石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争32 白虎隊の自刃1

2019年02月24日 | 会津の歴史
 


白虎隊の自刃 1 

 会津古城研究会長 石田明夫 

 1868年8月23日、会津藩白虎隊の篠田小隊は、飯沼貞吉が書いた『顛末記』によると、戸ノ口原で西軍に敗北したあと、北側に後退し、前日夕方までいた新選組と交代した菰土山の陣地跡に寄りますが、戦死者のみで誰もおらず、さらに、上強清水の集落に行くと、会津藩の戦死者が多数横たわっていたという。そして、強清水から食糧基地だった会津若松市湊町赤井の小坂を目指したのです。白河街道の赤井の一里塚を通り、食糧基地の小坂に行ったものの、誰もおらず、食糧もなかったのです。そのため、城に戻ろうと広場のある小坂地区南の地蔵前にあった芝の広場で休んでのです。時間は8時から9時頃。そこで、16人であることを確認しました。そして、地蔵の前にあった石の窪みに誰かが持っていたおにぎりを置き、水を加えて皆で食べたのでした。それから、城を目指して西の赤井山(金山)の尾根を進みます。
 途中、山内小隊や原田小隊の人たちの中には、白河街道の沓掛峠に行こうとした人がいましたが、敵が多くいたので、小坂の食糧基地に戻り、赤井山から背炙りを目指し、城下に入ろうとしたのです。中には、滝沢峠を下った会津藩士もいました。金堀の山神社南には、「十一人之墓」があり、金堀の滝沢峠には湊町下馬渡村人が建てた「十八人之墓」があります。戦死者の名は、西軍が罪人扱いをしたので名を入れることは許されず、戦死者慕とだけあり、地元住民が建てたものです。ここで戦死したのは誰かは不明です。23日朝、滝沢峠の下にいた指揮官の佐川官兵衛は、峠を下る藩士を戦わせるため押返そうとしたものの追い返せず、滝沢峠を下った者は多数いたようです。
 篠田小隊は、小坂の地蔵前から山中の尾根道を進むと、途中の分かれ道で道に迷ったことから、城に行く東山方面には出ないで、滝沢峠のある飯盛山方面に出たのです、麓まで来ると、滝沢峠を下る軍隊に遭遇します。そこで、服装が上下黒の洋装であったため、敵も味方も見分けがつかず、軍兵に敵か味方か合言葉を掛けます。合言葉は「山」「川」の可能性があります。しかし、兵は応答せず、西軍だったため銃を向け撃ち出し、永瀬雄次が腰を撃たれたので、南の飯盛山へ逃れます。一説には、永瀬はここで戦死したともいわれています。負傷者がいたので飯盛山頂へは逃げられず、洞門に入ります。当時の洞門は、長さ約140メートル、現在は掘り直され入口は異なり、コンクリートで高さ180センチ、長さ180メートルありますが、飯盛山の出口は白虎隊が出た当時と同じ場所になります。洞門前の厳島神社前でしばし休憩をします。朝の10時頃です。砲撃音と煙が見えるので、さらに進むと、砲撃音と城下の大火災が目に入ります。そこで、もっと良く見ようと滝沢集落の墓地の上に進みます。野村駒四郎ら一同足を止めて議論を始めます。『顛末記』によると
「野村駒四郎、進みて曰く、滝沢街道の敵軍を衝き、たおれて後に止んと。井深茂太郎(もたろう)いわく、若松城は古の英雄蒲生氏郷の築ける名城なり。今や焔は天を焦がすとも決して城落たるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るがごとしと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う。」
と、駒四郎は敵を衝こうとし、茂太郎は城に入ろうと意見したという。

 写真は、滝沢峠を下ってきた西軍と遭遇し銃撃戦となった滝沢峠分かれ道。白虎隊は下に下り、戸ノ口堰の用水路ぞいに進み、飯盛山の洞門に入ったのです。現在の飯盛山洞門入口。


会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ