Kawolleriaへようこそ

日記・物語・エッセイ・感想その他

日記そのまま その⑧

2007-04-05 08:43:47 | 日記
 四時前に目がされて、ふとこんな言葉が浮かんだ「人はこのように(自分の銀行員生活のことであろう)生きるべきではない。不幸な者にとっての弁証法」、幸福な人間にとって弁証法は必要ではないという意味だが、いろいろ考えて眠れなくなった。
 昨日のフランス映画「薬指の標本」は、小川洋子原作ということで借りてきたのだが、原作を超える、とんでもない傑作かも知れないと思えてきた。日本的な感性はもっと曖昧だ。
 五時前に起床。相変わらず寒い、暖冬どころでない。さすがに眠い。
 文学の歴史は、ドン・キホーテを乗り越えていく、陵辱から守るのではなく、陵辱そのものを描き、やがては陵辱そのものに無感覚になる。羞恥心を失い、すれっからしになる。そこで近代文学は完結する。
 あらゆる困難を乗り越えて「エクリチュール論」に全力を尽くすこと、八月末を目標に。この日記と同様に、自分のライフワークだ。日記はその日を生きるために、「論」は残る価値があれば、他者のために。
 シナリオ教室で分かるのは、もう初歩の段階から、生の希釈が徹底していて、すべて上っ面、マスプロのために、大衆的な感性に収斂される

梶井基次郎論草稿 その4

2007-04-05 05:26:49 | エッセイ

 影は巧みに人間の仮像性をつく。月夜の砂浜でK――梶井自身か、畏友近藤直人の頭文字であろう――は自分の影を冷徹明晰な視線で凝視する。それもじっとしていてはいけないのだ。闇について「こんななかでは思考することもできない」と書いた梶井はただ目をこらして呪術的に、夢想的に影に見入るわけにはいかない。僅かずつ一歩、一歩、体を動かして微妙な気配を探るのである。しかも、徹底的に見る、影に没頭する。それは夢中で視るとか、貪り視るというのではない。徹底的に視るとは、現象的には確かめようもない、弁証法的な分析によって事後的にのみ、露わに出来る秘儀である。つまり、それによって完成されたべきものの目に見えない前提である。成就したとき、頂点に達したとき、始めて証明されるべきプロセスである。これによって、深きところから深きところまでの転位が保証されるような視線なのだ。その視線の徹底性の到達として、当然の帰結として、KからKの影へという、視線の偏向に逆らって、影からKへの遡行が突如として、事変として、なにものかの成就の告知として起こる。影の一般法則に逆らって影の自立化がもたらされる、同時に、Kが仮像化される。Kから影への転位!Kの傀儡がKを傀儡化する。Kは自分の影の呪縛に手も足も出すことができずに、遂に魂を抜き取られ、マリオネットと化す。

〈画像は道ばたのハナニラ〉