葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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靖国神社境内図から消えてしまった鎮霊社

2019年01月06日 | 歴史探訪<靖国神社>
ブログ記事「靖国神社の正月風景」に「神社全てが正月に相応しい飾り付けがなされているのに、鎮霊社と招魂齋庭跡だけには正月飾りが何もありません。この冷遇ぶりは何故なのか。」と書きました。

神社が発行してる「靖国神社参拝のしおり」に「境内のご案内」がありますが、鎮霊社、元宮、最初の招魂齋庭が説明されていません。
(東京歴史教育者協議会会長東海林次男さんの話によると、2016年6月以降鎮霊社と元宮は境内案内図からは消えているそうです。)
安倍晋三首相が靖国神社を参拝して時は、鎮霊社にも参拝したようでした。
鎮霊社への参拝が出来るように入口木戸もつくられました。
しかし、放火事件後警備上の理由で木戸が塞がれましたが、参拝希望者は警備員に要望すれば木戸を開けてもらえました。
最近は、その案内プレートも外されてしまいました。

神社元総務部長宮澤佳寬氏が「靖国神社が消える日」を著作しましたが、賊軍も合祀すべきだと主張した宮司の辞任、天皇を批判した宮司の辞任と、創建150年を迎えた靖国神社は、我々には分からないようなことが起きているように考えざるを得ませんね。

「靖国神社 参拝のしおり」から管理人が作図。


元宮と鎮霊社への参拝入口木戸



元宮

鎮霊社


二番目の招魂齋庭(奥に元宮の鳥居が見える)
(明治7年8月第二回の合祀祭に現在の社務所所在地あたりを招魂齋庭とした。同36年に拝殿南側に移した。)











管理人も編者の一人である「学び・調べ・考えよう フィールドワーク 靖国神社・遊就館 東京の戦争遺跡を歩く会編:平和文化刊」は、鎮霊社について次のように記述してある。
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本殿の南側の柵のなかに、元宮、鎮霊社があります。
1862(文久2)年、福羽美静(国学者)が中心となり、幕末維新の志士46人の「霊慰」のため、京都の福羽邸内に幕府の目をはばかってひそかに招魂の祠を建てました。これが靖国神社のルーツをなすということで、元宮といわれています。1931年、靖国神社に奉納されました。
 鎮霊社について、『やすくにの祈り』はつぎのように説明しています。
 「昭和40年7月13日、嘉永6年(1853年)以降、戦争・事変に関係して戦歿し、本殿に祀らざる日本人の御霊(みたま一座)と、1853年以降、戦争・事変に関係した世界各国すべての戦没者の御霊(一座)を祀る鎮霊社を、元宮南側に建立した。この中には‥‥‥官軍に敗れて会津若松の飯盛山で自決した会津藩白虎隊の少年隊や、‥‥‥西郷隆盛らも含まれる。また、諸外国の人々では湾岸戦争や最近ヨーロッパ・ユーゴのコソボ自治州での紛争犠牲者など全ての戦没者が含まれる」
 靖国神社が敵味方の区別なく、かつ諸外国の戦歿者まで合祀するのであれば、鎮霊社は不必要であるのに、あえてつくらざるを得なかったのは靖国神社の体質の弱点をそのまま放置できずにとりつくろう必要があったためと推測できます。つくられた時期は、遺族会や神社本庁が靖国神社国営化運動を推進中の、東京オリンピックの翌年でした。祭神名を書き記した名簿(霊璽簿)はなく、しかも参拝できないように鍵のかかった鉄柵のなかに小洞があります。拝殿・本殿とあまりにもちがい過ぎる小祠で鳥居すらありません。
 両小祠の東側に旧招魂斎庭跡があります。

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防衛省市ヶ谷記念館を考える会」共同代表で、立命館大学名誉教授赤澤史朗氏は岩波書店刊『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』で、鎮霊社は平和憲法の基で一時期に靖国神社が平和主義を求めた証左であると評価されています。
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 鎮霊社の創建
 このうち靖国国家護持推進派は、戦死者を国の手で顕彰することで初めて戦死者に対する生き残った者の責務が果たされ、戦死の意義が公認されて死者が報われるという発想に立っていたといえよう。こうした死者に対する責任意識は、ある種の倫理観に基づいており、それは現在の日本の国家のあり方を批判し、それを匡そうとする使命感と結びついていた。その使命感は、国家護持推進派の場合には、「英霊の顕彰」によって、戦後の日本に失われている「国家存立の根本たる道義確立をめざす」と表現されていた(「「新体制確立特別委員会報告書」から」、『日本遺族通信』二五〇号、一九七一)。つまり「殉国」を顕彰することが、国家の「道義確立」の基本なのである。
 ただし、こうして「殉国」中心の「道義」ということになると、この「道義」は国家への献身を讃美するもので、その国家に刃向かった者や国家との雇用関係のない一般民間人戦災死者や、特にかつて敵国に属した戦死者の「慰霊」とは、無関係なものとならざるをえない。ところが靖国神社では一九六〇年代中葉に、靖国神社の祭神でないこれ らの「御霊」の「慰霊」のために、別の小祠を境内に創建しているのである。一九六五年七月一三日に創建された鎮霊社がそれである。鎮霊社の祭神はすべてその名が特定されない祭神であり、その祭神は二座に祀られており、その一座に祀られているのが、嘉永六年(一八五三)以降の「幾多の戦争・事変に起因」きながら「靖国神社に祀られざる諸命の御霊」(これは日本人の祭神であろう)であり、もう一座が同じ時期の「幾多の戦争・事変に関係ひて死没にし諸外国人の御霊」である(『百年史』上)。一八五三年はペリー来航の年であったが、鎮霊社に祀られているのは一九六二年(昭和三七)までの「御霊」であるという(田中丸勝彦、二〇〇二)。
 祭神の死没の時期だけを限定して、将来にわたってその祭神を特定する意思を持たない無名の「御霊」を祀る神社というのは、神道の伝統に反するものであろう。靖国神社がなぜそのような異例の小祠を創建したのか、特になぜ、おそらくは賊軍として殺された者や、日本人に殺された旧敵国人を含むと思われる「諸外国人の御霊」まで祀ったのか、その動機は明確には示されていない。ただこの鎮霊社は、一九六三年秋に「欧米視察旅行で無名戦士の墓などを巡拝」した筑波宮司が、帰国直後にその創建を強く主張して、それが一九六五年になって実現したものといわれている(秦郁彦、二〇〇三)。この筑波宮司の「欧米視察旅行」とは、単なる視察でなく、前述の核兵器禁止宗教者平和使節団の一員としての行動をさすものであったことは、間違いない。つまり鎮霊社の創建は、靖国神社側が宗教者の平和運動に参加した唯一の機会と結びついていたのであり、そこにはおそらく、賊軍・敵国人まで祀ることで戦後の靖国神社の平和主義を深化させようとする筑波宮司の意思が存在したものと思われる(本書一六九~一七〇頁参照)。そして従来から一般民間人戦災死者も「慰霊」している「みたままつり」の期間に合わせて、鎮霊社の鎮座祭がおこなわれたのであった。
 もしこの鎮霊社での「慰霊」に大きな位置づけを与えるなら、靖国神社における「慰霊」顕彰の内容は修正されざるをえないだろうし、それは靖国神社自体の内部改革の可能性をはらんだものともいえる。しかし鎮霊社は、社報『靖国』にも報じられないままコッソリとその鎮座祭がおこなわれたのであり、靖国神社国家護持推進派の「殉国」の観念や国家的「道義」の概念には、変化を与えるものではなかったようである。実際にその後毎年、「みたままつり」に合わせて鎮霊社祭典が挙行されているが、創建時の祭典を除いて神職のみによる祭典であり、他に参列者はいない模様である。広く戦争の死者を「慰霊」する鎮霊社は、後に靖国神社国家護持論に対する批判が強まる中で、靖国神社の側からその存在が喧伝されるようになるが、実際には国家護持推進派にとってはもとより、靖国神社自身にとっても位置づけの唆味な小祠に化してしまうのであった。

(本書一六九~一七〇頁参照)の部分
平和主義の残存
 しかし一九六〇年代の靖国神社の中には、依然として独自の立場で「平和」を念願して、「殉国」と「平和」を結びつけた「慰霊」を考えようとする方向も存在していたのである。それは例えば一九六三年に靖国神社の筑波藤麿宮司が、核兵器禁止宗教者平和使節団の一員として欧米一三ヵ国を歴訪した、これまでにない行動にも見られるものであった(靖国神社宮司筑波藤麿「「靖国」第一〇〇号記念号に寄せて」、『靖国』一〇〇号、一九六三)。核兵器禁止宗教者平和使節団とは、一九六一年に社共が主導していた原水協の政治的偏向を批判して発足した右派系の核兵器禁止平和建設国民会議(いわゆる第二原水協)が取り組んだもので、この国民会議の代表委員である立教大学総長松下正寿を団長にして、日本宗教界の各宗代表者が欧米諸国首脳と会見し、核兵器禁止と世界平和実現を強く訴えるという趣旨で実現したものであった(立正佼成会、一九八三)。
 その筑波宮司は部分核停条約の調印を「平和共存への第一歩」と積極的に評価し、訪問した各国の戦没者の墓などに参った感想として、靖国の祭神を始めとする世界の戦没者の「神々」は、「世界平和」を「念願」する存在なのであり、「それぞれの宗教的行事の相違や、人種的差別を乗り越えて」、今も「世界平和」のために「活躍」しているのだとの意見を述べるのだった(宮司筑波藤麿「年頭の御挨拶」、『靖国』一〇二号、一九六四)。
 ここには国境を越えた「平和」擁護こそ、戦没者の「念願」であるという理解がある。また、筑波宮司は一九六五年の「年頭の御挨拶」の中でも、「大東亜戦争」を始め戦争をする各国は、とかく自国の戦争を防衛戦争として「説明」するが、「如何なる理由にせよ話し合いで事を解決し、実力に訴える事は極力さけるべきであります」と述べるとともに、広島での被爆によって現在も「毎日を苦しんで居られる同胞のあることを考えて」、けつして戦争をしてはならない、日本は「世界平和」の「指導者」にならなけれ ばならないとし、「世界平和」のための「英霊の御加護」を祈り願うのであった(『靖国』一四号、一九六五)。

・・・・・・・・・・・・・・

(続く)

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