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陸奥宗光「新訂蹇蹇録(日清戦争外交秘録)」を読む(その2)

2024年01月05日 | 読書

(承前)

「第一章東学党の乱」から「第八章6月22日以降開戦に至る間の李鴻章の位置」まで

ここでは先ず、ここに至るまでの関連する重要な点を記しておく

  • 1876年日韓修好条規:朝鮮が自主独立の国であることを認める
  • 1882年済物浦条約:甲午の乱後日朝で合意、公使館護衛の日本軍隊駐留権を認める
  • 1885年天津条約:甲申事変後日清間で締結、朝鮮へ派兵する場合の通知義務を規定
  • 1894年4月東学党の乱
  • 1894年8月宣戦布告

さて、第八章までを読むと、日清開戦前の我が国の苦労がよくわかる、開戦までの経過でポイントと思われる点を書いてみたい

  • 朝鮮の政治は内乱(東学党の乱)を鎮圧できないほどの惨状であった
  • 朝鮮は鎮圧のため清国に派兵を要請したが、我が国には済物浦条約により派兵の権利があり、天津条約による派兵通知があったので清国との権力均衡を図るために派兵した
  • 日本軍派兵当時の日本の新聞世論は、隣邦のよしみで朝鮮を助け暴政に苦しむ人民を救済せよ、という義侠論が大勢であった、政府はこれに加え、朝鮮に対する利害が甚だ大きいので、我が国の自衛のためにも派兵が必要と判断した
  • 我が国は、派兵するにしても「なるべく被動者の地位を執り、常に清国をして主導者たらしむべき」とし、軍事面も含め積極的に行動することに非常に慎重であった
  • 我が国は開戦前、清国に共同して朝鮮の内政改革を主導することを提案したが拒否された、この提案は「被動者の地位を執る」方針に反するが、もはやそれが許される状況でないと考えた
  • 日本は朝鮮を一個の独立国と認めたが、清国は中国の属邦と主張した、我が国のこの考えが朝鮮派兵や内政改革支援の目的であった
  • 両国軍が睨み合い、諸外国の干渉が始まりつつあったため、一刻の猶予も許されないと判断し、もはや日清間に一衝突を促すのが得策と判断、朝鮮に22日期限で我が国要求を提示したが満足な回答なく、兵力を使う意図はないが翌日23日に竜山の兵員を入京させたところ、韓国兵から発砲を受けたため応戦し闋内に進入したところ、大院君が国政を担うことを宣言、内政改革を約し、清軍の駆逐の援助を要請したため日清間で軍事衝突が起こり、8月1日に両国が宣戦布告した。

開戦の経緯については次の章以下でも再度詳述しているので、コメントはまとめてそこで触れたい。

(続く)



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