石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争21 越後長岡・会津藩の戦い3

2018年04月30日 | 会津の歴史


越後長岡・会津藩の戦い3

 会津古城研究会長 石田明夫  

慶応4年(1868)5月19日『衝鋒隊戦記』によると、会津藩家老一瀬要人(かなめ)と旧幕府軍衝鋒(しようほう)隊の古屋佐久左衛門、ガトリング砲を操った長岡藩家老の河井継之助(つぎのすけ)ら僅か50人での奮戦もむなしく、西軍に長岡城は奪われました。6月2日、東軍は、新潟県見附市の今町の戦いで反転攻勢に出て、長岡城奪還作戦を開始します。なお、長岡城は、現在の長岡駅付近にあった平城で、遺構は戊辰戦争や第二次瀬下大戦の空襲で焼失したため残っていません。
 7月24日夕方『長岡藩戦争之記』によると、長岡藩は、西軍が攻めてこないと踏んでいた八丁沖の湿地を「深田沼川ノ中ヲ潜行シ」と進み、翌日長岡城を奪還したのです。この戦いで『河井継之助伝』によると、継之助は、腰掛けていたところを西軍に左膝下を狙撃され、重傷を負ったのでした。これにより、一時士気が低下し、直ぐに弾を取り出すことはできませんでした。
 7月29日西軍は、体勢を立て直して反撃し、武器補給の無い長岡藩は、西軍の攻撃に耐えられず再び長岡城は陥落したのです。そして継之助は、東の会津へ向かうため県境の八十里峠を目指したのです。八十里峠とは、江戸時代の一里とは異なり戦国時代の一里六丁(654メートル)時代の換算距離の峠です。この峠を越える時、継之助は、悔しさを詠んだ「八十里 腰抜け武士の 越す峠」を残しています。
 会津藩の只見に入った継之助は、会津城下より来た松本良順の診察を受けますが、傷口の治療が悪かったので破傷風に掛かり、手遅れとなっていました。そして8月16日只見町塩沢の矢澤宗益宅で42歳にて亡くなりました。継之助の葬儀は、会津城下でも行われ、小田山下の建福寺に墓があります。

写真は、只見町塩沢にある河井継之助墓

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