まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

私はすでにガキではないのだから

2014-02-28 22:51:33 | 授業全般(日本語)
一週間が終わった。
今学期から週休二日になったので、その分月曜から金曜まで以前よりは無理が出来る。

それでも(昼に記したように)この金曜日の夜が待ち遠しかった。

本日20時過ぎに幹線道路に接続する(人も車も少ない)大通りを歩いていて思い出したことがある。

以前の仕事でも20時帰宅など別に珍しくもなかったし、当然もっともっと遅く帰っていたこともある。

ただ、日中は現場に出ているので、自分の体を考えて(冬場や夏場でも特別な仕事の時以外は)一応なるべく20時までには帰宅するようにしていた。
極端な話、残った仕事を家に持ち帰ってでも。

私は夜の仕事が得意ではないので、自分でそういう調整をしていた。
自分の現場は自分で管理するから出来ること。

その20時過ぎの街灯の下で思い出したこと。
それは1986年3月のこと。
当時高校を卒業したばかりであり、最後の春休みにあれこれしようと考えていた。
だが、入社予定の会社から「慣れるためにも仕事に出てきたら?」と言われ・・・。

そこから19歳直前のガキは二週間の休みもなく働いた。

と、カッコイイことを記しているのだが、当時の私など使えない人間。
言われたことを行うだけ。
その言われたこともわかってんだか、わかってないんだか・・・。

二回目の日曜日出勤の晩であったと思う。
その時に私がついていた(私を指導してくださっていた)先輩が事務所で「現場事務所に書類の一部を忘れた」とのたまった。
彼はどっぷり疲れている。
そこで私に「現場事務所に戻って取って来てくれないか」と。

だが、私は生意気にも「私も疲れて動きたくありませんよ・・・」と。
そういうわけでその日はめでたく先輩も私も帰宅することができた・・・。

ある意味新人君の私の意見も正しかったのかもしれない。
私の心の中では「正式な入社の前に呼びつけておいて2回連続の日曜出勤ってなんだい?!」と叫んでいたのだから。

だが、今晩気が付いた。
当時の私はやはり世間の厳しさを知らない生意気なガキであったのだと。

もちろんすでに28年前のことであり、今までにも何度かその時の自分の世間知らずさに気が付いている。
それでも本日が一番「あぁ・・・当時の俺はやはりガキだったのだなぁ・・・」と感じた。

中国では日本語学校冬の時代。
それでも私は今学期は上昇気流に乗ることができると期待していた。
だが、今期も前期と変わりはない。
それ以前に中級がないだけ収益は少ない。
(これについては日中関係のせいではなく、私の努力不足だと考えるようにしている。)

まさか上司たちも外国人教師の私をそこまで使うこともできず、また誰かひとりは本業を冷静に観察できる人間が欲しいのであろうこともあり、私は今のところ全日制のクラスのみを教えているだけ。

だが、上司は夕方から夜、週末はあちこちで日本語や中国語などを教えている。

そして私と同じく普通の教師である同僚も上司と共に空き時間はプライベートレッスンの学生に日本語や他の言語を教えている。

そうなると現在夕方や夜の管理ができるのは私だけ。
夕方は今までも二クラス見ていたので問題はない。
ただ、交代ではなく固定の晩自習の管理はきつい。

もちろん上司たちはずっと私に夜の管理をさせるつもりはないであろう。
だが私は「今学期の夜は自分が受け持つべきだ」と考えている。

確かに誰かひとり学校を冷静に観察できる人間は必要。
だが、現時点で私が一番楽なのである。
今のところ一日の授業は合計4時間。

もちろん誰よりも早く事務所に来ているし、授業と授業の間の空き時間もすべて個人の生活に使っているわけではない。
授業の準備もあれば、事務仕事も自己研修もある。
そして私は(自分でいうのもなんだが)結構真面目な人間である。

それでも現在、この日本語学校の教師の中で一番余裕があるのは私なのである。
(それに私は日本語とそれに付随することしか教えていないし・・・。)

そして早く学校全体としての成果を出さないと、日本に戻れない。
(学生を増やし、私以外に日本人教師を確保しないと日本に戻れない。)
上司たちは個人の幸せを一番に考える方なので、途中で私が日本に戻ると言っても、快く送り出してくれるであろう。
(もちろんできればずっと一緒にいて欲しいと思っているはずだが。)

だが、今のままの状態で無責任に上司や同僚の前からいなくなるのは人間として失格だと思う。

というわけで私もけっこう追い込まれており、今まで以上に笑みを絶やさないようにはしていてもけっこうきつい。
それに生まれつき体は強い方ではないし・・・。

だからこそ、28年前のことを思い出すのであろう。

その仕事で冬場にずっと休みがないのは別に珍しいことではなく、(以前ほどではないものの)今でも似たようなものではなかろうか。
だが、普通の現場よりは管理項目が厳しい現場を一人で動かしていた先輩。
後に私も工種は違ったが、同じ発注者の現場を一人で管理するのにとても苦労した経験がある。
それは私の建設技術者としての仕事の中で一番嫌な思い出となっている。




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初心に戻って初級を楽しむつもり

2014-02-28 13:59:55 | 初級授業(日本語)
2か月(仕方なく)仕事をせずに遊んでいたということも大きいのだが、やはり久しぶりの初級はおじさんの体に負担を与える・・・。

今週の水曜日の午後など「早く金曜日の20時が来ないかなぁ・・・」と考えていた。
仕事は楽しいのだが、それと休みは別物。
私にとってはあまり多くない週休二日を楽しめる状況にある今現在を大切にしたい。

そして他にも楽しみたいことがある。

自然に中・上級専門になってしまった私ではあるのだが、当初は初級(それも現在でいうN5範囲)をメインにしたかった。
中学生の頃からの憧れであった中国で1年教えて日本に戻り、日本で生活している方、日本で働いている方などの日本語習得の必要に迫られている方々に初級を教える計画を立てていた。

ところが様々なことが発生し、結局中国滞在9年目・・・。

もともと初級専門(で他のレベルも教えられる教師)を目指していたのだが、
2年半過ぎからは自然に(当然初級も行う)中・上級専門となった。
だが、この4年ほどは代講以外初級を教えておらず、「それだけを行う」という意味の意味での中・上級専門状態であった・・・。

日本に戻った時に日本語教育だけで食べてゆけるとは思っていないのだが、多少なりともと続けていくにはやはり初級ができなければ話にならない。

それに私が考えていた方面で教えるとなると、一番求められる教授能力は初級の半分であるN5範囲。

そういう意味では今回久しぶりの初級の担当は本当に有り難い。

もっとも私がそのまま日本語で文法まで教えて、(意味がはっきりとわからないとどうにも気になる)当地の学生たちがわかるかという疑問もあり、文法は上司に任せた。

だが、一応(中国で教えている日本語母語話者の教師にしては)文法に強いと自惚れているわけであり、教えながら初級の文法面の教授方法も頭の中に思い描いてゆこうと思っている。


話を一番最初に戻す。
本日朝一を上級、その次に初級を教えて昼休みとなった。
事務所で自分なりの教育記録に教授内容を知るし、簡単に授業の内省をしながらパソコンをかばんに収めた。
そして事務所を出たところで初級の美女2人に呼び止められた。
中国語で「先生、一緒にごはんを・・・」と。

本日の私の計画では昼は昨晩から洗い始めていた野菜の一部を使った『サッポロ一番味噌ラーメン』と食パン数枚であった。

そんな状態であったのと野菜のほとんどは晩ごはんに使う予定であったので、初級の学生と一緒に食事をするのも悪くはない。
(悪いのは私の食事代まで払われてしまうであろうこと。)
それもネイティブ教師の仕事のひとつであり、当校には私一人しか日本人はいないことから他の(そんな余裕のない)同朋に迷惑をかけることもない。
それに私は現在一人暮らしで規制は少ない。

だが、頭の中は「早く今晩の晩自習が終わらないかなぁ・・・」状態であり、体も重い。
ずっと笑顔のままで食事を続けていられる自身がなかった。
それに当然この時期は中国語を使って会話するしかないのだし・・・。

もうしわけないのだが中国語で「ごめんなさい。自分で作っておいたので・・・」と美女たちの誘いを断った。

この手の中国語は(日本語母語話者の私の感覚では)とても強く感じる。
であるから、他の作った話で断るべきであったかなぁ・・・と。
だが、その時点では頭の回転も鈍かったわけで・・・。
そしてこんなことをぐだぐだ考えているのも頭が疲れている証拠。

さらに(いくら五十音では多少の中国語を使う私であっても)中国語で誘われて、何も考えずに中国語で断っている・・・・・・。

それでも今下手に昼寝をすると、夕方の上級会話指導と初級の自習管理、晩自習の管理がよけいに大変になるので、我慢してこのブログ記事を記した。




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現在の学生は筆記体を知らないのよね・・・

2014-02-27 22:58:15 | 初級授業(日本語)
久しぶりに五十音を教えると、やはり体力を消耗する。
さらに(人数も多くはないので、あまり大声を出さなくてもいいのだが、それでも)現在喉が痛い状態。


私は五十音を教えていく時にやはりローマ字も記す。
多くの日本人教師はヘボン式のみを記すと思うのだが、今回は訓令式も併記した。
その理由は中国の学生にはその方がわかりやすいと感じるので。

おまけに日本のローマ字だと違う発音になるようなもの(例えば「し」「ち」「つ」など)はそれに相当する中国語のピンインも記している。
これは最初の学校の最初の授業の半日前に日本人責任者の授業を見て「なるほどなぁ」と感じ、以降ずっと行っていることである。
もちろんこれは日本人教師、中国人教師に限らずかなり多くの方が行っていることなのだが。

今回久しぶりに五十音を教える上で、上司から細かいことは言われていない。
それだけ信頼されていることになるのであろうが、もし私が中国語母語話者やそれに近い方が日本式のローマ字を見た時に感じる音の違いについて知らなかったとしたら、今回学生からの質問に慌てたかもしれないことが一昨日あった。


ついでに本日「ドキッ」としたことを記しておきたい。
我々の年代はローマ字の筆記体を知っている。
そして多くの英語教師も(学生が筆記体を覚えた時点から)板書で使っていた。
だが現在の外国語教育では板書する時にローマ字の筆記体を使わないのである。
(ロシア語など一部の言語は除く。)

私も一応語学教師としてそれは知っている。
(それを知ったのは日本語教育を勉強し出してからであるのだが、初めて気が付いた時は時代の差を感じた・・・。)

しかし今でも気を抜くと、ついつい一部筆記体を使ってしまうことがあり・・・。

“nya” “nyu” “nyo”と記した時に無意識に最初の“nya”の“n”だけ筆記体で書いてしまった。
学生の半分にツッコまれた。
(センセイ以外は中国語で)「センセイ、一つだけ“m”になってますよ」と。
私は気づいていない。
「えっ、どこですか・・・」と思わず日本語だけで答え、黒板を見た。
だが、まだわからない。
ひとりの学生が前に出てきて指さしてくださった。

「あっ・・・。これは“n”です・・・」と“n”と“m”の筆記体を板書した。
それで学生たちは納得してくださったのだが、これは完全に私が悪い。
細かいことは言わずに「みなさんは若い人ですが、私は古い人で・・・」とだけ伝え、謝っておいた。

ここで「みなさんは筆記体もわからないのですか?」と言ったところで、そんなものは勉強していないのだから仕方がない・・・。

少なくとも私が夜間大学に通い、外国語を履修していた1992年、93年はまだまだ筆記体を使う教師もいた。

私が自分のワープロを買ったのが91年で、パソコンを使いだしたのが92年。
この頃ワープロは安くなってきていたのだが、パソコンはまだまだ高かった。
会社に導入されたので「ラッキー! 俺、パソコンを勉強したかったんだわ~~」とウキウキしていじり始めたことを思い出す。

本当に仕事が楽になった。
しかし、パソコンの登場で仕事の負担が減ったのは90年代までではなかろうか。
私が前職を離れる3年ぐらい前から、余計に仕事が増えている(管理項目が増えた)という状態になっていた。


つまりそれだけ多くの方々がパソコンを使うようになったわけであり、同時に英語なども長い文書を手書きで記さなくても済む時代を迎えたのであった。
それは当然筆記体など無用になる・・・。

それでも個人的には「現在は筆記体を知らない方が多いこと」には不安を抱えている。

なぜならば、未来に進むためにはやはり過去の資料を読むことも大切なのだから。
すべての過去の資料を活字体だけで読むのは無理である。

(我々日本語母語話者が草書の文章を見た時にすぐには判読できずに困るのと同じこと。)


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キングカズに学ぶ

2014-02-27 00:45:11 | いろいろ
私の実家は愛知県にあるのだが、私は静岡県静岡市生まれである。
その出生地や隣の愛知県で育ったこと、自分の年齢から考えて、清水市(現:静岡市清水区)で生まれたさくらももこさんや静岡市で生まれた三浦和良さんには一目置いている。

2012年夏と今回の2014年春節時の一時帰国で、自分の実家がある愛知県某市の街角でキングカズが宣伝しているある商品の広告を眺めた。
やはり彼の存在は大きいと感じる。

その三浦和良氏も昨日2月26日で47歳になった。
私も4月には47歳となる。
同じ年代であるからこそ、彼の存在は(勝負している世界が違っても)私にとって大きな励みとなっている。

(私もサッカーをやっていた。
だが、怪我の影響と生まれつきの体の弱さから中一で断念した。)

現在多言語学習ではポルトガル語にも手をつけ始めたのだが、その影響もあり日本で見たYou Tube(中国ではVPNなどを使わないと視聴できない)の三浦氏のブラジル時代の映像によりますます彼の凄さを知った。

また三浦氏が日本のサッカー界で注目され始めた頃に感じたのが、教養の高さである。
やはり何かのトップの世界にいる方はそうでなければならないのだと強く感じる。
氏は高校一年生終了を待たずに中退してブラジルに渡ったそうだが、教養の高さとは別に学校だけで得るものではない。

今の私は久しぶりの忙しさの中で疲れを感じてあまり勉強できていないのだが、そんなことではやはり日本に戻る以前に当地での日本語教育業で輝いていることはできないと感じる。

本日はけっこうイライラしており、平日だが酒を飲んで寝ることにした。
だが、飲んだらイライラが治まっただけでなく、「勉強しなくては・・・」と思い・・・。
本日は日本語教育の自己研修ではなく、外国語学習を選択。
二言語のビデオを見たついでに、三浦氏の映像も見た時に、彼の誕生日を思い出したというわけである。


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学校のIDカード

2014-02-26 14:30:33 | 授業全般(日本語)
日本帰国時の部屋の整理中に見つけた2003年から2005年にかけての証明写真の数々。
2003年5月末で会社を辞めてから、勉強や履歴書作成など様々なことで証明写真を撮っていた。

生まれつき髪の密度は濃いほうではなかったのだが、1992年4月からの無理な生活で急に髪が減り始めた。
だが、03年春の写真を見て思い出したのだが、その頃はまだセットの仕方でそれなりの状態にすることができていた。

しかし、おじさんになってからの無理な生活がたたって徐々に・・・。
一番顕著であったのが05年夏のアルバイトの履歴書で使った写真。
04年に体を壊したこともあり、見事に髪に現れている・・・。

その後中国でさらになくなった。

一時期(3、4年)はスキンヘッドと間違えられるぐらい短く刈っていた。
しかし、短い髪に白髪が多いと、見方によっては本当に年を取って見える。
と言うわけで、2年ぐらい前から少しは髪が持ち直したこともあり、少しずつ少しずつ長くしていった。

だが、昨年の12月の時点で髪の管理が面倒になった・・・。
元々髪が細いので密度に問題がある部分の管理とくせ毛との闘いがタイヘン・・・。
そういうわけで、12月、1月の帰国直前、先週(2月)と周りは15㎜で刈り、上の方は25㎜程度にしてみた。
これぐらいだと1か月も経てば、かなりの長さになる。
(つまりそれだけ髪の状態がよくなってきたということ。)

だが、現時点ではこのぐらいが限度かなぁ・・・と感じる。

と前置きが長くなった。
昨年末に学校の引っ越しをし、初めてそこの母体の経営者を見たのだが、首から学校のIDカードをかけていた。

というわけで「この分でいくと、俺も久しぶりに教師のIDカードを首からぶら下げなければならなくなるであろう」と感じ、上記の証明写真の05年の写真の中からそれなりに髪があり、全体の見栄えもいい写真を1枚だけ持って中国に戻った・・・。

本日午前の授業後、上司から写真が貼っていない某日本語学校の教師としてのIDカードを渡された。

「写真はご自分で」と言うので、これ幸いと当地用の財布の中に忍ばせてあった05年の写真を貼った・・・。
(午後にでも学生に「センセイ、いつの写真ですか・・・」とか「別人・・・」とかツッコまれるであろう・・・。)

(直に台紙にプリントしたわけではないので、「本来は学校の割り印や証明印がいるはず」なのだが、上司に対してそんな細かいツッコミは避けておいた私・・・。)


学校のゲートを出てすぐにそれを外してパソコンバッグにしまった。
そんなものを首からぶら下げて村に戻れば「私は日本人です。どうぞ好奇心のこもった目で上から下まで舐めるように見てくださいね~」と言っているようなもの。
私を日本人だと知らない方にわざわざそれを知らせるのも危険。


日本で建設業に携わっている時は、国の仕事で首から工事名と所属と名前を記したIDカードを胸につけていたこともある。
(もちろん普段はそんなものをつけて仕事できないので、必要な時だけ。)

派遣社員として工場での品質管理をしていた時もただのプラスチックのIDカードやICチップ入りのIDカードを胸につけていた。

そして中国でも同じグループであった2つの学校でIDカードを首からぶら下げたことがある。
最初の学校では時々出入りも厳しかったので毎日持ち歩いていたし、忘れても寮から学校まで2、3分もかからないのですぐに取りに行けた。
その次の学校は学校・企業団地内にあり、最初の内はIDカードを持って学校に行っていたのだが、ゲートの保安員も普段はそれほどうるさくなかったので、そのうちに持たなくなった・・・。

今の学校でも、最初からゲートの保安員の方に顔を覚えられてはいるわけで、家に置き忘れても学校に入ることは出来る。
事務所も教室も問題ない。

だが、学校グループで管理上決まっていることは守らなければならない。


ここで問題はIDカードを忘れた場合、家までの往復が30分ということ。
冬場でスーツの上着(の代わりのジャケットやブレザー)や防寒ジャケットを着ている時はポケットがあるから問題ない。
だが、本日のように暖かく、スーツの上着(の代わりのブレザー)を着ていないと面倒。

今朝はパソコンバッグを持って学校に行ったが、午後は普通のショルダーバッグで出勤する。
夜はまたパソコンバッグ・・・。

(時には手ぶらということもあるであろう。)

その時、学校の入り口で「あ、違うバッグの中だ・・・」と気付いたら・・・。

この5、6年学校のIDカードなど持っていなかったので、とても面倒に感じる。

やはり学校への出入りは顔パスを用い、IDカードは事務所の自分の机の上に置いておき、学内にいる時だけ首からぶら下げておく方がいいかもしれない・・・と感じる私はイケナイ日本人教師・・・・・・。

(カードが名刺サイズであれば、スマホのケースのカード入れに入れておけるのだが、私は画面が小さめのスマホを使っているので・・・。)



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