おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。
かんぴょうの種
「もう一回言いますけど、最高級なんですよね?」
扉を開けたら主人の怒鳴り声が飛びこんできた。
「おかしいでしょ?これで二回目ですよ!?・・ええ、はい明日持って寄りますよ、よろしくお願いします」
電話を切る主人を見た。
「なんかすごい怒ってるね」
「え・・・あ、オレ?」
「どうしたの」
「いや、種がさ」
「種?」
「混じってんのよ」
「何に」
「これ」
突き出された手にはクッションのように押し込められたビニール袋入りの干したかんぴょうがあった。
「わかるでしょうよ、ほら、これ、この部分。ポツポツポツって」
カウンターに手を着き、身を乗り出しながらビニール越しの太い白い平ゴムのようなかんぴょうに目を凝らした。
「えー・・見た限りではよくわかんないけど・・」
すると主人はかんぴょうの束を取り出し、一本を選んで私に見せた。
「あー、このかけらみたいなやつね。なんだかカボチャのタネって感じだねー」
白いかんぴょうに薄っすらクリーム色の種のかけらが数センチ間隔に並んでいた。
「築地でこれ以上のものはないっていうランクのものを買ってるのね」
「はい」
「今まで三~四回は全く問題なかったんだけど、先週のに種が混じってて」
「おー」
「アッタマきて速攻抗議して替えてもらって」
「おー」
「これなわけ。また混じっているわけ」
「おおー・・」
主人はまたかんぴょうの束をビニール袋に入れた。
「えー、種が入ってるとそんなにダメなの?」
「口にあたるでしょ」
「あーそうか。でも丁寧に手で取れば大丈夫なんじゃない?」
「種に近い部分って軟らかいんだよ」
「それがダメなの?」
「表面に近い部分と全然違うから、水に戻すのも、火入れも味付けの滲み込み具合も、とにかく話しにならないくらい種の付近のものはダメなんだ」
「へぇ~。でも何で種が入るんだろう・・」
「かんぴょうって何から出来てるって知ってる?」
「うーんイマイチわかんない。なんか、ひょうたんみたいなんだっけ」
「夕顔の実を剥いていくんだよ」
「夕顔?」
「丸くて大きな実」
「ふーん」
「瓜科だからね。例えばそうだな・・身近なものでキュウリがあるじゃない。表面の緑の皮からカツラ剥きみたいにクルクル剥いていくと外側に近い部分は硬めな感じじゃない?スイカで想像してもいいけど。で、どんどん中心に向かって剥いていくと軟らかくなって水分が多くなって種が・・」
「入ってる!」
「そこ、そこなの。今オレが困ってるのは。かんぴょうにおけるそこの部分が入っちゃってることに怒っているの。安いものだったら在り得るんだけど、オレが仕入れてるかんぴょうは絶対にそんなことがあってはならないの。肉厚で、種から一番遠いところのばっかりで、質がいいものだけを選りすぐった特選のかんぴょうしか仕入れないんだから」
“かんぴょうだけは安ものを使うな。うんといいものを使え”と修行先の親父さんからずっと教えられてきたんだと主人は言った。
うちわ
店がオープンする四日ほど前だったと思う。
梱包材に包まれた調理器具が散在している夕方、試作のシャリが炊き上がろうとしていた。
主人は蒸らしが終わるタイミングをタイマーで確認しながら酢合わせをする準備をしていた。
新品の三升用の飯切りと柄の長い杓文字はきれいに洗って水気が切られていた。
絞ったサラシで再度木にわずかな水分を与えつつ、炊けるのを待っていた。
「よし、オッケ!」
主人はタイマーがピピッと鳴るとすぐにストップボタンを押し、釜の蓋を開け、ライスネットの四隅を持って炊けたばかりのシャリを持ち上げすぐさま飯切りに広げるとそこらじゅうが湯気と炊き立てのごはんの匂いにまみれた。
「ネット持って熱くないの?」
カウンター越しに声を掛けると主人は
「熱くない」
と言って調理台に置いておいた合わせ酢を手早く杓文字につたわせ回しかけた。
入れてあった小さいボウルはシンクに放り込んだ。
今度は酢の温まる匂いが加わった。
「そろそろだよね?そろそろだよね?ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン!」
この日のために溜め込んでおいた五枚のうちわを荷物が入っている紙袋から取り出して主人に見せた。
お義母さんがシャリを炊く姿を何度か見てきた。
カッコイイし、私も店を始めるからには他のことは出来ないけれどせめてうちわで扇ぐくらいはお手伝いしたいなと思っていた。
テレビを見ていても酢飯を混ぜる主人の横で誰かが扇いでいたりもっとすごいところは何台も扇風機を回していたりする。
ならばバッタバッタと荒れ狂ったようにうちわで扇いでみせましょう、両手となんなら口にも挟んでやりますよくらいの気持ちになっていた。
「うちわ要らないから」
杓文字を平行に動かしながら主人が言った。
「へっ・・え?要らないの?」
「うん」
「ウソォ・・バタバタ扇がないの?」
「扇がない」
「何で?」
「何で・・って。必要ないから」
「マジで?」
「うん」
「・・だって、だって実家はさー、うちわ使うじゃん!」
「あー、・・まぁ、シャリ炊く量も多いからね。熱こもっちゃうとアレだから冷ますために扇ぐけど、あんまりやるとシャリが乾いちゃうからね、かえってどうなのかなと」
「そうなんだ」
「あと飯切りが水分吸うでしょ。だからそんなにはね扇がなくても」
「あー、なるほど・・」
プラスチックのやら、浴衣の後ろに挿すような洒落たのやら缶ビールを買った時についてきたのやら、用無しのうちわがばらんばらんと調理台に置かれていた。
うな垂れていると主人は一番取りやすい位置にあった昭和六十年くらいに作られたと思われる千葉のガス会社の代理店名が入ったビーバーだかラッコだかわからないキャラクターが描かれたうちわを手に取った。
「まぁ、もしやるとしてもこんな感じかな。さっ、さっ、と」
飯切りの上で二回ほど扇ぎ、シャリの上にきつく絞ったサラシを被せた。
「もう少し酢が馴染んだらね、試食してもらうから」
主人の言葉に頷きながらうちわを使わない店があるのだという驚きと準備してきた気持ちが打ち砕かれたという恥ずかしさとこれから初めて主人の力が100パーセントのシャリを食べることができるのだという期待感とで頬が少しだけ紅潮した。
メモ
お義父さんの字はそのメモで初めて見た。
大学ノートをちぎった二枚。
寿司屋をやろうする息子への覚え書きのようなものだった。
十九歳で独立して寿司屋を出し
支店を出し
若いお弟子さん何人もの出店を面倒見た義父。
のんちゃん寿司の改装、先輩や仲間のいろんな店を経験して
伝えたいことのすべてを
入院先のベッドで思い出しながら書いたんだろうと
主人は言った。
その項目は百八十を越えていた。
滅多に字を書かない親父だから、これはすげえよ
貰ったメモを四ツ折にしながら言った。
主人は早速このメモをベースに自分なりに
九十まで絞り込み
ひとつひとつを揃え始めた。
五月五日のこどもの日
義父は祐兄ちゃんが運転する車に乗ってやってきた。
その日は主人もちょうど福島で結婚式があったので
この車で一緒に帰ってきた。
サンダル履きで出迎えると
細い路地にライトバンが停まっており
目を凝らすと
車内灯の下で中腰になってうごめく三人の姿が確認できた。
ドアが開きお義父さんが降りてきた。
車のライトがこちらに弱くあたっている。
逆光になったお義父さんは何かを持ってるようだった。
「おうっ、来ましたっ」
「あ、はい。・・あの、身体もう大丈夫、なんですか」
「おう」
「あ、よかった」
「いよいよだな・・!」
「あ、はい」
「な!」
「はいっ・・」
「元気出して、がんばれよぅ!」
「・・・はい!!」
「よーぅし、これをやる。ほれ、受け取れ」
両腕から両腕に抱かされたのは
ふたつの木の芽の鉢植えだった。
街灯にかざすと葉がたくさん見えた。
新芽も見えた。
「うわぁ、緑がきれい」
「むこうで水やってきたから。ちょうどはけてるところだ。ま、ひとつ枯れちまっても、あと一個ありゃなんとかなるべ」
「うわー、ありがとうございます」
「あ、山椒で思い出した。これ忘れないうちに」
義父はジャンパーのポケットから紙切れを取り出した。
「読んでから、啓三に渡しといてくれぃ」
両手の鉢をアスファルトに置きメモらしき紙を受け取ると
そこには先日の覚え書きの続きのようなものがまた書かれていた。
「どんな寿司屋をやるのかわかんねぇから一応和食のことをよ、俺のわかる範囲で書いといたから」
「あ、でもこれ、直接お義父さんから渡したほうがいいんじゃ…」
「いーいから、いいから、二人でやる店なんだから。読んで、渡しといてくれぃ。あとまだ店に運ぶまな板とかあるんだろ?俺はちょっと休ましてもらうわ」
私が自宅まで案内しようとすると
「一階の奥だろ?大丈夫行けるから、皆でやっちゃえ」
と言ってゆっくり歩いていった。
メモの裏側を見ると鯉のぼりと柏餅のイラストが印刷され
鯉はピンクと青の蛍光マーカーで塗られていた。
【今日はこどもの日です】
【早く元気になってネ!!食療科】
と書かれていた。病院の食事に付いてくる紙だ。
ということは今日の朝食の時間まで入院していたということか。
退院して自宅療養をしているというふうに聞いていたけれど
心配させまいとしていたのか。
朝退院して、昼は主人と披露宴に出て、そしてここに来た。
大丈夫じゃないじゃん、お義父さん。
これ、ベッドの上で走り書きしたんだよね。
鉛筆の字が乱れてる。
ひょっとしたら披露宴の席でも取り出して加筆したのかな。
二人でやる店だって言ってくれてありがとう。
サラリーマンの娘だからさ、正直に言うと仲間外れかと思ってたんだよね。
声掛けてもらってほっとしちゃった。
しかも店に置く鉢だから車に積んでおいてもいいのに私に渡してくれて・・
足下の木の芽の鉢がみるみる滲んで見えてきた。
「おーい、荷物運んじゃおう。早く、乗って」
主人の声に頷き、鉢植えを取ろうとしたけれど
涙をなんとかしなくちゃならないと思い、うろたえた。
とっさに両手で木の芽を擦ってから鼻に持ってきた。
「はぁ~山椒だぁー」
身体を起こし、腰を伸ばして目を瞬かせた。
夜空に街灯だけが光って見えた。
鼻腔に残る木の芽の香りをなくなるまで吸ったり吐いたりしながら
しゃがんでふたつの鉢を抱え込み立ち上がると
両胸をボインちゃんのようにして走って車に向かった。
主人にこのメモを渡すのを忘れないようにして。
Oさん
「こちらでデータとか見えるんですけど」
食べ終わったOさんが言った。
「予定通り、本当に予定通り行ってますね、いやほんと素晴らしいなって思って、この場所でね。…がんばってるなーって」
「お借りしてるんですから当たり前ですよ。…でもこんなこと言ったらあれですけど、やっぱり返していくのは大変ですね」
板場に立つ主人が言った。
Oさんにお茶を差し替え窓の外に目をやった。
街路樹の葉が育ち始めている。
ゆっくりと歩くサラリーマンの人たちが目に入った。
五月十一日。
三年、というか千九十五日という日々が過ぎた日のことだった。
それから数ヶ月が経ったある日、ランチの看板を出した直後にOさんがやってきた。
「あ、そうだ奥さんこれ」
手渡された手提げを覗くと金融機関Aの名が印刷された小箱サイズの洗剤やティッシュ、ラップなどが入っていた。
「もうそこらへんにあるものバンバン入れてきました。よかったら使ってください」
必ず年に一度持ってきてくださるその景品がいっぱい詰まった紙袋を有難く受け取りながら、はて今日は何だろう、生ものが苦手なOさんがわざわざ寿司を食べに来てくださるのはどうして、と思っていると
「転勤になったので。今日はご挨拶に来ました」
とOさんは言った。
主人は茹でた海老やタコ、玉子焼き、穴子、かっぱ巻などなるべく火の入ったものを入れながら一人前のにぎりを握った。
その職性上、同じポジションに永年留まることはないと頭では理解していたけれどショックだった。
主人も私もその気持ちは隠しながらなるべく明るく振る舞い融資をお願いに行ったあの時の思い出話などをした。
「異動するんでね、野上さんだから言っちゃいますと」
Oさんは言った。
「はじめ書類通らなくて。でも“若い二人でこの地域でどうしても頑張りたいって言うんだから”って粘って粘って。で、最終的には自分が責任取るからっていうことで。自分としても着任したての最初の案件が野上さんのだったっていうこともあって、その後のことがずっと気になっていたっていうのはあるんですよ。もう“ガンバレよ~、ガンバレよ~”って」
「・・あの時たしか、会議が長引いて結果が出るのが遅くなったって仰ってましたよね?」
大妻通りから一本うらの道で、融資OKのメールをもらったことを思い出していた。
「おそらく野上さんの案件だけで会議が遅くなったわけじゃなかったと思いますけどね。でもやる気のある人を応援したいじゃないですか。なんとかしてあげたいって。頑張ってくださいよ、転勤してもいつも見てますから」
手まり麩が入ったお吸い物をOさんの右脇に置いた。
主人はイカとカツオのにぎりは大丈夫ですかと訊いて握った。
Oさんはおいしい、おいしい、と言って食べてくれた。
チチカエル
窓を背にしたお客様はゆっくりと煙草を吸いながら言った。
「はいご苦労さん。じゃママ、今度は牛乳とガム買って来い」
階段を駆け上がってきたせいで息が弾んでいた。
千円から煙草二つ分を差し引いたおつりをお渡しした直後のことだった。
・・・牛乳とガム?
「酒飲む前に胃に入れておきたいって言ってんだよ、なー。胃壁を作っとくのっていいんだよ、なー?」
お客様は隣りに座っているお連れの男性に話し掛けた。
この三週間で何度かお見えになっていたその方は店のドアを開けて店内を見渡してから
「親父は?田舎帰ったのか?」
とすぐさま訊いてきた。
「マーマー、ほら、早く買って来いよ?」
お義父さんは一ヶ月の滞在を終え福島に帰った。
数時間前、迎えに来てくれたお義姉さんと挨拶をしてエレベーターのところで見送ったばかりだった。
「行って来いって早く。金は後で払うから」
若い夫婦だけになった店。
お義父さんはもういない。
「ほい、ほら」
そうやって急き立てるお客様に向き合って目は合わせたまま、両足を踏ん張って立っていた。
このお客様は主人に話しているのではない。
煙草を買ってくる以上にどこまで言いなりになるのか、私がこの店でどういう役割なのかを試しているのだった。
今、もし主人に判断を委ねたら「そういったご要望はお請け致しかねます」というふうに言ってもらってその場は終わりそして私はずっと“牛乳とガムをすっ飛んで買いに行く”ことを自分で断ることもできない存在として生きることになる。
そんなのイヤだと思った。
「マーマ。いい加減怒るよ」
「・・・ません」
「あ?」
お客様は口の脇から煙を出し、灰皿にピンと一回煙草を弾いてもう一度口に持っていった。
「何だって」
外はまだ明るい。
お客様は新宿通りに行き交う車を見下ろしながら私の返事を待っていた。
「・・よく聞こえねーなぁ」
その言葉をキッカケに、むぅ――っと息を吸い込んだ。
「牛乳とガムは、買ってきませんっ!!!!!」
五メートルの距離では充分なほどの声で言った。
「・・・ちっ、ダメか。これはひっかかんねーか。はいはいわかった。じゃ、お前行って来い」
お連れの男性が走って店を出ていくのを見ていることしか出来なかった。
翌日ランチの看板を出していると、同じビルの別のテナントのオーナーさんが私の身体にぴったりとくっつくようにして話し掛けてきた。
「ちょっと、あらら。聞いてないの?」
「はい?」
「看板のこと」
「え、何ですか?」
「ちょっと、やだわー。言ってくれてると思ってたのに」
「・・・何でしょうか?」
「ものすごく目立つ道路ギリギリのところに置いてたでしょう?開店してしばらくは他のテナントも御祝儀だからって我慢して置かせてあげてたのよ。ね、ほら見てご覧なさい、他の看板おたくの陰にみんな隠れちゃってるでしょう?それがもう一週間経ち二週間経ち、ずっと当たり前みたいにいつまでも置いてあるから、いつ退かすのかなって皆思ってたのよ。あーもう、○○さんが言ってくれてると思ったのに」
「・・・・どうもすいません」
「あら、いいのよ、わかってくれれば。あ、ところでパパさん、社長さんはもう帰ったの?」
「・・・はい」
「あーそう。もう毎日階段磨いてたわねぇ。よろしく言っといて」
「はい」
お義父さん不在が影響しているのかしていないのか分からなかったが、これもまたけっこう辛い出来事だった。
それから二ヶ月ほど過ぎたある日のこと。
それまでも二週間に一度くらいのペースで四名様から五名様の小上がりを使ってくださるお客様がいらっしゃった。
やはりまた「親父さんは?ずっと見ねぇけどもう居ねぇのか?」と訊かれた。
お会計の時だった。
背広を着ながら「お会計」と私を呼び止めた方に金額を書いたメモを渡すと、しばらく見た後
「オレ、無いからアイツから貰って」
とそのメモを別の方にバトンタッチした。
メモを見たその方は
「あ、オレも無いからパス」
と言ってまた先ほどの方にバトンタッチした。
その動作が二回繰り返された。
私はそのメモが行き交う度にスライドして動きお支払いいただくのを待った。
三往復目、最初にお渡しした方がお財布からお金を出そうとしてやっぱり引っ込め、両手をヒラヒラさせながら
「あー、やっぱり無いねぇーッ!!」
とおどけた顔をして私を見た。
もうおひとかたのところに歩み寄ると
「オレも無ぇ――ッ!」
と言って、その宴会にいらした方が皆で嗤った。
「ママよぅ、ヒャッヒャッ。丸正カードあるからよぅ、これ出したら五パーセント割引にしてくれっか?そしたら払ってやってもいいや」
畳の上だけがどっと沸いた。
チラッと主人を見た。
目で頷いているのを確認した。
私は小上がりのお客様に向きなおり、まっすぐ立った。
「あの、もうお代はけっこうですのでお引き取りください」
一礼して奥に下がろうとしたら
「あーあーあー!ちょっと待ったちょっと待ったオレが払うオレが払う」
と二番目のパスの方がお財布を出そうとした。
それも無視して板場に戻った。
「ママ」と繰り返し呼ぶ声に辟易しながら洗い物を止めレジの方に顔を出すと一番手の方が柱に片手を着き
足をクロスさせた状態で待っていた。
「そう怒んなよ~、冗談だよ冗談。冗談もわかんねぇのかよ~」
と眉根をグニグニさせながら言った。
「うち、そういう店じゃないんで」
「だからさ~分かってるって」
と言いながら支払いをしようとした。
「あの、もうけっこうですから」
と遮ったが結局押し問答の末、頂戴した。
そこらへんが情けなかった。
この矛盾した行為が商売をしていく上でいいのか悪いのかなんてことの答えが解らないくせに悩んだりすること自体どうなのか一貫していない自分の行動に対してすごく落ち込んだところに顔を上げると
「じゃ、また来るからよぅ、今度は丸正カード使えるようにしとけよ~、ええ?」
とつまようじをシーハーやりながら帰り支度を済ませた五名様が店を出ていく様を見ていたら、お義父さんが帰ってからのいろんな怒りや苛立ちが思い出され、そして八つ当たりも含めて完全に、もう完全にブチぎれた。
「だから、うちは、そおゆう店ではありませ――んッ!!!」
と怒鳴り、バチ―ンと扉が壊れるほどの勢いで閉めた。
本当は扉を閉める前にこう言ってやりたかった。
「丸正カードはなぁ、三百ポイント貯まると三百円のお買い物券が出るんであって五パーセント割引にはならないんじゃボケ!!!セイフーのOMCカードと勘違いしてんじゃねぇぇぇ!!!!」
と。
でもなんかこれを言うと面白い感じになってしまうのでやめた。
ハァハァと息をして立ち尽くしていた。
「おあいそ」
という声に振り向くと、カウンターのお客様がニコニコしながら
「大丈夫?ちょっとは落ち着いた?僕は割引とか言わないでちゃんと払うから、怒んないでネ」
一部始終をご覧になっていたようで気遣って声を掛けてくださった。
たはーっと汗を掻きながらお会計をした。
その日の夜
「お義父さんの存在は大きかったね」
と主人に言ったらこう返ってきた。
「オレなんか一ヶ月だからまだいいよ。何十年もやってた親父の店を継ぐ息子は大変だよ。ずーっと“親父さんはよかったぞ”って言われるんだから。オレはこれからオレの店として頑張ればいいんだからそういう意味ではラクだよ」
そうか。
お義父さんがいなくなったこの店をこれからしっかりとつくりあげていけばいいんだ。
牛乳や看板や丸正カードでめそめそしない。
そう決めた。