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あいづわくわく学園 立木観音・出ケ原観音堂・鳥追観音・大山祇神社  会津坂下・西会津方面【9-1】

2013年09月09日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
立木観音・出ケ原観音堂・鳥追観音・大山祇神社  会津坂下・西会津方面【9-1】

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第9回目は会津坂下・西会津方面の史跡探訪・・・
上記の他に訪ねた陣が峯城跡・杵ガ森古墳・亀ヶ森古墳・鎮守森古墳は次回にアップします。

画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
立木観音 「金塔山恵隆寺立木観音」・・・
画像クリックでスライドショーへ
伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が会津坂下町と喜多方市の境にある山に庵を結び、
その後、舒明天皇6年(634年)に弟子の恵隆が恵隆寺と名付けたという。・・・
(仏教の公式伝来は百済の聖明王が仏像や経論を欽明天皇に送ったとされる538年説が有力・・・)
村人たちは、高い所に寺が建ったので高寺といい、いつしか山の名前が高寺山となったという

その後、この寺は非常に繁栄し、高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、
山の所々に三十六坊舎を建てお坊さんの数は数千名にもなったそうです。

恵隆寺の歴史年表によれば、本尊「千手観音」は、大同三年(808年)に開眼、伽藍建立
徳一の開いた恵日寺、恵日寺乗丹坊、城四郎長茂に攻撃され高寺山は敗れ建物は全部焼失・・・
鎌倉時代、建久元年(1190年)高寺おろしとなり、現在地に移転、金塔山恵隆寺と改め伽藍整備・・・
現在の観音堂建立 この時記念植樹された樹木が2本残っていて1本は銀杏の木という・・・
慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建・・・

千の慈手と千の慈眼をもつ木造千手千眼観音菩薩立像は、鎌倉時代初期に作られたとされ国重文指定。
根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。
高さが8.5mの一木彫りで床下には根があり、日本最大級の木彫仏像という・・・
この観音様の回りには、風神、雷神をはじめとするほか二十八部衆が配されていて、
斗帳を引いて拝観した観音様の大きさ、居並ぶ二十八部衆、圧倒されました。

観音様の前に掛けてある垂れ幕、斗帳は1407年以来33年毎に掛替がなされるという・・・
観音堂は、和様でこちらも国重要文化財に指定されています。
平成23年3月11日の大地震では観音像、二十八部衆破損。修復がなされ翌年2月に御身拭いと・・・

心清水八幡神社

心清水八幡神社は道路を挟んだ東隣には恵隆寺(立木観音堂)がある。
社伝によれば陸奥守源頼義・義家が天喜3年(1055年)奥州阿部氏討伐の際に
この地に八幡神社を勧請したことがはじまりだという。
同五年戦勝を感謝して社殿を建てた。以来当地方の総鎮守として信仰を集めた神社です。
現在の社殿は文久年間(1863~65年)に会津藩によって造営された。
現在、神社には『塔寺八幡宮長帳』と称される長大な日誌と鰐口が保存されており、
それぞれ国の重要文化財に指定されている。

塔寺八幡宮長帳

長帳は神主らが神社の行事を記した日記で、全長約120mにも及ぶ長大なものである。
現存するものでも貞和6年(1350年)より寛永12年(1635年)までの286年間分にも及んでいる。
長帳の裏書には、会津を中心とした政治や社会の動きや災害などの記事が記載されており、
会津中世史を解明するにあたっては第一級の史料という・・・

吉田松陰(1830~59年)
「東北遊日記」1852年、23才の早春に、会津に7日間滞在(内1泊2日は塔寺に滞在し
長帳など社宝を見学)、帰る日に密かに日新館を見学後に越後に向かったという・・・
神社の930年大祭事業の完了記念として碑を建立という・・・

出ケ原円満寺観音堂

出ケ原観音堂は、昭和38年、国の重要文化財に指定され、昭和45年の解体修理時、保存保護の観点から
村中央の円満寺境内から現在の場所に移築されたものという。
会津地方には唐様仏堂は多いですが、この御堂は方三間唐様入母屋造りの代表的な建造物で
室町時代末期(1336年)に建立された材料がそのまま活かされていて
当時の技法を知る上からも極めて貴重な古建築という・・・

周囲200m四方の集落にお寺が三つ建っているという・・・
今は昔、「出ケ原和紙」は会津藩公文書に使われ、専売品として藩から手厚く保護・・・
密売など厳重に取り締まり、ブランド和紙の一大生産地だったという・・・

鳥追観音

天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫の折、
子に恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲嘆にくれる農夫を憐れみ、
念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けになった・・・
農民たちは聖観音を祀り尊崇したところ、鳥獣害もいつしかなくなり
一家は豊作に恵まれ、子宝を授かり、皆幸福な人生を全うしたと伝えられています。
やがて西方極楽浄土に安楽住生が叶ったことが広まり、人々は「鳥追観音」又は「ころり観音」と呼び、
多くの老若男女の信仰を集めるようになったという・・・

御堂は、慶長十八年(1613年)に再建されたものですが、その構造は東西向拝口というもので、
東口から入り、参拝したら戻らずに西口から出るようになっており、
現世から来世に向かう世の中を示し、全国でも珍しい構造の観音堂という・・・
開創以来千二百年、「鳥追観音」は会津西方浄土の霊場、会津三十三観音番外二世安楽結願所、
会津ころり三観音のひとつで、抱きつき柱は左右2本、男女別とあった!!

向拝の彫刻の中で有名な「隠れ三猿」は、
隠れサル(左) 逃れサル(右)手枕で丸くなって眠る猿(安楽に暮らしサル)の三猿、
観音堂再建の際、鳥追観音の霊験にあやかろうと左甚五郎が心を込めて刻んだと伝えられる・・・

境内の福島県天然記念物コウヤマキは根周り約6メートル、目通り幹周り約4メートル、
高さ約30m、樹齢1,200年の巨木、徳一大師が開創時の記念植樹という

大山祇神社 遥拝殿

大山祇神社は野沢の山の神として広く知られた神様で大久保にあります。
遇拝殿から歩いて一時間ほどの大倉山八合目に本社、山頂に奥の院が祀られています。

大山祇の神は山の神であると同時に水の神でもあるといわれ、
山での仕事の安全を守ってくれる大切な神様であると信じられています。

毎年6月1日~6月30日まで行われる大山まつり。
家内安全・五穀豊穣を祈願するお祭りで、境内では野点や御神楽奉納などが行われます。

御本社(奥宮)は遥拝殿(下宮)から山道を四キロほど登ったところに鎮座され、
途中には樹齢四百年近くのみごとな杉の並木が続く「木の根坂」があります・・・

一生に一度の願いは三年つづけてお参りすれば、かなうという「野沢の山の神様」・・・
福島県はもちろん新潟、山形県地方からの善男善女が、年間三十万人近く訪れるという。

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1 コメント

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From Belgium (Louisette)
2014-02-10 03:36:54
Wonderfull houses and trees fotos
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