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日記・物語・エッセイ・感想その他

日記そのまま その10

2007-04-11 05:58:05 | 日記
 五時起床。目覚めたとき、いつも鬱状態、勤めているときはなかった、これが正常なのかも、健康・経済など老後の不安。もしかしたら、潜在的な死の不安か、意識的にはない。
 『発心集』の覚醒のままの往生は、極度に張りつめたエクリチュールではないのか。それが時代を経て、覚醒を寧ろ異端視するようになる。それが本来のエクリチュールの姿なのであろうか。
 自己の内に他者を見出した思想、あるいは法華思想からは、その通りであろう。法華経思想とは、信仰と欲望の物質化、エクリチュール化である。法華思想は意識の役割をほとんど無視する。意識における疎外について、生命と物質で社会的な解釈をなして納得する。鴨長明の『発心集』を書くという行為は、エクリチュールである、故に法華経的であるにもかかわらず、意識主義が綿々と息づいている。意識とエクリチュールの関係は一筋縄ではいかない。

〈画像は市川市内の某公民館前の裸像〉

梶井基次郎論草稿 その10

2007-04-11 05:20:14 | エッセイ
5 おのれの沈黙

 重さを量るとは、対象からおのれへの一方的な働きかけを、聴き取ることと言って良い。
 辞書を引くと、「計る・測る・量る・図る・謀る・諮る」など、いくつもの漢字が当てはめられている。
 いずれも、おのれの沈黙を潜ませている。梶井が「つまりはこの重さなんだな」と呟くとき、私はそこに彼の存在論的な問いを聴き取る。