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まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

退職にあたり、必要な書類は受け取っておくこと

2019-10-24 21:56:11 | 中国生活
今年は4月から移動があった。
だが、その4月は飛び込みの仕事の要請があり(場所は近くなったものの)それまでと同じ市内での勤務であったため、それほどまでは短縮できなかった通勤時間。

しかし、6月からは有り難いぐらいに短縮できている。
ただ、(セキュリティカードも全員分あるわけではなく)あまり早く着いてもセキュリティが解除できない。

それでも入れる時間まで待つと、途中道がとても渋滞する。

そこでラッシュになる前に出発し、オフィスから数キロ離れたコンビニの駐車場で待機している。
昼ごはんと一緒に買ったコーヒーを飲みながら。

本日その駐車場で急に思い出したことがある。
そして、(何度も記している内容だが)今晩このブログに書かなくてはいけないような気がした。


いつであったか。
夕方ある学校A F での中級と上級の会話担当の時間に携帯電話がなった。
授業中であるため、相手によっては出ない。
だが、以前の教え子であり、「なんだろう」と思いながら、廊下で電話に出た。
「先生、ちょっと降りてきていただけませんか」と。

すでに両クラスとも指示は出してあったため、1階に降りた。
その学生は私の以前の同僚から頼まれたことがあった。

それは退職証明書であった。

その同僚が赴任してから半年後、私は他の学校Cに移動した。
そして以前いた学校Aは隣の学校と手を組んだため、日本語学校としては隣の学校Bの名前となった。

私自身は以前の学校Aが隣の学校Bとの提携を解消し、さらに以前と学校名を替えてEとなってから三顧の礼により戻って来た。

まあ、私が1年数か月後にそこ(E)を去っても同じ学校敷地内にいたのは、そこは学校・企業団地であったので。

話を元に戻すが、元同僚はBの学校名の退職証明書が欲しかったようである。
しかし、私に言わせば、そんなものは辞めるときにもらっておかなければ、「二度と手に入れることはできない」である。

であるから、私は「辞めても確実に手に入る保証」がない限りはどんなことをしても手に入れておく。

例えば「状況によってはそこを去るか否かの決定がまだできない場合でも」。

まあ、一度だけ誤算があった。
鼻が利く私は満期除隊の名目で切られる前に、退職証明と在職証明を手に入れておいた。
その後仕方なく、以前引き合いがあった学校Fに移動したのだが、以前いた学校Eは私が他と契約をした後で「戻ってきて欲しい」と。

そんなことはできっこない。
なぜか向こうはいろいろと難癖をつけて脅して来た。

だが私も伊達に中国生活をしていたわけでなく、見事に脅し返した。

その直後元の学校は態度を軟化させた。
そして「一度事務所に顔を出して」と。

だが、私は愛想を尽かしていたので、顔を出さなかった。
自分の都合で切っておいて、移動してから(方向転換するはずの学校で教師が手配できなかったのか)「戻ってこい」など言語道断である。

ただ、後になって「顔を出しておけば良かった…」と思うことになった。


話を元同僚の退職証明に戻す。
某学校Bもそんな証明など出せっこない。
だいたい提携もどこまでが正規のものであったのか私にも良くわからないし。

であるから、私は某学校Aのグループの大元である校長にお願いしたほうが速いことを学生に伝えた。
だが、元同僚はそこの退職証明は欲しくないとか・・・。

そんなことを(授業中の)私に(お互いの学生を通して)言われても、どうにもできない。

ただ、私は3行上の行動をしたほうが確実であることを知っているわけで・・・。
簡単にいえば、無い学校にお願いしても無駄。
某学校AもBも某学校Aが名前を替えてEとなり、さらに方向転換で名前を変え、場所を移動したDという学校も名前と印鑑が使えない。

ただ、某学校Aのグループの学校の校長であれば、それができる。
なんと言っても存続しているし、その同僚を知っているし。

「もしなんならば、私が電話しておくけど?」と伝えたが、共通の元学生は何も答えなかった。

まあ、その元同僚と元学生がどうしたのかはわからない。

異動する前に、退職証明を取っておくことは必須である。
それは契約書も同じ。

だいたい契約書も役所に提出するだけの必要枚数しか作らないこともある。
その場合は、同じものをまた作ってもらうのである。
私はたいていそうしてもらっていた。

またはコピーに正本の証明であることを明記して押印をしてもらうとか。


ただ、そんな用意周到な私でも「やっちまった・・・」と後悔したことがあった。

それは「推薦状」である。
脅しに私が脅し返しておいた学校が「事務所にいらっしゃい」と言っていた理由はそれであったのであろう。

簡単にいえば、『教師専家証』をもって労働ビザを取得し、学校を移動する場合、推薦状が必要なのである。
それがないと『専家証』は発行されない。

それまでの私は単に『外国人労働証』でビザを取っていた。
であるから知る由もない・・・。

それまでの私が転々とした学校では、いくら努力しても『専家証』が取れなかったので。

では、私と新たに契約を結んだ学校はどうしたか・・・。
幸運なことに、新しく契約した先の学校の知り合いの学校が私を知っていた。
そこでその学校が推薦状を書いてくださったとか。
それを考えると、繋がりって大切だと思う。


忘れちゃいけない。
退職証明と推薦状・・・。
(専家証も学校に返すこと→学校が発行機関に返す)

ちなみに私は退職証明だけでなく、在職証明ももらってある。
もっとも退職証明だけで在職期間がわかるように自分で作成したものに、名前と押印をいただいていたので、それだけあれば問題ないのだが・・・。

その退職証明であるが、なんと日本に戻ってきてから、役に立った。
それは就職ではなかったのだが。



追加でこんなことも記しておこう。

2014年夏。
最後の授業が終わり、翌日最後の給料を受け取った際に専家証を返した。
(帰国までに2回上司と顔を合わせたが。)

それから約3週間中国にいて、最後の中国を満喫した。

しかし、出国する数日前に公安から携帯電話にSMSが来た。

簡単にいえば、「(すでに専家証を返しているため)9月頭まであるビザも期限を待たずにまもなく消滅する。したがってなるべく早めに出国しなさい」とのこと。

一応安全策で近場のマカオだけではなく、マカオからさらに香港にも出ておき、中国に戻ってあったので、安心してそのまま出国したが・・・。

それを考えると、中国を離れる前に専家証を返すタイミングも大切だと思う・・・・・・。
ただ、夏休みが短い街中の日本語学校ならともかく、大学などの高等教育機関だと、退職で出国する場合、その学期が終わった時点で返すことになるのではなかろうか。

それを考えると、仕事の後でのんびり中国旅行もしちゃいられない。

【20191025 JST22:45 2行目がおかしな文章であったため、多少は意味が通じるように書き直しました。】
【20191025 JST23:00 学校名が混在していたので、修正しました。】

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中国で知ることができない日本の細かな情報は多い

2019-01-26 22:04:20 | 中国生活
このブログもこの数年はけっこう訪問される方が多い。
その中でも特に多いのが日本語教育関係者ではなかろうか。

私の記事や他の方々の日本語教育関係記事を参考にするのは構わないと思う。

実際私も当時有名ブロガーであった先生方のブログ、日本語に限らない言語教育関係者のブログを見ていろいろと参考にさせていただいた。

ただけっして鵜呑みにしてはいけないことは言うまでもない。

疑ってかかること。
「あのセンセが言っているから、それは間違いない」と飛びつけば、まず失敗する。
己の中に何か考え違い、取り違いはないか良く考えていただきたい。

そしてそのままでは使えないと思うことも大切。
なぜならば、教育現場の数だけ条件が違うのであるから。

これらのことは折に触れて何度も記しているが、とても大切なこと。


話は変わる・・・。
以前中国に住んでいた。
ネットの規制もあるのだが、とにかく日本に住んでいるときほど日本の情報は入ってこない。

あるとき私が日本のニュースについて、思っていることをこのブログに記した。
途端に反論コメントが多く返って来た・・・。

それらの反論コメントに書かれている内容など私の見ていたニュースには出てきていない。
それなのに炎上一歩手前まで徹底的に反論された・・・。

そこで「浅はかな知識で偉そうなことを記すべきではない」ということを覚えた。


最近中国でBingまでも使えない状態になったとか。
私が中国に住んでいた頃、中国在住者で常にVPNを使える状況にある方はそれほど多くはなかった。

特に現地採用の日本語教師は・・・。

決して高給をいただいているわけでもないため、長く住めば済むほどそんなことに使えるお金は減ってゆく・・・。

だいたい私が教えた学生の中のバリバリの大手日系企業で働く方々も仕事を離れるとVPNとは無関係になる。

日本など中国本土以外に住んでいるときにFacebook等を使っていた方々も、中国本土に戻るとそれらでは連絡がつかなくなる。

まあWechatを使えば連絡はつくのだが・・・。

私もマカオや香港に出たときにFacebookを更新していた。

今でも中国本土では使えないFacebookやLINEなどは逆にあまり信用していない。
それは当然その頃の習慣による。
(ここでいう信用は通信の秘密のことではなく、確実に連絡が取れる意味での信用。)

特にLINEなどコンビニなどの支払いで利用する以外は妹や甥と連絡を取るぐらいのもの。
数か月前に親しい友人たちからLINEグループで連絡があったが、iPhoneに変えてからは細かい設定をしないと通知されないことを知らずに、FBからLINEで連絡を送ったことを知らされてやっと覗いたぐらい使っていない・・・。

ちなみにLINEは私が中国を離れる直前になって完全に遮断されてしまったのだが、それまでは一部の中国人とやり取りはあった。

今ではLINEがお好きであった朝鮮族の友人もQQで連絡をしてくる。
(その方にはWechatのIDを教えていない。)
(ちなみにカカオトークも繋がらないようである。)

しつこく嫌味のように何度も記すが、日本語教育学会もしつこくYoutubeにビデオをあげたので見て欲しいという通知が何度も来た時期があり、閉口した。
中国からは覗けないことを何度もメールしたが、まったく回答なし。
まあ私がその学会を離れたのは2016年に就いた仕事での収入の問題によるのだが・・・。

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愛用品はどこでも手に入る持ち物にしようかと

2018-08-15 22:04:51 | 中国生活
私は自分のやりたいことはたいてい行う。
何でもやってみればいいと思っている。
やってみればそれが良いのか悪いのかはっきりするし。

だがその割に他のことに関してはけっこう優柔不断的なところがある。
しかしそうはいっても、あまり悩むのも時間の無駄。

今年に入ってから、そういうときのために、何かしらの優先選択肢を決めておくようにするようになった。

例えば昼ごはん。
自分が考えていたお店がけっこう並んでいたとする。
(自分ひとりのときに限定されるが)たいていは並んでまで食べようとは思わない。

そんなとき目に飛び込んできたある色で決めることもある。

そこでうろうろしていれば、ランチ難民やディナー難民となることは必須。
(都会の繁華街で歩きのときも郊外で車のときも・・・)

そのおかげでお店の選定であまり時間が流れてゆくことがなくなった。

とはいえ私の場合、どうしても中華やそれ以外のエスニック料理が食べたいこともある。
前者の場合、本格的中華というものにさえこだわらなければ、お店はどこにでもある。
そしてどのお店でも必ず存在するメニューがある。

後者の場合、例えとしてベトナム料理やタイ料理であった場合、仕方なくインド・ネパール料理、またはけっこう好きなイタリア料理を選択する比率も高い。


と相変わらずイントロが長いおじさまがここにいる・・・。

昔の私はけっこうモノにこだわる人であった。

だが中国という異国での生活でそのこだわりを維持できたかのかといえば、答えは当然「ノー」である。


しかたなく、なるべくどこにでもあるお店、どこにでも売っている物を選択することになる。

イントロで記した食の流れでいえば・・・。
日曜日や土曜全休日に日本食が食べたくても、日本料理店は高い。
だが韓国料理店はお店も多いし、高級店でなければ日本料理店より安くあがる。

もちろんこれは私が韓国料理に抵抗がないからできる選択肢なのだが。

土曜半日出勤のあと、バスに乗り他地域に出歩いたときの昼ごはん。
どこもいっぱいのときの選択肢は蘭州ラーメン。

食に関して記していくととても長くなるので、省略・・・。

シャンプーやボディウォッシュ、石鹸で肌に合ったのはP&G。
これらは近場でも買える。
マカオに出たときに日本のシャンプーのアジア向けのものを買うこともあった。

もちろんたまにはあえて浮気をして違うものも買ってみて、併用で使ってみる。
良ければまた買うし、悪ければ二度と買わない。

ただしボールペンだけはたいてい日本製品、三菱ユニの水性を使っていた。
大きな店なら売っていたし。

これは万年筆の代替品として日本で使い始めており、信頼していた。

(ただ帰国後は外でも大丈夫な油性、それも3色ボールペンに替えたのだが。)

今私は将来また海外生活をしても良いように、愛用品はなるべく世界中どこでも手に入るものに決めようとしている。

(それでも目薬とパンツと靴下は日本で買ったものが良い。)

これについてはまた別の記事で付け足しをする予定。
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ストレス発散方法を考えて外国へ

2018-06-17 20:21:15 | 中国生活
人間である以上、感情を完全にコントロールすることはできないと思う。

どんなに人当たりが良い方でも時には苛立っていることを感じることがない訳では無い。


教師の仕事。
自分の身や大切な方(家族や恋人、友人)に何かあるときでも平静に授業しなければならない。
そんなことには触れずに授業する。

もちろん体調不良は隠せない。
顔色の悪さや腰痛などは…。

それでも精神的な動揺は表さないように心がけている。

しかし学習者も良く教師を見ている。
授業後に「先生何かありましたか?」と聞かれたことがない訳では無い。

普段接している学習者には精神的動揺というものは隠せないことがある。

それが友人となると、SNSに書いてあることからもバッチリ推測してしまうわけで…。

一、二週間前など何人かに指摘された…。

私の場合、書くことでストレスを発散することが多いので、危険な話である。

特に中華SNSへの書き込みはとても多いので、それを読める方に対して、知らず知らずのうちにボロを出している…。

ただどこかでストレス発散をしないとならないので仕方がない。

〈中略〉

様々な仕事で女性を見てきて思う。
「男はストレスにとても弱い」のだと。


では外国で仕事をする場合、どのようにしてストレスを発散すれば良いのであろうか。

この辺は良く考えておいた方が良いかと。
コメント (2)
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断捨離と帰国前の大量処分は似ているのかも

2018-05-17 22:07:17 | 中国生活
昨日の帰りの電車の中。
うとうとしながらYahooを眺めていた。
断舎利断捨離についてであった。

一日ひとつ捨ててゆく。

これで思い出した。

約4年前に日本に戻って来た私。
9年近くも住んでいれば、モノは増える。

引っ越しのたびにあれこれ処分していたのだが、最後は4年間同じ部屋に住んでいたし。

それでも何か思うところがあったのか、3月に4か月後の完全帰国を決める3か月も前の12月下旬の年末大掃除のときに、けっこう思い切った処分をしていた。

それなのに・・・。
3月下旬のある土曜深夜というか日曜未明に決めた本格帰国の決意と同時に、「荷物をどうやって処分しようか・・・」という不安も現れた・・・。

とりあえず目が覚めた日曜日の朝に考えたこと。
それは「一日にひとつ、どんなに小さなものでも良いから処分してゆこう」ということ。

2014年の3月であっても、日本人がたったひとりで郊外の村の外れのアパートに住んでいたことでの恐怖は残っていた。

そのような次第で、村のゴミ置き場や集積所に捨てると、私のものだとバレそうなものは違うところまで運んでいた。

例えば思いっきり日本語が記してあるものはそれなりに外国の方々が多いところのコンテナに持ってゆくとか。

そうなると、カバンに入ったり、手に持てる小さなものから始まる物語。

それでも当然最後のほうは大きなものに困った。
もちろん買い取りの店もそれなりに回ったのだが、取りに来ることは拒まれた。

当時思うところがあって、いや何年か前の精神崩壊も手伝って、意識的に日本人との交流は避けていた。

最後に7年住んだのがけっこう日系企業の多い都市でもあり、そういう付き合いをしていれば、大物の処分も助かったに違いない。

(次回外国で暮らすときは日本人同胞との付き合いも大事にしようと思っている。)

まあ最終的には大家さんに任せることにして、大きなものを置いたまま部屋の鍵を返した。

元々大家さんを最後の砦(?)と考えていた私はけっこうずるいかもしれない。

それでもそこそこの大物は自分で処分した。

不法投棄ではない。
ゴミ置き場に置いておけば、誰かが持って行ってくださる。
それを売るなり、自分で使うなりご自由にどうぞの世界である。

ある夜明け前。

自分が住んでいるよりも奥のゴミ置き場に大きなものを持って行った。
それはやはり「あの日本人が出した」と思われたくはないので。

(最後の1か月ぐらいはけっこう深夜や夜明け前に出していた・・・。)

そこの近くは池があることは知っている。
だが藪が深くて入っていったことはない。

ゴミ置き場にものを置いたときに、蛍を見た。

その鮮やかさは一生忘れないであろう。


もしこれが街中であれば、逆に大きなものはけっこう簡単に物が処分できたかもしれない。
ただし今度は小さなものの処分に困ったであろう。


余談。
最後の数日はあえて残しておいたボロを着ていた。
もちろん空港までのバスチケット購入やそのバスターミナル付近のホテルを予約するときはそれなりの服に着替えたが。

そのボロ服は当然処分していった。

自分の部屋で最後の朝は忘れない。
そのボロ服、ボロパンツなどや最後まで残してあった生活必需品をアパート近くのゴミ置き場に出した。
「もうこれで処分するものは最後だという何とも形容できない気持ち」

(いや、翌朝もホテルのゴミ箱か朝ごはんを買いに行く途中のゴミ置き場に最後の衣類を処分したはずだけれども。)

その夕方、大家さんの車で二番目に近い繫華街のホテルへ。

前々から大家さんは行っていた。
「当日の朝にバスターミナルまで送ってゆくから、それまで住んでいて良い」と。

だが私は前日にバスターミナル近くのホテルに泊まるつもりでいた。
村の出口で白タクを捕まえるなり、市バスに乗るなりして。

大家さんはとても私に親切であった。
東日本大震災のときも、尖閣問題勃発のときも。

最後の最後まで親切であった。



以前も記したこれらの不要品処分物語をときどき記してみるのも良いかもしれない。

何かがみなさんのお役に立つかも。
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