日々徒然

日々旅にして旅を住処と・・・
できるほどの金も時間もないけれど、お散歩も旅。
ほてほてのんびり歩きましょう。

サンタンジェロ城

2005-10-28 16:06:55 | 伊太利亜
バスの中から見かけたサンタンジェロ城、Castel Sant'Angelo、聖天使の城。
サン・ピエトロ大聖堂から歩いて10分ほどの、テヴェレ河沿いに建っています。
今回は行きませんでしたが、前回(4,5年前?)に来たときに訪れました。

このお城は、139年ハドリアヌス帝の霊廟として造られました。
サン・ピエトロ大聖堂とをつなぐ地下道があり、サン・ピエトロ大聖堂が襲われたとき、法王や枢機卿はその抜け道を通ってサンタンジェロ城に逃げられる、と聞いたことがあります。要塞としての役目も果たしたようです。
この城は牢獄としても、さらに教皇の住居などに使い回されてきたそう。

中を歩いていると、暗くていかにも牢獄として使われたような感じを覚えたり、屋外に大砲の弾が積んであったり、ちょっとした住居となるような部屋もあったりと、要塞だったことを思わせたり、豪華な部屋もあって、法王の居城だったこともうかがわせるところもあり、と面白いところです。行ったときは、人少なでしたが。

上のほうに登ると、カフェがあります。ここに腰掛けてゆっくりするのもまたよいものです。
鳩もたくさん訪れて、また一興。

今日の天気は

ローマのマンホール

2005-10-27 19:36:07 | 伊太利亜
イタリア訪問の最後の街は、もちろんローマ。(2004年9月の話。)

ローマに着くなり、写真を撮ったのは、こちら。マンホールです。
このマンホールの「S.P.Q.R」の文字が撮りたかったのです。

「S.P.Q.R」は、ラテン語で「Senatus Populusque Romanus」の略で、「元老院並びにローマ市民」という意味。
古代ローマ国家全体の主権者に呼びかける言葉で、演説などの冒頭の挨拶に使われたそう。

古代ローマ帝国は、ヨーロッパ諸国やアフリカに勢力を伸ばしていたけれど、ローマ帝国の主権を持つのは、ローマ市民と認められる人のみだったし、元老院が政治をしていたので、そういう呼びかけになっていたのだとか。
(すみません、詳しいことは省きます)

「S.P.Q.R」の文字は、古代ローマとその市民の栄光と誇りを現した文字で、かつてはローマの領域の公共物や軍旗にも刻まれたのだそうです。

その誇りから、今でも、ローマ市の公共物には、この文字が刻まれていると、塩野七生さんの本で読んでいたので、ぜひとも写真に収めたかったのです。

と思いつつ歩いていると、当然道でぶつかる最初はマンホール。
早速撮った次第です。
あんまりきれいなマンホールじゃないけど・・・。

今日の天気は

ついつい・・・

2005-10-25 10:37:18 | 日々
ふと気づいたら、トラックバックのお題が「ついついやってしまうこと」とあったので、久しぶりに書いてみることにしました。

私のついついしてしまうことといったら、「本を読むこと」です。
家に帰ってご飯~と思いつつ本を読み始める。
お風呂に~と思いつつ本を読む。
朝出かける準備をしていて、ふと目についた本を手に取り・・・読みふける。

そうして時間がなくなったり夜更かししたりすることになるのです。

外出していても、目的のところに行くまでに本屋があると、ふらふら入っていくのはもう習慣と化していて、「あ~、またやっちゃったよ・・・」と思うのです。

そんな私の夢は、壁全面が本棚になっている部屋を作ること。
でもそんなことしたら、引きこもりになること必至ですね・・・。

フィレンツェ-ドゥオモ

2005-10-21 15:09:38 | 伊太利亜

フィレンツェの散策も残り時間わずかなので、ドゥオモのクーポラかジョットーの鐘楼のどちらかに登ろうと思ったものの、どちらに登ったものか、、と相談。

 「ドゥオモだとこの時間(最終入場まで残り1時間)でも、30分は並ぶね」
 「ジョットーの鐘楼は、待たずに登れるらしいよ」
 「でも、やっぱり人気はドゥオモだよね。天井画も近くで見られるし」
 「それに今、このドゥオモは修復中(注:これは2004年9月現在です)。
  だったらジョットーの鐘楼に登って工事中のドゥオモを眺めるより、
  ドゥオモに登って、キレイな鐘楼と街並みを眺めたほうが気分いいよね」

上記のようなやり取りを経て、クーポラに登ることにしました。

近くでジェラートを買って用意万端で列の最後に。
いよいよ順番が来てクーポラに登ります。このクーポラへの階段は464段あるのだそう。エレベーターはなく、登るのは全部自分の足。結構大変です。

暗い狭い螺旋階段を半分ほど登った頃でしょうか、天井画の近くを1/4周ほど見て回れるようになっています。ヴァザーリ作「最後の審判」です。
確か、最も近く見えるあたりの絵が、地獄絵図だったような・・・。
記憶違いじゃなければ、悪魔が人間を頭から食べてたり。

どうせそばで見せてくれるなら、もう少し気持ちのいい絵のところを・・・と贅沢なことを望みつつ、写真を撮りがてら、ちょっと疲れてきた足を一休みさせた後、先に進みます。

クーポラの上まで行くと、360度の大パノラマ。
この写真だといまいちわかりませんが、夕暮れになってきていて、町全体が更にばら色に染まっていました。

ところどころにベンチが置いてあり、皆腰掛けて、フィレンツェの街並みを楽しんでいます。私たちも、ベンチが空いたところを見逃さず、すかさず座りこみ。

のんびりおしゃべりしたり、写真を撮ったりしていると、日本人の女の子に写真を撮って欲しいと声をかけられました。
彼女は、イギリスに留学していて(確か)、夏のバカンスを利用して一人イタリアに遊びに来たのだそう。
日本人と日本語でお話ししたくなったのかな、となんとなく思え、少しおしゃべりして別れました。


ジョットーの鐘楼は、白が基調の塔に、茶とローズ色の天井や窓枠などの意匠が栄え、とても美しい。写真は逆光になっちゃってますが・・・。

くるっと回って、東側の街並みを眺めましたが、鐘楼のあるほうが絵になります。
ただ、日陰になっていて涼しいので、少し休憩。

しかし、日本に帰って初めて、小説「冷静と情熱のあいだ」を読み、映画を見、この東側のほうが再会の場として使われていたことを知りました。

だから、事前に映画とか小説とか見ておこうよ、自分・・・。といつもながらの準備の悪さを、旅が終わったあとに嘆くのでした。

後悔先に立たず。

今日の天気は。やっと昨日晴れたと思ったのに~。

フィレンツェ-メディチ家

2005-10-06 22:15:53 | 伊太利亜
シニョーリア広場の裏道にあるお店でお昼ご飯を食べた後、ポンテ・ヴェッキオを渡ってみました。

ポンテ・ヴェッキオ(=古い橋)は、アルノ河にかかる橋で、橋の上にはたくさんのお店が連なっています。
貴金属が中心で、どのお店もきらきらと黄金のアクセサリーがたくさん飾ってあります。いくつかのお店をのぞいてみると(あくまでも外から)、お客様がじっくりと購入交渉?している姿がありました。

ポンテ・ヴェッキオのお店は今でこそ貴金属が中心ですが、15世紀には食材、それも肉類の販売が中心だったそう。
切り取った余分なモノは、そのまま河にドボンと捨て、そのためにアルノ河はいつも臭っていたのだとか。
今もいい香りとはいえませんけど、昔はすごい匂いだったのでしょうね~。

貴金属のお店に変わったきっかけは、メディチ家が、手狭になったヴェッキオ宮から対岸のピッティ宮に引っ越すにあたり、この2つの宮殿を結ぶ回廊を作ろうとしたものの、河があまりに臭う。だったら、橋の上の肉屋を立ち退かせ、貴金属の店に変えよう、と変えさせたのが原因と言われているのだそう。
また、金額の高い金銀細工の店から上前をはねるためだったとも言われてますが、どっちも本当の理由だったんじゃないでしょうか。

さて、渡ってみた後は、新しいメディチの宮殿、ピッティ宮に向かいます。

ピッティ宮の前に広がる広場。「これがメディチの宮殿?」というくらい、妙に閑散とした感じを受けるのですが、この何もない広場には、もともとは噴水のようなものが作られていたようです。

この宮は、もともとは15世紀に商人のルカ・ピッテイがブルネレスキに依頼して建てたものですが、後にメディチ家が買い取り、その後何度か改築を重ねたのだそう。ルネッサンス様式の建築です。

今、ピッティ宮は、ラファエロの作品がいくつか入っているパラティーナ美術館、メディチ家の宝物を展示している銀器博物館や近代博物館が入っています。また、イタリア式庭園であるボボーリ庭園もあります。

そもそも美術館や博物館が併設されているなんて全く知らずに、思いつきで「メディチの宮殿を見たい!」というだけで訪れたため、まず、中に入るためにチケットを購入しようとした時点でいくつも料金設定があることに「??」
人の様子を見つつ、何とか入ってみました。。。

中では、パラティーナ美術館を中心に見たのですが、無知な私たちは、見終わった後「で、結局ラファエロの作品ってどのくらいあったっけ?」「うーん、今いちよく・・・」などと、行った甲斐のない会話を交わす始末。

教訓。事前準備はしましょう。


次にはメディチ家一族の眠る、サン・ロレンツォ教会に向かいました。

この教会もブルネレスキ作です。1460年に着工されたものの、途中ブルネレスキが亡くなったため工事が中断し、ファザードは未完成のまま、レンガが積んである状態です。
とはいえ、写真のとおり、修復工事中だったので、まるでその一環のよう。

教会内部の説教壇はドナテッロが製作、左翼廊の旧聖具室はブルネレスキとドナテッロの二人によって建てられたそうです。

教会の裏手にはロレンツォ2世の墓になっているメディチ家礼拝堂があり、そこの新聖具室はミケランジェロが設計したのだそうです。ここには、ミケランジェロ作の「曙」「黄昏」「昼」「夜」の4つの像がありました。

礼拝堂だからなんでしょう、装飾はすっきりしていて、余分なものがなく、上品な感じです。床もモノトーン。

ブルネレスキは、フィレンツェの名門に生まれた、フィレンツェの代表的な建築家兼彫刻家。ルネサンス建築の創始者ともいわれてます。
ちょっと調べてみると、実際、フィレンツェの街は彼の作品で一杯。
彼の手がけたものをちょっと挙げてみますと・・・
 ■サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)のクーポラ
 □サン・ロレンツォ教会
 ■サント・スピリト教会
 □サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場
 ■ピッティ宮殿   など
だそうです。すごーい。。

ブログを書くために調べていたら、彼のお墓は、ドゥオモの地下にあることを知りました。
今度行くときは、ウフィツィ美術館だけじゃなく、ブルネレスキ建築めぐり&お墓参りもしなくては。
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いちおう”フィレンツェ-メディチ家”と銘打って、メディチゆかりの散策として今日のブログを書いてみました。が、実際のところ、フィレンツェの街を歩くとメディチにゆかりのものにぶつかることが多いものです。
とはいえ、初めてのフィレンツェの割に、私たちはマイナー路線を選んだらしく、ピッティ宮やサン・ロレンツォ教会では、日本人に出会うことが少なかったのは事実。。
ですがこのあとはメジャー路線に立ち返り、ドゥオモのクーポラに登りにいくのでした。

今日の天気はときどき