石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原8  景勝・兼続最後の砦、向羽黒山城

2007年09月17日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続8、兼続・上杉景勝最後のとりで「向羽黒山城」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津美里町本郷 会津若松市の南西に位置 磐越道会津若松ICより20分

060924_064_1 永禄11年(1568)16代葦名盛氏が8年歳月をかけて築いた山城。葦名氏は、黒川城(現在の若松城)が居城。いざ戦争があると山城の小田山城に立て籠もることになっていましたが、小田山城は、黒川城に近いことや、敵が小田山城を占拠した場合、黒川城ひとたまりもないことから(事実戊辰戦争では小田山に新政府軍が陣取り大砲を撃ち込まれ甚大な損害を受けています)最後の砦となる山城を6キロ離れた向羽黒山城にしました。面積は50ヘクタールあります。葦名氏の隠居城ではなく、本格的な山城で、伊達政宗が6ヶ月かけて大改修し、蒲生氏郷も2年、上杉景勝も2年かけて大改修しています。今の姿は、上杉景勝の手によるものです。石垣は蒲生氏郷が築いています。大きな竪堀と竪土塁は、上杉景勝が居た朝鮮半島の倭城を模したものです。慶長5年(1600)の関ヶ原で上杉は石田三成方であったことから翌年に、この城や神指城を破城し、米沢に移りました。

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