今日、11月29日は今年の「待降節」の始まりの日である。
「キリスト降誕祭」つまり、クリスマスに向けての準備の時期に入る。今日からなら、クリスマスツリーを飾るのも許される。
12月3日はもう一人のフランシスコ、ザベリオの聖フランシスコの記念日である。この日、中国本土への布教に渡るという願いを果たすことなく、広東近くの島で亡くなった。その遺体はインドのゴアに運ばれてここであらためて葬られた。彼はイエズス会士として、プロテスタントの宗教改革によって奪われたヨーロッパの信徒の代わりに、東洋で信徒を獲得せんがために派遣された。
カトリック教会の大変革期に、ロヨラの聖イグナチオとともに出現した聖人である(「ザベリオの」、「ロヨラの」としたのは、それぞれがその名の城主の御曹司だからである。つまり、フランシスコ・ザベリオ、イグナチオ・ロヨラとはそのような意味である。二人とも貴族の出である)。
今日ここで略年譜を書いておきたいと思っているのは、もう一人の偉大な聖人、フランシスコ会の創始者にして、環境保護の聖人とされる、あのアシジの聖フランシスコである。
こちらのフランシスコは、ちょうどもう一つのカトリック教会大変革期に聖ドミニコとともに出現した聖人である。「聖ドミニコとともに」とは言うが、実際に二人が出会ったのは一度きりのようで、それぞれ別の場所で現れ、カトリック教会の危機に有効な影響力をもって働いた。
おりからフランス南部を中心に大流行を極めていたカタリ派異端の一つであるアルビ派(「アルビジョア派」とも)からの正統カトリック教徒の奪還のために派遣されたのが聖ドミニコ(1170~1221年)であった。彼は、派遣されるにあたって、アシジの聖フランシスコのやり方に従い、彼と同様に「清貧」を守り、「托鉢・乞食」による生活に基づきながらの伝道を実現するべく、1216年、「説教兄弟会」を設立した。これが現在のドミニコ会である。
聖フランシスコは生前から「聖人」の呼び声高く、多くの人から尊崇を受け、彼のまわりは多数の人が参集して、彼の設立した「小さき兄弟会」は、大きな勢いをふるった。
アシジの聖フランシスコの父親はアシジの有力な繊維商人、母親はフランス南部のやはり商人の家の出である。フランス南部出身ということは、彼女がカタリ派に接していた可能性は小さくない。
実際にそのようなことを想像した伝記作家もいたようである。
クレタ島出身のギリシア近代の詩人で『その男ゾルバ』などの作者でもある、ニコス・カザンツァキの『アシジの貧者』(1957年、邦訳1981年)によれば、彼の母親はカタリ派の指導者に出会い、帰依しようとしたことがあったとされている。その托鉢の修道僧は彼女を連れ出したが、家に連れ戻され、アシジの裕福な繊維商人、ベルナルドーネと結婚させられた、という具合である。
南フランスに猛威をふるっていたカタリ派異端は、地上の物質生活を穢れたものとし、結婚をも否定するものであった。清貧を必須の生活要件とし、当時の富裕に溺れているカトリック聖職者たちを鋭くまた激しく攻撃した。徹底した物質の拒否が、最小限の物質生活を求めており、その生活指針は、アシジの聖フランシスコにも通じるものがあることから、何らかの精神的な影響があったとしても不思議はない。
しかし、アシジの聖フランシスコのなそうとしたことは単純に「キリストのまねび」であった。わけてもその「清貧」の生活を徹底して模倣することに集中していた。この世に自分の肉体のほかいっさいの所有を認めない、という生活である。衣服も聖書も借り物。住居は粗末なバラック小屋で、食事も土の上に皿を並べてとったといわれる。屋根付きの集会所をアシジの町の参事会がつくって寄付しようとしたときも、彼は頑として受け取らなかった。屋根に登って屋根を引っぱがすという実力行使に及んだ聖人に困り果てた参事会が、「寄付」ではなく、無償で「お貸しする」という申し出をして、かろうじてこの清貧の聖人を納得させたというほどである。
その基づくところは福音書に記されたイエスの十二人の使徒派遣のときの命令である。たとえばこうである。
帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履き物も杖も持って行ってはならない。」(『マタイによる福音書』第10章9節・10節)
微妙に命令される内容は異なっているが、同じような記述がマルコ(第6章8節)にもルカ(第9章3節、第10章4節=ここでは72人が派遣されているが)にもある。
カタリ派異端の隆盛と各地への飛び火、跋扈に手を焼いていたローマ教皇庁は、このような動きに早速乗った。貧困の異端の教えに対抗するには貧困しかない、というわけである。時のローマ教皇、インノケンティウス3世は、聖フランシスコらがイエスの伝道の最初の12人になぞらえて、12人で修道会を創立するべく、教皇に認可を申請してきたとき、ただちに認可したのである。異端ではなく、正統カトリックの教えに従って、その貧困の教えを広めてくれれば、十分にカタリ派などの貧困派異端に対抗できると踏んだようである。
その読みのとおり、聖フランシスコが創立した「小さき兄弟会」の清貧の運動は、燎原の火のごとくおそるべき勢いでイタリアに広まった。そしてローマは、同じ清貧・托鉢伝道を旨とした聖ドミニコの修道会をフランス南部に派遣したのである。
では、略年表を記しておこう。
1181年または1182年 フランシスコ誕生。洗礼名は「洗者ヨハネ」である。父親の意向によって、「洗者ヨハネ」ではなく、フランスの子という意味で、「フランシスコ」と呼ばれる
1202年 アシジ・ペルージア戦争が始まり、聖フランシスコも騎士として参加するもとらえられ、1年間の捕虜生活を送る。
1205年 再び戦争に参加すべく騎士として戦場に向かう途中、スポレトで神の啓示を受け、引き返す。聖フランシスコの回心といわれるできごと。
1206年 サン・ダミアノ聖堂の十字架の前で、「神の家を修復せよ」という声を聴き、破壊するにまかせられていたサン・ダミアノ聖堂やポルチウンコラ聖堂の修復をはじめる。また、父親の非難に対して、着ていたものを父親に返し、親子の関係を断つ。
1208年 ミサの最中、福音書の「清貧」の教えを説いたくだりに天の啓示を感じて、「清貧」こそ召命であると信ずる。最初の兄弟、ベルナルド・ディ・クィンタヴァレが聖フランシスコの生活に共鳴してその財産を売り払い、貧者に施して後、「清貧」の生活をはじめる。
1209年 兄弟が全部で12人になったことを契機として、ローマに赴き、最初の「会則」の口頭での認可を、時の教皇インノケンティウス3世から得る。
1211年または1212年、聖クララ(キアラ)への着衣式。「小さき姉妹会」発足。
1215年 ラテラノ公会議の席上、聖ドミニコと出会う。
1219年 イスラム教徒への伝道を企図して、エジプト上陸。サルタンと会見。
1220年 シリアへの伝道旅行の途上、修道会内部での対立が深まったとの知らせを受けて急遽帰国。総会長の役を退き、ピエトロ・ディ・カターニを代行として指名する。
1221年 ピエトロ・ディ・カターニが死去。エリアを後継者として指名。
1223年 新しい「会則」認可。クリスマスで、飼葉桶のなかのイエスの姿を再現する。
1224年 アルヴェルナ山にこもり、キリストの聖痕を受ける。
1225年 ほとんど失明(緑内障といわれる)。その状態で『太陽の讃歌』を作り、歌う。
1226年 「会則」とともに伝え守れと、『遺言』を記す。10月3日、ポルチウンコラで、死去。
1228年 枢機卿(ウゴリーノ)時代からの友人であった教皇グレゴリウス9世によって、列聖される。