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山本武利「検閲官、発見されたGHQ名簿」を読む(その1)

2024年01月28日 | 読書

山本武利著「検閲官、発見されたGHQ名簿」(新潮新書)を読んだ。日本の敗戦後、占領軍による言論検閲があったのは広く知られており、江藤淳の「閉ざされた言語空間」は有名だが、今まで読んではいなかった。今回、新書で検閲のことを書いた本書が出たので、江藤の本よりは手早く読めるだろうと思い読んでみた。

本書で書かれているのは、秘密検閲機関であった民間検閲局CCDの活動体制、日本人検閲官の検閲に対する対応、日本人の利用のされ方、CCD閉鎖時の問題などであり、検閲対象や検閲方針などについては触れることはあるが、そこを詳述するのが目的ではなく、どのような体制や人員で検閲作業が行われたのか、日本人検閲官はどういう人たちで、どういう作業をどういう思いでやっていたのか、などに焦点を当てて書かれている。

先ずは、検閲の組織体制について簡単に記しておく。

GHQ(マッカーサー) 
総本部(チャールズ・ウィロビー)
G-2参謀第2部
 CIS:民間諜報部(民事を扱う)
  CCD民間検閲局
   通信部門(郵便・電信・電話)
   PPB部門(新聞・出版・映画・演劇・放送等)
 CIC:対敵諜報部(軍事・刑事を扱う)

検閲の目的は①言論思想統制、②占領政策や進駐軍の動静に関する日本人の世論の調査、にあったと言えよう、閉鎖は1949年10月31日であった、敗戦後約4年にわたって検閲が行われたことになる。

本書を読んで初めて知ったこと、驚いたことなどを記し、併せて自分のコメントを書いてみたい。

全般

  • 多くの日本人の検閲官を採用せざるを得なかったが、その給与は賠償金代わり日本政府に負担させていた
  • このような検閲は許されるものではない、日本国憲法21条には「検閲はこれをしてはならない、通信の秘密はこれを侵してはならない」と書かれている。が、日本政府はこの検閲に全面協力した。
  • こうした検閲を当時の国民はどう受け止めていたか、少なくとも国内メディアがこれに異議を申し立てた形跡は見られない。1945年10月11日の朝日新聞は「連合軍最高司令官ら検閲への協力の指令がきた」とだけ報じた。
  • アメリカは西ドイツの占領地でも同様な検閲をやっていた、アメリカのドイツ・オーストリア占領軍はメディア検閲こそ行わなかったが通信検閲は行っていた、アメリカは占領国のみならず戦中に本国でも通信検閲を大規模に実施していた

(コメント)

日本に憲法を押し付けておきながら、その憲法に反する行為をやっていたアメリカのダブル・スタンダードぶりが許せない。新聞も検閲に対する批判や抵抗はしなかった。権力のチェックが仕事だなどと偉そうに言う資格はないだろう。

(続く)