12月3日は、地元の偉人である岡上景能公の321回目
の命日にあたります。
そして生前の偉業を後世に伝えるべく、毎年命日になると
岡上景能公顕彰祭を催しています。
景能公の残した業績の中で、私たちに最も身近に知られて
いるのが、地元に農業用水として今も残る岡登用水だと思
います。
景能公は、江戸時代に足尾銅山の代官として赴任してきま
した。着任後、間もなく足尾から利根川の渡船場まで銅を
運ぶ「あかがね街道」を整備しました。
足尾から沢入、沢入から花輪、花輪から大間々とそれぞれ
10キロくらいのところに中継地として宿場をつくり、銅蔵
をおきました。
ところが大間々の次は、笠懸野という荒野がつづき、次の
平塚まで22キロも宿場がなく、笠懸野に新たな宿場が必要
でした。
このようなことから、岡登用水を掘り、水を引いた最大の
目的は宿場で使うための用水だったといわれております。
の命日にあたります。
そして生前の偉業を後世に伝えるべく、毎年命日になると
岡上景能公顕彰祭を催しています。
景能公の残した業績の中で、私たちに最も身近に知られて
いるのが、地元に農業用水として今も残る岡登用水だと思
います。
景能公は、江戸時代に足尾銅山の代官として赴任してきま
した。着任後、間もなく足尾から利根川の渡船場まで銅を
運ぶ「あかがね街道」を整備しました。
足尾から沢入、沢入から花輪、花輪から大間々とそれぞれ
10キロくらいのところに中継地として宿場をつくり、銅蔵
をおきました。
ところが大間々の次は、笠懸野という荒野がつづき、次の
平塚まで22キロも宿場がなく、笠懸野に新たな宿場が必要
でした。
このようなことから、岡登用水を掘り、水を引いた最大の
目的は宿場で使うための用水だったといわれております。