ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

インフルエンザに感染する

2024年01月11日 | その他いろいろ

昨年末の話だが、インフルエンザに感染した。昨年末に嫁さんが38度の熱を出した日があった。ところが市販の解熱剤を飲んだら翌日には平熱に下がった。嫁さんは健康体だから免疫力でインフルエンザ菌を抑えてのだと思うが、それが私にうつったのだろう。

そして、それから3、4日後に夫婦でゴルフに行った帰り道、車の運転がやけにつらかった。帰宅すると体中の関節が痛く、風呂に入って早めに寝た。この時点ではまだ発熱はない。夜中に熱はないが何か寝にくく、何回も目を覚ます。

翌朝も熱はないが、何となく熱が出そうな雰囲気があったので、その日は出かけず、家にいると昼過ぎに熱が出てきて椅子に座っているのもつらくなってきた。体温計をどこに置いたのか忘れてやっと夕方になって見つけたので計ってみると38度あった。

これはインフルエンザかコロナであろうと思い、急いで発熱外来のある病院を探して電話して見ると、休診日だったり、インフル判定キットが在庫切れで入荷の見通しがないとか、1日の発熱外来人数を制限していたり簡単には見つからず、やっと直ぐ来れば見てくれる医院を見つけた。

もう暗くなった午後5時頃、医院に行き、判定してもらうとインフルに感染しており、コロナには感染していない、とのこと。コロナとインフルと同じキットで同時に判定できるのは便利だ。コロナでなかったのはラッキーだ。医師から処方を受けた薬は次の3種類。

  • イナビル吸引粉末剤:インフル治療薬
  • トラキサム酸錠:喉の痛みを和らげる
  • アセトアミノフェン錠:解熱剤

イナビルは1回の服用で良いが吸引のやり方が複雑なので、薬剤師にその場で指導して吸引した方が間違いないので、薬局で吸引した。インフル治療薬は発熱してから48時間以内に服用しないと効かないそうだ。直ぐに医者に診てもらえて良かった。

あとの薬は4日分の処方で、帰宅して夕食を食べてから服用を開始した。先生に自己隔離は何日したら良いか質問したら2日と言われた。インフルは5類の感染症なので国は隔離を命令できないが、厚生労働省のHPでは発熱後3日から7日は外出を控える必要があるとなっている。個別には医師が患者の状況を見てケースバイケースで判断するのでしょう。

翌朝、まだ37.8度の熱だったけどかなり楽になった、昼食の時は36.8度になった。3時頃散歩に行ったら夕食時に37.1度になったので散歩はやめた方がよかったかもしれない。

発熱から2日後、朝から36.7度になり以後平熱に戻った。夕方、散歩の途中で薬局に行って解熱剤はもう服用しなくて良いか確認したところ、問題ないとの回答だった。なぜそんなことを聞きに行ったかというと、解熱剤処方時に服用中酒は飲めないと言われたらだ。これでは困る、クリスマスに酒無しではあまりに寂しい。酒を飲むためには努力を惜しまない。

私も健康体であるが、ゴルフに行って片道2時間近く運転して帰ると言うのはやはりけっこうつらい年令になったのかもしれない。ゴルフも運転も好きなので今までは良いゴルフコースに行くためには全然つらいと感じたことはなかったが最近は確かに長時間の運転だと集中力が続かないと思うときも出てきたので、そろそろもう少し近場のゴルフ場に限定しないといけないかもしれないと感じた次第だ。


陸奥宗光「新訂蹇蹇録(日清戦争外交秘録)」を読む(その3)

2024年01月10日 | 読書

(承前)

「第九章朝鮮事件と日英条約改正」から「第十三章領事裁判制度と戦争との関係」まで

  • 東学党の乱が起こった時、各国政府はそれほど関心を寄せていなかったが、日清両国が朝鮮に予想外の多くの派兵し、清韓がしきりに欧米各国に援助を要求した頃より俄に各国の干渉が出てきた。
  • 干渉の端緒はロシアより啓かれた、6月30日、在東京露国公使は日本政府に対し、朝鮮の内乱は収まったので日清両国の軍は撤退すべしと勧告してきた。陸奥は伊藤総理と相談し意見が一致し、それを閣僚とも協議し、聖裁を得て7月2日、ロシアに「朝鮮の内乱を醸成した根因いまだ除去できてなく、内乱もその跡を絶たざるものの如し、内乱全く平穏に復し将来何らの危惧がなくなれば軍を撤退する、また、日本は決して領土侵略の意図はない」と婉曲に勧告拒否の回答をし、その後のやりとりを経て7月13日にロシアは納得した。これはヒヤヒヤものの駆け引きであった。ここで判断を間違えていたら歴史はどうなっていたことかと回想している。
  • ロシアとの交渉で陸奥は清国について「従来陰険の手段を以て朝鮮の内事に干渉し表裏反覆の術策を施し、常に日韓両国を欺瞞した事例甚だ多いので、我が国政府は容易に清国の言行に信拠することができない」という認識を示している。
  • 次に干渉してきたのは英国、在日本英国臨時代理公使をして我が国に向い、清国は日本からの提案について再び商議する意ありと伝え、日本はこれに応諾し、某日、小村臨時代理行使が北京の総理衛門に赴き、清国の話を聞くと全く要領を得ず、英国の仲裁は失敗した。
  • 清国は北京で英国の仲裁を頼み、天津で露国の仲裁を頼むと言う後来の結果如何を顧みず別個にしかもほとんど同時に英露両国代表者と商議を開いた。元来清国政府は始めより外交上必須の信義を守ることを知らず、自家焦眉の急を救うに切なるために稚拙な外交手段を執り、遂に孤立の境界に陥った。この結果、朝鮮の形勢をここまで切迫に至らしたのは結局清国政府が陰険の手段と因循の方法とを以て諸事を遅延せしめたことによる。
  • 露国、英国からの相次いだ干渉について陸奥は、露国の底意は甚だ危険なりと読み、一方、英国は自国の言い分が絶たなければ兵力を持って干渉すべしとまでの決意を有するとまでは見えないと判断し、両国への対応を硬軟使い分けた。
  • 7月12日、陸奥から朝鮮の大島公使に、いつまでも不安定な状況を継続するわけにはいかないため、この際、日清の間に一衝突を促すのが得策と考え、今は断固たる処置を施す必要あり、外国から非難を招かない範囲で何らかの口実を用いて、速やかに実際の運動を始めろと電訓した。
  • 当時内閣の同僚と主だった人々も、最早、日清両国の間に一つの破綻を促すべきとの意見に格別の異論はなかったが、その開戦の根拠たるべき主義、方法に至っては議論なお多岐にわたり、高手的外交戦略は何人の同情も得られないと主張される。
  • 7月19日に陸奥は大島公使に「貴官は自ら相当と認める手段を執るべき、しかし、他国との紛糾を生じないように十分注意せよ、我が軍隊が王宮や漢城を囲むのは得策ではないと考えるので、これを決行しないことを望む」と訓電した。
  • 7月19日大島公使は韓地の形勢は最早陸奥の訓令に従いその方針を変改できない時期に達していたため、高手的方法を執る必要を感じていたので、我が国の要求を韓国政府に提出し、22日までの回答を求めた旨、陸奥に電稟し、その末尾にもし朝鮮政府が満足な回答をしない場合、同政府に迫りこの機会に乗じて大改革を行わせるつもりと付言した。
  • 7月23日の大島公使からの来電では、朝鮮政府の回答は不満足であったので、やむを得ず断然王宮を囲む強行手段を施したと述べた。
  • 同日午後の来電では、日韓争闘は15分で終了し、今は静謐に帰している、大島公使が大院君に面会し、国王から内政改革を任されたと説明を受け、以後は大島公使と協議することを約束した。この機会に乗じて韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐する委託を強手するに至った。
  • 牙山戦勝の結果、朝鮮政府は我が帝国の物となりとの快報一時に我が国内に伝播し、また欧米政府も日清の交戦実存の今日となっては容易に容喙干渉すべき余地なく、しばらく傍観の地位に立ちたれば、先に強迫手段を以て韓廷を改革することの可否や我が軍より先ず清軍を進撃する得失を論じた諸般の議論も、全国田舎に至るまで旭旗を掲げ戦勝を祝する歓声湧く中に埋没された。
  • 朝鮮を今後どうするかについて、まだ方針が決まっていなかった、陸奥は4つの選択肢を示し、乙案でどうかと考えた。乙案は将来朝鮮を以て名義上一個の独立国とするも日本は間接直接に永久もしくはある長時間その独立を扶植し、以て他の外侮を防ぐの労をとる。この4案を明治27年8月17日の閣議にかけたが、日清戦争継続中につき、結論は出なかった。
  • 日清開戦後、朝鮮の内政改革を進めていったが、これはほとんど失敗した。李鴻章から日本の勧告を拒絶すべしと脅しを受けていた。これを見て国民は失望した。
  • 黄海海戦勝利後、我が国国民は戦勝に驚喜し、高慢に流れ、将来の欲望が増長した。冷静な議論は卑怯未練として非難された。このような状況では国家の大計を誤る。諸外国も我が国の快進撃を賞賛するが、一方で嫉妬の感情が生まれてきた。

ここまで読むと、当時、朝鮮の内情は内乱が起っても自分で鎮圧できないほどの惨状を呈していたこと、日本がいくら言っても朝鮮は近代化を成し遂げるための内政改革をしようとしないことがわかる。日本は、この惨状は朝鮮のみに原因があるのではなく、朝鮮を属国と考え近代化を否定する清国にもあると考えた。

そして、この状況が継続し日清両軍が朝鮮で睨み合っていれば、他国の干渉も始まり状況は悪化するだけであり、最早、日清間に一つの破綻を促す決断をし、日清間で軍事衝突が起こり日清戦争となった。

蹇蹇録を読むと、日本は諸外国に対して朝鮮に対する領土的野心はないこと、朝鮮の独立と内政改革のために清国と協議をしたいと何回も表明しては清国から裏切られてきたと説明している。ただ開戦の直接のきっかけ作り(軍を動かし王宮を囲む、韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐する委託を強手)には陸奥と大島公使による独断と強引さがあったことは確かであり、それはほめられたことではないだろう。

陸奥としてはきれい事を言っても問題解決にならず、軍事的な威圧を以て交渉するというのも仕方ないと考えたのだろう。後の三国干渉もロシアの軍事的圧力の元での干渉に日本は受諾する選択肢しかなかったことも事実である。開戦すると日本の意外な連戦連勝により、このプロセスについては国内でも諸外国でも問題とならなかったのは結果オーライ的な面もあるだろうが、軍事的威圧の元での条約締結や干渉ということが当たり前の時代でもあったのだろう。

加藤教授は「陸奥外務大臣は軍部大臣ではないのですよ・・・」と陸奥が何でもいいから戦争のきっかけを探していたこと非難しているが、そこに至る過程では話し合いによる解決を何度も模索していたのは先に見たとおりである。また、昭和時代のように軍部が勝手に動きだしたのではなく、文民である陸奥がその考えを伊藤総理、閣僚と協議しながら開戦に至ったのであり文民統制は取れていたと言う意味で、陸奥の考えを批判するには当たらないと思う。

(続く)


映画「僕が宇宙に行った理由」を観た

2024年01月09日 | 映画

近くのTOHOシネマで映画「僕が宇宙に行った理由」を観た、シニア料金1,300円。2023年、監督平野陽三。今日はプレミアムシートの部屋だった。座席数が少なく、普通の部屋よりシートが大きく、となりのシートの間に20㎝くらいの幅のテーブルがある贅沢な部屋だ。20人くらいは入っていたか。

この映画は、日本の民間人として初めて宇宙旅行を成し遂げた実業家の前澤友作に密着したドキュメンタリー。前澤氏はご存知の通り、衣服の通販サイト(株)ZOZOの創業者で、ZOZOを上場会社まで発展させ、Yahooから買収提案を受けるとこれに応じ、持ち株を売却して2,400億円を手にし、経営者の地位を降りた人だ。

映画の中で前澤氏は「自分はゼロを1にする能力はあるが、1を100にする能力はないため、経営者を辞任した」と述べている。これは1つの見識であろう。ベンチャー企業を作り、新たなビズネスをはじめ、これを成功させるまでの能力と、個人企業から脱し東証一部に上場するほど大きくなった会社を維持・発展させていく能力とは別物であろう。その両方ができる人は少ないはずだ。その点で私は前澤氏に共感できる。

巨額の富を手にした前澤氏は、ベンチャー企業に投資するファンドを立上げ、もう既に10社以上のベンチャー企業に投資しているようだ。また、地元や災害地域に寄付をするなど慈善活動も多くされているようで感心だ。ワイン、高級車、現代アートのコレクターとしても知られている。これらのことをしてもまだまだ十分財産があるだろう。子供の頃からあこがれていた宇宙に行ってみたいという夢が叶う可能性があることを知り、実現に向けて計画を練り、一つずつ実行して、遂にその夢を実現させた。その過程をドキュメンタリーとして追ったものがこの映画である。

この映画を観ると、宇宙に行くための準備がいかに大変かよくわかる。先ずは宇宙に行けるだけの健康状態、精神状態になっているかの試験がある。これにパスしないとスタートラインに着けないが、これが簡単ではない。前澤氏は2回目で合格したが、同僚の平田氏は鼻の手術とか歯の手術とかをして何とか合格した。その後、無重力状態で活動ができるようになるための知識の習得、フィジカル面でのトレーニングが延々と続く。軽いノリで宇宙に行ってきます、というような簡単なものではなく、相当な覚悟と忍耐力、精神力、体力などが求められることがわかる。

今回、氏の宇宙旅行に協力したのはロシアのチームでロケットもロシア製のソユーズというのが皮肉だ。前澤氏が宇宙旅行に行ったのは2021年の12月、ウクライナ侵略がある2ヶ月前である。チームのリーダーはロシア人である。訓練の場所、サポートチームもロシア人中心だ。ZOZOの創業者だった頃から氏は戦争の無意味さを感じ、東証での上場セレモニーで鐘を叩くときも会社のメンバーとTシャツにNOWARと書いてアピールしていた。宇宙から美しい地球を観て、世界のリーダーはみんなここに来るべきだと訴えていたのに宇宙から戻ったら戦争が起こったとはなんたる皮肉か。

前澤氏のようなタイプの人間は一流会社に就職しても出世はできないであろう。しかし、氏が言うように、大会社で活躍する人とゼロから事業を起こして大きくする人は同じタイプの人間ではない。日本はもっと前澤氏のようなタイプの人もどんどんでてくるよう、考え方を変えていかなければいけないだろう。そのためにも前澤氏のような成功したベンチャー経営者の皆さんには、築いた財産を公益、慈善活動、その他世のため人のために積極的に使って、自らもその活動に従事するなどの貢献もし、世の中から尊敬を集め、若い人たちの憧れの存在になるよう活動してほしい。


2023年ミュンヘン旅行(その8)(2024/1/9追記あり)

2024年01月09日 | 2023年ミュンヘン旅行

(2024/1/9追記)

本日の新聞で、サッカーの元西ドイツ代表、監督を務め、選手としても監督としてもワールドカップ優勝を勝ち取ったフランツ・ベッケンバウアー氏が亡くなったと報じているのを見つけた。享年78才。ショックである。ご冥福をお祈りするとともに、素晴らしいサッカーを見せてくれて有り難うございました、と申し上げたい。下記投稿で触れたとおり、昨年のミュンヘン旅行で彼が所属していたFCバイエルンの本拠地アリアンツ・アリーナを訪問したばかりだった。

 

(以下、オリジナルの投稿)

今日は事実上、最終日の6日目。今日もミュンヘンを中心に訪問してみた。

今日の午前中の予定は11時からクラシック音楽コンサートを聴きに行くことだが、それまでの時間で街の中でまだ見てないところを少しだけ歩いてみようと思い、トラムに乗って街の一番東側のイーザル門まで行ってみた。

結構立派な門で、初日にみたカールス門のちょうど反対側の門になっている。この門を見ながらそこから市の中心街に伸びる道を歩き、朝の街の雰囲気を味わった。しばらく歩くと市庁舎のあるマリエン広場に出た。そこから今日のコンサートのあるミュンヘン・アーティスト・ハウスまでトラムを1区間だけ乗った。

11時からのコンサートの模様は別投稿で書くつもりだが、今日は雰囲気だけでも伝えたい。実は、滞在中に青木尚佳さんがコンサートマスターとなっているミュンヘンフィルの公演が聴ければ良いなと思って探したが、それは無く、ミュンヘンフィルのメンバーによる室内楽コンサートがこのアーティスト・ハウスで開催されるというので、そちらに行こうと思い、日本でネット予約した、値段は1人24ユーロ。

11時から1時間半の小コンサート。このアーティスト・ハウスというのも古い由緒あるところで、室内は贅沢な内装の倶楽部というかサロンという感じの小ホールだった。ゴダーイ、ドボルザークの、バイオリンとチェロの二重奏曲と弦楽四重奏曲2曲が演奏された。我々以外は全員白人だった。古いホールなので外を走る救急車のサイレンの音が聞えたりした。

コンサート終了後、どこかで昼食と思い、ミュンヘン中央駅までトラムで移動して、グーグルマップで検索してバイエルン料理店に入ってみた。昼時を過ぎていたせいか直ぐに入れて、店員にお勧めを聞いて、おいしく頂いた。

さて、この後の今日のメイン・イベントはサッカーのFCバイエルンの本拠地、アリアンツ・アリーナのミュージアムとスタジアムのガイドツアーの参加である。スタジアム最寄りの駅まで地下鉄で30分くらい、そこから歩いて15分くらいかかる。

到着して先ずはショップに寄ってお土産を物色する。私はキーホルダーとゲルト・ミュラーの背番号の着いたユニフォーム、そして帽子と決めた。

その後、ミュージアムに入り、欧州カップなどの優勝カップ、表彰盾、ユニフォーム、歴代のチームの戦績などの展示を見たり読んだりした。FCバイエルン(バイエルン・ミュンヘン)と言えば、私の場合、なんと言ってもフランツ・ベッケンバウアーだ。

ちょうど高校生の頃だったと思うが、サッカーに熱中した。その時、以前も紹介したがテレビで三菱ダイヤモンドサッカーという番組があって、欧州サッカーの試合を放映していた。その中でも特に印象に残っているのがベッケンバウアーだ。彼のアウトサイドキックによるイマジネーション豊かな、かつ、華麗なパスに魅せられた。サッカーをやっている誰もがマネした。その彼と一緒にプレーしたミュラーなどが記念館の中のHall of Fameメンバーとして大きく展示されていた。ベッケンバウアーが西独代表メンバーとして活躍した1974年ワールドカップ決勝戦の模様はDVDに録画して保存している。

その後、いよいよスタジアムのガイドツアーだ。ここも英語コースを選ぶ。時間は1時間、値段はミュージアムと合わせて22ユーロ。20人くらいが参加。中国人か韓国人と思われる人が3,4人いた。毎15分ごとに予約時間が設定されており、人気があるようだ。


(写っている人はガイド氏、掲載ご容赦)

まず、スタジアムに入り、客席からスタジアム全体を見ながらスタジアムの概要を聞く、建設当時バイエルン本拠のチームが2つあったが2つスタジアムを作るわけにはいかないので共同のスタジアムとしたとか、声が良く響くスタジアムだとか、VIP席やスポンサー席、その値段(その年間料金が1千万以上と言うからすごい)とかいろんなことを教えてもらう。


(グラウンドにあるピンクの機械は人工太陽)

別の角度からの座席に移り、芝の育成方法、人工芝が5%入っている理由とかドーム型で天井が開いているので雨や日光が当たる部分に差が出るのでその対応とかいろいろ聞く。

その後、ロッカールーム、プレスルーム、選手が試合開始前に入場待機する場所、ベンチ、ベンチ前のグラウンド脇などに案内され、みんな写真を撮りまくった。

このガイドツアーというのは海外旅行の時は大いに活用すべきだと思う。歌劇場やサッカー場だけでなく、国会議事堂のガイドツアーにも参加したことがあるが面白かった。


(銅像はゲルト・ミュラー)

このアリアンツ・アリーナの外観はガイド氏の説明では200色以上のカラーにライトアップできるという。バイエルンの試合のある日はチームカラーの真っ赤になるが滞在中は試合はなかったのが残念。クリスマスの時はクリスマスカラーになると言っていたし、また、スポンサーのマクドナルドのようにもなると言っていた。どんなふうになるのか見てみたいものだ。

ツアー終了後、もう一度ショップに戻り、決めていたお土産を買って、満足してホテルに帰った。この日の夕食はまたしても駅地下の肉屋のテイクアウトで鶏肉1羽の丸焼きとポテトサラダ、グリーンサラダ、ビールを買って、ホテルにに帰って食べた。大変おいしかった。肉屋がその場で捌いたり揚げたりして販売しているのでおいしいはずだ。この店はすっかり気に入った。

明日は帰国なので、荷物をまとめた後、ベッドに入った。

 

 

 

 


映画「M3GAN ミーガン」を観る

2024年01月08日 | 映画

AmazonPrimeで映画「M3GAN ミーガン」を観た。2023年、米、監督ジェラルド・ジョンストン、原題:M3GAN。

子どもを守るAI人形が引き起こす惨劇を描いたサイコスリラー。

おもちゃ会社の研究者ジェマ(アリソン・ウィリアムズ)は、まるで人間のようなAI人形「M3GAN(ミーガン)」を開発している。ミーガンは子どもにとっては最高の友だち、そして親にとっては最大の協力者となるようプログラムされていた。交通事故で両親を亡くした姪ケイディ(バイオレット・マッグロウ)を引き取ることになったジェマは、あらゆる出来事からケイディを守るようミーガンに指示する。しかし、ミーガンの行き過ぎた愛情は予想もしない事態を招いてしまう。

AIロボットは現時点で既に我々の生活に便益をもたらしている。一人暮らしの老人の話し相手になるロボットやファミレスなどで料理の配膳をするロボット、ホテルやゴルフ場のクラブハウスの床掃除ロボットなどいろんな場面で活躍しているのを目にしている。今後、この分野はサービス業や製造業などで一層普及していくだろう。

この映画はそれらのAIロボットが暴走して人類に悪影響を与えるリスクがあることを示したサイコスリラー映画であり、ハイテク分野で世界の最先端を行くアメリカらしい映画である。確かに、便利になる一方、運用の仕方を間違えると人類に危害を加えるリスクのあるAIやロボット、使い進めていくうちに想定外の事態も多く起こるだろう。しかし、先進国における少子化、高齢化の進行を考えるとAIロボットの更なる活用の余地は大いにあるだろう。

人は新しいものに対しては先ず拒絶反応を示す傾向がある。これは人間の知恵でもある。新しいもの、革新的なものに直ぐに飛びついて今までのやり方を全部変えてしまうことに対しては慎重であるべきであろう。しかし、試行錯誤して徐々にそういったものに慣れていき、文明の利器を最大限に利用しなければ立ち行かなくなるのも当然のことであろう。この時大事なのは新しいものに対して完璧主義で批判を加えるべきではない、ということではないか。

AIロボットとは直接関係ないが、飛行機だって100%の安全は保証できないが飛んでいる。100%の保証がなければ認めないという考えではイノベーションは起こらないで古いやり方のもとで衰退していくだけであろう。ここに日本人の弱さがあると思う。マイナカードもミスはあるが比率にすれば0.00・・%程度の発生率であろう。これを何件間違えが判明したとだけ報道するのは不安を煽るだけの情緒的報道で国民をミスリードしているだろう。

AIの運用も含め、安全性は合理的な範囲で保証されているということで納得しないと科学的とは言えず感情的反応といえよう。「安全だけど安心できない」と言って莫大な予算と時間の無駄使いをした知事がいた。日本人は情緒的な反応は結局は自らのクビを締めることになると悟るべきでしょう。

話が大きくなったが、AIロボットの時代が今まさに現実に進行している状況に警鐘を鳴らすものとして興味深い映画であった。

さて、今日は1月7日、正月に食べすぎ飲み過ぎで酷使した胃腸をいたわり、七草粥を食べた。


藤田真央「指先から旅をする」を読む

2024年01月07日 | 読書

先日買っておいた藤田真央著「指先から旅をする」(文藝春秋)を読んで見た。この本は藤田真央の2022年と2023年の2年間の演奏活動の記録である。上質な紙に藤田の文章とともに写真家の小野祐司氏らの写真が載っている。Amazonで見ると、このカテゴリーのベストセラー1位になっている。

このような形式の本は大好きだ。今までも先日亡くなった伊集院静氏の「美の旅人」シリーズ、作家浅田次郎氏の「サイマー」(競馬好きな氏が世界の有名な競馬場を訪ねる旅行記)など、興味のある分野の本を見つけると買ってきた。今回も池袋の本屋で偶然見つけ、良さそうなので買ってみた。

最近のクラシック音楽会での日本人の若者たちの世界を股にかけた活躍ぶりには目を見張るものがあり、感心してきた。藤田真央もその活躍している代表バッターの一人であろう。1998年生まれというから今年で26才になる若手で、既に18才でクララ・ハスキル国際ピアノコンクール優勝、2年後にチャイコフスキー国際コンクールで2位入賞など輝かしい実績を出している。

その藤田真央がこの直近2年間の演奏活動について、どういった思いで望んできたのか、どういう経験をしてきたのか、日頃どういう考えで音楽に向かい合っているのか、などについて書いたものが本書であり、一気に読んだ。

読んでみると、彼はなかなかしっかりした考えを持ち、若くて有名になりちやほやされることもあるだろうが自分を厳しく律して音楽に向き合っていることがよくわかる。人間だから時に傲慢になったりするが、巨匠からの指摘や自ら気付いて直ぐに軌道修正できるのはたいしたものだ。彼の技術や人柄により、出会って一緒に仕事をした芸術家やホールの責任者、マネージャーなどから次々と次の仕事を一緒にしないかとのオファーをもらう、素晴らしいことだ。

読んでいて若干心配になったことと言えば、

  • 彼も書いているが、グローバルに活躍している人は国を跨ぐ移動が多く、時差もあり、体調や気力の維持、調整が大変だ。現在は若いから何とかなるが、食事や体力強化に十分意を注いでもらいたい。そんなに強靱な体力の持ち主にも見えないし、食事も健康面を考えた内容になっていないように思える。その面でもアドバイザーも起用する必要があるのではないか。
  • クラシック音楽会の芸術家がどれだけの報酬をもらっているのかわからないが、なるべく稼いでもらいたい、大谷のように。まだ本人にはそんな発想はないだろうが、これもしっかりしたマネージャーをつけて条件交渉してもらいたい。そして、活躍の場が欧州中心だが、金が稼げるのはやはりアメリカではないか、もう少し名が売れてくれば、もっとアメリカも重視した活動を考えても良いかもしれない。

さて、本書を読んで興味を持てた事項を少し書いてみたい

  • 共演した指揮者のエッシェンンバッハから「カラヤンからモーツアルトの21番で共演したピアニストでもっとも印象的だったのはディヌ・リパッティだ」と聞かされる。藤田も以前はリパッティを良く聞いており、師匠の野島先生がいつも手元に置いていたレコードは1950年のブザンソン音楽祭で収録された最後のライブである。本書で作家の恩田陸との対談をしているが彼女も一番好きなピアニストがリパッティで、最後のライブは涙無しに聴けないと言っている。私も早速Amazonで注文した。
  • 藤田はモーツアルト好きであるのがうれしい。モーツアルトは困窮している中にも常に軽やかな楽しみを求め続けた人だった、オプティミストの自分はショパンよりモーツアルト寄りの人間だ。明るい音でみんなが幸せな気持ちになれたらそれも素敵なことだと述べているのも自分と同じ考えでうれしくなった。私は悲劇、悲恋、困窮などを題材にした音楽やオペラ、小説などはあまり好きではない。
  • また、藤田はシューベルトも高く評価しているが、これも自分と同じでうれしくなった。シューベルトのハーモニーは天才的だと述べ、今後彼のピアノソナタ20番や私の好きな4つの即興曲D899などに挑戦したいと述べているのもうれしい。私の大好きな曲だ。
  • 楽譜には出版社ごとにいろんな「版」があり、同じ曲でも音や強弱の指定がけっこう違ったりするので、どの版を選ぶかは演奏者にとってもっとも大切なこと。これは知らなかった。
  • 音楽をやる人はイメージ先行型(ロシアの大地の情景を思い浮かべて演奏するなど)と楽譜・理論先行型とがあるが自分は後者であると言っているのは興味深い。
  • 塩野七生の「ローマ人の物語」に言及しているが、若いのにそんな本を読んでいるとは感心だ。私もほぼ全部読んだが、もう1回手に取る気がまだおこらない。

今後のますますの活躍を期待したい。


映画「007スペクター」を観る

2024年01月06日 | 映画

テレビで放送していた「007スペクター」を大晦日の夜に観た。2015年、米、サム・メンデス監督、原題Spectre。観るのは2度目か3度目だが、冒頭シーン以外はあまり覚えていない。

スペクターはダニエル・クレイグになってから4作目である。私の評価は、

1作目:カジノ・ロワイヤル(マーティン・キャンベル監督、144分、興行収入6.2億ドル)・・・満点
2作目:慰めの報酬(マーク・フォースター監督、106分、5.8億ドル)・・・期待外れ
3作目:スカイフォール(サム・メンデス監督、142分、11.1億ドル)・・・及第点
4作目:スペクター(サム・メンデス監督、148分、8.8億ドル)

さて、今回はどうなるか。

ダニエル・クレイグ以外の主な出演者は、

  • M(MI6の局長):レイフ・ファインズ
  • Q(MI6の研究開発担当者):ベン・ウィショー
  • ルチア・ルキアラ(ボンドがローマで接触):モニカ・ベルッチ(ボンドガール)
  • マドレーヌ・スワン(女医、ホワイトの娘):レア・セドゥー(ボンドガール)
  • フランツ・オーベルハウザー(スペクターの秘密の鍵を握る男):クリストフ・ワルツ

ボンドガールの一人、レア・セドゥーの出演した映画は何本か観たが、なかなかかわいい女優だと思った。今回もかわいらしい感じのボンドガールを演じており、良かった。

映画の中でのいくつかのポイントとなるアクションシーンなどについて書いてみると、

  • 冒頭、メキシコシティで催されている「死者の日」、ボンドと亡きMからの遺言で得たスキアラ(アレクサンドロ・クレモナ)との格闘シーン、ヘリを使ったシーンだが迫力はイマイチだった、メキシコの雰囲気は007シリーズらしく良かった
  • 黒幕フランツ・オーベルハウザーの秘密会議に潜入するが見つかり、逃走、組織のヒンクス(デイヴ・バウディスタ)に追跡され、カーチェイス、これは結構迫力あって良かった。
  • 組織の黒幕だったホワイトの娘、医師のマドレーヌ(レア・セドゥー)に患者を装って接触し、情報を得ていく、マドレーヌと共に特急列車に乗り込んでスペクターの秘密基地に向かう時、車内でまたヒンクスに襲われ、危機一髪というところでマドレーヌに救われる。この列車内の格闘も迫力あった。
  • 秘密基地でボンドは拷問台に拘束されるが、腕時計に仕掛けてあった小型爆弾を起動させてマドレーヌに渡し爆発させて危機を逃れ、この混乱に乗じて基地全体を爆発した、この大がかりな基地爆発シーンだが、ありきたりのシーンに思えた。

この映画の専用サイトによれば、今回のスペクターのストーリーの売りは観客がボンドに感情移入できるような話をちりばめているということ。例えば、ボンドが所属する組織MI6が統合され、ボンドも時代錯誤な存在としてリストラされそうになるとか、マドレーヌと恋に落ち、彼女を守るために体を張った格闘シーンや、仕事と恋の間に揺れるシーンがあったりなど。しかし、感情移入なんて考えなくてもいいじゃないか。そんなことをしたら安っぽいアクションムービーになるだけだろう。ボンドは男の憧れであり、とても手が届かない存在の方が良い気がするがどうであろうか。

ボンドの愛車や彼が着用するアイテム。アストンマーティンDB10、オメガシーマスター、トム・フォードの高級スーツ。男の一流品しか身につけないボンド、そして、メキシコシティの「死者の日」、古都ローマ、冬のオーストリア・アルプス、モロッコと、風光明媚な地を訪ね、ボンドガールとかっこよく決める。こんなとこ行ってみたい、こんなことやってみたいと思わせる、それがボンドであり、人間くささを出したら逆効果じゃないかな。

今回のスペクター、私の評価はギリギリ及第点といったところか。

 

 


陸奥宗光「新訂蹇蹇録(日清戦争外交秘録)」を読む(その2)

2024年01月05日 | 読書

(承前)

「第一章東学党の乱」から「第八章6月22日以降開戦に至る間の李鴻章の位置」まで

ここでは先ず、ここに至るまでの関連する重要な点を記しておく

  • 1876年日韓修好条規:朝鮮が自主独立の国であることを認める
  • 1882年済物浦条約:甲午の乱後日朝で合意、公使館護衛の日本軍隊駐留権を認める
  • 1885年天津条約:甲申事変後日清間で締結、朝鮮へ派兵する場合の通知義務を規定
  • 1894年4月東学党の乱
  • 1894年8月宣戦布告

さて、第八章までを読むと、日清開戦前の我が国の苦労がよくわかる、開戦までの経過でポイントと思われる点を書いてみたい

  • 朝鮮の政治は内乱(東学党の乱)を鎮圧できないほどの惨状であった
  • 朝鮮は鎮圧のため清国に派兵を要請したが、我が国には済物浦条約により派兵の権利があり、天津条約による派兵通知があったので清国との権力均衡を図るために派兵した
  • 日本軍派兵当時の日本の新聞世論は、隣邦のよしみで朝鮮を助け暴政に苦しむ人民を救済せよ、という義侠論が大勢であった、政府はこれに加え、朝鮮に対する利害が甚だ大きいので、我が国の自衛のためにも派兵が必要と判断した
  • 我が国は、派兵するにしても「なるべく被動者の地位を執り、常に清国をして主導者たらしむべき」とし、軍事面も含め積極的に行動することに非常に慎重であった
  • 我が国は開戦前、清国に共同して朝鮮の内政改革を主導することを提案したが拒否された、この提案は「被動者の地位を執る」方針に反するが、もはやそれが許される状況でないと考えた
  • 日本は朝鮮を一個の独立国と認めたが、清国は中国の属邦と主張した、我が国のこの考えが朝鮮派兵や内政改革支援の目的であった
  • 両国軍が睨み合い、諸外国の干渉が始まりつつあったため、一刻の猶予も許されないと判断し、もはや日清間に一衝突を促すのが得策と判断、朝鮮に22日期限で我が国要求を提示したが満足な回答なく、兵力を使う意図はないが翌日23日に竜山の兵員を入京させたところ、韓国兵から発砲を受けたため応戦し闋内に進入したところ、大院君が国政を担うことを宣言、内政改革を約し、清軍の駆逐の援助を要請したため日清間で軍事衝突が起こり、8月1日に両国が宣戦布告した。

開戦の経緯については次の章以下でも再度詳述しているので、コメントはまとめてそこで触れたい。

(続く)


ウィーン国立歌劇場のストリーミングで「こうもり」を観る

2024年01月04日 | オペラ・バレエ

ウィーン国立歌劇場のライブ・ストリーミングで昨年末の大晦日に上演された喜歌劇「こうもり」が観られるので、観てみた。昨年も観たが(その時のブログはこちらを参照)、今年も観られるのはうれしい。

ウィーンでは年末は「こうもり」を観て、シャンパンに酔って大騒ぎして行く年を忘れ、新年は楽友協会で「ウィーンフィルのニューイヤーコンサート」を観る、というのがクラシック音楽ファンの王道だ。その両方が日本でも同時に楽しめるのは何と贅沢なことか。私も今日は先ず「こうもり」をストリーミングで観た。ニューイヤーコンサートは録画してあるので後から観ようと思ったが、今年は元日の北陸地方の地震で中継がなくなったそうだ。

今回観たストリーミングはウィーン国立歌劇場のホームページのメインページの上の方右側にストリーミングと出ているところをクリックすると観られる。無料である。ライブだが、ライブ終了後もしばらく観られるようだ。私は今回、2日の夜と3日の昼に2回に分けて観た。昨年までは日本語字幕もあったが今年は日本語がなくなっている。しかし、あらすじはよくわかっているので字幕はなくても大丈夫だ。

音楽:ヨハン・シュトラウス
指揮:シモーネ・ヤング(62,豪)
演出:オットー・シェンク

出演:

エイゼンシュタイン:ヨハネス・マルティン・クレンツレ(62、独、バリトン)
ロザリンデ:カミラ・ニールンド(55、フィンランド、ソプラノ)
フランク:ヴォルフガング・バンクル
プリンツ・オルロフスキー:パトリシア・ノルツ
アルフレッド:尼子広志(34、日本人の父と英国人の母の間に生まれ英国で育った日系英国人テノール)
ファルケ博士:マルティン・ヘスラー
ブラインド博士:ノルベルト・エルンスト
アデル:レギュラ・ミューレマン(37、スイス、ソプラノ)
アイダ:イレアナ・トンカ
フロッシュ:ヨハネス・ジルバーシュナイダー

オペレッタは通常、金持ちが行く国立歌劇場ではなく、庶民が行くフォルクスオーパ(Volksoper、市民オペラ座)の方で上演するのであろうが、「こうもり」は特別扱いらしく国立歌劇場で上演する。フォルクスオーパは数年前ウィーン旅行に行ったときに訪問し、バレエを観たが、確かに国立歌劇場に比べて庶民的な雰囲気があったように感じた。


(フォルクスオーパで観劇したときの写真2枚)

先日見た2023年ザルツブルク音楽祭の「マクベス」は斬新な演出で驚いた。しかし、この「こうもり」は同じ欧州のオペラの中心地ウィーンでの公演だが、演出は1980年代からあるオーソドックスなオットー・シェンクのものだ。私が好きな1986年バイエルン国立歌劇場でのカルロス・クライバー指揮の「こうもり」と同じ演出で今も上演しているのは面白い。年末年始の行事は奇抜なものより慣れ親しんだ会場、演出のお決まりの演目で楽しむということか。

出演者はそれぞれ適役だと思った。アイゼンシュタイン、ファルケ、オルロフスキー、アデーレ、フランク、それに尼子広志のアルフレッドが特に良かった。また、第2幕のポルカ「雷鳴と電光」の大騒ぎは愉快で、歌手たちも楽しそうに演じているようにみえた。

シモーネ・ヤング指揮のウィーンフィルの演奏は上品な気品に満ちた演奏だった。ただ、個人的な好みで言えば、クライバー指揮のバイエルン国立管弦楽団に比べ上品すぎてアクセントに欠けるところがあったように感じた。

ウィーン国立歌劇場はウィーン旅行に行ったとき、わずか3日か4日間の滞在中に好きな演目がなかったのでガイドツアーに参加した。夏は冷房がないようなことを言っていた記憶がある。内部はやはり豪華で、小澤征爾の写真が飾ってあったのが印象的だった。


(ウィーン国立歌劇場のガイドツアー参加時の写真2枚)

愉快なオペレッタを楽しめました。

さて、今日は3日、昼食はまたお雑煮を食べた。

 


JGM笠間ゴルフクラブで元旦ゴルフ

2024年01月03日 | ゴルフ

昨夜の羽田空港でのJAL機と海上保安庁機との衝突事故、亡くなった海上保安庁の皆様のご冥福をお祈り申し上げます。ご家族の皆様にはお悔やみ申し上げます。また、400人近い乗客の緊急避難を完璧に成し遂げたJAL機の乗務員の皆さん、有り難うございます。冷静に行動した乗客の皆さん、素晴らしい。テレビで見ていて全員絶望かと思った。この沈着冷静な判断と行動、賞賛されるべきでしょう。

2024年元旦、例年どおり初打ちに出かけた。今年は茨城県のJGM笠間ゴルフクラブを選んだ。何回も来ているコースでお気に入りである。費用は2人で25,000円、ツーサム割増し料金が入って高く普段の倍だ。以前は元旦にゴルフする人など少なかったけど最近は結構混んでいるようで値段も値上がり気味だ。例年どおり朝出発するときはまだ暗く、コースに向かう車の中で初日の出を見た。

このコースは27ホール、リモコンカートでナビつき、ワングリーンのアメリカンスタイルのゴルフレイアウト、池が何カ所かにあること、フェアウェイのアンジュレーション、アップダウンなどで難しくしている。コースは比較的広い方だろう。距離はフロント青ティーでハーフ3,100ヤード強だが、いくつかのホールでその距離より短いところにティーマークがあったのにはがっかりだ。

今日は満員ではないようだ、ラウンドはスムーズで詰まらなかった、ハーフ2時間弱でラウンドできたのは良かった。マーシャルが結構まわっていたのでコース側もプレーの進行を重視しているのだろう。天気も良く、多少風が吹いたがラウンドしていると暑いくらいだった。

コースをまわってがっかりしたのは客のマナーの悪さだ、ディボットやグリーン上のボールマークが修復していない例が多く見られた。自分が打ったときに作ったディポッドは直す余裕がなくても、余裕があるときに他の人が作ったディポットを直せば良いのである。そしてグリーンのボールマークくらい直す余裕は誰でもあるでしょう。もっとゴルフ場を大事にしてもらいたいものだ。

昼食はおいしかった。私はちゃんぽんを、嫁さんはハンバーグを食べたがいずれもおいしかった。

さて、ゆっくりストレスフリーでプレーした後、早く終わったので近くの笠間稲荷神社に初詣に行こうと向かったら50号線に入ったところで大渋滞、時間がかかりそうなので諦めて帰宅、取り寄せていたおせち料理で一杯やりながら新年を祝いつつも、帰宅直後に発生した北陸地方の地震の被害に心を痛める。被害の復旧が速やかになされることを切に願います。

おせちは2段重で1つは和風(左側)、もう一つは洋風のおせち。今夜は洋風の方を酒のつまみにして、和風の方は明日、息子夫婦が来るのでその時に食べようと思い、手をつけなかった。