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フランシスコの花束

 詩・韻文(短歌、俳句)

われらの社会の腐敗を思う

2007-03-11 16:23:14 | 社会・経済

◆われらの社会の腐敗◆

□アナウンサーたち、キャスターの腐敗と衰退□

 腐敗はかくも進んでいるのか、と思う。
 たとえば、女子アナたち。タレント並みに扱われて、彼らはもう報道を担うアンカーとは言えない存在となっている。話題になることはだから彼らの年俸、彼らのスキャンダル。やれだれかさんと1泊だ、朝帰りだ、不倫だ、路上でキスだ、やれだれかと別れた。そんな彼らにジャーナリズムなどあるはずもなく、わずか数日で報道番組を降板した女性アナも出て来る始末だ。
 こんなテレビ局に、まともな報道や社会の腐敗の批判などできるはずもなく、TBSの筑紫哲也氏の口元の怪しいしゃべりも、すっかり精彩失っている。だからといって、筑紫哲也氏に代わるアンカーがいるかというと、どこにも見あたらない。いろいろ問題は、彼にもあるだろうけれど、TBSのジャーナリズムの顔であることは間違いがなかろう。けれどももう彼には、往年の批判力はない。ジャーナリズム先兵としての使命感もあまりないのだろう。老齢が彼の姿勢を弱いものにしている。歯切れの悪いしゃべり口は、彼がこの先もう長くはないことを視聴者に伝えているのだ。
 一方、NHKはとちりの女性アナウンサーと視聴者のご気分はいかが?と言わんばかりの自信のない、批判力のみじんも感じられない報道姿勢にはいよいよもってがっかりするばかりだ。こんな報道ばかり流していて、聴取料を強制徴収だなんて、笑わせる。NHKでぼくが見るのは天気予報ばかりだから、もし強制徴収というのなら、天気予報の分だけ払うことにしよう。それ以上の強制徴収をかけてくるのなら、当然訴訟に持ち込むほかない。
 また、テレ朝の報道ステーションはどうしても気分は「ネオコンサバ」の感じである。新保守。久米宏のニューステーションが「全共闘世代」のレフティズムを背景にしていたことから比べると、その批判力のなさは、目に余るものがある。その上、いまだにスタンスがはっきりしていない。気分は保守。言っていることの背景はどうみてもオールドリベラリズム。けれども実際にコメントする内容は、どっちつかずで、ふらふら揺れている。ここにもいわゆるジャーナリズムはない。そこにいるのは、視聴率や人気に左右されるマスコミというメディアの子たちでしかない。

□政治の腐敗、使命感のなさ□

 政治資金規制法逃れの政治家たち。何億円もかけて不動産をもつ民主党の党首。わけのわからない出費について説明を拒否しつつ、大臣の席に居座る自民党の農相や文科相。指導力もビジョンもない「お友達内閣」。何よりも政治家の使命とは何かをまるでわかっていない「お坊ちゃま宰相」では、日本をどこへ導いてくださるのやら。歴史認識もあいまいで、行き当たりばったり。どこにも背骨のないだらしなさは、日本の政治の弱体を思わざるを得ない。 「拉致問題」だけが内閣の仕事と言わんばかりでは、どうやって国際平和、わけても極東アジアの平和にどうやって貢献するつもりなのだろうか?
 
□「拉致問題」の本当の解決には□

 日本人はわかっているのだろうか?
 今から100年近く前から、日本が朝鮮半島にしてきたこと。
 今、アメリカ合衆国の議会で「従軍慰安婦」問題がいまさらのように取り上げられて、日本の戦前戦中になしたことが批判にさらされていることの本当の意味を。
 それは、日本の「北朝鮮による拉致問題」攻撃が目に余るからである。みずからのなしたことの本当の反省も責任もとろうとせず、自分たちの受けた「拉致被害」だけを取り立てて、それを理由に北朝鮮問題に一線を引こうとする態度に、アメリカ合衆国が批判力を高めてきていると言うことを。その問題について、きびしくみずからの責任を問う、という姿勢が日本の社会および、政府に見られない以上、アメリカ合衆国は、日本という国に極東アジアの平和を云々する資格はない、というスタンスを取り始めているのである。
 北朝鮮「拉致問題」についての強気の姿勢は、積み重ねてきた米朝二国間会談において、アメリカ合衆国が北朝鮮に言質を与えたことの証左である。日本に戦前・戦中および植民地時代の犯罪的行為について責任をとらせるということを、約束したに違いない。それがあって、日朝間に平和条約が結ばれてはじめて、「拉致問題」が平和時における解決が見られるのである。
 日朝間には「平和条約」が結ばれていない上、日朝二国間は未だに敵国どうしの状態にあるのである。もっとつっこめば戦争状態と同じであると見てもよい。戦争状態にある二国間では、「拉致問題」も通常の平和状態での「犯罪」とは趣を異にするであろう。そのことにきびしく目を向けるのならば、まず植民地時代を通じての太平洋戦争終結までの間の日本の行為について、責任ある謝罪と賠償を行うべきであろう。それが先である。そして、二国間の平和条約を締結すること。
 旧西ドイツがユダヤ人に対して行った賠償は、個人的な損害補償が中心であった。日本は朝鮮半島の人たちに対してそのような個人的な損害賠償は一切行っていない。そのことにも実は問題がある。大韓民国政府は、「日韓平和条約」において、大韓民国内の個人的な損害に対する賠償はすべて放棄するということを定めているが、日朝間ではそれは難しかろう。これまでに行われてきた国家間賠償あるいはそれに代わるものとされた無償援助が、けっして個人の被害を救済し得ないことがはっきりしてしまっている以上、個人賠償は相当程度考慮すべきであろう。
 まずその問題を解決すべきである。そして「日朝平和条約」を締結すべきである。
 その後、はじめて日本は「拉致問題」の解決を迫ることができる。日本にその権利が正当に生まれる。もちろん、「拉致問題」が人権侵害、国際法違反であることは間違いがないけれども、二国間が戦争状態にあって、どこまでそれを要求できるか。太平洋戦争の最中に、日本は国際法に認める範囲内で戦闘行為を行ってきたわけではない。あらゆるタイプの国際法違反を犯してきた日本である。それは、今アメリカ合衆国がイラクでやっていること以上であった。日本国内は平和であっても、北朝鮮は対韓国、対日本とも、いまだに戦争状態なのである。その意識の差、国民感情の差に、なぜ日本人は気づかないのか? 戦争状態であるからこそ、北朝鮮人民は極貧に堪えるのである。平和ボケの日本人にその感覚はわかりようもあるまい。その意識、感覚の落差が「拉致問題」解決を遅らせていることに、なぜ気づかないのだろうか?

 強硬姿勢をとることは、極東アジアの平和のリスクを冒すことである。そのようなリスクを冒す正当な権利は日本にはない。日本は北朝鮮と現実の熱い戦争をも辞さないというのであろうか? 日本のバックにアメリカ合衆国の強大な軍事力がついているから、何をしても大丈夫だと信じ込んでいるのであろうか? すでにアメリカ合衆国は日本の頭越しに極東アジアの平和を模索しているではないか? かつてニクソン大統領は日本の頭越しに米中復交をなしとげたという前科をもつのである。今度もそのような裏切りをしないとだれが断言できよう。米朝間で「しゃんしゃん手打ち」はもう間近である。
 また、日本はアジアの孤児となろうというのだろうか?

 日本がアジアの孤児になると言うことは、非常に危険なことである。極東アジアの平和と「拉致問題」を秤にかけようという日本の政策は誤りである。日本には極東アジアの平和を脅かし、六カ国協議の進展を妨げる権利はひとつもないのである。

 そのような平和オンチ、外交オンチ、歴史オンチに、日本の政治を行う資格はない。日本の政治の「腐敗」と「お友達内閣」の弱体が、日本の未来を危うくしている。
 その一方で、それを批判できない日本の報道機関の腐敗。きびしく世界平和に貢献するために方策を問うことのできないジャーナリズムの腐敗と弱体は深刻である。もっとももともと、日本にはまっとうなジャーリズムの伝統はない、という意見もあるけれども。となると、いつになったら日本には、正義と平和を求めるジャーナリズムはいつになったらできるのだろうか?


□官僚の腐敗、産業界の腐敗□

 官製談合が跡を絶たない。
 産業界の談合も跡を絶たない。
 防衛施設庁のそれ、国交省のそれ。
 談合することによって、不当につり上げられた費用は、つまり国民の税金を不当に略取するものである。それは、いわば「泥棒」行為である。日本は官僚も財界もつまり「泥棒」たちの天下である。「泥棒」の天下であるから、政治資金規正法などあってなきがごとしである。政治家もまたどうやって税金をくすねるかに腐心する。政官財あげての「くすねる」体質はつまり、日本が「泥棒国家」であるということである。
 「泥棒国家」であるから、社会保険庁のような不始末も生まれる。厚生年金の不正使用も出現する。厚生年金施設の無駄遣いもまた「泥棒国家」なるがゆえの副産物である。だれも、自分が国民から徴収したお金を国民にきちんと還元しようなどと思っていない。自分のポケットにいかにして取り込むかしか頭にないから、わざとあちこちでお金の垂れ流しをして、自分の懐に入る分を目立たなくしているからである。その意味では「副産物」というより、「泥棒」にとっては必須の垂れ流しであったというべきかもしれぬ。

 極東アジアに対しては、その平和を脅かし、その責務を果たそうともせず、過去の歴史を直視しようともせず、それでもなお、国連常任理事国などという権力ばかりを手に入れようとする日本。国内では、平気で国民の懐から金銭をくすねようとする政官財。

 この腐敗国家は、これからどうなるのであろうか?
 ひょっとすると、昭和のある時代のように、若い将校たちによるクーデターが起こるかも知れぬ。「平成維新」などと呼ばわって。その危険がこれから二十年以内にやってくる危険はあるであろう。天皇が次代へと遷移した後、そのときがやってくるかもしれない。腐敗がいっそう進むからである。
 その腐敗を止める力を、ジャーナリズムがもたないこと。
 その腐敗を正す力が、われわれ国民にあることを祈るほかない、というのが現状である。そのようなクーデターの時代になる前にこの世を去りたいものである。生きている間はできるかぎりの努力はしてはみるけれども……。

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マインドコントロール

2006-08-05 21:18:46 | 社会・経済
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●またぞろ、「摂理」とかいうカルト教団のマインドコントロールが取りざたされている●

 宗教というのは、一種のマインドコントロールではないか?
 その点に関しては、創価学会も、天理教も、あるいは他の新興宗教もかわりはない。信じるという行為にいたらしむる「布教」という行為がそもそも、一種のマインドコントロールなのだ。創価学会にいたっては「折伏(しゃくぶく)」という強引なマインドコントロールが行われてきた。

 どの宗教も、多かれ少なかれ、ある種のマインドコントロールが行われる。

 たとえば、「修養会」、「錬成会」、「研修会」などもそのための装置であるし、カトリックには「黙想会」という、究極のマインドコントロール集会がある。目をつぶり、指導者の言葉に従って瞑想に入る。その瞑想を、指導者の言葉がリードする。
 こうして、信者はさらにカトリックのために働くよき信者へと変革を要求される。

●教育そのものが、実はマインドコントロール●

 教育とは、そのときの権力にとって、最も都合のよい市民をつくるためのシステムである。だから、文科省は各地の教育委員会を叱咤し、督励して、日本の若い人たちに、国旗への崇敬と国歌への愛着を植え付けようとする。
 愛国心教育への大きなステップである。
 このステップの次に、「愛国心」を強調した、新しい「教育基本法」が控えている。

 国旗への崇敬。そして、国歌から天皇や皇族への尊崇の念を植え付ける。いまだに、国歌には「君が代」=「天皇様の世の中」と国民に歌わせて平気な国が、どこにあるのだろうか? いつかまた、「天皇様」のために死になさい、と言い出す政治家や軍人があまた現れるのではないだろうか。恐ろしいこと。そして、そのことにならされ始めているわれら日本の国民。これをマインドコントロールと言わずしてなんと評し得ようか。

●TVコマーシャルもまた、マインドコントロール●

 商品名連呼型のTVコマーシャルは、明らかにマインドコントロールをねらったコマーシャルと言えよう。消費者の頭の中にその商品を植え付けようというのだから。同様にコマソンも同じ。音楽という耳に聞きやすい、心が受け入れやすい形にして、消費者の消費行動に影響力を行使しようというのだから、これほどに悪質なマインドコントロールはないと言ってもよい。

 有名なタレントや人気の高いスポーツ選手、有名人を、コマーシャルに起用するというのは、それによって、消費者あるいは視聴者が、その商品や企業を受け入れやすくするためのもの。その意味では、その商品のコマーシャルに登場するすべてのタレント、スポーツ選手あるいは有名人は、消費者のマインドコントロールに積極的に関与しているということにほかならない。
 そうやって、消費者の消費行動に力を及ぼすこと自体が、広い意味でのマインドコントロールであることを、社会全体がもっと深刻に認識する必要がある。

 そうでなければ、アイフル事件は後から後から生まれる。
 アイフルのマインドコントロールに乗せられて、この会社の信用、安全性をだれもが錯覚した。錯覚させたことに積極的に貢献した俳優もタレントも、あの犬ももちろん、社会から弾劾されるのは、その責任がどれだけ重いか、ということである。

 俳優、タレントたちは、コマーシャルが、消費者のマインドコントロールにあずかっているものであることを、よく認識すべきだ。その責任の重さを、深刻さを。

 一方ではまた、マインドコントロールとしてのコマーシャルであることの認識のもとに、当局による厳しい規制と監視が必要であろう。また、エージェント、TV各局においても、厳しい自主規制を自らに課すべきだろう。

 
タレントや有名人の起用は自粛か規制か。
 マインドコントロールとしてのコマーシャルを廃絶するには、そのどちらかしかあるまい。


裁判制度は「復讐代行機関」にならないのだろうか?

2006-06-26 20:47:16 | 社会・経済
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●裁判員制度が3年後から始まるが、果たしてどうなるのだろう?●

 日本でも、一般国民の参加する「裁判員制度」が始まりますが、本当に大丈夫なのでしょうか? 日本という国の社会には、確かな更生・教育制度は整備されていません。刑が懲罰の意味でしか科されていない現状では、果たして正しい量刑判決ができるようになるのでしょうか? 日本の量刑には、「無期懲役」の上にはすぐ「死刑」しかありません。もし、正統な判決を要求するのなら、実際には、7年以上の量刑に相当するといわれている「無期懲役」のほかに、「終身刑」を用意すべきではないでしょうか?
 「裁判員制度」が始まる前に、現在の裁判所のあり方について考えてみました。


 ◆取り調べの公正性◆

 アメリカ駐留軍人の犯罪の場合、日本の警察の取り調べを極端に恐れる犯罪容疑者のために、その人が所属する軍機関などが、日本への容疑者の引き渡しを非常にいやがることが少なくない。
 それは、日本の警察の取り調べが非常に強固に守られた密室で行われ、弁護士が立ち会うことは一切行われていないからだ。取調室で何が行われているか? 相手によって、警察官の態度がころりと変わるのを、ぼくは経験している。
 ちんぴら風の男に言いがかりをつけられたとき、駆けつけてきた警察官は、はじめ、「あんたも悪い」、「ちょっとこっちへ来い」という扱いだったが、「で、あんたの職業は?」と聞かれて「物書き」、「自然誌関係の連載も書いている」と答えたとたん、がらりと態度が変わったのだ。「ああ、そうでいらっしゃいますか。では、あなたのほうには問題がないのですね」と来た。もう、後は、平身低頭。すぐさま、こう言ってきた。
 「いや、こんなところでお引き留めして申し訳ありません。あっちの若いのは、われわれがちゃんとしますから、どうぞお引き取りください。」

 この差別は何なのだろうか? このような差別が公道上でも平然と行われているのだ。人の居並ぶところでの、この豹変。もっとも豹から子羊ちゃんへの態度変化だったが、とにかく、このようなことがまかり通っているとしたら、だれも見ていない密室の取調室では何が行われているか?
 たとえば、ホリエンモンや村上世彰氏の取り調べもきっと、やんわりしたものだっただろう。相手は日本有数のお金持ち。学歴もそこらに警察官の比ではないから、そのコンプレックスもあるだろう。その辺のちんぴらや若い学生に対する態度とは月とすっぽん。雲泥の差があるだろう。
 こうした不公平な取り調べ、あるいは不公正な取り調べに基づく調書をどれだけ信じることができるか?
 まず、警察による密室での取り調べを改善するべきだろう。当然、検察による取り調べも、弁護士の立ち会いを認めるべきだろう。それだけ、厳しく人権を保護して、自白に頼る警察の体質を変えるのでなければ、正しい判決を出すことは不可能なのだ。

 「裁判員制度」を導入するためには、被疑者の自白が強要されたり、密室なるがゆえに誘導されたりしない取り調べの仕組みを作り上げることが先決ではないか?

 ◆被害者の心と生活の救済がまず社会システムとして求められる◆ 

 最初に断っておく。被害者の人権を最優先することは、当然のこと。現行では、そのためにシステムがしっかり整備されているとは思えない。あるいは、被害者とその家族を、精神的、経済的に、あるいは社会的に大切にするということには、もっともっと力を入れなければならないが、その思想がいまだ多数意見として、政治を動かすにいたっていないことは、憂慮すべきことだ。。被害者とその家族の心と物の救済については、しっかりした社会的なシステムが構築されなければならない。

 それは、もうひとつの側面を持つ。被害者の心と生活とが社会によってきちんと保護され、あるいは大切に扱われていることが、逆に、加害者への恨みや憎しみを緩和させることになるはずだからだ。
 犯した罪を憎むこと。その罪によって死せる者は二度と帰らない。あるいは失われていった幸福の時は二度と戻ってこない。時間は帰らない。けれども、犯した罪を反省し、悔い、更生することをこそ、社会は全体として、その加害者に求めなければならないのではないだろうか。その加害者が、罪を悔いて、一生をそのために帰って社会に命をささげるような人生を生きてもらいたい。そのことによってはじめて、失われた命、失われた幸福、失われた時間が、かえって価値を生むことになるのではないだろうか?

 ◆今、裁判所は「復讐代行機関」となることを求められてはいないか?◆

 けれども、被害者の救済を第一に考えることと、裁判所が、被害者の心のために復讐代行機関となることとは、まったく次元が異なる。
 最近、判決が出る度に、被害者の家族、特に殺された被害者の家族が、たとえば「無期懲役」などの判決が出たとき、「これでは憎しみは消えない。死んだ者は浮かばれない。極刑を。死刑を」と訴える。マスコミもそれを一緒になって主張しているかに見える。

 被害者の家族の思いは思い。それを重たく受け止めることと、被害者の思いを遂げるかのように死刑や量刑を言い渡すことは、まるで意味が違う。少なくとも、日本の司法システムには、復讐代行機関の役割は与えられていないはずだ。それとも今現在、民衆やマスコミの圧力に屈して、そのような復讐的裁判思想を担うべく、司法の判断が変えられてきているとでもいうのだろうか?

 裁判は一体何ためにあるのだろうか? 「目には目を」という復讐的量刑を犯罪者に味わわせるためなのだろうか?

 重い量刑は、犯罪抑止効果があるという。
 けれども、例えば、今の日本では「一人殺せば、無期懲役」、二人殺せばほぼ「死刑」と決まっているという。なら、二人殺すも三人殺すも同じ。そのような自暴自棄が大量殺人を呼び込むことにもなっているのではないか?

 日本では、刑というもののもつ「教育効果」や「更生効果」をあまり信じていないかに見える。更生機関が、少年犯罪に対する以外、ほとんど整備されていないことにも、その一端が現れる。少年院にしても、どれほどの教育効果が上がっているのか、どれほど適切な更生が行われているのか、その実態は明らかにされていない。だから、人々は、「少年院上がり」として敬遠する。更生が高い確率で成功している実績があれば、それが常に公表されていれば、人々は少年院出を差別せずに迎えることができるはずなのだ。
 性犯罪の再犯率が高いと知りながら、再犯を抑制するための教育と更生、そして指導・監視システムがほとんど整備されていないだけでなく、数少ない監視制度すらちゃんと機能していないことを見れば、その不備はいっそう明らかだ。

 ◆犯罪を犯した者の更生と教育のシステムを◆

 「犯罪は憎むが犯罪者は憎まない」とか、「罪は憎んでも、罪を犯したものを憎まない」という考え方が、日本の刑法システムの根底にあったように思う。けれども、これまで、その理念だけで終わっていたところに、日本の刑法システムの重大な欠陥があったのではないか。
 それぞれの法を犯した人の再犯を抑制する教育・更生システムが不完全でありすぎる。全くない場合もある。たとえば、空き巣の常習犯。七十歳、八十歳近くなってもまだ、空き巣や泥棒、万引などの窃盗犯罪を繰り返し続けているケースが少なくない。
 何度「くさい飯」を食らっても、何度「懲役刑」に処せられても、再犯してしまう。そこには、こうした弱い心の持ち主を矯正し、社会的な存在として更生させて社会に送り返すシステムの不備を思わずにはいられない。
 あるいは、人は、懲役刑そのものが教育・更生システムなのだと主張するかも知れないが、それがある程度機能するのは、せいぜい明治初期までだろう。


 複雑に入り組んだ精神と物質の関係のねじれ、または多様化した社会と心との不整合が過半の犯罪を産んでいる現代にあっては、犯罪を犯したものの中で、そのねじれを正してやる、あるいは不整合をうまく調整してやるという更生システムが欠かせない。
 その意味で、われわれ日本国家は、そのような教育・更生システムについて、社会正義の観点から、国民の幸福という観点から、かなり無関心と言わざるを得ない。そして、その無関心故の無責任のままに、放置されている。

 死刑は、最終手段としても認めるべきではあるまい。たとえ殺人犯であっても、国家が裁判による判決に基づいて死刑を執行することは、つまり、国家が殺人犯と同じレベルに立つことを意味するのだと、だれも気づかないのだろうか? 被害者の家族に成り代わって復讐としての死刑を執行するのだとしたら、国家は殺人という犯罪を糾弾することはできまい。
 あるいはまた、その人物をこの世から抹殺することが、国家の安全となるがゆえに死刑を執行すると主張するのだとしたら、なおさらそれは危険思想といわねばなるまい。国家に危害を及ぼす人間を合法的に殺す装置を持っている国家ほど、危険なものはあるまいから。世界の平和のためにも、人権のためにも。

 ぜひ、日本の社会に、すべての人が受け容れられるような社会更生システムの思想が根付いてもらいたい。人は、人として受け容れられてはじめて、人として生きたいと願う。人として生きたいと願ってはじめて、更生は始まる。

 ◆本当の「思いやり」の社会が準備されなければなるまい◆

 そして、以上の三つのこと、「取り調べの公正性、公平性」がきちんと守られるシステムがあること、「被害者とその家族が十分に救済され、大切にされるシステムと社会感情があること」、「社会に更生・教育のためのシステムが十全に構築され、社会がそうした更生者を誠実に受け容れることが当たり前となっていること」が、この社会に実現していない状態で、「裁判員制度」が開始されるのは、大きな問題となるのではないか? 
 そのようなシステム、あるいは社会感情、社会的な態度を背景とするのでなければ、容易に人は「復讐的量刑」に走ることになる。加害者の更生を願わない社会の感情的な世論に押されて、簡単に「死刑」判決が出ることになるだろう。それだけではない。量刑全体がより過重なものとなっていくことは目に見えている。
 そのようなことのないように、社会の考え方、見方が大きく変貌を遂げる必要がある。そのためにも、逆に、被害者救済と、加害者更生のための社会システムの構築こそが急がれる。それが本当の思いやりの社会ではないのだろうか?