日々徒然

日々旅にして旅を住処と・・・
できるほどの金も時間もないけれど、お散歩も旅。
ほてほてのんびり歩きましょう。

バチカン

2005-11-02 15:58:50 | 伊太利亜

ローマにぽっかりとある、世界で一番小さな国、バチカン市国にやってきました。
いわずと知れた、ローマ・カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の中心地、いわば「総本山」。

このバチカンには、ローマ法王、枢機卿、スイス兵をはじめ、そこに働いてる人たちが住んでいて、人口は約800人ほどだそう。面積は0.44平方km、日本の皇居の半分もないのです。

法王の代替わりの際には、枢機卿の中から次の法王が選ばれますが、その会議はコンクラーベと呼ばれます。といっても、今年2005年の4月に代替わりがあったから、今は大抵の人が知ってる話。私の周りでも、「根競べ?そのままじゃない。」と話題になりました。

バチカンの中心、法王や枢機卿の住むサンピエトロ大聖堂は、4大聖人の聖ペテロの墓の上に作られたと伝えられています。

ペテロは、キリストの最初の弟子で、岩のように頑固だったから、岩の意味である「ペテロ」という名を授かったとか。

そして、キリストの「ペテロよ、汝、岩の上に教会を建てよ、汝に天国への鍵を授けよう」という言葉、「岩の上=ペテロの上」として、ネロの迫害に遭い殉教した、ペテロの墓の上にサンピエトロ寺院を建立したのだそうです。

これはただの言い伝えだと長年信じられてたけど、近年の発掘調査(だったかな?)で、どうやら事実らしいとにわかに話題になった覚えがあるけど、どうでしたっけ?

そして、キリストの言葉に従い、ペテロ像は天国の鍵を手にしているのが普通なのだそう。だからこれはペテロ像だと思います。


そして、バチカンを守るスイス兵。
色鮮やかな衣装が、観光客の注目となって、しょっちゅう写真を撮られてます。かくいう私もその一人。この衣装、ミケランジェロのデザインといわれてます。

これも有名な話だけど、バチカンを守れるのは今はスイス兵だけ。

かつてはいろんな国の兵がバチカンを守っていたけれど、16世紀のドイツ軍によるローマ略奪のとき、スイス兵だけが最後まで持ち場を離れず、時の法王(メディチ家出身のクレメンス7世)を守って、147名全員が殉死したそうです。その勇敢さを讃え、今も本当のスイス兵のみがバチカンを警護できるのです。

この衣装の赤、青、黄色は、メディチ家の色なのだとか。てことは、ミケランジェロもこの頃の人だし、このクレメンス7世が決めた衣装ってことですよね、きっと。

スイス兵になるには厳しい審査に通らないとなれないそう。この条件は
  1.19~30歳の独身男子
  2.道徳的なカトリック信者
  3.身長174cm以上
  4.契約期間は2~25年。2年以上務めたものは結婚を許される。
というもの。
低賃金で厳しい仕事なので、現在じゃ希望者減少中(そうだろうな~)なれど、4月の代替わり以来、希望者が増えてるらしい。

それにしても、この条件って、警備というより、観光向けに見栄えのいい人を選んでるように見えないことも・・・。

今日の天気は

サンタンジェロ城

2005-10-28 16:06:55 | 伊太利亜
バスの中から見かけたサンタンジェロ城、Castel Sant'Angelo、聖天使の城。
サン・ピエトロ大聖堂から歩いて10分ほどの、テヴェレ河沿いに建っています。
今回は行きませんでしたが、前回(4,5年前?)に来たときに訪れました。

このお城は、139年ハドリアヌス帝の霊廟として造られました。
サン・ピエトロ大聖堂とをつなぐ地下道があり、サン・ピエトロ大聖堂が襲われたとき、法王や枢機卿はその抜け道を通ってサンタンジェロ城に逃げられる、と聞いたことがあります。要塞としての役目も果たしたようです。
この城は牢獄としても、さらに教皇の住居などに使い回されてきたそう。

中を歩いていると、暗くていかにも牢獄として使われたような感じを覚えたり、屋外に大砲の弾が積んであったり、ちょっとした住居となるような部屋もあったりと、要塞だったことを思わせたり、豪華な部屋もあって、法王の居城だったこともうかがわせるところもあり、と面白いところです。行ったときは、人少なでしたが。

上のほうに登ると、カフェがあります。ここに腰掛けてゆっくりするのもまたよいものです。
鳩もたくさん訪れて、また一興。

今日の天気は

ローマのマンホール

2005-10-27 19:36:07 | 伊太利亜
イタリア訪問の最後の街は、もちろんローマ。(2004年9月の話。)

ローマに着くなり、写真を撮ったのは、こちら。マンホールです。
このマンホールの「S.P.Q.R」の文字が撮りたかったのです。

「S.P.Q.R」は、ラテン語で「Senatus Populusque Romanus」の略で、「元老院並びにローマ市民」という意味。
古代ローマ国家全体の主権者に呼びかける言葉で、演説などの冒頭の挨拶に使われたそう。

古代ローマ帝国は、ヨーロッパ諸国やアフリカに勢力を伸ばしていたけれど、ローマ帝国の主権を持つのは、ローマ市民と認められる人のみだったし、元老院が政治をしていたので、そういう呼びかけになっていたのだとか。
(すみません、詳しいことは省きます)

「S.P.Q.R」の文字は、古代ローマとその市民の栄光と誇りを現した文字で、かつてはローマの領域の公共物や軍旗にも刻まれたのだそうです。

その誇りから、今でも、ローマ市の公共物には、この文字が刻まれていると、塩野七生さんの本で読んでいたので、ぜひとも写真に収めたかったのです。

と思いつつ歩いていると、当然道でぶつかる最初はマンホール。
早速撮った次第です。
あんまりきれいなマンホールじゃないけど・・・。

今日の天気は

フィレンツェ-ドゥオモ

2005-10-21 15:09:38 | 伊太利亜

フィレンツェの散策も残り時間わずかなので、ドゥオモのクーポラかジョットーの鐘楼のどちらかに登ろうと思ったものの、どちらに登ったものか、、と相談。

 「ドゥオモだとこの時間(最終入場まで残り1時間)でも、30分は並ぶね」
 「ジョットーの鐘楼は、待たずに登れるらしいよ」
 「でも、やっぱり人気はドゥオモだよね。天井画も近くで見られるし」
 「それに今、このドゥオモは修復中(注:これは2004年9月現在です)。
  だったらジョットーの鐘楼に登って工事中のドゥオモを眺めるより、
  ドゥオモに登って、キレイな鐘楼と街並みを眺めたほうが気分いいよね」

上記のようなやり取りを経て、クーポラに登ることにしました。

近くでジェラートを買って用意万端で列の最後に。
いよいよ順番が来てクーポラに登ります。このクーポラへの階段は464段あるのだそう。エレベーターはなく、登るのは全部自分の足。結構大変です。

暗い狭い螺旋階段を半分ほど登った頃でしょうか、天井画の近くを1/4周ほど見て回れるようになっています。ヴァザーリ作「最後の審判」です。
確か、最も近く見えるあたりの絵が、地獄絵図だったような・・・。
記憶違いじゃなければ、悪魔が人間を頭から食べてたり。

どうせそばで見せてくれるなら、もう少し気持ちのいい絵のところを・・・と贅沢なことを望みつつ、写真を撮りがてら、ちょっと疲れてきた足を一休みさせた後、先に進みます。

クーポラの上まで行くと、360度の大パノラマ。
この写真だといまいちわかりませんが、夕暮れになってきていて、町全体が更にばら色に染まっていました。

ところどころにベンチが置いてあり、皆腰掛けて、フィレンツェの街並みを楽しんでいます。私たちも、ベンチが空いたところを見逃さず、すかさず座りこみ。

のんびりおしゃべりしたり、写真を撮ったりしていると、日本人の女の子に写真を撮って欲しいと声をかけられました。
彼女は、イギリスに留学していて(確か)、夏のバカンスを利用して一人イタリアに遊びに来たのだそう。
日本人と日本語でお話ししたくなったのかな、となんとなく思え、少しおしゃべりして別れました。


ジョットーの鐘楼は、白が基調の塔に、茶とローズ色の天井や窓枠などの意匠が栄え、とても美しい。写真は逆光になっちゃってますが・・・。

くるっと回って、東側の街並みを眺めましたが、鐘楼のあるほうが絵になります。
ただ、日陰になっていて涼しいので、少し休憩。

しかし、日本に帰って初めて、小説「冷静と情熱のあいだ」を読み、映画を見、この東側のほうが再会の場として使われていたことを知りました。

だから、事前に映画とか小説とか見ておこうよ、自分・・・。といつもながらの準備の悪さを、旅が終わったあとに嘆くのでした。

後悔先に立たず。

今日の天気は。やっと昨日晴れたと思ったのに~。

フィレンツェ-メディチ家

2005-10-06 22:15:53 | 伊太利亜
シニョーリア広場の裏道にあるお店でお昼ご飯を食べた後、ポンテ・ヴェッキオを渡ってみました。

ポンテ・ヴェッキオ(=古い橋)は、アルノ河にかかる橋で、橋の上にはたくさんのお店が連なっています。
貴金属が中心で、どのお店もきらきらと黄金のアクセサリーがたくさん飾ってあります。いくつかのお店をのぞいてみると(あくまでも外から)、お客様がじっくりと購入交渉?している姿がありました。

ポンテ・ヴェッキオのお店は今でこそ貴金属が中心ですが、15世紀には食材、それも肉類の販売が中心だったそう。
切り取った余分なモノは、そのまま河にドボンと捨て、そのためにアルノ河はいつも臭っていたのだとか。
今もいい香りとはいえませんけど、昔はすごい匂いだったのでしょうね~。

貴金属のお店に変わったきっかけは、メディチ家が、手狭になったヴェッキオ宮から対岸のピッティ宮に引っ越すにあたり、この2つの宮殿を結ぶ回廊を作ろうとしたものの、河があまりに臭う。だったら、橋の上の肉屋を立ち退かせ、貴金属の店に変えよう、と変えさせたのが原因と言われているのだそう。
また、金額の高い金銀細工の店から上前をはねるためだったとも言われてますが、どっちも本当の理由だったんじゃないでしょうか。

さて、渡ってみた後は、新しいメディチの宮殿、ピッティ宮に向かいます。

ピッティ宮の前に広がる広場。「これがメディチの宮殿?」というくらい、妙に閑散とした感じを受けるのですが、この何もない広場には、もともとは噴水のようなものが作られていたようです。

この宮は、もともとは15世紀に商人のルカ・ピッテイがブルネレスキに依頼して建てたものですが、後にメディチ家が買い取り、その後何度か改築を重ねたのだそう。ルネッサンス様式の建築です。

今、ピッティ宮は、ラファエロの作品がいくつか入っているパラティーナ美術館、メディチ家の宝物を展示している銀器博物館や近代博物館が入っています。また、イタリア式庭園であるボボーリ庭園もあります。

そもそも美術館や博物館が併設されているなんて全く知らずに、思いつきで「メディチの宮殿を見たい!」というだけで訪れたため、まず、中に入るためにチケットを購入しようとした時点でいくつも料金設定があることに「??」
人の様子を見つつ、何とか入ってみました。。。

中では、パラティーナ美術館を中心に見たのですが、無知な私たちは、見終わった後「で、結局ラファエロの作品ってどのくらいあったっけ?」「うーん、今いちよく・・・」などと、行った甲斐のない会話を交わす始末。

教訓。事前準備はしましょう。


次にはメディチ家一族の眠る、サン・ロレンツォ教会に向かいました。

この教会もブルネレスキ作です。1460年に着工されたものの、途中ブルネレスキが亡くなったため工事が中断し、ファザードは未完成のまま、レンガが積んである状態です。
とはいえ、写真のとおり、修復工事中だったので、まるでその一環のよう。

教会内部の説教壇はドナテッロが製作、左翼廊の旧聖具室はブルネレスキとドナテッロの二人によって建てられたそうです。

教会の裏手にはロレンツォ2世の墓になっているメディチ家礼拝堂があり、そこの新聖具室はミケランジェロが設計したのだそうです。ここには、ミケランジェロ作の「曙」「黄昏」「昼」「夜」の4つの像がありました。

礼拝堂だからなんでしょう、装飾はすっきりしていて、余分なものがなく、上品な感じです。床もモノトーン。

ブルネレスキは、フィレンツェの名門に生まれた、フィレンツェの代表的な建築家兼彫刻家。ルネサンス建築の創始者ともいわれてます。
ちょっと調べてみると、実際、フィレンツェの街は彼の作品で一杯。
彼の手がけたものをちょっと挙げてみますと・・・
 ■サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)のクーポラ
 □サン・ロレンツォ教会
 ■サント・スピリト教会
 □サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場
 ■ピッティ宮殿   など
だそうです。すごーい。。

ブログを書くために調べていたら、彼のお墓は、ドゥオモの地下にあることを知りました。
今度行くときは、ウフィツィ美術館だけじゃなく、ブルネレスキ建築めぐり&お墓参りもしなくては。
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いちおう”フィレンツェ-メディチ家”と銘打って、メディチゆかりの散策として今日のブログを書いてみました。が、実際のところ、フィレンツェの街を歩くとメディチにゆかりのものにぶつかることが多いものです。
とはいえ、初めてのフィレンツェの割に、私たちはマイナー路線を選んだらしく、ピッティ宮やサン・ロレンツォ教会では、日本人に出会うことが少なかったのは事実。。
ですがこのあとはメジャー路線に立ち返り、ドゥオモのクーポラに登りにいくのでした。

今日の天気はときどき

フィレンツェ-シニョーリア広場

2005-09-22 13:05:47 | 伊太利亜

イタリア旅行。
次に訪れたのは、花の都フィレンツェ。ルネサンスの頃は民主政でありながら、実質的にはメディチ家を中心とした寡頭政治体制を行っていた街(たしか)。
フィレンツェっ子、特にメディチ家の人たちの美意識が優れていたおかげで、とても美しい街並みを今に残し、街全体が世界遺産となっているところです。
だから、一流の芸術家も勢ぞろい。レオナルド・ダ・ヴィンチはもとより、ミケランジェロやボッティチェリ等がこの街で過ごしてるんですよね。
芸術家以外だと、確かマキャベリがフィレンツェの官僚でしたっけ。
あとはドミニコ会の修道士サヴォナローラなんてお人もいましたか。フィレンツェ市民を掌握し、メディチ家を追放して神政政治を行ったものの最終的には破門され、市民からも糾弾を浴びて、裁判の末、絞首刑ののち火刑にされた人です。

フィレンツェ散策のはじめに、フィレンツェの街を一望できる、ミケランジェロ広場へ。
左側にはアルノ河と河にかかるポンテ(=橋)・ヴェッキオ(=古い)、右に目を転じると大聖堂ドゥオモのクーポラやジョットーの鐘楼などが見渡せます。


 

うーん、2枚の写真を合わせたものの、微妙にちょっと・・・。

この後、市街の散策に。
まず、かの有名なドゥオモ・大聖堂であるサンタ・マリア・デル・フィオーレに入りました。ここでの見所はやはりクーポラの天井画「最後の審判」です。見学者はもちろんたくさん。
ドゥオモのそばにはジョットーの鐘楼やサン・ジョヴァンニ洗礼堂があります。この洗礼堂の扉は、ミケランジェロが「すばらしい、まるで天国に至る門のようだ」とかなんとかいって褒め称えたことにより、「天国の門」と呼ばれているのだそう。
なお、フィレンツェの守護聖人はヨハネ。4大聖人の1人ですね。そして、ヨハネのイタリア語読みがジョヴァンニです。

洗礼堂とドゥオモと鐘楼。

ドゥオモ内部。

天国の門。

それからシニョーリア(=紳士)広場にのんびりお散歩。

シニョーリア広場は、メディチ家の居城であり、メディチ家がいなくなった後、フィレンツェの市庁舎となった(今も現役の市役所)ヴェッキオ宮のある、フィレンツェの中心となる広場で、多くの人がいます。当然スリも多いのです。

シニョーリア広場に通じる路地の1本で、怪しげな人に話しかけられそうになりました。すぐそばの園芸屋さんに入り込み、別の扉から出て事なきを得ましたが、気をつけましょう。多分そばにあった露店のオヤジも仲間だろうと思われ・・・。

さて、シニョーリア広場には、メディチ家の中でも評判の高い、コジモ・ディ・メディチの像があります。
また、この広場には、ロッジア(=回廊)があり、有名な像がたくさん置いてあります。さすが芸術の都。本物なのかどうかはわかりません・・・。


コジモ・ディ・メディチ。

ダビデ像。

ネプチューン?

どこかでみたことあるような?


ヴェッキオ宮は、古宮殿の意味。ここに住んでいたメディチ家が、その後アルノ河の対岸にあるピッティ宮に引っ越したため、この名前になったのだそう。訪れたときは丁度工事中でした。

そして、シニョーリア広場からアルノ河に向かって歩くとすぐにかの有名なウフィツィ美術館があります。
イタリアはもとより、世界でも非常に貴重な作品が保存されている美術館。

もともとこの美術館は、ヴェッキオ宮が手狭となったメディチ家が、事務所として建てたもの。その後メディチの当主が変わったときに、メディチの美術コレクションを展示したのだそう。
「オフィス"office"」という単語もこの「ウフィツィ"uffizi"=メディチ家の仕事場」が語源となってるのだとか。知らなかった~。

見たいのはやまやまですが、そこはツアーの悲しさ。自由時間は午後の数時間、そしてこの時間だと、ウフィツィ美術館には3時間は並ばないと入れないので、今回は見送り。いずれ訪れる機会があるといいなぁ。

今日の天気は。このあとになるかも。

ヴェネツィア-サンマルコ

2005-03-13 23:19:24 | 伊太利亜
ヴェネツィアへ海から船でヴェネツィアへ。

塩野七生著「海の都の物語」に、明け方、徐々にばら色に染まっていく空と海、そして建物を見ながらヴェネツィアに入っていく美しさを描いてあるシーンがあった。
それ以来、海からヴェネツィアに入ってみたかったので、嬉しい船出。ただし、明け方ではなかったけど。

それでも、昔、貿易大国として栄えていた、海の男たちが誇らしく眺めただろうヴェネツィア共和国を、自分も海から眺めながら入れたことに感動。

ヴェネツィアの守護聖人は聖(サン)マルコ。

以前はエジプトの教会に祀られていたこの聖人の遺体が、イスラム教徒に荒らされそうになったとき、ヴェネツィアの商人たちが買い取る形で連れ出し、母国に連れ帰って以来、ヴェネツィアの守護聖人になったのだそう。
聖マルコのライオン 聖マルコ寺院
聖マルコのライオン
聖マルコ寺院

聖マルコといえば、ヨハネ、マタイ、ルカ、マルコという新約聖書の福音書を書いた4大聖人の一人。
聖マルコを守護聖人としたヴェネツィアは、それで地位が認められるようになったのだとか。

そして、サン・マルコを象徴する動物が、翼のあるライオンなのだそう。だから、ヴェネツィアの国旗や街には、翼のあるライオン像がいたるところにある。

サンマルコ広場サンマルコ寺院の前にはサンマルコ広場が広がる。

サンマルコ寺院の隣には、かつてのヴェネツィア共和国を統べる元首・ドージェの住む、そして政の中心だった元首宮、パラッツィオ・ドゥカーレが建っている。
ここはまさにヴェネツィアの中心地。

今もまた、ヴェネツィアの中心街。
けれど、海のすぐ上にある、水の都ヴェネツィアは、だんだん水没しつつある。このサンマルコ広場も、近年は時々水に沈む。

なんとか、この大切な遺産をずっと守り続けることはできないのかな。

今日の天気は

ヴェローナ

2005-03-11 14:09:03 | 伊太利亜

バルコニーヴェローナは、ミラノとヴェネツィアの途中の世界遺産のまち。またローマとドイツをつなぐ線の途中にもあたり、古代ローマの時代から交通の要所として重要な位置にあって栄えたのだそう。
でも今は、ロミオとジュリエットの舞台だということのほうが知られているまち。

ロミオとジュリエットは、イタリア語読みだとロメオとジュリエッタになるのだけど、この2人の、というよりこの2家のモデルとなった家が今も残っている。特にジュリエッタの家はあの有名なバルコニーがあり、観光地になっているので、観光客がひっきりなしに訪れる。
運が悪く、訪れたときはバルコニーが修復中で、布がかかっていました。

ジュリエッタ像ジュリエッタの姿をかたどった銅像も佇んでいる。ジュリエッタの胸を触ると幸せな恋愛が出来るといわれているのだそう。
だから、いつも女の子たちが(もちろんおばさんも男の人も)並んで胸を触っていっている。

ジュリエッタの家の壁には隙間がないくらい、どこもかしこも願い事を書いた紙が(チューイングガムで!)貼られている。気持ちはわかるのだけど、美しくない!

このまちは交通の要所だけあって、絶えず揺れ動く町だったよう。10世紀に都市国家になり、スカラ家のもと13-14世紀に全盛を迎えるのだけど、15世紀にはヴェネツィア共和国の支配下に入って、水の都ヴェネツィアの地上の拠点として栄えた。さらにヴェネツィア共和国崩壊後はオーストリアの支配下に入った後、19世紀にイタリアの一員になる、という激動の歴史をかかえている。

古代ローマ時代のコロッセオ
古代ローマ時代のコロッセオ
広場中央の処刑晒し台
中心の広場の処刑(晒し)台

今の街の下には幾重にも折り重なってその時代時代の街が眠っている。

今日の天気は

ミラノ スカラ座&ドゥオモ

2005-03-09 10:19:40 | 伊太利亜

ガレリアを反対に抜けると、そこはミケランジェロ広場。
目の前はスカラ座なのだけど、訪れたときは修復中。でも今はもう修復も終わっているはず。
いずれまたミラノに訪れて、スカラ座に行ってみたい。
ミケランジェロ広場 スカラ座


ミラノのドゥオモ尖塔ガレリアに戻り、昼食を食べたあと、ドゥオモに登りに行った。登るのには階段とエレベーターがあるのだけど、時間も体力もないのでエレベーターを使って登る。ドゥオモの尖塔を間近で見られるのがすばらしかった。きちんと雨どいも作られている。
雨どいを写真に取ろうとしたら、そこでくつろいでいたカップルが、わざわざよけてくれる。にもかかわらず、写真にしっかり写ってしまった。とても感じのいい人たちで、それがなんとなく嬉しい。

ミラノの滞在時間ぎりぎりまで、ドゥオモの上からミラノの街を見渡しながら、しばらくゆったり。


今日の天気も。とっても暖かくて気持ちいい。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア

2005-03-08 10:38:35 | 伊太利亜
伊太利亜旅行記の続き。

ドゥオモを正面から出ると、目の前はドゥオモ広場Piazza Duomo。ドゥオモの正面の階段にはたくさん人が座ってのんびり過ごしています。その右側に、ショッピング街として有名なヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリアが。



このガレリアは、ドゥオーモ広場とスカラ広場Piazza della Scalaを結ぶ長さ200m、高さ32mの十字型アーケード。
ジュゼッペ・メンゴーニの設計で1800年代後半に造られたそう。天井はドームになっていて、ガラスと鉄で作られている。日の光が降り注ぐようにガラス張になっていて、中央のクロス部分は、アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの4つの大陸を象徴するフレスコ画が描かれている。


床は大理石で出来たモザイク。天井の十字の真下に当たる床には牡牛がモザイクで描かれていて、牛の局部に片足の踵をつけて一回転すると幸運が訪れるという言い伝えがあるのだそう。

一瞬ためらったけど、幸せになりたいので、そっと一周。


今日の天気は