「本日は愚痴も泣き言も批判も記しているので、閲読にはご注意ください。読みたくない方は(今回は」これ以上読まないことをお勧めします」
同じ時期に中国の同じ都市に住んでいた日本人。
ひとりは街中、ひとりは郊外に。
街中に住んでいたほうはデモに遭遇しても何とも思わなかったとか。
だが、郊外に住んでいたほうは大変な苦労をした。
(もちろん街中に住んでいらっしゃった日本人でも大変な思いをした方は当然いらっしゃる。
当時中国に住む多くの日本人が怖さを感じていた。)
2012年の8月下旬から秋の尖閣問題の頃の話。
郊外に住んでいたのは私。
公安からの要請で、9月18日の満州事変記念日の前の1週間は自宅ではなく、学内の学生寮にいてくれという連絡。
数日後それが緩和され、「少なくとも前日と当日は自宅を離れてくれ」ということに。
最低2泊する予定てあったが、1泊して迎えた記念日当日の晩には沈静化され、
同僚や学生たちと隣の村で飲んで過ごし、日付が回ってから帰宅した。
だが、二度と自分が借りているアパートに戻れなくなっても良いように、パスポートも日本の財布も実家の鍵もパソコンも持って行った。
事務所(職員室)には数日分の衣服や薬の類も置いておいた。
自宅に戻ってからも、しばらくはいつでも周辺の国際空港(広州白雲、マカオ、深圳)のいずれかに逃げられるだけの装備で登校していた。
晴れでも護身用としての折り畳み傘を手にして・・・。
当時の東京都知事の発言と顔は今でも忘れられない。
私は自分の意思で中国に来て、現地採用での日本語教師をしていた。
であるから、大変な思いをするのは自己責任であった。
だが、当時も中国には多くも日本人がいた。
私のような現地採用者だけでなく、大手企業の方や国から派遣されてきた方、その方々のご家族もいた。
転勤で赴任した当人の中にも、一緒に中国に来たご家族の中にも本当は来たくなかった方もいらっしゃったことであろう。
そんな方々に対する安全など考えてはいない。
私がそう感じたのは都知事だけではなく、日本政府にも感じている。
もちろん、毅然とした態度を取ることは絶対条件である。
だが、仮に国と国はある程度の駆け引きの具合がわかっていたとしても、一般国民はそこまでは読めない。
暴動は凄かった。
もっとも、自国民の店や中国資本の店までも壊してしまったという笑えない話こそもっと怖い。
つまり、多くの国民は知らないのである。
そうなると、国同士の駆け引きなどまったくわからない。
強気な発言をするのは当然必要なことなのだが、中国に住んでいる日本人やその家族のことまで考えない政治家って・・・。
2021年11月30日。
突然外国人の日本への新規入国が閉ざされた。
翌12月1日には日本に到着する国際線の新規予約受け付け中止のニュース。
仕事や留学などの予定の新規入国の外国人が困っただけでなく、日本に帰る予定であった日本人や再入国許可を持つ外国籍の方も困惑することとなった。
この年末で、1か月の規制がかかったかと思えば、すぐに撤廃。
政府は「国交省が」と言っている・・・。
確かに日本の縦割り構造の問題もあるが、お上がのたまったことに対する措置であり、政府に罪がないわけがない。
2020年2月。
武漢の邦人救出はよくやってくださった。
だが、運賃を請求するだの、やっぱり請求しないだの。
もちろん国のお金を使うことを良く思わない国民もいるであろう。
だが、外国で日本の代表として動いていらっしゃる方々(当然国民)を救うことに金を取ろうだなんて・・・。
自分の都合で帰国するのならともかくとして、都市封鎖で帰国したくても帰国できない国民を救うのである。
ウイルスが発生したのは中国で生活をしていた日本人のせいではない。
今年2021年、アフガニスタンで邦人や日本大使館やJICAで働くアフガニスタン人スタッフの救出に失敗している。
だが、他所の国は救出できている。
私も日本国民であり、国民として様々な保護の中にいる。
日本という国に生まれ育って良かったと思っている。
ただ、日本は海外邦人の保護の点では他の国々とは違う。
私は2014年夏に本格帰国をした。
その5~6か月前の最後となった一時帰国で両親、特に父親の老いを感じた。
大病の後、弱っていたことも大きかった。
両親を支えるためにできるだけ早く帰国しようと決意して中国に戻った。
そのひと月後の夜、瞬時にその夏の帰国を決めた。
背景にあったのは2012年の尖閣問題。
小さな日本語学校に入学する学生がさらに減ってしまったことによる学校経営の悪化。
そして、その尖閣問題で私自身も年末に「もう、いいかな・・・」と感じ、いつ日本に帰ることになっても良いように、今まで以上に中国生活を楽しむようにしていた。
尖閣問題の夏から秋。
いくら様々な店が揃っていたとはいえ、郊外にある村の外れのアパートに住んでいた私。
とにかく大変であった。
普段は日本人の私に親切であった村の様々なお店もとばっちりを避けるためによそよそしくなった数か月間。
(そんな状態でも変わらずに接してくださったお店もある。後にあることでそのお店が風評被害に遭ったときは毎朝のように通って朝ごはんを買った。)
気晴らしにマカオに出ようにも、晩秋直前までは珠海市拱北口岸まで行くことすら怖かった。
久しぶりのマカオでの日曜日は心底リラックスできた。
晩秋に長く続く病気になったのも、精神的なストレスが大きかったのかもしれない。
完全に良くなったのは2014年に帰国してからであったし。