気がしてならない。


追記:今回の父親の入院で(私が中国にいる間に結婚した)妹夫妻には本当にお世話になっている。
旦那は本当に素晴らしい方であり、進んで人のために動ける男の中の男。
これも縁。

我々は縁で生きている。
特に人と人との縁で。
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もうすぐ帰国5年目を迎える(その1)

2019-06-23 21:22:53 | 行動計画 & 積極的思考

あとひと月もすれば、帰国して5年が過ぎることとなる。

本日電車のほうが楽であり、早く行ける場所にわざわざ車で出かけた。
それは本日最大の目的A消化後の付け足しの目的Bのためである。

説明:目的地Aの近くに目的地Bがあるとする。
Aだけ考えれば、電車の方が楽なのだが、Bは車がないと大変・・・

ただ、Aに行くのに高速ではなく、一般道を利用している。
そのままバイパスを走れば、1時間ぐらい短縮できたはず。
だが、途中でバイパスCを降りた。

バイパスCの付近には4月までいた職場が関連した場所がある。
簡単に言えば、私が職場移動願いをださなければ、そのうちにそこへ移動することとなったはず。

つまり、良く知っている場所。

だが、それ以前に5年前の帰国数日後に面接にいった場所に近かったりする。

Cを降りて、左に行けば、私が4月までいた職場と関連がある場所、右に行くと面接を受けた機関がある・・・。

何にしてもこの縁は偶然ではないと思う。

本日は他にも「あっ!」や“哦!”とひとりのたまう点と点のつながりに気づいている。


よく中国語圏のテレビ番組を見ている。
正直日本のテレビはあまり見ない。
テレビは時間泥棒。
ただ、語学の勉強として考えるのならば、テレビも決して時間泥棒ではない。

最近、福原愛さんのある番組を見た。
ブログの趣旨が違うので、番組名は記さないが、中国本土でも放映されている有名番組。

そこで福原さんの言葉に「はっ!」とした。
私よりもはるかに若いこの方。
だが、私はとても尊敬している。
だからこそ、いつも心に響く言葉を受け取ることが多い。

先日「悟った!?」という記事を記した。
しかし、さらに福原愛さんの言葉で悟った。

本来これはセカンドブログのほうに記そうと思っていた。
だが、今のところはこちらのブログの方の影響が大きいので、急遽こちらに記した。
その代わり、ブログの趣旨が違ってくるので、テレビ局と番組名、いつの放映などというデータを記すことを控えようと思う。

ただ、このような書き方はできる。

セカンドキャリア。
それは今までとは違った生き方、予想もしていなかった生き方になることも多い。
すべて行動計画通りに物事が進む方などとても少ないはず。
もちろんいつも擦り合わせを行うからこそ、行動計画なのだが。

ただ、福原さんはありのままを受け入れているように感じる。


この数年の私はいつも自分の父親の文句ばかりであった。
だが、これも自分の縁なのだと思うことができた。

今のところ母親がしっかりしているからこそ成り立っている父親の介護生活。

親の生活のために、生き方を調整する。
それはおそらくみんな行っているであろう。

そしてこれも私に与えられた縁なのだと思うようになった。

それでも私はすべてのことを諦めたわけではない。

今年は残業規制もあり、今までよりは余裕がある。
おまけに飛ばされた職場も実家から近くなった。

だからこそ、今まで以上に私は自分の行動計画を進めていこうと思っている。

「俺はこんなところで潰れない! まだまだ人生の半分が過ぎたばかり!」
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悟った!?

2019-06-17 23:02:48 | 行動計画 & 積極的思考
最近あれこれブツブツ文句を記している。
昨晩も記したが、見苦しいので5~6時間後に消した・・・。
(読んだ方もいらっしゃるとは思うが。)

今の私は自分の老いた両親のために働いている。
そして自分の老後のためでもある。

ただ、両親のためのほうのポイントはかなり高い。
そういう意味でのストレスはかなりのもの。

それでも私はいつか日本語教師に戻るつもりでいる。
なぜならば、私の人生は私のためと世界の方々のためにあるのであるから。

それでも今すぐには無理であるし、(いちおう期限は決めてあるものの)ネットの怖さもあり、記すことを控えておく。

ただ、昨晩思った。

私には日本語教師以外にもある方面の仕事の能力がある。
それで食べることができるのであるから、それを利用しない手はないと。

そして徐々にではあるが、外国人関係や日本語教育方面にも近づいている。

であるから、今は私の能力を高く評価してくださるところで、生きていこうと。


今晩、3月までいたオフィスの方から連絡があった。
私はそこが嫌で移動申請を出したわけではない。
通勤時間が長いことが問題であるだけ。
今は自宅から近いところへ飛ばされているのだが、また将来どこでそこの方々と一緒に仕事をするかわからない。
とにかく連絡が来れば、できる限り早めに返事をするようにしている。


決して日本語教育の仕事がないわけではない。
いくつかと連絡は続けている。
ただ今年は私の方がタイミングが合いそうにない。
それは仕事だけではなく、個人的な行動計画と今年必要なお金を稼ぐという大切なことも関係している。

それでも、もしうまくタイミングを合わせられるのであれば、そのときは考えるつもりでいる。

これは日本語教育だけではない。
現在の仕事も、他の仕事もである。






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