葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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故北宏一朗さん講演記録其の五「大牟田爆発赤痢事件の真相」

2020年07月03日 | 化学兵器問題

大牟田爆発赤痢事件の真相
                                                               2017.9.6


 1937年の9月25日(土曜日)の夕方6時少し前に、福岡県大牟田市の三井鉱山三池染料所の工場で爆発がおこりました。

大牟田のあゆみ(昭和時代)

薄茶色の煙が出て、刺激臭が漂いました。風下ではバタバタと人が倒れました。それから真夜中の0時20分すぎにもう一度爆発がおこり、このときは火災もおこりました。皆病院にかけつけましたが、呼吸困難になり、下痢、嘔吐の症状でみているうちにどんどん死亡し、3日のうちに712名が死亡し、25,000人以上の患者がでたという事件です。当時の人口11万人という大牟田市での大事件でした。
 この時、大牟田の消防が工場にたちいろうとすると工場側に立ち入りを拒否されます。「自分たちで消火する」といわれるのです。そのときの工場の人たちは防毒着を着用し、異様ないでたちだった、といわれています。
 この大事件は29日の朝日新聞で「大牟田で悪疫150名死亡、阿鼻叫喚の状態」と報じられます。
 事件の翌日は日曜日で、27日の月曜日になって、軍がはいってきます。憲兵・福岡県衛生部が「赤痢禍調査団」と名乗り大牟田にはいってきます。この日に10万錠ちかい「赤痢予防錠」を市民に配布し始めます。28日には火葬場の火災もおこります。あまりに多くの死体を処理しようとしたため、ボイラーが加熱したのです。そこで公園に木材を並べて荼毘に付したのです。3日には憲兵隊が大牟田に分駐所を設置します。
 10月19日になって、内務省小島三郎が「大牟田の事故は集団赤痢」と発表します。
 これが経過です。三池染料は何をつくっていたのでしようか。この事件がおこったのは廬溝橋事件の2ケ月後です。陸軍が大久野島で毒ガスを製造していました。日中全面戦争が拡がり、毒ガスの需要が急増した時期です。三井染料は陸軍に毒ガスの原料となる中間剤を生産し、陸軍に納入していました。陸軍からの注文が増え、大牟田の工場でも増産に次ぐ増産をしていました。こんな時に爆発事故がおこったのです。毒ガスの爆発で大牟田市民がたくさん亡くなったのです。
 この事故を隠蔽するため、大牟田市の衛生局、軍、三井は、この事故は水源地の一部が割れ、赤痢菌が混入し、それが広がった集団赤痢だと発表します。事故から2日後に赤痢予防錠を配布するのです。この予防錠はどうして手に入れたのでしょうか。当時の陸軍軍医学校にいた石井四郎が満州事変のあと、赤痢のワクチンを作ろうと計画します。赤痢の予防錠といいますが、37年段階では効果は確かめられていません。どこかで実験をしなければなりません。この予防錠は36年までに24万人分をつくりました。それを全国の師団に配布したのです。大牟田には約10万人分の予防錠が配布されます。この予防錠は赤痢菌の株を乾燥させてつくります。この赤痢菌の株を市民に配布したのです。この錠剤を飲んだ人が次々に赤痢に感染し、25,000人が感染してしまったのです。
 この事故は「大牟田爆発赤痢事件」として知られていました。大牟田には「爆発赤痢事件」の犠牲者の慰霊碑まであります。そこには集団赤痢事件と書かれています。
 しかし、戦後、当時大牟田市の水道局の課長さんだった塚本さんのメモが発見されました。このメモによると、大牟田市の水源は深井戸から真空ポンプでくみあげていました。事故の前に大牟田港に停泊していた船にこの水を供給していましたが、何の異常もありませんでした。そもそも流水には赤痢菌は生存できません。このメモによれば、さらに9月25日の事故の3日前の22日にも三池染料の工場で小規模の爆発がありました。立ち入り調査をしようとすると、拒否され「はいったら死ぬぞ」といわれたそうです。
 戦後地元で「大牟田爆発赤痢事件研究会」がつくられ、調査がすすめられました。三井鉱山の工場で何をどのくらいつくっていたのか、調査しても三井鉱山の社史がありません。東京野方に三井の文庫があり、そこに未整理資料として「社史もどき」の文書があります。これが解明できれば、真相に近づけると思います。
 予防錠を即座に配布したのは軍です。この大牟田の事件の一年前の36年5月に静岡県浜松市で「毒饅頭事件」というのがおこっています。この年の5月11日の浜松一中の運動会で配られた大福餅を食べて2,250人が倒れ、45人が死亡したという事件です。この事件を調査したのは陸軍軍医学校の西利昭大尉と石井四郎の門下生の小島三郎です。
 三井の工場でつくられていたのはエチレンを原料とし、グリコールをつくりました。イペリットをつくるための中間剤です。これを三井の三池染料でつくっていたのです。大久野島の毒ガス工場は1932年に完成し、1934年には規模を拡大します。日本の毒ガス戦の先陣をきっていた久村種樹という人物がいます。1940年に退役し、予備役中将になっています。そして、翌1941年三井化学の顧問に就任しています。さらに1944年3月東洋高圧の社長になるのです。 軍と三井の密接な関係を示しています。陸軍は三井に注文をだします。まず試作品の作成を依頼します。これは教育注文ということで、言い値で買い取られます。これをもとに三井は設備を拡充します。そして量産するのです。
 まったくおかしいのは、集団赤痢ならば、赤痢菌の株は同一なはずです。最初の赤痢患者の菌がひろがるはずですから。しかし、大牟田の赤痢患者の菌株はずいぶんたくさんの株があるのです。軍医学校で大量生産した赤痢菌株がばらまかれたのですから、多種の菌株があるのです。集団赤痢でないことは明白です。ばらまかれた赤痢菌によって発症したのです。

【天皇裕仁が三井化学大牟田工場を行幸】

『昭和24(1949)年5月29日、昭和天皇が三池染料を御視察あそばされたときの状況。九州御巡幸11日目のこと、三井鉱山三川鉱業所を御訪問の後、三池染料工業所に陛下御来駕の栄に浴した。御着きになられた陛下は、榎本好文社長のご説明をお受けあそばされた上で、御休憩もそこそこにインジゴ工場、硫化ブラック工場など御車で巡察され、勿体無くも御車から降りられて、親しく従業員にお声をお掛けになられたということです。』

故北宏一朗さん講演記録其の四「神栖のいま」

故北宏一朗さん講演記録其の三「日本軍の毒ガス戦を下支えした軍需産業」

故北宏一朗さんの講演記録其の二「真鶴沖に捨てられた毒ガス」

故北宏一朗さんの講演記録「海軍の毒ガス製造」一周忌にあわせて発刊されました

(続く)

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