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【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ アイヌと縄文人(MSN産経ニュース)

2008-01-28 08:42:00 | アイヌ民族関連
【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ アイヌと縄文人(1)

2008.1.28 08:42

有珠モシリ遺跡から出土した成人女性人骨の腕にはめられていた貝の腕輪(伊達市噴火湾文化研究所提供) ■列島独立、独自の歩み始まる

 

大陸と分裂

 頭蓋骨(ずがいこつ)の形態を検証した前回、縄文人と北海道アイヌが遺伝的に近いことに触れた。多くの現代日本人が、弥生時代以降に大陸から渡来した集団の影響を強く受けているのに対し、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。そこで、縄文以降の北海道を中心とした地域でどんな動きがあったのか、検証してみたい。

 縄文以前、後期旧石器時代の約2万~1万8000年前は「最終氷期」で最も寒冷な時期で、海水面は現在より約100メートル下がっていた。このため、大陸とサハリン(樺太)の間の間宮海峡、サハリンと北海道を隔てる宗谷海峡はいずれも地続きだった。現在、最大水深が約450メートルある津軽海峡は幅約10キロ(現在の半分)に狭まっていた。つまり、当時の北海道は大陸から細長く伸びた半島の先端だったのだ。

 細石刃の流入にみられる北からの文化的影響、ひいては集団の移動も、この最終氷期に起こったとみられている。その後、急激に温暖化が進み、縄文時代が始まる約1万3000~2000年前にはほぼ現在の日本列島の姿が出来上がった。

 「縄文以前に日本列島で発展した(ナイフ形石器など)石刃文化の源流はシベリアなど大陸北部」と、シベリアで調査を進めている木村英明・札幌大教授は話す。「石器を駆使して狩猟する文化は北の厳しい自然の中ではぐくまれた。アムール川流域・サハリンと北海道は一体の文化圏だったとみていい。しかし、縄文時代に入ると日本列島は大陸から切り離され、独自の文化を形成していった」


 定住生活の中で生まれた縄文土器や大規模な貝塚、計画的集落などの縄文文化は、縄文早期(約1万~6000年前)以降、北海道にも広まる。しかし、サハリンなどに類似したものが少ない。また、千島列島では択捉島で縄文土器が出土しているが、得撫(うるつぷ)島以北では確認されていない。「海の幸が豊富で、採集に適した多様な植物に恵まれた日本列島と違い、寒冷なシベリアでは狩猟中心の生活が続いた」と木村教授は指摘する。

 

北方文化の痕跡

 日本列島が独自の歩みを始めていた縄文時代早期中ごろ(約7500~7000年前)、北海道北東部に「石刃鏃(せきじんぞく)文化」が広まった。石刃鏃とは薄い石の剥片で作った弓矢の鏃(やじり)。旧石器時代以来の伝統的な石刃技法を用い、縄文時代の一般的な鏃より細長い。大陸でアムール川流域を中心にバイカル湖周辺、サハリン、モンゴル、華北に広く分布し、大陸系文化の色彩が濃い。

 北海道で最初に確認されたのは浦幌町新吉野台遺跡。昭和9(1934)年、小学校教員だった斎藤米太郎氏が発見し、大陸系の石刃と縄文土器が共存していたことで、当時の学界に衝撃を与えた。石刃鏃はその後、オホーツク海沿岸、十勝・釧路地方、さらに旭川市など北海道の約135カ所の遺跡で確認されている。また少数だが、青森県でも見つかっている。

 木村教授は「約7000年前までの石狩低地帯から東の北海道は、バイカル湖周辺からサハリンにかけての地域と依然として一体性を保っていた」と話す。サハリン南部のタコエII遺跡などの石刃鏃は、北海道産の黒曜石から作られた可能性が高い。サハリン西海岸のポリエーチェIV遺跡で発掘された土器は、新吉野台遺跡などの土器と類似の紋様を持っている。


 石刃鏃にみられるシベリアと北海道縄文人の交流は、両者の強い文化的結びつきをうかがわせる。では、人的な交流はどの程度あったのだろうか。木村教授は「石刃鏃文化は短期間で本州の縄文文化に取って代わられるため、北方からの大規模な集団移動は考えにくい」と否定的だ。

 

道南と東北

 渡島半島を中心とする道南部は、津軽海峡を挟んで東北地方北部と同じ文化圏を形成し始める。福田友之・青森県立郷土館副館長は「丸木舟で頻繁に交流が行われ、津軽海峡は両岸を隔てるよりつなぐ役割をした」と言う。

 北海道伊達市の有珠モシリ遺跡では、縄文晩期の成人女性2体の腕に、ベンケイガイとオオツタノハガイ製の貝輪がはめられていた。オオツタノハガイは、生息圏が九州の五島列島以南と伊豆諸島の八丈島以南に限られている。発掘にあたった大島直行・同市噴火湾文化研究所長は「対馬暖流が北上する日本海沿岸を伝い、九州から運ばれた可能性が高い」とみる。

 縄文中期以降に出現するのがヒスイだ。北海道千歳市の美々IV遺跡では、26基の墓などから97点のヒスイ製品が発見された。「北日本の縄文人にとって最高の装飾品」(福田副館長)といわれるこの品も、日本海ルートを実証している。産地分析されたヒスイのほとんどが、新潟県糸魚川産と判明したからだ。福田副館長は「ヒスイ製品は東北南部より北部に多い。青森県域が北海道への中継拠点の役割を果たした」と分析する。


貝の腕輪やヒスイの勾玉は、アイヌの祖先とみられる北海道縄文人と本州縄文人が活発に交流していたことを物語る。津軽海峡はその結節点だった。弥生時代以降、両岸関係は変化し始める。次回はその歴史をたどることで、縄文人とアイヌのつながりを考える。(牛島要平)



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