鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【考察】明日の世界の解像度

2016-12-18 03:11:52 | 考察

ゲーム内のキャラの装備をいくら充実させたところで。

一日中レベル上げに徹したところで。


翌日に見る世界は変わらない。膨大な時間と労力をつぎ込んだところで、通勤路は変わらないし、人との会話も変わらないし、話す話題が増えるわけでもない。(極端に言えば、同じ畑の人間同士間では増える)

レアアイテムを探し続けるゲームや、育成型のゲームには総じて「作業」が多い。こうしたTVゲームに限らず、いつもと同じ相手とばかり交際を重ねているときでも似たような状況に陥る。なぜなら話題が増えないから。(もちろん全くというわけではないが)

個人的には、知人との笑談というのは蓄積していたネタを使うという意味で「消費」に該当する。そこで新しい何かが生まれる可能性が無いわけではないが低い印象がある。とはいえ気の知れた仲間と食事をしながら楽しむ会話に全く意味がないと言いたいわけではない。そこでのひと笑いが他の人との会話で活きることもあるし、感性への刺激にもなるし。

何が言いたいかといえば、「広がり」を求める活動としては非効率な部類であって、他にコスパの良いものがあると思うのだ。


といったようなことを最近ずっと考えていた。

というのもなぜかといえば、自分が日々していることの不毛さに強い葛藤を感じていたからである。ネットサーフィンや動画鑑賞やスマホアプリやTVゲームなどといった、頭脳的にも肉体的にも労力を必要とせずに娯楽として心身を癒してくれる部類のそれらはもはや生活の一部となっていて、しかし一方で生産性のある活動かといえば愚問だということが明白なのだ。それらが1年後5年後10年後の俺にとって価値のあるものなのか。

「何かの役に立つ」とか「幸せ」を定義する必要性が生じてくるのでそのあたりが極めて複雑で深刻なのだが、それらについては省く。

俺が今回言いたいのは、「広がり」を生む活動というのは突き詰めていくと結局は「知識」であるというのが結論である。そしてそれを保証するのが「好奇心」である。

知りたいと思うためには前提知識が必要である。好奇心というのは既知という球状に接する空白の「未知」な部分との接触面で発生する。つまりその球自体が小さければ小さいほど好奇心は生まれにくいものとなる。然るに、その球が大きいほど好奇心は生まれやすくなる。

それがどうしたかといえば、「広がり」を求めるのであれば前提知識を増やすことが近道なのだということを言いたいのだ。最もその効果を感じやすいもので身近なものは「語学」だと睨んでいる。

第一言語の日本語のみの場合は、翻訳済みの言葉や文章でしか英語で構成された情報を受信できない。そこで英語を学んでいた場合は、英語で構成された世界を知ることができる。翻訳機械があれば敵うことかもしれないが、全ての情報が翻訳されているわけではないし、翻訳が可能なわけでもない。翻訳された本は高価だし、原本の意図を正確に伝え切れている保証は100%ではない。コミュニケーションツールとしての英語の特質を知るには英語を学ぶしかないし、外国人とのコミュニケーションをとることで感じられる文化の違いだったり新たな刺激はやはり英語を話すことでしか得られない。

科学の場合は、日々口に入れるものや、目に映った木々や葉っぱや虫、毎日の天候、窓ガラスの結露、電子機器の物理的トラブル、etc...に対する見え方や解釈が知識量に比例してその姿を多様化させていくことだろう。応用が効くほど知識が豊富であれば他愛のない日常でも隣の人の役にたったりすることもあるかもしれない。

数学の場合であれば、物事の変化をグラフに変換して数値の推移から洞察を深めたり、歩数歩幅・道路の白線などと時間の関係から効率向上や時短に貢献できるかもしれない。

文学の場合であれば、見聞きする言葉から感じるものが人とはひとつもふたつも変わってくるかもしれない。勿論自分が発する言葉にもその知識が活きることには疑いがない。


学問に限らず、兎角知識を増やすメリットは計り知れない。しかし、だからといって「広がり」の生まれにくい活動を悪役と決めつけたいわけではないことは先述したとおりである。なので次は、「広がり」のほとんど対極に位置する活動について書いていく。

その多くは、「趣味」である。例えばバイク。バイクという趣味は、車やバイクに興味がない者や知識のない者にとっては全く分からない世界の代物である。バイクに限らないのだが。なぜバイクを例に挙げたかといえば、バイクの世界に対する知識をいくら深めたところで、バイク以外のジャンルへの広がりがほぼ皆無だからである。せいぜい同ジャンルの車ぐらいか。結局のところ、「広がり」の対極に位置している理由はそれでしかないのだ。バイク以外の世界には広がらないジャンル。バイクに限らず、TVゲームやスマホアプリなんかもその筆頭である。

「改造を極めすぎて革新的な燃焼システムを発明してしまった」とか「ゲームが好きすぎて自分でメガヒットするゲームを作れちゃった」とかまでいけば話は別だが、そんなのは本当に超少数派だろう。しかしそういった意味では水平方向への拡大が全くないわけでもない。ゲームの基本構造はプログラミングだし、車やバイクの整備改造をするには多少の力学や化学の知識は必要だからだ。

前置きが長くなったが、では「趣味に没頭する」ことのメリットというか意義はなんなのかという話について。それは「楽しい」という感性に還元されることである。人間はつまるところこの「楽しい」を求めて活動するのである。それを「快感」と呼んでもほとんど問題無い。

お金をたくさん所持すること自体に安心や優越という「気持ちよさ」「嬉しさ」「楽しさ」を持つ人もいるもしれないが、大多数は旅行だったり高価な買い物だったり豪遊だったりで大金を「楽しさに"還元"する」だろう。

高価なブランド品を身につけること自体に価値があるのではなく、身につけることによって生じる優越感だったり、身につけていることによって示される社会的地位だったりといったような物体に還元できないものに人は気持ちよさを感じていると言える。とにもかくにも物体は副産物であり、肝心なのは「楽しい」や「気持ちいい」といった感性なのである。バイクでとにかくかっ飛ばしたい人にとってはメーカーで選ぶ必要は皆無だ。


長くなったが、じゃあ俺氏はこれから主にどういう過ごし方をするの?と疑問に思う人が0人ぐらいはいると思うのでお答えしようと思う。

まあぶっちゃけ相も変わらず体たらくで楽な方へ楽な方へと流れて目先の利害に迷いまくることこの上無いのだが・・・とはいえ「明日の目に映る世界の解像度が少しでも増えるためにできること」をなるべく優先したい。これは割と常日頃から思っているので、つまり明日見える景色が一ミリも変わらないような活動は減らしていこうと思っている所存でありまする。

おーわりっ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする