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まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

最近考えていること

2023-06-16 23:16:20 | 日本語に関係する教育

分の話す中国語。

漢字ひとつひとつの声調がわかっていても、単語やフレーズになると日本式アクセントになることも多い。

さらには苦手な発音を代替発音に置き換えることもある。

いかに基本をないがしていたかの証明であろう。

 

だが、中国に渡った直後はそうでもなかった。

当時は旧HSK3級に過ぎなかったのだが、生活において急に話さなければならなくなった。

さらにはひとりで飲みに出かけることで、嫌でも話さなければならない状況に自分を追い込んでいた。

 

発音については耳から聴こえる中国語音声を日本語音声に当てはめてしまったことが原因なのかもしれない。

なにせ広東省に住んでいたこともあり、“是”や“試”で“shi”と言えば、“si”と直されることもあるわけで・・・。

ただ、相手から聴こえる音は“si”であっても、実際は“shi”の口で“si”と言っていたとしたら・・・・・・。

もしかしたら私(たち)の“shi”は中国語の“shi”の調音点と調音法になっていなかったのかもしれない。

 

後に中国ドラマにはまるようになると、発話の口元にも注意が行くようになった。

自分が覚えた口の形よりも、その口のほうが実際の音を出すのに楽であることに気づいた瞬間であった。

 

[ちなみに私がいまだに苦手な発音は”chao”であり、これについては南方発音で代替することが多い。]

 

さて、発音はともかくとして、単語やフレーズになったときの(日本語母語話者独特の)声調の変化について考えてみる。

 

おそらく聴こえた音そのものに注目するあまり、声調まで気が回っていなかったのであろう。

簡単にいえば、聴こえた音は頭の中にインプットされるにはされたが、そこから声調は除外されてしまったらしい・・・・・・。

 

昨年夏から英語に力を入れたことは何度も記したかと思う。

そこで「英語や中国語で日本語を教えたらどうなるであろうか」と考えた。

それを研究しているうちに、「英語で中国語教えるにはどうするのか」という方面にまで興味がわいてしまった。

 

「英語で日本語を教える」と「英語で中国語を教える」に注目すると、「英語教育」や「外国語教育」にまで目が向く。

 

そこで改めて気づく。

英語教育や中国語教育においても、日本語教育で勉強したような世界と遭遇することに。

 

特に私が「なるほどね」と感じるのは「音声学」。

中国で教える日本語母語話者の日本語教師は標準的な発音とアクセントが求められることが多い。

私もその方面には自信がある。

 

かと言って、(例えば)日本語教育能力検定試験の試験Ⅱで毎回高得点をあげられるかと言えばそうでもなかったりする。

 

自分の中国語の発音と声調の問題点もその辺にあるのかもしれない。

 

[ちょっと最近あれこれあり、今までにも増してうまく時間が取れないことが増えてきました。

せめて週に1,2回はブログ記事をアップしたいとは思いますが、そうならない可能性もあることを記しておきます。]

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話はまず正しく伝わらないもの

2022-01-28 23:00:11 | 日本語に関係する教育

NHK Eテレの番組は良くできていると感じる。

特に子ども向けのものは素晴らしいとさえ感じる。

ただ、放送スケジュールの変更や夏休みや冬休みの特別番組への差し替えの通知を徹底していただきたいというのが私の願いである。

 

「あのね、放送の最後のほうにでも、テロップを出したり、アナウンスするぐらいできんのか!?」と言いたくなってしまう。

 

再放送の時間と合わなければ、わざわざWEB上で見る時間を作ることは難しい。

 

そのNHKだが、Eテレに限らず、ラジオR2も昔からお世話になっている。

だが、そのR2が消えてなくなるのかと思うと、心が痛い。

名古屋地区の好きだったFM局が2つも無くなっているし(それも同じ周波数で・・・)、青春の思い出である香港ATVも無くなっているというあの経験をまたするのかと思うと・・・。

 

ただ、「永遠に続くものは数少ない」(「永遠に続くものはない」とは記したくない)わけであり、仕方がない。

(R1やNHK FMもけっこう好きなのだが、やはり地元や生まれた県のFM局を聴くことのほうが多い。)

 

さて、EテレやR2が登場したのだが、私が一番活用しているのは語学番組である。

 

日本語教師時代にはよくそこで学んだ手法を使わせていただいたものである。

もちろん、中国での日本語教育に合うようにアレンジしていた。

 

いくら良い手法であっても、たいていはそのまま使っていては通用しない。

まずは疑ってみて欲しい。

自分が関わっている現場に合っている、合っていないという観点だけで言っているわけではない。

疑ってみることで、己の間違った解釈にも気づく。

 

中国でも「○○先生が言っているのだから間違いない」という方に何人か出会ったことがあるのだが、そういう方に限って間違った解釈をしていたりすることが多かった。

私などかなりのへそ曲がりであるので、「まず疑う」という習慣がある。

ただ、そこで間違った解釈を声高に叫んでいる方に「アホか」などという態度を取ってはいけない。

たいていは順を追って説明しても通じなかったりするのであるから、そんなことをすれば、火に油を注ぐようなもの。

 

決して自分がまともな教師だとは思っていない。

ただ、「教師たるものはいつも様々な方面を見渡せなければいけない」はずなのに、そうではない方もけっこういらっしゃる。

 

別に語学だけとは言わないが、日本語教師を続けるのであれば、自分も常に何かを学び続けるほうが良いと自分勝手に思っている。

 

話題変換

先週、転職のことに触れた。

なんだかわからないうちに、けっこう話が進んでいるような気がしている。

 

そこには私の経歴もあるかとは思う。

ただ、いくら経歴が素晴らしくても、今が使い物にならなければ、そんな奴は要らないであろう。

自分はけっして物覚えの良いほうではないし、最近は何回頭に叩き込んでも翌日には忘れていることさえある。

しかし、常に勉強している

それは語学だけの話ではない。

何をやるにしても、自己研修は大切だと自分勝手に思っている。

 

ところが以前と少々違う部分もある。

昔は人に訊く前に自分で考え、自分で調べ、それでもわからなかった場合だけ訊くようにしていた。

今は敢えてストレートに訊くことも増えている。

それは若い方に学んだのである。

 

若い方々が、何でもすぐに訊くのは考える力がなかったり、調べる能力がないというわけでもないと思うようになった。

今の時代、スピードが大切だということを肌で感じているのだとしたら?

また、知っていても訊くことで、自分の考え違いに気づくこともある。

 

そして、敢えて訊くという行為はコミュニケーションを生む。

 

(ちなみにどうでも良い話だが・・・。私はよく「訊く」と常用外の使い方をするが、これは主に文章だけで勝負をするうえで意味をわかりやすくするためである。)

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NHKにツッコミを入れる元日本語教師

2021-11-02 22:30:55 | 日本語に関係する教育

テレビ、ラジオ。

特にNHKで正しい話し方をされない場合、ラジオやテレビに向かって言い直しをする元日本語教師・・・。

 

いや、私だけでなく、多くの語学の教師や関係者で良く聴く話。

 

NHKに出ているのは何もアナウンサーだけではないので、仕方がない話であるし、言葉は変わっていくということはわかっている。

 

だが、民放の場合、アナウンサーやアナウンサー出身の方でも「すごい+形容詞・形容動詞」を言い放つこともあり・・・。

 

これが「感嘆の『すごい」」であるのならばわかるのだが、どう考えてもそうではない場合もあったりする。

 

先月、アクセスされた過去の記事を読み返してみたところ、「違和感を感じる」などという間違い表現を発見した。

普段から「違和感は感じません。『違和感を覚える』だとか『違和感がある』です!」とブツブツ文句をたれる私は青くなったが、「ま、いっか~」そのままにしておいた・・・。

 

 

話は変わるが、別に私は方言を悪くは思っていないし、普段けっこう訛っているときもある。

それも地元の言葉ではなく、北海道の浜言葉や東北の言葉であったり、東よりの関西弁であったりする。

 

そんな私でも、テレビ、ラジオ、YouTubeなどで単語を方言アクセントで言われると、一瞬意味がわからないことは多い。

 

例えば、愛知県は「服⓪②」や「靴⓪②」が「服①」、「靴①」になる。

私はいくら当地の言葉が苦手であっても、長く住んでいるので、聴いてすぐにわかる。

だが、単語だけの場合、一瞬意味がわからない方もいらっしゃるに違いない。

〔アップ後の補足:⓪低高(ふく)  ①高低(ふく) ②低高低(ふくが・ふくは・ふくを) ]

 

だいたい日本全国けっこう多くの方が聴いて理解できる関西アクセントであっても、戸惑うのであるから。

特に言語教育に携わっていらっしゃる方は注意されたほうが良いかと思う。

 

もしそれが日本語による英語教育であったとしても、逆に英語がわかる方が視聴して日本語の勉強にしているケースもある。

その場合、どこまでが方言のアクセントであるのかわからないであろう。

 

もちろん、中上級にもなれば、少しはある程度の方言にも慣れておいたほうが良いと自分勝手に思っている元日本語教師がここにいる。

例として、中国をあげれば、関西出身の方も多く、仕事の場で日本語非母語話者に対してアクセントのコントロールなどしないであろう。

まあ、今はアニメなどで関西弁や似非関西弁を聴くこともあるけれども。

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「ちょっとしたこだわり」

2021-10-20 22:25:01 | 日本語に関係する教育

カーリングチームのロコ・ソラーレ。

先月であったか、テレビで久しぶりに試合を見た。

 

思い出すのは、2018年2月のピョンチャンオリンピックで“ちょっとした”流行となったの「そだね」である。

だが、当時も記したのだが、私には「そだねー」とは聴こえず、普通に「そーだねー」と聴こえる。

もっとも私が聴こえるように文字化すると、「そ-だねえー」であるけれども。

 

実際そのように聴こえることについての理屈までは研究していない。

 

ただ、両親が北海道出身であり、自分も(そこそこ通訳できるぐらいは)北海道の言葉を知っていること、中国という日本語教育での日本語母語話者教師に対する発音とアクセントの面で厳格な世界で教師をしていたという前提があることだけは記しておく。

 

もっとも、北海道も街中の言葉はきれいなのだが。

 

さて、先週末、ひょんなことから、2013年秋の上級クラスに対する日本語教育試験N1の聴解対策中に触れた「ちょっとした」を思い出した。

このクラスの日本語力はけっこう高かった。

だが、そこはやはり日本語非母語話者であり、このような程度が低いのか高いのか一瞬考えてしまうような言葉でひっかかる学生もいた。

 

我々日本語母語話者であれば、文脈からすぐに理解できるであろう。

だが、学習者にはそこまでの経験はない。

 

私が一番理解して話せる外国語は中国語普通話である。

これはHSK旧3級程度の基礎も基礎の実力で中国に行き、生活で覚えていくこととなった。

ただ、語学を含む私の経験の多くは基礎が完全ではない状態で、初級を終わらせて中上級に飛んでいたりする。

 

つまり、中国語も基礎がなっていない状態なのである。

 

であるから、中国に住んでいたときも、文脈の観点で悩んでしまい、質問に対して「どちらの意味」であるのかを聞き訊き返すこともあった。

 

これについて、例などを記すと長くなるので、割愛しておく。

 

ただ、日曜日の昼前から自由時間が出来たときに、車で出かけながらNHK R2で中国語の連続放送を聴くのだが、「おぉ~、そういう区別があるのか!」と理解することも多い。

いまさらながら・・・。

 

これでHSK5級を持っていることが信じられないのだが、これこそがHSK6級に届かない原因のひとつであることは間違いない。

 

理屈でなく、体で覚えてしまえば、何の問題もない。

だが、ある程度の年齢になれば、初級の部分こそ体系的に覚えるしかないと思う。

 

 

どのように覚えるか。

やはり、必然的にそれと対峙する状態が必要なのであろう。

 

ちなみに、私の言葉に対するこだわりは「ちょっとしたもの」であったりする。

だが、小学3、4年生の頃、国語文法で「めんどくせぇ!」と思ったことがある。

ちんぷんかんぷんとは言わない。

ただ、「理屈というものが面倒」であった。

 

その反面、私の解答を見て、先生が「なるほど!」と唸ったり・・・。

確かに日本語に向き合う素質はあったようである。

 

それでも、日本語教師養成講座で、「俺はまったくついていけないー!」と頭を抱えることとなった。

一番痛かったのはやはり文法であった。

必死に勉強した。

 

ところが、教師になると、必然的に常に日本語について考えることとなる。

 

人生は不思議である。

日本語教師を離れて、技術の世界に戻っている私を支えているのは日本語に対する「ちょっとした」こだわりであったりする。

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教師を離れて6年が過ぎ、やっと教師としてのステージをひとつあげる

2021-01-07 22:07:15 | 日本語に関係する教育

あまり詳しくは記せない。

正式に担当したわけではないが、一応私の学生という立場にいたAという方がいる。

 

とても良い方なのだが、天然ボケ以上のことをしてくださる方であった。

どちらかといえば、私自身がけっこう天然ボケをやらかすタイプである。

だからこそわかる。

彼女はずば抜けて理解不能な問いかけをすることがある。

 

極端な例を示すと、今向かっているパソコンやスマホの画面にでかでかと見えているものが探せなかったりする。

 

本当に悪い方ではない。

だが、実に極端な例を示すと、心の中でピコピコハンマーを用いて数回叩いてみたくもなる・・・。

文字通り異次元の世界に連れていかれることすらある。

 

一応教師として、連絡があるたび、「徐々に考えさせるような愛の鞭を与える」ことが多い。

 

 

昨年の12月に自分よりはるかに先輩の方の行動で「見開き2ページのアナザーワールドに連れていかれる」ということを記したのだが、こちらのほうはまだ何かしらの原因が考えられる。

 

最近自分のSNS上に記したので、タイトルまで記せないのだが、今年になってすぐに一昨年とても話題になった本を読んだ。

 

元教師としてとても参考になった。

 

読んでいる途中で2つのことが頭に浮かんだ。

 

1.昨年の終わり頃記したが、私は「自分の頭は悪くはない」と思っている。

しかし、何度懸命にやっても駄目なものがいくつかある。

駄目なものは他の方法を探したり、違う世界に手をつけたりする。

たいていはこのパターン。

しかし、諦めきれずに呆れるほどチャレンジし続けてもなお無理である世界があったりする・・・。

 

この場合、何らかのメッセージが含まれていると考える。

しかし、同時に自分の中に人とは違う考えを起こす何かがあるのではないかと悩むことがある。

 

その本を読んで、ますますその考えが大きくなった。

 

2.教師の立場としても、他の職業上にしても、たまにアナログ時計が読めない方と遭遇する。

もちろん最初は驚いたのだが、「人には得手不得手があり、そういうこともある」と思うようになった。

今の世の中、アナログ時計が読めなくても、どこかにデジタル表示のものがあるので、何とでもなるし。

そう考えると、言葉の教育であるのに、子ども相手のように、アナログ時計を使って「何時何分」と言わせることも止めたほうが良いのかもしれない。

 

1は己のことであり、2は他人のこと。

しかし、何らかの共通点があるような気がしている。

 

数日前、Aさんからまたもや不思議なメッセージを受け取った。

人を試すのは良いことではないと思うが、2、3回いつものように愛の鞭と思い込んでいた手法を試してみた。

しかし、無理であった。

であるから、ストレートに答えを与えた。

ところが、驚くことにAさんはその直球の答えが識別できなかった。

なるほど。

私がいけなかった。

仮にも元教師。

 

Aさんは(鬼のような私の「愛の鞭という名の拷問」にもかかわらず)ずっと教師としての私を慕っていてくださる。

 

心から反省した。

 

私の取った手法は振り仮名にピンイン表示をするようなもの。

すぐに理解していただけた。

 

本当に私はまだまだである。

 

日本語教師を離れて6年以上が過ぎた今になって、やっと教育者としてのステージを一つ上げることができた。

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