ぐりぐらのフォトログ

デジタルカメラであそぼ!

感動の南米7大世界遺産 3ケ国大周遊

2013年11月30日 | 旅行
感動の南米7大世界遺産 3ケ国大周遊

感動の南米7大世界遺産 3ケ国大周遊に参加・・・
いろいろ考えて、今が一番若いということで一大決心をしての冒険旅行・・・
飛行機を乗り継ぎ、例年より早く雨期に入り、水量が多いというアマゾン河からスタート・・・
地図の通りのコースで、広い地域なので飛行機の移動は11回・・・

早めの雨期にもかかわらず、雨にあったのは半日のみ。ラッキーでした。
効率よく移動するために飛行機にのったら寝る~ということも・・・
また、旅の後半は標高3,300mのクスコや2,500mのマチュピチュ。でも皆元気で観光できました・・・

ずっと順調な旅程だったのが、帰国時、リマで全員搭乗して扉も締まったのに3時間出発が遅れて、
アメリカ乗り継ぎが危ぶまれたけど、係官の誘導で手続きも素早く済み、予定通り帰国できました。

こちらの昼はあちらの夜、高山もクリアしたにぶい私でも何かしていても勝手に眠くなるし
元に戻るのにいささか手間取っていますが、旅の思い出を順次スライドショーにしたいと思っています。


成田からアメリカ乗り継ぎ、マナウスからリオ、イグアスの滝、ブエノスアイレス、リマ、
ナスカ、クスコ、マチュピチュ、クスコ、リマからアメリカ乗り継ぎ成田へ




アマゾン河クルーズ途中で上陸、ジャングル遊歩道をウォーク・・・ナマケモノに遭遇



クルーズ船からボートに乗り換えピラニア釣り。全員釣果あり、から揚げにて食す。・・・



リオデジャネイロ、コパカバーナビーチに建つリオ・オットンパレスの窓から・・・



リオデジャネイロ サンバショー・・・



イグアスの滝・・・



イグアスの滝ボートサファリ 水着にカッパ着て滝つぼに。防水カメラショット・・・



アルゼンチンタンゴショー・・・



体重計ってセスナの指定席が決められ遊覧飛行 ナスカ地上絵(ハチドリ)・・・



3,300mのクスコ観光より体は楽勝のマチュピチュ遺跡・・・

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桂の木

2013年11月13日 | 散策&風景
桂の木

前沢曲家集落入り口の橋のたもとの桂の木・・・
いつもははるか上に茂る桂の葉が目の前に・・・
辺り一面良い香り漂っている・・・うれしい風景でした。

桂の黄葉・・・


明日から二週間ほど出かけてきますのでブログお休みします。
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前沢曲家集落

2013年11月12日 | 散策&風景
前沢曲家集落

南会津町舘岩地区前沢曲家集落

舘岩の前沢集落は、花しょうぶ園や蛍の里などとともに公園として、
日本の原風景を楽しむことができるという・・・
23戸の内現在10戸の曲家が残されているそうです。

前沢集落は明治40年に全戸焼失する大火により各戸が同一の大工集団により
一時期に建築されたため、整った統一的景観を今に残しているのだそうです。
昭和63年舘岩村環境美化条例に基づく保存地区の指定により、
曲家集落の保存のため頑張っておられるという・・・

そして、平成23年(2011年)6月、この統一的景観保護のため、
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。

11月4日、地域九条の会の秋の研修。行楽行事重なったようで
人が集まらず、規模をを小さくしてでかけてきました。


前沢曲家集落入り口に架かる橋。袂の桂の黄葉が良い香りを放って散っている・・・



粟やひえなどをつく器具「バッタリ」、「うつくしまの音三十選」にも指定・・・



水車小屋・・・



前沢曲家集落・・・



前沢曲家資料館看板・・・



前沢曲家資料館・・・



前沢曲家資料館内のいろり、小芋ころころさせてる。おいしかったです・・・



前沢曲家集落内散策・・・



L字型の曲家ではない作りは直家(じかや)と呼ぶそうです。雪囲い済んでました・・・


帰りにとれたての野菜を買ってきました。隣の畑で大根を抜いてて・・・。まさに産直!!

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小田山山麓の史跡探訪【12-2】善龍寺・大窪山墓地・小田山史跡・・・

2013年11月06日 | 郷土史・史跡・施設
小田山山麓の史跡探訪【12-2】善龍寺・大窪山墓地・小田山史跡・・・

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習、最終回、小田山山麓の史跡探訪の後半では・・・
善龍寺・大窪山墓地・小田山史跡をめぐります・・・
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

善龍寺の山門・・・

画像クリックでスライドショーへ
会津藩主・保科正之の会津入部とともに建立され、
保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展してきた寺という。

寛政9年(1797)の建立とされ、龍宮城のような造りで、会津地方では見かけない唐風山門・・・
二階には高欄が巡らされ、内部には西国三十三観音が安置されていたことから、
この山門だけが西軍に焼き払われることを免れたという・・・


善龍寺の奈与竹の碑、戊辰戦争で自刃された婦女子233名を追悼・・・


西軍が城下に侵入した8月23日、家老西郷頼母一族の婦女子は自宅にて
足手まといとならぬよう、一家で辞世の句を作り自刃・・・
家老西郷頼母の妻千重子の辞世の句
”なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ”

昭和3年、「なよたけの碑」として善龍寺に碑を建立・・・
碑陰には戊辰戦争で散った名のわかっている233名の会津藩の婦女子名が刻まれています。 
毎年5月1日に奈与竹墓前祭がおこなわれます。
奥にある墓地には西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した「二十一人の墓」があります


史跡 旧会津藩大窪山共同墓地・・・


大窪山墓地は、会津藩士共同墓地として保科正之によって創始され、寛文四年に整備された。
当時藩では火葬の風習を改め、土葬を推奨した。
この大窪山墓地には約4000基の会津藩士の墓があり、戊辰戦争によって、藩士が四散した為、
墓石の倒壊や埋没が目立つものの、これだけの藩制墓地は全国的にも珍しいという。
近年「小田山麓の歴史を訪れる会」などの有志により整備され、墓碑案内板も設置された。
急な坂をのぼり、ここに墓参に訪れるのは大変だったのではと思いました。


文治5年(1189)から天正18年(1590)まで会津の領主だった葦名氏の小田山城跡・・・


山城ははじめ、標高371.7メートルの小田山地区に築かれ、南北朝時代には標高723.3メートルの
隣接する青木山の奴田山地区造られ、その後荒佐原山地区が築かれたようです。
若松の市街地は標高約220メートルです。

16世紀中頃には16代葦名盛氏が永禄11年(1568)に向羽黒山城を完成させたことから、
山城の最後の砦とする機能は向羽黒山城へ移され、物見を除き使用されなくなります。
完全に廃城となるのは、天正18年(1590)に蒲生氏郷が会津に入った時という・・・


西軍砲陣跡、お城まで1.6kmという・・・


戊辰戦争では、西軍がここから直線距離で1,600mの若松城めがけて
大砲を打ち込んだ場所・・・。小田山中腹の見晴らしの良い場所で
ちょっと左に移動すると、スライドショーの中のお城のショットが・・・
狭い駐車スペースに県外ナンバーの車が駐車しているのは「八重の桜」効果!!
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あいづわくわく学園史跡探訪【12-1】小田山忠霊堂・葦名家花見が森廟所・宝積寺・恵倫寺・・・

2013年11月01日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園史跡探訪【12-1】
小田山忠霊堂・葦名家花見が森廟所・宝積寺・恵倫寺・・・


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習、最終回は小田山山麓の史跡探訪12-1・・・
小田山忠霊堂・葦名家花見が森廟所・宝積寺・恵倫寺・建福寺・善龍寺・大窪山墓地・小田山史跡・・・
陽ざしには恵まれなかったけど雨に遭わず史跡探訪を終えることが出来ました。

小田山とは・・・(史跡等案内看板)

鶴ヶ城の東、間近に見える山の一つで、鎌倉時代から安土桃山時代にかけて約400年、
会津の地を治めた葦名氏の本拠地の山城があったところ・・・
山頂近くには藩政改革に取り組んだ会津藩家老田中玄宰の墓や
北方警備で北海道の守りに就いた丹羽能教の墓がある。
田中玄宰は、お城が見える場所に埋葬して欲しいと遺言を残したといわれている。

このほかにも、小田山麓には、葦名一族の廟所、蒲生氏や保科氏とゆかりの深い寺院、
会津藩家老西郷頼母と一族の墓、大窪山の樹間にひっそりと佇む会津藩士の墓、
日清戦争から第二次世界大戦までの戦死者の慰霊のための忠霊塔などがある。
春は1年生が小田山に遠足という学校が多く、それ以来という方も・・・
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

小田山忠霊堂・・・
画像クリックでスライドショーへ

小田山忠霊堂 案内板より
この忠霊堂のあるところは 元若松歩兵第六十五連隊 および元若松歩兵第二十九連隊が
かつて陸軍墓地として管理していたところであります
忠霊堂内には 日清戦争から大東亜戦争までの各戦役における両連隊の戦没者をはじめ
これら連隊以外の本県出身陸海軍人などの戦没者 あわせて一万数千名の分骨 ご遺髪
などが 安置されております。

満州会津村慰霊碑・日清戦争の忠魂碑・日露戦役戦病没将士合祀之碑・軍用動物供養塔
ガダルカナル 思い出の塔ー会津歩兵第二十九連隊が最後の突撃を決行した時刻をしめす時計
などが境内に建てられていて、毎年8月には慰霊祭がおこなわれているということです。

葦名家花見ヶ森廟所 市史跡・・・


会津の中世を400年にわたって支配していた葦名家の廟所。
居城黒川城(現在の若松城)の南東1200mに位置する小田山山麓の花見ヶ丘にあり

現在は16代盛氏、17代盛興、18代盛隆の3基の墓が残っている。
中央が16代盛氏(竹巌公)、西に17代盛興(もりおき)、東に18代盛高・・・

葦名氏の墓は、この3代以外では、現在、北に50mの場所に一基残されているだけという
五輪塔は寛文5年(1665)に保科正之が作らせたものという

如意輪山宝積寺・・・


文和3(1354)年、葦名盛員公の子/高盛の室/笹谷御前が観音堂を建てた。
康暦元/天授5(1379)年、葦名直盛公が笹谷御前を開基として創建した。
幾多の変遷を経て、蒲生秀行公の正室/振姫(徳川家康の娘)が中興に尽力し、当寺に葬られている。

戊辰の役で、堂宇や仏像、過去帳など全てが焼失した。
入口にある地蔵は、錫杖に十字が彫られており、切支丹地蔵といわれている
境内に、北向きとして有名な正一稲荷大明神がある

金剛山 恵倫寺・・・


天正18(1590)年、蒲生氏郷公が父/蒲生賢秀の菩提を弔うため創建し、
曹月存禅師 (下総国/安穏寺) が開山。
慶長17(1612)年、鶴ヶ城/西の米代から現在の地に移築。
戊辰の役で、堂宇すべてが焼失。本堂や山門など、今なお再建され続けている。

寺の裏庭には、御薬園と同じ庭師による庭園がある。
 
裏の小田山を登ったところには柴家の墓所・・・(急坂なので小田山経由がよい)
柴家とは・・・。柴太一郎(長男)は廃藩置県後、青森県下北で郡長を務めた。

柴四朗は、藩校日新館在学中に戊辰戦争が勃発し、
父佐多蔵(由道)に従って鳥羽伏見に参戦した。
明治十年(1877)の西南戦争には政府軍に従って出征した。

その後、アメリカのハーバード大学、ペンシルバニア大学に留学し、
その間「東海散士」のペンネームで小説を執筆するなどして注目を集めた。
帰国後は政治家に転じ、大隈重信、板垣退助の連立内閣では商務次官を務めた。

柴五郎は、鶴ヶ城落城のとき未だ八歳であった。
戊辰戦争後、不毛の地斗南に移住して、悲惨極まる生活を送った。
これについては「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)に詳しい。
「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」という柴五郎の叫びは胸を打つ。

廃藩置県後、上京して陸軍幼年学校、さらに士官学校に進み、会津人として初の陸軍大将となった。
日清・日露両戦役にも参加している。
昭和二十年(1945)敗戦の報に接すると、同年十二月十三日、戦争責任を感じて自刃した。
最期まで会津武士らしさを貫いた生涯であった。

大宝山 建福寺・・・


会津藩初代藩主、保科正之公が会津拝領となり、従って移ってきた"お供寺"の一つ。 

変遷を経て、延宝8(1680)年、現在地の鞍見山正行寺跡地に移り、堂塔伽藍が建立され
貞享2(1685)年、正容公が、江戸芝/東禅寺から黙水和尚を迎える。
藩より寺領 100石を与えられて、士族の寺として、隆盛を極めたという。

しかし、戊辰戦争で、堂宇すべてが灰燼と化し、士族は会津を去って・・・
現存の堂宇は明治3(1870)年、鶴ヶ城御殿の古材を使って、再建されたものという
美しいと評判のシダレ桜は、残った1本も元気をなくして養生中でした。
しかし、歴代住職墓地内にもこれに劣らないシダレ桜があり、見事だそうです。

小田山中腹には、南会津郡塩沢において死亡した長岡藩総督 河井継之助埋骨地遺跡が・・・
一時ここに葬られたが、明治3年長岡市の栄涼寺に改葬されたという・・・

お城が見える見晴らしのよいところに会津藩家老神保内蔵助利孝の墓所がありました。
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