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ぐりぐらのフォトログ

デジタルカメラであそぼ!

あいづわくわく学園 杵が森古墳・陣が峯城跡・亀ケ森古墳・鎮守森古墳  会津坂下町【9-2】

2013年09月11日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
杵が森古墳・陣が峯城跡・亀ケ森古墳・鎮守森古墳  会津坂下町【9-2】


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第9回目の2は会津坂下町の古墳群探訪。
教育委員会の吉田氏に、杵が森古墳・陣が峯城跡・亀ケ森古墳・鎮守森古墳を案内いただきました。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
杵が森古墳・・・

画像クリックでスライドショーへ杵ガ森古墳は、発掘調査以前は円墳と思われておりました。
ところが、区画整理事業に伴って平成2年より記録保存のための発掘調査を行ったところ、
前方後円墳であることが判明しました。出土した土師器から、
その築造は古墳時代前期前半(4 世紀)と考えられます。
このため、県内でも最古段階の古墳の一つであること、さらに古墳の周辺に10基の周溝墓と
13軒の竪穴住居跡等を発見し(稲荷塚遺跡)、遺跡の重要性が明らかになったため
当初計画を見直し、前方後円墳と稲荷塚遺跡の周溝墓4基、竪穴住居跡4軒(うち3軒は古墳の墳丘下)
を含む遺跡の中心部分を公園として整備、保存している。

周囲には3世紀から4世紀にかけて連続した定住生活をうかがい知ることが出来る
極めて珍しい複合遺跡という。
墳丘の長さ45.6m、高さは2mほどという。県史跡指定。

陣が峯城跡

陣ヶ峰城は、阿賀(野)川が新潟県に抜ける盆地の出入り口にあたり、
高さ20mほどの段丘に建ち、崖である東辺をのぞく周囲三方向に大規模な堀を二重に堀を巡らす
東西110×南北175mほどの規模の単郭式の方形館。
会津坂下町教育委員会では遺跡の重要性から、平成14年度から3ケ年にわたり発掘調査を行った。

この城跡からは、中国製白磁、高麗青磁、国産陶器、和鏡、馬具や秤の錘などの青銅製品、
などの貴重品が多数出土しました。東側には厨(台所)があったらしく
炭化した椀や盤、包飯などの炭化した食品、炭化した穀物が多量に出土しました。
また、税金の基準となる重さ123.3グラムの権が出土したことから、役所的性格を持っていたようです。

陣が峯城のある一帯は平安時代末期は摂関家領の会津蜷河荘であったことが「近衛家所領目録」により
確認されており、永久2年(1114年)に藤原忠実が伝領している。
そのような経緯より、城の築城者は蜷河荘の管理に携わっていた人物であると思われる。
このようなことから、忠実の孫にあたる九条兼実の日記『玉葉』に登場する「藍津之城(あいづのしろ)」は
陣が峯城である可能性がある。

出土した遺物の大半は焼けており、多数の鏃が伴なって出土したことから戦火にあった可能性が
考えられるという。
すなわち、本城跡は12世紀初頭に築城され、12世紀後半に慧日寺と越後城氏から攻められ焼失し
その後、越後城氏により建てられたから「ジョウノシロ」と呼ばれた可能性が考えられたという。
史跡は平成19年度に国史跡指定、出土遺物は平成21年度県重文指定。

亀ケ森古墳・鎮守森古墳

会津坂下町の青津地区の西側には、いつの時代に誰が造ったは分からない大亀甲館(亀ヶ森古墳)、
小亀甲館(鎮守ヶ森古墳)があり、林の状況から近年の築造ではないようだといわれてきました。

これまでの発掘調査により、亀ヶ森古墳は全長127mの前方後円墳で、墳丘の表面全体に葺石が葺かれ、
後円部は三段築造で、墳頂には埴輪が並べられていました。
また、古墳周囲からは、盾形の周堀の存在が確認されました。
見つかった赤彩された埴輪から築造された時期は4世紀後半と考えられています。
亀ヶ森古墳は、県内で一番、東北地方でも2番目の規模を誇ります。

また、鎮守森古墳は全長55.9mの前方後方墳で、墳丘上には壺形土器が並べられおり、
相似形の周堀の存在が確認されました。
出土した遺物から亀ケ森古墳とほぼ同時代に造られたことが分かりました。

それでは、なぜこの地域に、このような大きな古墳が築造されたのか?
当時の交通は河川を利用した水運が主流だったと考えられ、河川の集中する青津区が
会津盆地西側における交通の要衝として大いに繁栄したからと考えられます。

会津坂下町は青津区の協力をもとに史跡の恒久的保存と学習の場、憩いの場として活用する
歴史公園に整備するため、史跡内の土地の公有化を進めています。昭和51年国史跡指定。

発掘調査中のとこから葺石が葺かれてるのを見ることができました。
1600年前の人々が並べた石!!なんかすごくうれしい気分・・・

 

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あいづわくわく学園 立木観音・出ケ原観音堂・鳥追観音・大山祇神社  会津坂下・西会津方面【9-1】

2013年09月09日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
立木観音・出ケ原観音堂・鳥追観音・大山祇神社  会津坂下・西会津方面【9-1】

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第9回目は会津坂下・西会津方面の史跡探訪・・・
上記の他に訪ねた陣が峯城跡・杵ガ森古墳・亀ヶ森古墳・鎮守森古墳は次回にアップします。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
立木観音 「金塔山恵隆寺立木観音」・・・
画像クリックでスライドショーへ
伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が会津坂下町と喜多方市の境にある山に庵を結び、
その後、舒明天皇6年(634年)に弟子の恵隆が恵隆寺と名付けたという。・・・
(仏教の公式伝来は百済の聖明王が仏像や経論を欽明天皇に送ったとされる538年説が有力・・・)
村人たちは、高い所に寺が建ったので高寺といい、いつしか山の名前が高寺山となったという

その後、この寺は非常に繁栄し、高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、
山の所々に三十六坊舎を建てお坊さんの数は数千名にもなったそうです。

恵隆寺の歴史年表によれば、本尊「千手観音」は、大同三年(808年)に開眼、伽藍建立
徳一の開いた恵日寺、恵日寺乗丹坊、城四郎長茂に攻撃され高寺山は敗れ建物は全部焼失・・・
鎌倉時代、建久元年(1190年)高寺おろしとなり、現在地に移転、金塔山恵隆寺と改め伽藍整備・・・
現在の観音堂建立 この時記念植樹された樹木が2本残っていて1本は銀杏の木という・・・
慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建・・・

千の慈手と千の慈眼をもつ木造千手千眼観音菩薩立像は、鎌倉時代初期に作られたとされ国重文指定。
根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。
高さが8.5mの一木彫りで床下には根があり、日本最大級の木彫仏像という・・・
この観音様の回りには、風神、雷神をはじめとするほか二十八部衆が配されていて、
斗帳を引いて拝観した観音様の大きさ、居並ぶ二十八部衆、圧倒されました。

観音様の前に掛けてある垂れ幕、斗帳は1407年以来33年毎に掛替がなされるという・・・
観音堂は、和様でこちらも国重要文化財に指定されています。
平成23年3月11日の大地震では観音像、二十八部衆破損。修復がなされ翌年2月に御身拭いと・・・

心清水八幡神社

心清水八幡神社は道路を挟んだ東隣には恵隆寺(立木観音堂)がある。
社伝によれば陸奥守源頼義・義家が天喜3年(1055年)奥州阿部氏討伐の際に
この地に八幡神社を勧請したことがはじまりだという。
同五年戦勝を感謝して社殿を建てた。以来当地方の総鎮守として信仰を集めた神社です。
現在の社殿は文久年間(1863~65年)に会津藩によって造営された。
現在、神社には『塔寺八幡宮長帳』と称される長大な日誌と鰐口が保存されており、
それぞれ国の重要文化財に指定されている。

塔寺八幡宮長帳

長帳は神主らが神社の行事を記した日記で、全長約120mにも及ぶ長大なものである。
現存するものでも貞和6年(1350年)より寛永12年(1635年)までの286年間分にも及んでいる。
長帳の裏書には、会津を中心とした政治や社会の動きや災害などの記事が記載されており、
会津中世史を解明するにあたっては第一級の史料という・・・

吉田松陰(1830~59年)
「東北遊日記」1852年、23才の早春に、会津に7日間滞在(内1泊2日は塔寺に滞在し
長帳など社宝を見学)、帰る日に密かに日新館を見学後に越後に向かったという・・・
神社の930年大祭事業の完了記念として碑を建立という・・・

出ケ原円満寺観音堂

出ケ原観音堂は、昭和38年、国の重要文化財に指定され、昭和45年の解体修理時、保存保護の観点から
村中央の円満寺境内から現在の場所に移築されたものという。
会津地方には唐様仏堂は多いですが、この御堂は方三間唐様入母屋造りの代表的な建造物で
室町時代末期(1336年)に建立された材料がそのまま活かされていて
当時の技法を知る上からも極めて貴重な古建築という・・・

周囲200m四方の集落にお寺が三つ建っているという・・・
今は昔、「出ケ原和紙」は会津藩公文書に使われ、専売品として藩から手厚く保護・・・
密売など厳重に取り締まり、ブランド和紙の一大生産地だったという・・・

鳥追観音

天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫の折、
子に恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲嘆にくれる農夫を憐れみ、
念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けになった・・・
農民たちは聖観音を祀り尊崇したところ、鳥獣害もいつしかなくなり
一家は豊作に恵まれ、子宝を授かり、皆幸福な人生を全うしたと伝えられています。
やがて西方極楽浄土に安楽住生が叶ったことが広まり、人々は「鳥追観音」又は「ころり観音」と呼び、
多くの老若男女の信仰を集めるようになったという・・・

御堂は、慶長十八年(1613年)に再建されたものですが、その構造は東西向拝口というもので、
東口から入り、参拝したら戻らずに西口から出るようになっており、
現世から来世に向かう世の中を示し、全国でも珍しい構造の観音堂という・・・
開創以来千二百年、「鳥追観音」は会津西方浄土の霊場、会津三十三観音番外二世安楽結願所、
会津ころり三観音のひとつで、抱きつき柱は左右2本、男女別とあった!!

向拝の彫刻の中で有名な「隠れ三猿」は、
隠れサル(左) 逃れサル(右)手枕で丸くなって眠る猿(安楽に暮らしサル)の三猿、
観音堂再建の際、鳥追観音の霊験にあやかろうと左甚五郎が心を込めて刻んだと伝えられる・・・

境内の福島県天然記念物コウヤマキは根周り約6メートル、目通り幹周り約4メートル、
高さ約30m、樹齢1,200年の巨木、徳一大師が開創時の記念植樹という

大山祇神社 遥拝殿

大山祇神社は野沢の山の神として広く知られた神様で大久保にあります。
遇拝殿から歩いて一時間ほどの大倉山八合目に本社、山頂に奥の院が祀られています。

大山祇の神は山の神であると同時に水の神でもあるといわれ、
山での仕事の安全を守ってくれる大切な神様であると信じられています。

毎年6月1日~6月30日まで行われる大山まつり。
家内安全・五穀豊穣を祈願するお祭りで、境内では野点や御神楽奉納などが行われます。

御本社(奥宮)は遥拝殿(下宮)から山道を四キロほど登ったところに鎮座され、
途中には樹齢四百年近くのみごとな杉の並木が続く「木の根坂」があります・・・

一生に一度の願いは三年つづけてお参りすれば、かなうという「野沢の山の神様」・・・
福島県はもちろん新潟、山形県地方からの善男善女が、年間三十万人近く訪れるという。
コメント (1)
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奥会津 桧枝岐 庭先の花

2013年09月04日 | 花&植物
奥会津 桧枝岐 庭先の花

先だっての奥会津現地学習折、桧枝岐散策で庭先の花撮らせてもらいました・・・
さまざまな花が、畑の隣に彩豊かに咲いていて、水の豊かさと相まってすてきでした。
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

桧枝岐庭先の花
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あいづわくわく学園 中野竹子の碑・キリシタン塚・若松栄町教会・妙国寺 会津若松市内【8-2】

2013年09月02日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
中野竹子の碑・キリシタン塚・若松栄町教会・妙国寺 会津若松市内【8-2】


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第8回の2は1に続いて会津若松市内の史跡探訪・・・
写真は少ないですが説明が長くなったので2回に分けました。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
中野竹子の碑
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中野竹子奮戦の地ー説明板より
明治戊辰(1868)の役で、西軍を迎え撃ったところ・・・
8月25日には、婦人の従軍が許されたので、黒髪を切り、薙刀をかかえ、
衝鋒隊に加わり、長州・大垣藩の兵士とここで遭遇し、敵の銃撃にあい・・・
壮烈な戦死をとげた。時に22歳・・・

出陣する際薙刀に巻き付けていたという辞世の句
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」・・・


キリシタン塚

会津若松は、キリシタン大名・蒲生氏郷が領主になっていたこともあり、
キリスト教が少しずつ根付いた地域でした。しかし、江戸藩政時代になると、
幕府の反キリスト教政策にともないキリスト教徒の弾圧が頻繁に行われるようになっていきました。

1653年(寛永12年)、幕府のキリスト教の厳禁令が強化され、
これにしたがい会津では加藤明成が藩主の時に、
キリスト教徒の長の横沢丹波(よこざわたんば)とその一族、
横沢邸に潜んでいた外国人教徒等、約60余名が捕らえられ、
この薬師川原の刑場で処刑されたと伝えられてきました。

後年この地から犠牲者の埋骨と思われる人骨が見つかったため、
昭和37年にそれらを供養するため、殉教して以来300年以上を経て
敬虔なミサが捧げられてキリシタン塚が建てられました。


若松栄町教会

1894年 北小路 ( 現日新町 ) で創立、
当時、会陽医院で薬局生として勉強していた野口清作 ( のちに英世と改名 ) は、
藤生金六牧師夫妻の英語塾に通い、恋の悩みや人生相談をしながら聖書に触れ洗礼に至ったと・・・
「明治28年(1896)野口清作、藤生金六牧師から受洗」と記録された信徒人名簿のレプリカを拝見

その後、明治44年(1911)、会津若松市の中心部に礼拝堂が建設された。新築か修復かで大議論の末
2001年秋、修復工事が完成し、文化庁登録有形文化財、会津若松市歴史的景観指定建造物に指定・・・


宝光山妙国寺

宝光山妙国寺は、
顕本法華宗開祖の日什上人(1314年~1392年)が誕生・入滅した霊場です。
応永元年(1394年) - 日什の誕生地であり墓所である当地に弟子の日仁が開創・・・
什門の名刹として、戦前に至るまで顕本法華宗本山であった。現住職は54世伊藤日耀貫首。

会津戊辰戦争では、飯盛山で自刃した白虎隊士の一部の遺体が仮埋葬されました。
当時、白虎隊士の遺体は、他の東軍のものと同じく、
誰も手をふれることができず、野ざらしの状態でした。

こうした状況を地元牛ケ墓の吉田伊惣治は余りにも可哀想に思い、
夜な夜な遺体を菩提寺の墓地に運び埋葬したそうです。
後日、飯盛山にお墓が建てられました。             

また、この寺は、明治元年9月22日会津若松城の開城の翌日から28日間、
藩主松平容保・義徳父子が謹慎した場所でもあります。
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