五時起床。目覚めたとき、いつも鬱状態、勤めているときはなかった、これが正常なのかも、健康・経済など老後の不安。もしかしたら、潜在的な死の不安か、意識的にはない。
『発心集』の覚醒のままの往生は、極度に張りつめたエクリチュールではないのか。それが時代を経て、覚醒を寧ろ異端視するようになる。それが本来のエクリチュールの姿なのであろうか。
自己の内に他者を見出した思想、あるいは法華思想からは、その通りであろう。法華経思想とは、信仰と欲望の物質化、エクリチュール化である。法華思想は意識の役割をほとんど無視する。意識における疎外について、生命と物質で社会的な解釈をなして納得する。鴨長明の『発心集』を書くという行為は、エクリチュールである、故に法華経的であるにもかかわらず、意識主義が綿々と息づいている。意識とエクリチュールの関係は一筋縄ではいかない。
〈画像は市川市内の某公民館前の裸像〉
『発心集』の覚醒のままの往生は、極度に張りつめたエクリチュールではないのか。それが時代を経て、覚醒を寧ろ異端視するようになる。それが本来のエクリチュールの姿なのであろうか。
自己の内に他者を見出した思想、あるいは法華思想からは、その通りであろう。法華経思想とは、信仰と欲望の物質化、エクリチュール化である。法華思想は意識の役割をほとんど無視する。意識における疎外について、生命と物質で社会的な解釈をなして納得する。鴨長明の『発心集』を書くという行為は、エクリチュールである、故に法華経的であるにもかかわらず、意識主義が綿々と息づいている。意識とエクリチュールの関係は一筋縄ではいかない。
〈画像は市川市内の某公民館前の裸像〉