ぐりぐらのフォトログ

デジタルカメラであそぼ!

あいづわくわく学園 野寺薬師・泰雲寺・一ノ堰六地蔵尊・神指城跡 会津若松市内【8-1】

2013年08月31日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
野寺薬師・泰雲寺・一ノ堰六地蔵尊・神指城跡 会津若松市内【8-1】

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第8回目は会津若松市内の史跡探訪・・・
説明が長くなったので2回に分けてアップします。
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

野寺薬師 会津五薬師の南の薬師があったとされるところ。像は現存しない・・・
画像クリックでスライドショーへ
会津五薬師とは大同2(807)年、徳一大師が創建した薬師如来を本尊とする5つの寺院をいう・・・
磐梯山に住む魔物のため、作物が育たず、人々に病気が蔓延していた。魔物を退散させ
無病息災、五穀豊穣などが続くように5体の薬師如来を造り、各々五堂に安置された。

薬師如来像が現存しているのは、勝常寺と上宇内薬師堂だけである。
勝常寺の像は、国宝。上宇内薬師堂の像も、国の重要文化財に指定されている。
平安時代初期の作である。

白龍山 泰雲寺

若松のはずれにある曹洞宗の寺院。山号は白龍山。本尊、大日如来。
縁起については諸説があるが、文禄2年(1593)蒲生氏郷の時代か(?)・・・
寛永20年(1643)保科正之の会津入封後、家老内藤介右衛門自卓が泰雲寺を内藤家の菩提寺と定めた。

内藤家は代々会津藩家老の家柄で、明治元年9月、内藤一族(内藤家、武川家、上田家)は西軍襲来の際、
警鐘を鳴らし、そろって入城することになっていました。
8月22日、西軍は戸ノ口十六橋を破って滝沢峠を下り、翌日には城下に侵攻。
内藤一族も城へ駆けつけますが、城門は固く閉じられており、やむを得ず泰雲寺に避難しました。

内藤介右衛門の家族と、 その姻戚にあたる上田八郎右衛門の家族が避難
9月17日、新政府軍が迫ると、内藤・上田両家、計19人名書院に籠って、壮絶な最期を遂げたといいます。
泰雲寺も炎上しました。

焼け跡から19人分の遺骨を掘り出してこれを懇ろに葬ったのは当時泰雲寺に寄宿していた僧得道で、
後日会津に戻ってきた内藤家当主信節が得道の労を多として内藤姓を与え
分家とした。当寺28世内藤得道である。

明治6年(1873)得道は仮本堂を建立し、加藤法印より本尊大日如来ほか5体が献上された。
昭和18年(1943)12月に再び本堂が焼失したが、翌々年11月に再建されて現在に至っている。

一ノ堰六地蔵尊

六地蔵尊縁起は、
今から900余年前、大川の洪水で大木が流れ着きこれに川水があたり、お経のように聞こえたという・・・
その晩近くに住む山田近右衛門の夢枕に地蔵尊が現れ、六体の地蔵尊を刻み安置せよとお告げが・・・
そこで仏師に頼み五百余寸の地蔵を刻み、地蔵堂を建立したことにはじまると言い伝えられている
細身のお姿でした。

六地蔵尊御開帳と一ノ堰盆踊り祭り  お祭り実行委員の方と会津鉄道が協力して地域振興を目的とし、
お祭りの間2日間だけの「一ノ堰六地蔵尊駅」が開設され、8月23日および24日に列車7往復停車するという
今年も賑わったようでタウン誌に写真入りで掲載されていました。

会津総合運動公園でランチタイム

人気の散策コース、いつも家族ずれで賑わっている広場・・・
さすが夏休みが終わったばかりの平日、この暑さでは静かでした

神指城跡

蒲生秀行が宇都宮に転封になった後、慶長3年(1598)1月、徳川家康と伊達氏・最上氏を抑える布石として
120万石の大禄で越後から上杉景勝が入ってきた。このとき上杉氏は豊臣五大老の一人となった。
(豊臣五大老;徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)

向羽黒山城の整備は、2年を要し、それが終了した慶長5年2月に神指城の整備に入ったという
国重文の『塔寺長帳』には城下町の整備のために十三の村を移転した記録があるという

築城;
慶長5年(1600)3月、上杉景勝は重臣直江兼続に神刺(指)ヶ原に、
鶴ヶ城の約2倍の面積の新城と城下町の造営を命じた。
領内、在郷から約数万人の役夫を集め延べ12万人で慶山から切り出した大石を
三里の石引き道を昼夜兼行で神指城へ運んだという。

本丸の石垣積みは、佐竹家・前田家から穴太石垣職人が数百人応援に来たという。
二ノ丸は土塁で囲み、本丸は高石垣で四方を囲み、外濠・内濠には大川と応湖川から水に引き込み、
本丸石垣の東・西・北口の城門に橋を架け
堀や運河を整備し、阿賀野川を下り日本海に出る事が出来る城下町を築き、諸国との貿易を考えたという。

廃城;
しかし、この築城も豊臣の重臣石田三成と組んで徳川家康の天下取りを阻もうとしたため、
家康の横やりが入り、会津攻めが本格化したため慶長5年(1600)6月、築城を中止して
特に白河口などに、防塁・塹壕・砦などを短期間で築き徳川勢の侵攻に備えた。

しかし京の伏見で石田三成が挙兵したため、小山に到着した家康は小山評定の結果関ヶ原に軍を反した
白河決戦は幻に終わり、兼続は北の最上・伊達勢との合戦が続いたが、9月、関ヶ原の東軍勝利の報が届き、
翌6年、上杉景勝は徳川の臣下に降り、米沢30万石に転封と決まり景勝は神指城を破城して米沢に去った。

その後、寛永16年(1643)時の領主加藤明成は、神指城本丸の石垣を総て鶴ヶ城に運び去り、
北出丸・西出丸などの拡張をした。その結果、神指城は廃城となった。
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あいづわくわく学園 桧枝岐村・河井継之助記念館・圓蔵寺  奥会津【7-3】

2013年08月27日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
桧枝岐村・成法寺・叶津番所・河井継之助記念館・圓蔵寺 奥ノ院弁天堂 奥会津【7-3】


奥会津檜枝岐村は日本有数の特別豪雪地帯、尾瀬への入山口、沼山峠口の村、檜枝岐歌舞伎の村・・・
今回は、他にも気にかかりながら、そう、しばしばは訪れることがない奥会津をアップします・・・
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

檜枝岐村・・・
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桧枝岐村は日本有数の特別豪雪地帯・・・
平家の落人伝説が残る村で、村民の姓は星・平野・橘で占められ・・・
村の面積の約98%が山林で、日本一人口密度の低い村という・・・
米がとれない村で、人口は昔から1000人を超えたことはなく、現在は640人ほどという・・・
また、尾瀬への入山口、沼山峠口へは御池駐車場から、シャトルバスを利用して約20分で到着・・・


仏地山(ぶつちさん)成法寺


仏地山は寺の裏にそびえる険しい岩山で、この地は仏の地、すなわち観音菩薩の霊地であり、
慧日寺の徳一によって建てられた、法相宗の道場跡と伝えられる。
応長元年(1311)藤原宗景が成法寺を創建、円秀に開山させた記録が
観音堂内の聖観音坐像(県重文)右膝部に墨書銘に記されているという。
魔除け観音ともいい、子育て信仰もあるという・・・

観音堂は和・禅宗様折衷の堂で、国重文指定を受け、昭和40年10月から解体修理が行われた
雪深い山間の地、清浄な環境が守られて約700年。堂守さんは子供の時、中でかくれんぼしたと・・・


叶津番所跡(旧長谷部家住宅)


会津と越後を結ぶ唯一の交易路八十里越の番所跡。会津藩と越後藩の通行人や物資の出入りを監視・・・
1643年(寛永20年)建造・・・
奥会津地方最大規模の厩中門造りで、福島県の重要文化財に指定されている。


河井継之助記念館


司馬遼太郎の小説『峠』でも知られる長岡藩の河井継之助は、西軍との戦いで受けた傷のため
慶応4(1868)年8月16日、南会津郡伊北村塩沢の村医・矢沢宗益の邸宅無念の死を・・・
「河井継之助記念館」が建てられ、矢沢家の継之助終焉の部屋が移設され、
大切に保存されています。継之助の最期を看取り、墓を建てた当時の会津塩沢の人々。
そしてこれを風化させぬように記念館を建て、現在も維持運営している人達。
歴史と志を感じました。

当時最新鋭だったガトリング砲のレプリカも展示されていました。
記念館近くの医王寺には継之助のお墓があります。16日に墓前祭が行われたという・・・
「河井継之助記念館」となりには「山塩資料館」がありました。山塩生産の資料展示興味深かったです・・・


鮭立磨崖仏


鮭立の磨崖仏、修験者が天明の飢饉等に苦しむ人々を救おうと五穀豊穣・疫病退散祈願して制作・・・


圓藏寺奥乃院弁天堂


霊巌山圓藏寺は臨済宗妙心寺派の寺。日本三虚空蔵の一。807年法相宗の徳一(とくいち)が創建。

奥乃院の弁天堂は室町時代中期・応永年間(1394~1428年)建立・・・
禅宗様式を伝えるカヤ葺きの方三間の単層堂で国指定重要文化財・・・
柳津町は川の合流点にあり、昔からしばしば水難にあったため、
弁財・福智・延寿・除災・得勝をつかさどる弁財天が祀られたという。
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あいづわくわく学園 常楽院・南泉寺・久川城跡・大桃の舞台 奥会津【7-2】

2013年08月23日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
常楽院・南泉寺・久川城跡・大桃の舞台 奥会津【7-2】


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第7回は奥会津桧枝岐方面・・・

南山御蔵入領とは奥会津9町村をいい、江戸時代の幕府直轄領の名称で、年貢米は幕府米蔵へ・・・
この地方は幕領の中でも最も生産性が低い地域で、米不足は深刻で副業で生活が成り立っていたという・・・
そんな中、3代正容の1720年、南山御蔵入騒動が起こったんですね。
代々郷土の誇りとして語り継がれているという・・・

前回は桧枝岐歌舞伎鑑賞をアップ、今回は常楽院・南泉寺・久川城跡・大桃の舞台をアップします。
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。
雲閉山 常楽院 子安観音像「マリア観音」とも・・・
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福米沢の雲閉山常楽院境内の一隅の観音堂に子安観音像が祀られています。
像高44.4㎝あり、頭より衣をかぶり、正面に十字が刻まれ、腹前で子供を抱いています。
この像の額に十字があるところから、戦後「マリア観音」と見るようになったという・・・
名残の蓮が咲き、めずらしいパイナップルリリーが満開、そして水琴窟の音色を楽しみました。

松見山南泉寺 聖徳太子像


松見山南泉寺は嘉承2年(1107年)村人が太子堂を建て、聖徳太子像を祀り、
太子守宗を信仰したのが起源という
聖徳太子像は小型ながら美しい像でした。撮影可というの撮らせてもらいました。
屋根を葺き替えたばかりの鐘楼門は、寛政6年(1794)御蔵入領民の喜捨104両で建造されたという・・・
梵鐘も鋳造されたが戦争で供出したため、昭和55年に檀家によって再鋳されたという。

久川城跡


久川城跡は青柳と小塩にわたる南北565m、東西約250m、比高53m の丘陵上にあります。
東には伊南川、西は絶壁で滝倉沢の渓流、北はこれと合流した久川が流れる天然の要塞・・・
天正17 年(1589 年)の伊達政宗軍の攻撃に備え築城し、のちに蒲生氏の支城となり、
慶長16年(1611 年)に廃城となったという。
いまは城跡の丘陵には山桜や紅葉などの植栽され、春から秋にかけて様々な花が咲き、憩の場に・・・

大桃の舞台


南会津の歌舞伎舞台といえば檜枝岐の舞台が有名ですが、
檜枝岐村にほど近いこの南会津町大桃地区をはじめ、南会津には地区ごとの農民歌舞伎の一座があり、
おなじように舞台も数多くあったという。そのなかで現在も残っているのがこの大桃の舞台で、
檜枝岐の舞台と同じに国の重要有形民俗文化財に指定されています。

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あいづわくわく学園 桧枝岐歌舞伎【7-1】

2013年08月20日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園 桧枝岐歌舞伎【7-1】

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第7回で桧枝岐歌舞伎を鑑賞・・・
18日、桧枝岐村の、鎮守神祭礼奉納歌舞伎の上演に合わせて一泊二日の日程が組まれ、鑑賞してきました。

国指定重要有形民俗文化財の歌舞伎舞台で上演され、村民で作る千葉之家花駒座、出し物は車中で学習。
「玉藻の前 旭の袂 道春館の段」近松の名作が古典芸能として伝承されているのはたいへん貴重なことという

宿で貸し出す座布団持参、入り口でオリジナルうちわをもらい、天候に恵まれ、楽しく鑑賞しました。
演技はすばらしかったです。格調高くて、よくぞまあ・・・受け継がれていることに感動しました。
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桧枝岐歌舞伎 「玉藻の前 旭の袂 道春館の段」
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桧枝岐歌舞伎 「玉藻の前 旭の袂 道春館の段」


桧枝岐の国指定重要有形民俗文化財の歌舞伎舞台

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あいづわくわく学園 法用寺三重塔・富岡十一面観音・高倉観音・左下り観音めぐり 会津美里町【6-2】

2013年08月15日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
法用寺三重塔・富岡十一面観音・高倉観音・左下り観音めぐり 会津美里町【6-2】


25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第6回の2は会津美里町の法用寺・富岡十一面観音・高倉観音
左下り観音をアップしたいと思います。
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

雷電山法用寺 三重塔
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法用寺は、寺伝によれば養老4年(702年)徳道上人によって創建・・・
恵寺(立木観音)(養老3年)に次いで会津では二番に古いお寺という
大同年間の火災で焼失、その後徳一大師が再建し、恵日寺の建立まで中心的な役割をはたしており、
多くの行者が住み33の坊があったという・・・

会津唯一の三重の塔で、第二層に飛騨高山の大工が明和5年(1768年)に描いた設計図版があるという
寺の創建以来再々建にあたり、新編会津風土記に1780年竣工と記載あり県重文指定・・・

観音堂内には、平安から藤原時代の作という仁王門の阿吽2体の木造金剛力士像が保存のため安置され、
厨子及び仏壇一具は1314年(正和3年)の銘が明らかな会津最古の厨子で、
金剛力士像2体と併せて国重文指定されています。

また、観音堂前には会津五桜のひとつ虎の尾桜があります。
雷電山という山号は、落雷があり平らかになった地に法用寺が創建されたことによるという・・・


日用山福生寺富岡観音堂 国重文指定


福生寺観音堂(富岡観音)は会津三十三観音霊場の第二十六番札所として広く信仰され
建立時期を示す棟札はないものの、文安3年(1146)の巡礼札が発見されており、木鼻や組物、粽柱等、
禅宗様を伝える会津中世建築の貴重な遺構として国重要文化財に指定されています

お堂内には像高約220cmの大きな十一面観音菩薩坐像が祀られているというが拝観は出来ませんでした。
隣接墓地内に四ツ目とよばれるキリシタン殉教者のお墓があります。・・・


高倉山観音堂


高倉観音は治承4年(1180年)後白河天皇の第2王子、高倉宮以仁王が平氏追討の命を受けて兵を挙げた時
守護仏である観音像を、その重臣、長沢大夫常春に下さったものを
この観音堂に安置したことから、そう呼ばれています。会津三十三観音霊場の第二十三番札所・・・
創建当時以来、何回かの移建により景勝の地を選び堂宇を遷し、現在の地にあるという
観音像は秘仏。お堂内の厨子の写真を撮らせてもらいました。


臨済宗左下山観音寺


左下り観音は会津三十三観音霊場の第二十一番札所。徳一大師の開山との云われもある・・・
建立以来1,000年以上といわれる左下り観音堂は、別名「くびなし観音」とも言われ、
山の中腹にある岩に懸造りした見事な三層閣で、廻りの縁から会津盆地が眺められました。

雨が降り続いた後で山道が川のようだったのを詰まっていた枝など払って流れを本流にもどし
先日来、熊情報が続いている地域でもあり皆で手を叩き、大声で歌って上りました。


史跡めぐり第6回の2は会津美里町の法用寺・富岡十一面観音・高倉観音・左下り観音・・・
天候が悪く国宝「一字蓮台法華経」拝観はなりませんでしたが「ころり三観音」の中田の観音はじめ
会津三十三観音のうち五観音をめぐったことになります。
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