環境に”完全に”適応していた時代は存在していない。ゆえにパレオ式は正しくない。
悪しき習慣の数々は、農業がその全ての原因ではない。
ボノボやチンパンジー達のセックスの仕方やつがい方を、現代人におしつける理由は一つもない。
人間のもつ四肢や臓器から細胞の一つ一つの役割や起源は、どのように進化してきて、今ある環境において有利か不利かを知ることは、人類の未来にとって有利な意義だと思う。自然主義的誤謬という言葉もあるように、我々の祖先がXXだったからといって我々もXXでえあるべきだという安易な論法は避けるべきである。
生物と環境は、当然ながら分けて考えるべきものではないし、環境から一方的に変異の材料をおしつけられているわけでもないということ。つまり、今の人類が立っているステージでは、環境に対し我々がどんな行動をとるかを考えるべきなのだ。
明らかになっていく進化の謎は我々にとって確かな価値のあるものだが、食事にしても社会にしても、健康にしても、セックスにしても、未来のそれらをデザインするにあたっては過去がモデルとしてふさわしいという根拠はどこにもないのだ。
『私たちは今でも進化しているのか?/マーリーン・ズック』ではパレオ・ダイエットやベアフットランニングの論争に焦点をあてているが、最終的には白黒つけていない。
パレオ派の主張にも、ベアフット派にも、その根拠に一理あるものもあるが、概ね賛同し難いというのが個人的な結論だ。彼らは先述した自然主義的誤謬に陥っていると言えなくもないと思う。あるいは極端なのだ。農業によって生み出された数々の災いも、結果的に見ればそのほとんどが科学によって対処を可能にしている。
階層化した社会によって崩れた平等性もいずれは知性によって再建できると信じている。認知科学、人類学、化学、脳科学などなど、科学の発展は過去から今に至るまでそして現在もなお目まぐるしく進んでいる。
『私たちは今でも進化しているのか?』では、環境の変化するスピードと人間の適応するスピードに差があると主張する派とそうでない派のそれぞれの根拠についても書いているが、個人的には科学技術の発達に人間の知性や人格が追いついていないことのほう
が深刻に思われたし、この本を読んで一層それが確信に近づいたと言ってもいい。
ここまで真面目にノートをとりながら精読したのは初めてかも。
とある論争について本書が白黒つけるわけでもない点について新たな知見を得た気がする。
農耕は祝福か?呪いか?というフレーズが俺の心を射止めたので購入したわけだが、その時点で俺はてっきり決着のつく論争なのだと予感していたがそんなことはなかったのが意外だった。こうした本はきっと総じてそういうものなのだろうなと思った。というよりいつでも批判的思考で臨むのが最善の読み方だということを思わされた。
いろんな学問のいろんな学者さん達が、進化の観点から自然主義的誤謬に囚われた主張に対し冷静な再考を彼等に求めて努めている。ざっくり言うとそんな内容。
頭の良い人によるamazonレビューは明らかにもっと知性に満ちたものなんだろうなと思いつつ、疲れた脳がこれで勘弁してくれという要求に負けててきとうにまとめようとしていますww
おーわり