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まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

ペースを速めながらも楽しみを与える

2014-04-09 14:11:33 | 初級授業(日本語)
『みんなの日本語 初級』も11課がほとんど終わったようなもの。
10課からペースを上げだしたのだが、もっともっと速くしなければいけない。
6月末で終わらせるために・・・。

以前ある学校で1日1課で進めたことがあった。
だが、当時は中国人教師と日本人教師が1日のうちの半分ずつを教えていた。
それでバランスが取れていた。

だが、今回はまず上司が『みん日』と『標準日本語』の文法などを先行、その後で我々がそれぞれのテキストを用いてついていく形式になっている。

1日に2つの教科書を使うわけであり、下手なことをすると学生にとっては虻蜂取らずになる。

だが、この学校が長年ずっとそのシステムを続けられたのはやはり工夫。
しかし、2つの教科書を使うということは、1日で進める量が限定されてしまうことになる。

仮に2冊とも1日1課進むと考えてみたらわかりやすいと思う。
覚える方はかなりタイヘン・・・。

当初の計算で、1週間5日で3課ちょっとのペースであった。
だが、最初の10課までは、出来れば14課までは出来るだけゆっくり行わないと、ついて来られない学生が出てくる・・・。
現在は世界的に「考える力」が低下しているのだから・・・・・・。

40課頃からバタバタが始まり、特急電車や新幹線、極端な話中国の高速鉄道に乗せなければならないことは目に見えていても(3、4か月で終わらせるどの学校も同じだが・・・)、最初は仕方がない・・・・・・。

しかし、私は常に工程表というか計画表とにらめっこしている。

なるべく日本語のみで教える私はできるだけ3人の教師の一番最後を走った方がやりやすいのだが、そうも言ってはいられない。
現在『みんなの日本語』を使う私の方が『標準日本語』を使う同僚よりも進んでいる。
それどころか文法の上司よりも先を走ったことも数回ある・・・・・・。

それはやはり(中国の日本人教師は文法に苦手意識を持っている方も多いなかで)私はそれに対して自信を持っているという強み。

日本の養成講座で勉強した直接法のみでわかってもらおうなどと考えない方がいい。
多言語学習者であり、かつ中国語を媒介語に外国語を勉強することが多い私でも「やはり母語で教えてもらったり、考えた方がわかりやすい」と思っている。

もちろん直接法のいいところは使っている。
だが、初級の場合は視覚効果に訴えている。

文法についてはやはり板書量が増える。
どうせ多くなるのであれば、学習者が未習である漢字語を使ってでも、出来るだけ一目見て理解できる簡単な日本語を板書して説明する。
漢字一文字が持つ情報量はとても多い。
そして私は少しは中国語がわかる。
当然中国語学習者が見てすぐにわかる単語を選んでいることは言うまでもない。
(私、日本で教えられるかなぁ・・・・・・。)

ただ、未習の漢字語を使うにしても、最小限度を心がける。
学生に余分な情報を与えすぎてはいけないと思っているので。


昨日で上級に課していた会話がすべて終わった。
後は特別授業などでその夕方の時間を使うだけ。

そして本日からは初級で会話を行うつもりでいる。
その中に今までは授業中で行っていた簡単な会話を含めていけば、正規の授業時間をもっと短縮できる。

我々日本人教師が考える会話というのは、頭を使ったもの。
ただ、書いてきたことを読み上げるだけではなかなか応用できない。
とっさに何かを言われて、とっさに返し、瞬時に何かを言い返す。

正規の授業の場合、学生が楽しみだしてノリノリになったところでストップをかけることになってしまう。
そうしないと、1日のスケジュールが完全に狂ってしまうので・・・。


とにかくネイティブ教師の私としては会話に重点を置いている。
明日の正規授業での11課会話文の暗唱発表などもとことん楽しんでもらうつもりでいる。

私の会話授業はそれが正規の時間であれ、自習時間を利用したものであれ、まず楽しんでいただくことを第一にしている。

(本日は準備段階と位置付けて)
明日からは本格的な“Show time”の始まりとなる。



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説明は単純かつ明快に

2014-04-03 19:46:33 | 初級授業(日本語)
久しぶりに『みんなの日本語 初級』を使っている。
(当地ではまだ旧版だけです。)

その翻訳・文法解説書のアクセント番号については、(とっても失礼な表記だが→)当地でのものであろうから、時々いいかげんなものがある。
数年前にMP3のCDがつき、以前のものよりは厚くなった新形式でも、そのアクセント番号は直されていない。

それは(日本人教師がいる限りは)問題はないのだが、(日本で作られた)文法説明についても、「???」的なものがある。
まあ、それらについては他の方が記しているので、控えておく。

今回私が言いたいことは、単語の中国語訳もそれを知らない方にとっては何のことやらさっぱりわからないということ。

旧版の第10課の単語に「チリ・ソース」がある。
この簡体字版の中国語訳は“智利辣椒醬”となっている。

しかし、英語もわからず、それを見たこともない方にはさっぱりわからない。

「“智利”は何ですか・・・」と聞かれた。

ちょうどその時、クラスで一番日本語がわかり(おそらくN4の途中ぐらいのレベル)、なおかつ本当にいろいろなことも知っている女性がトイレに出かけており、不在。
(「トイレ」は余分な情報かなぁ・・・。)

私は言う。
「あぁ、※さん、「チリ」は“辣椒”のことですよ」と。
それで、すぐにわかってもらえた。

ちなみに先ほど(以前ネットで出回っていた)繁体字版の(翻訳・文法解説書)単語を調べてみたのだが、「チリ・ソース」は“辣醬”と翻訳されており、こちらの方がまことにわかりやすい。

(では新版に登場してるらしい「ナンプラー」を翻訳本を見ずに、日本語や自分の知っている外国語でどう説明しようかと考えてみた私・・・。)

こんなことはよくあること。
私は中国語をあまり使わずに授業をすることを心がけている。
もちろん、意味がわかっているのかの確認で、学生に中国語訳を求めることはあるし、学生の中国語での質問に日本語で答えることもある。
(ただし、全部中国語で質問したのなら、意地悪く答えない。)

そして、学生にとって未習の単語を使わざるを得ない時は、その中国語を板書することもある。

だが、その中国語が通じないことはけっこうある。
その学生がそれを知らなければ、いくら中国語に直しても同じこと。

つまり、教師が「それは何であるのか」を説明できなければならない。



初級の単語であれば、まあ説明できるかもしれない。
だが、中級や上級になると、我々日本語ネイティブの日本語教師でさえ「わからん」言葉が出てくることがある。
(特に上級など、使う教材を変えるごとに、必ず経験する・・・。)

ある程度の日本語が通じる中級や上級の学生が相手であっても、自分がそれを理解していなければ、説明できるはずがない。

私はよく中・上級の学生に言う。
「スマホや電子辞書で簡単に調べるのもいいのだが、まず自分の頭の中の辞書を活用してみて欲しい」と。

それは当然我々教師にも求められること。
同じ言葉でも、初級に説明するのと、中級に説明するのと、上級に説明するのとでは伝える内容が違ってきて当然。

学生の全員が学者を目指すならともかく、そうでないならば、どうでもいい細かいことを教える必要もない。
そしてどうぜ細かいことを教えるのならば、将来学生が遭遇するであろう場面を想定して、そこで用いる言葉を教えるべきだと私は自分勝手に考えている。

当地の学生はけっこう純粋。
教師の言うことを真面目に理解しようとする。
そういう学生たちが目を輝かす内容ならともかく、学術的なことやどうでもいいうんちくをあれこれ話してもお互いの無駄。

説明は単純かつ明快に行いたいものである。


ここまで記して「あれっ!?」と思った。
にほんブログ村日本語教育カテゴリーに参加されているある方も以前この旧版10課の「チリ・ソース」の翻訳に触れていたような気がする。
もし、その“気”が正しい場合、この記事の大半は二番煎じ(以降)になることをここに記しておく。



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クラスによって授業や管理の手法も変わる(当たり前のことなのだが・・・)

2014-03-24 14:19:15 | 初級授業(日本語)
今年の1月は中国に来てから初めて仕事がなかった。
そしてその1月の下旬から、2月中旬まで日本に帰っていた。

だが、すでに昨年10月頃から上司の一人が折に触れて、「来学期は初級をやってみませんか」とのたまっていた。
この4年ほど正規に初級を教えてはいなかったので、ちょうどいいチャンスだと思っていた。

もしこのまま日本でも少しは教えてゆけるのであれば、上級よりは初級の方が需要は多いであろう。

確かに現在では己の授業は中・上級こそ一番光ると自覚している。
それでも元々は初級が一番好きであったのだし、初級を教えている時の学生の眼から鱗が落ちる瞬間がたまらなく好きであったりする。


今年1月から2月中旬まではどちらかと言えば、聴解をメインとして考えていた。
それはまさか正規の時間に連続して入るとは思ってもいなかったので。
だが、中国に戻って来た翌日2月18日には教科書をやって欲しいと言われ、『みんなの日本語』(旧版)を選択した私。
これはある意味嬉しい誤算。

そして今回は今まで教えてきた初級の中で一番人数が少ない。
これは我々の収入に大きな悪影響があるのだが、それでも私はそれも「いい経験だ」と考えた。

そこで今まで教えてきたクラスよりも、考えて発表していただくことを増やしている。
(もちろん初級に1年以上かけるクラスは除く。)

確かに私は初級の時点ではとにかく学生の口を開かせることが一番だと考えている。
しかし、「書く」という行為をなおざりにはできないのである。
また、最初のうちはやはり自分の手で記して、それを発表することになる。

それに何も考えずにただ口を開けている学生もいることも事実なのである。

もちろん、当地での日本人教師の役目を考えて、会話方面こそ大事にしている。
まだ『みんなの日本語』に入る前から、いきなり指名しての私との会話やクラスメート同士での会話も課している。

どちらにしても、学生は頭を使うことになる。
前者はゆっくりとあれこれ考え、後者は瞬時に考える。
この組み合わせの効果がどう現れるであろうか。

別に学生を実験の対象にするつもりはない。
今回こそ(言い方が悪いかもしれないのだが→)己の卒業制作のひとつにしたいと思っている。
(もう一つの卒業制作は昨年7月の中級前の補習から担当している現上級クラス。)


ただ・・・。
簡単に記せば、どちらもこれぞやはり90年台生まれの学生たちだと強く感じる。
(初級は92~95年生まれ、上級は89年~98年生まれ。)

やはり年代によって、コントロールや管理の仕方は変わってくる。
60年代生まれの私。
その己の中学・高校時代そのままの手法だけでは90年代の学生たちの管理はできない。
というより人より7年ほど遅れて大学に入った時も時代の差を感じている。
前職で新人君を指導した時などなおさらである。

今から6年前に高卒ぐらいの学生にあきれ果てたことがある。
(ちょうど90年台の初登場だと考えていただきたい。)
前後の辻褄を考えずに、ただひたすら自分たちの考えをぶちまける。
私はその考えのなさにマジ切れしたこともあった・・・。

また我々60年代後半組も、それより上の方から見れば、やはり理解不能な面が多かったのではなかろうか。

ずっと同じ教え方、同じ管理方法で通用するはずがない。

TBS系列で放映された『3年B組金八先生』を見ていれば、金八先生のスタイルも少しずつ変わっていることにお気づきであろう。
我々より上の年代の方々は「何を学生に対して下手に出ているんだい・・・」とイライラした方もいらっしゃったに違いない。
しかし、これは現在の教育の世界をよく表していると感じていた。
(学生たちの現在のマナー事情もうまくドラマの中に取り入れていた。)


とこのようにブツブツと記しているのは、やはりこの日本語教育の世界に未練があるということ。

もちろんクラス管理や学校全体をみた行動ではストレスもたまることがある。
フル授業やそれに近い状態になった時の準備などは当然言葉では言い表せない凄まじさがある。

だが、私からしてみれば、「こんなに楽しい仕事が他にあるのであろうか」と感じている。
仕事をしていて楽しい。

ただ、生活ということを直視すれば、それだけで食べていくことは難しい。
それが一番大きな問題。


まだ国内のどの職種のどの機関にも問い合わせをしたり、履歴書などを送ってはない。
出来るだけ早めに行動を起こした方がいい。

だが、現在は新年度や新学期を前にした準備や募集に追われているであろう。
そんな時に日本語学校で言えば秋からの仕事のために履歴書を送りつけるのも、失礼にあたるかもしれない。
それ以前に遊び半分に感じてしまう機関もあるであろう。

それが証拠に何年か前に数校自己紹介として履歴書を送っているのだが、ほとんどは何の連絡も来ない。

まあ今週はゆっくり考えて、4月から行動を始めたいと思っている。


ちなみに私は愛知県東部に実家があり、日本語教育や国際交流関係であれば、愛知県や静岡県西部を考えている。



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関谷君の「なに!?(0)」と「なに(1)」は違うの?

2014-03-21 06:48:15 | 初級授業(日本語)
初級のクラスで「なに(何)①」を提示した。
その時、「じゃあ、(大人気ドラマ“愛情公寓”で日本人の設定である)“关谷神奇”が言っている“なに(アクセント0)”と何が違うの?」と中国語で呟いた学生がいた。

そう、私も冗談でよく真似をして使うこの“关谷神奇”の「なに!?」は無駄な説明を省いて簡単に一言でいえば、「驚き」を表す。
もう少し詳しく言えば、それ以外に「意外」や「いぶかしい気持ち」「信じられない気持ち」「怒り」等を表す表現でもある。

しかし、ドラマの字幕では“什么”となっており、「なに①」の訳も“什么”であれば、疑問が湧いて当然だと思う。

もちろんこの説明は一部中国語を使った(板書した)のだが、簡単に「なに①?→ 什么(何)」「なに(0)!?→ +吃惊(驚く)」と記すだけにしておいた。

それは「驚き」以外の意味は実際に使っていくうちにわかってしまうと思うので。

初級のうちからあれこれ細かい説明はすべきではないと思う。
もし、細かい説明をするのであれば、学生がこれから必要になるような表現を教えるべき。

学校によって「あくまで既習の単語を使って授業するところ」と、「多少は先を見越して未習のものも導入してよい」ところがある。
そして同じ学校でもクラスの形態によって違ってくる。

本日『みんなの日本語 初級』(旧版)の第6課に入ったのだが、誤算があった。
それは私が同僚たちに比べて進んでしまっているということ。

しかし、あまり同僚に合わせてばかりいると、40課過ぎから学生を高速鉄道に載せることになる。
せめて日本の新幹線こだま号ぐらいにしておきたい。

であるから、予定通り6課に入った・・・。
だが、90分授業の内の半分(5課の会話文の暗唱確認、5課までの単語テスト、宿題にしてあった5課の練習問題を確認した後)の時間を単語に使った。

それは単語を使いながら、文法も説明して、軽く練習も入れたからである。

その時に(時間稼ぎを兼ねて)教科書には出てこないのだが、これから学生たちが必要に迫られて覚えて使用していく言葉も導入しながら行ったのであった。
今まではこの上司たちの下では中・上級しか教えていなかったので、それらの単語は中級前の橋渡しとなる補習授業から徐々に提示していった。
しかし、実際それではあまり身につかないのである・・・。
簡単に言えばイメージの問題。初級を越えていても、初級の方が教えやすい単語は多い。
そしてそれは教科書や試験で考えれば、どうでもいい単語であり、卒業してから日本人と交流してゆくうえでは必要な単語であったりする。


ここで話題チェンジ。

幸いなことに私は今までのいくつかの学校で中国人教師の正規授業や模擬授業を見学させていただいている。

外国語学習はやはり単語を知っていることが基本となる。
だが、私が普段日本人教師にしては単語に時間をかけるのはそれだけが理由ではない。
それは中国人教師たちは単語の説明や練習で文法などの用法を説明していく方も多いことを知っているからである。

今回はそれを普段の私のやり方ではなく、彼らの手法で行ったことになる。
それでも私はこれをいつもいつも行おうとは思っていない。
それはやはり文法を教えていく上司のパートを取ってしまわないためである。

中級や上級の場合、そのクラスに入る教師が用いる教材は完全に独立している。
であるから、当然テキストに登場する文法も自分で教えることになる。
もっとも(一応は簡単に接続について触れてはいるものの、)やはり上司が文法指導で触れないであろう点を大事し、その他は意味的な違いについて説明しておく。

しかし、初級に関していえば、上司は概ね『みんなの日本語』と『標準日本語』の文法提出順序に合わせて教えていくのである。
そして私はその前者のテキストを用いている。

当然私は他の教師の行動を考えて授業することになる。


今回は上司も少しやりにくいのではなかろうか。
なぜならば私がこの上司たちの下に来て、代講以外で初級を担当するのは初めてのことであるのだから。
つまり、私の初級の手法は上司たちにとっては未知数だということ。
どんな教え方をしていくのかわかっていないのであるから。

それでもお互いにあまり細かい伝達事項無しで授業を進めてゆけるのは、やはりお互いの動きがだいたい読めるからである。



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テストの合格点のライン引きの難しさ

2014-03-20 14:04:55 | 初級授業(日本語)
初級。
『みんなの日本語』第5課までの単語テスト。

80点合格。
昨日「それ以下は『蹴るぞ~』」とアクション付きで脅しておいた暴力教師がいたおかげか(?)全員合格であった。

本来であれば、5課までの単語テストなど90点で合格にしたいぐらいである。
だが、人間にはいろいろな方がいるものであり、すぐに覚えてしまう方もいれば、時間がかかる方もいらっしゃる。

あまりに高いハードルを設定すると、後者の方のやる気を奪ってしまうことになる。

最近8年ぐらい前に教えた学生と新たにコンタクトを取ることが増えたのだが、その中で当時初級を教えていた学生に対してやり始めたのがこの5課毎の単語テスト。

以降クラスの年齢構成や初級を教える時間の長さによって、何課毎に単語テストを実施するのかは当然違ったのだが、必ず行っていた。
(時間が長いクラスは当然会話テストも行っていた。)
(3、4か月で教えるクラスも「会話テスト」とは言わないだけで、実は秘密裡にテストを行っている嫌な教師の私・・・。)

出来る学生には慢心しないように、物覚えが遅い学生や出来ない学生にはある程度のプレッシャーを与えるために、テストは必要だと自分勝手に思っている。
特に単語は言葉の基本。

全員合格してしまったので、ちょっと物足りない気がする私なのだが、もし不合格であれば、「1~5課までの単語を※回ずつ書いて提出!」というペナルティを与えるつもりであった。
その※回はテストの出来具合によって違ってくる。
普段は(学生の他の勉強を考えて)最大5回ずつなのだが、出来ないのではなくサボっている学生には10回を言い渡したこともある。

話は前後するのだが、本日2時限目にそのクラスに入ると、教卓にエサが上がっていた。
(中国語で)「先生、遠慮なく召し上がってください。その代わり私に8分の時間をください」とのたまった方がいた。

もちろん(エサだけはもらっておいてお願いだけは)却下したのだが、5課の会話文の暗唱も、1~5課までの単語テストもけっこうあっさりと合格してしまった。

その方にとっては今回暗唱とテストが重なったことはとても大変なことであったと思う。
しかし、必死にしがみついてきた。

実は私の単語のテストなどけっこう主観的な部分もある。
私が口頭で伝える単語を聴き取って、解答用紙(?)に記すのだが、漢字を忘れても、ひらがなが書いてあれば半分減点し、何か残念な間違いがあった時にはさらに半分(つまり1問の点数につき1/4の得点を差し引く)。

本来の手法で「すべて間違っていたら点数なし」では確実に及第点以下になってしまう方がいることは最初から考えてある。

勉強をしていない方には不合格を与えても問題はない。
だが、人より時間がかかる方が必死に努力しているのであれば、(なるべくぎりぎりのラインになるように)考慮した合格点のハードルを設置するようにしている。

五十音から教えだしたのだから、学生一人一人がどのような人間であるかはある程度掴める。

もし、今回ハードルを60点や70点にしてしまったら、その方は努力しなかったであろう。
90点であったら、諦めたかもしれない。

学内で統一された試験ではなく、その担当教師の中だけで収めておけるものであれば、このような姑息なこともできる。


ただ、学校やクラスの質によっては、ハードルを60点にせざるを得ない場合もある。
どちらかというと、そんな低いハードルを設定しなければならなかったことの方が多い。

私など怠け者であり、「60点にすれば、再テストになる学生も減るし、ペナルティで与える宿題をチェックすることも少なくなる」と真っ先に思う。
しかし、私も一応教師でメシを食っているのであるから、そんな怠け心は心の中の物置にしまっておく。

学校によって、学生の質は違う。
高校に行けなかった方に「中卒よりは日本語学校でも卒業していた方が、学歴という面で少しは有利だ」と考える家族もいる。
(さらに保護者と学校とである程度の約束がある場合も・・・。)

もちろん我々は教師であり、それとこれとは関係ないと考えることもできる。
まともな教師であればあるほど、そう考えるであろう。

しかし、その手の学生が集まる学校であれば、学生が辞めれば我々の給料も確保できなくなるのである。

線引きがとても難しいのだが、ある程度はイライラを押し殺して教師業を行わなければならないこともある。

我々は「その気になれば、そんな学校はいつでも辞められる」であろう。

だが、その学校の職員並びに、そのご家族のこともある程度は考えねばならない。

何のために中国にやって来たかは人それぞれ。
日本語教育の修行、日本で教えていくための経歴作り、休みの日に思いっきり中国を満喫するため等々。

しかしそれならば、ある程度は自分がお世話になっている学校のことも考えなければならない。
なぜならば、自分もその学校を利用しているのであるから。

そして(はっきり言って日本語学校など何の学歴にもならないのだが)学歴の代わりにしたい方にとっては「それが将来につながるか否かの分かれ道」にもなるのである。

まあ結果としてそれに近い状態である学校の場合はある意味「日本語教育」をするのではなく「世間的一般的常識」の方をメインで教えるつもりで考えている。

幸いこの4年半以上の付き合いの上司たちとは教育の理念が同じであり、そういう制約はまったく受けていない。
この「まったく受けていない」ということはとても珍しいこと。
学校であればある程度は疑問を持ちながら授業することはある。
必ずある。

しかし、今の私にはそんな制約がまったくない・・・。

確かにだから学生が集まらないのかもしれない。
しかし、我々は教師としてやせ我慢をすることを選んでいる。

学校も儲けがなければやってはいけない。
だが、まず「人を育てる」ことが第一条件。
何とか生活できるだけのお金は後からついてくる。

それで生活できなければ、この世界から足を洗うだけ。
学生からお金をだまし取ることだけはしたくない。






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