
先日、レポートした、北関東大回り乗車の旅で、八高線という路線に乗りました。
今日は、その八高線について、もう少し詳しく書きたいと思います。

八高線という名は、東京都八王子市と
群馬県高崎市を結ぶことから付けられました。
営業区間は八王子駅 - 倉賀野駅間の92.0km。
昭和9年に、東海道本線方面と上越線方面の軍事輸送を
都心から迂回する目的で建設されました。

本来の起点は八王子駅ですが、
この日は、終点側の高崎駅から乗車しました。
一つの階段に、3つの番線?

あれれと思うかもしれませんが、
八高線のプラットホームは、
高崎駅の4番線の一部を切り込み、作られています。

高崎駅の3、4、5番線のプラットホームには、
駅そばがあって、とてもいい感じ。

この日のお昼は、
冷やし豚天ほうれんそうそばと
ミニカレーです。

八高線のホームからは、
今では、ここと大井川鉄道くらいでしか見れない、
旧型客車は見ることができます。

ちょっと、向きを変えると、
高崎駅の「0番線」
上信電鉄の電車も見れます。

そんな、マニアには見所満載の高崎駅から
2両編成のディーゼルカー
キハ110に乗って、出発します。

出発するとすぐに、右に上信電鉄の車庫が現れます。

左には、JRの車両基地が見えます。
右を見るか?左を見るか?
思わず、目移りしてしまいます。

少し進むと、左には高崎機関庫が見えます。
ここには、特別なイベント時にだけ走る
貴重な機関車が数多く所属しています。

一つ目の倉賀野駅で、高崎線と分岐し、
単線非電化区間に入ると、
とてものどかな風景が続きます。

上越新幹線の線路が見えて来ました。
新幹線の線路って、何処までもまっすぐで気持ちいい。
私も新幹線の線路のように、まっすぐありたい。
そんな事を思わず考えてしまいます。

最初の交換駅は、児玉駅。
オリジナルカラーのキハとすれ違いました。

このあたりは、秩父連山などが見れます。
まだ、初夏だと言うのに、なんとなく、空は秋模様。

綺麗な空って、なんだか、
心を癒してくれますね。

そんな事を言っているうちに、
列車は、秩父鉄道と東武東上線の乗り換え駅、
寄居に着きました。

寄居駅を出ると、
列車はすぐに利根川を渡ります。
水はとっても綺麗なエメラルドグリーン。
このあたりでは、ラフティングができるそうです。

車内には、午後のまどろみが
ゆっくりと時を刻みます。

半径250メートルの曲線と20パーミルの勾配で標高150.6mの峠を越えて
竹沢駅に到着。改札口を良く見ると、ちょっとした図書館が見えます。
いったい、どんな本が置いてあるのでしょうか?

東武東上線の線路が寄り添い、
複線のような区間を過ぎると、

東武東上線の乗り換え駅、
小川町に到着します。

八高線は、寄居、小川町、越生と
3駅で東武線と接続します。

小川町の駅待合室は、
昭和の待合室と言った感じ、

単線の線路は何処までも続きます。

八高線の沿線は緑が豊かです。

ログハウス風の駅は、明覚駅。

おばあちゃんが手を振ってくれました。

川越線の線路が近づいてくると、
ディーゼルカーの終点、高麗川駅はもうすぐです。

高麗川からは、電車に乗り換えます。
ディーゼルカーから乗り換える人が結構います。
今でこそ、乗換えが必要ですが、
昔は、八王子から高崎まで一本の列車で行くことができました。
大昔には、新宿から水上にいく「奥利根」という準急列車も走っていたそうです。

この日は、臨海線顔のレアな209系でした。

電化区間に入っても、
緑のトンネルの中を走って行きます。

このあたりは、狭山茶の産地で、
電車は、茶畑の中を進みます。

箱根ヶ崎で列車交換です。
こちらは、普通の顔の209系でした。

東福生のあたりは、米軍横田基地のすぐ近くを通るので、
アメリカのスーパーが見えたりします。
鉄条網のフェンスで仕切られた基地を見ると、
日本の中に、アメリカがあることを実感します。

横田基地が終わると、電車は拝島駅へ。
リンボーダンスのバーのような、
ホームドアがあります。

拝島を出ると、まもなくして列車は、
多摩川の鉄橋を渡ります。
この日はとても穏やかな景色でしたが、
終戦直後の1945年(昭和20年)8月24日
ここでは、列車正面衝突事故という、
痛ましい事故が起きています。
事故は、多摩川橋梁中央部において上り列車と下り列車
(両列車とも機関車1両、客車5両)が正面衝突し、起こりました。
衝突した列車の客車は川に転落。
少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認されました。
終戦直後の混乱期のため、列車は通勤通学客に復員兵や疎開先から
自宅に帰る人たちも加えて満員で、その多数の乗客が衝突により
多摩川の濁流に流されました。
当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水していたこともあり、
遺体が海まで流されて確認されなかった死者も
相当数いるのではないかと言われています。
実は、この日、たまたま隣に乗り合わせ、
仲良くなったおじいさんが、事故の犠牲者の遺族でした。
おじいさんの話では、自分が小学生1年の時に事故が起きたとか。
当時、日本は貧しく、まったく食料の無い時代で、
日本人は木の根っこや木の実を食べていたそうです。
そんな中、おじいさんのおじさんと子供が、
食料を求め八高線で買出しに行って、
事故に巻きこまれて犠牲になったと、話してました。
終戦で、やっと日本に帰ってきた兵隊さんが
事故にあって、本当にかわいそうだったと、
当時を振り返っていました。

おじいさんの話を聞いているうちに、
電車は、終点八王子に到着しました。
八高線では、東京周辺でここでしか乗れない
ディーゼルカーに乗り、自然を満喫できます。
皆さんも、八高線の旅に出てみませんか?
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