不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

India piumata che uccide i serpenti della schiavitù

2013-01-16 14:00:00 | アート・文化

南米の人々は長い長い名前を持っていたりしますが、
1800年代後半にブラジルの皇帝だったPedro II(ペドロ2世)も
本名はPedro de Alcantara Joao Carlos Leopoldo Salvador
Bibiano Francisco Xavier de Paula Leocadio
Miguel Gabriel Rafael Gonzagaと異様に長いらしいです。

ブラジル帝国の第二代であり
最後の皇帝となったペドロ2世は
ブラジルの近代化に尽力し、
結局はそのために有力な支持層の反感を買って
廃位させられることになったのですが、
新大陸の発展のためには不可欠だといわれていた
黒人奴隷制の廃止にも積極的で
新しい考え方のできる人材だったようです。

晩年、糖尿病を患い、専属の医師団から
ヨーロッパでの専門治療&療養を勧められたこともあり、
1887年6月にブラジルを後にしてヨーロッパに渡り、
1888年5月にはミラノにも2週間ほど滞在しています。
このときに滞在したのがHotel et de Milanだったそうです。
滞在中に肋膜炎を患い、
このホテルの一室で
生死の淵を彷徨っていたペドロ2世の下に
本国で摂政を務めていた彼の長女イザベルが
奴隷解放令に署名したという知らせが届きました。
これを受けて翌年
1888年8月22日に彼も本国に戻っています。

奴隷制の廃止は近代化のために
欠かせないことではありましたが、
社会階級制度に基づいて運営されていた
コーヒー農園などでは
これまで通りの働き手(元奴隷)に賃金を払ったり、
奴隷が解放されたことで
不足する働き手を補うために
新しい移民層を雇い入れたりする必要があり、
また結果的に社会の貧富の差も拡大してしまったため
徐々に皇帝に対する不満が高まっていき、
やがてクーデターによって
1889年に帝国政権は倒されます。
同年より、ペドロ2世とその家族は
ヨーロッパに亡命することになり、
彼自身は亡命中のパリで亡くなりました。

ミラノのHotel et de Milanは1888年当時彼を歓迎し、
受け入れるために入り口と階段を改装したり、
特別室や熱帯庭園なども用意したそうです。
ペドロ2世は奴隷解放の知らせを受けて
それを記念して象徴的な彫刻を発注しています。
羽の冠と腰巻を纏った原住民インディオが
蛇を退治している姿が描かれた小さな彫刻。
ホテルの入り口を入り
右手の階段の脇に
この小さな彫刻が今でも置かれています。

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こんなところにも
小さな歴史のかけらが残っているのですね。


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