◆われらの社会の腐敗◆
□アナウンサーたち、キャスターの腐敗と衰退□
腐敗はかくも進んでいるのか、と思う。
たとえば、女子アナたち。タレント並みに扱われて、彼らはもう報道を担うアンカーとは言えない存在となっている。話題になることはだから彼らの年俸、彼らのスキャンダル。やれだれかさんと1泊だ、朝帰りだ、不倫だ、路上でキスだ、やれだれかと別れた。そんな彼らにジャーナリズムなどあるはずもなく、わずか数日で報道番組を降板した女性アナも出て来る始末だ。
こんなテレビ局に、まともな報道や社会の腐敗の批判などできるはずもなく、TBSの筑紫哲也氏の口元の怪しいしゃべりも、すっかり精彩失っている。だからといって、筑紫哲也氏に代わるアンカーがいるかというと、どこにも見あたらない。いろいろ問題は、彼にもあるだろうけれど、TBSのジャーナリズムの顔であることは間違いがなかろう。けれどももう彼には、往年の批判力はない。ジャーナリズム先兵としての使命感もあまりないのだろう。老齢が彼の姿勢を弱いものにしている。歯切れの悪いしゃべり口は、彼がこの先もう長くはないことを視聴者に伝えているのだ。
一方、NHKはとちりの女性アナウンサーと視聴者のご気分はいかが?と言わんばかりの自信のない、批判力のみじんも感じられない報道姿勢にはいよいよもってがっかりするばかりだ。こんな報道ばかり流していて、聴取料を強制徴収だなんて、笑わせる。NHKでぼくが見るのは天気予報ばかりだから、もし強制徴収というのなら、天気予報の分だけ払うことにしよう。それ以上の強制徴収をかけてくるのなら、当然訴訟に持ち込むほかない。
また、テレ朝の報道ステーションはどうしても気分は「ネオコンサバ」の感じである。新保守。久米宏のニューステーションが「全共闘世代」のレフティズムを背景にしていたことから比べると、その批判力のなさは、目に余るものがある。その上、いまだにスタンスがはっきりしていない。気分は保守。言っていることの背景はどうみてもオールドリベラリズム。けれども実際にコメントする内容は、どっちつかずで、ふらふら揺れている。ここにもいわゆるジャーナリズムはない。そこにいるのは、視聴率や人気に左右されるマスコミというメディアの子たちでしかない。
□政治の腐敗、使命感のなさ□
政治資金規制法逃れの政治家たち。何億円もかけて不動産をもつ民主党の党首。わけのわからない出費について説明を拒否しつつ、大臣の席に居座る自民党の農相や文科相。指導力もビジョンもない「お友達内閣」。何よりも政治家の使命とは何かをまるでわかっていない「お坊ちゃま宰相」では、日本をどこへ導いてくださるのやら。歴史認識もあいまいで、行き当たりばったり。どこにも背骨のないだらしなさは、日本の政治の弱体を思わざるを得ない。 「拉致問題」だけが内閣の仕事と言わんばかりでは、どうやって国際平和、わけても極東アジアの平和にどうやって貢献するつもりなのだろうか?
□「拉致問題」の本当の解決には□
日本人はわかっているのだろうか?
今から100年近く前から、日本が朝鮮半島にしてきたこと。
今、アメリカ合衆国の議会で「従軍慰安婦」問題がいまさらのように取り上げられて、日本の戦前戦中になしたことが批判にさらされていることの本当の意味を。
それは、日本の「北朝鮮による拉致問題」攻撃が目に余るからである。みずからのなしたことの本当の反省も責任もとろうとせず、自分たちの受けた「拉致被害」だけを取り立てて、それを理由に北朝鮮問題に一線を引こうとする態度に、アメリカ合衆国が批判力を高めてきていると言うことを。その問題について、きびしくみずからの責任を問う、という姿勢が日本の社会および、政府に見られない以上、アメリカ合衆国は、日本という国に極東アジアの平和を云々する資格はない、というスタンスを取り始めているのである。
北朝鮮「拉致問題」についての強気の姿勢は、積み重ねてきた米朝二国間会談において、アメリカ合衆国が北朝鮮に言質を与えたことの証左である。日本に戦前・戦中および植民地時代の犯罪的行為について責任をとらせるということを、約束したに違いない。それがあって、日朝間に平和条約が結ばれてはじめて、「拉致問題」が平和時における解決が見られるのである。
日朝間には「平和条約」が結ばれていない上、日朝二国間は未だに敵国どうしの状態にあるのである。もっとつっこめば戦争状態と同じであると見てもよい。戦争状態にある二国間では、「拉致問題」も通常の平和状態での「犯罪」とは趣を異にするであろう。そのことにきびしく目を向けるのならば、まず植民地時代を通じての太平洋戦争終結までの間の日本の行為について、責任ある謝罪と賠償を行うべきであろう。それが先である。そして、二国間の平和条約を締結すること。
旧西ドイツがユダヤ人に対して行った賠償は、個人的な損害補償が中心であった。日本は朝鮮半島の人たちに対してそのような個人的な損害賠償は一切行っていない。そのことにも実は問題がある。大韓民国政府は、「日韓平和条約」において、大韓民国内の個人的な損害に対する賠償はすべて放棄するということを定めているが、日朝間ではそれは難しかろう。これまでに行われてきた国家間賠償あるいはそれに代わるものとされた無償援助が、けっして個人の被害を救済し得ないことがはっきりしてしまっている以上、個人賠償は相当程度考慮すべきであろう。
まずその問題を解決すべきである。そして「日朝平和条約」を締結すべきである。
その後、はじめて日本は「拉致問題」の解決を迫ることができる。日本にその権利が正当に生まれる。もちろん、「拉致問題」が人権侵害、国際法違反であることは間違いがないけれども、二国間が戦争状態にあって、どこまでそれを要求できるか。太平洋戦争の最中に、日本は国際法に認める範囲内で戦闘行為を行ってきたわけではない。あらゆるタイプの国際法違反を犯してきた日本である。それは、今アメリカ合衆国がイラクでやっていること以上であった。日本国内は平和であっても、北朝鮮は対韓国、対日本とも、いまだに戦争状態なのである。その意識の差、国民感情の差に、なぜ日本人は気づかないのか? 戦争状態であるからこそ、北朝鮮人民は極貧に堪えるのである。平和ボケの日本人にその感覚はわかりようもあるまい。その意識、感覚の落差が「拉致問題」解決を遅らせていることに、なぜ気づかないのだろうか?
強硬姿勢をとることは、極東アジアの平和のリスクを冒すことである。そのようなリスクを冒す正当な権利は日本にはない。日本は北朝鮮と現実の熱い戦争をも辞さないというのであろうか? 日本のバックにアメリカ合衆国の強大な軍事力がついているから、何をしても大丈夫だと信じ込んでいるのであろうか? すでにアメリカ合衆国は日本の頭越しに極東アジアの平和を模索しているではないか? かつてニクソン大統領は日本の頭越しに米中復交をなしとげたという前科をもつのである。今度もそのような裏切りをしないとだれが断言できよう。米朝間で「しゃんしゃん手打ち」はもう間近である。
また、日本はアジアの孤児となろうというのだろうか?
日本がアジアの孤児になると言うことは、非常に危険なことである。極東アジアの平和と「拉致問題」を秤にかけようという日本の政策は誤りである。日本には極東アジアの平和を脅かし、六カ国協議の進展を妨げる権利はひとつもないのである。
そのような平和オンチ、外交オンチ、歴史オンチに、日本の政治を行う資格はない。日本の政治の「腐敗」と「お友達内閣」の弱体が、日本の未来を危うくしている。
その一方で、それを批判できない日本の報道機関の腐敗。きびしく世界平和に貢献するために方策を問うことのできないジャーナリズムの腐敗と弱体は深刻である。もっとももともと、日本にはまっとうなジャーリズムの伝統はない、という意見もあるけれども。となると、いつになったら日本には、正義と平和を求めるジャーナリズムはいつになったらできるのだろうか?
□官僚の腐敗、産業界の腐敗□
官製談合が跡を絶たない。
産業界の談合も跡を絶たない。
防衛施設庁のそれ、国交省のそれ。
談合することによって、不当につり上げられた費用は、つまり国民の税金を不当に略取するものである。それは、いわば「泥棒」行為である。日本は官僚も財界もつまり「泥棒」たちの天下である。「泥棒」の天下であるから、政治資金規正法などあってなきがごとしである。政治家もまたどうやって税金をくすねるかに腐心する。政官財あげての「くすねる」体質はつまり、日本が「泥棒国家」であるということである。
「泥棒国家」であるから、社会保険庁のような不始末も生まれる。厚生年金の不正使用も出現する。厚生年金施設の無駄遣いもまた「泥棒国家」なるがゆえの副産物である。だれも、自分が国民から徴収したお金を国民にきちんと還元しようなどと思っていない。自分のポケットにいかにして取り込むかしか頭にないから、わざとあちこちでお金の垂れ流しをして、自分の懐に入る分を目立たなくしているからである。その意味では「副産物」というより、「泥棒」にとっては必須の垂れ流しであったというべきかもしれぬ。
極東アジアに対しては、その平和を脅かし、その責務を果たそうともせず、過去の歴史を直視しようともせず、それでもなお、国連常任理事国などという権力ばかりを手に入れようとする日本。国内では、平気で国民の懐から金銭をくすねようとする政官財。
この腐敗国家は、これからどうなるのであろうか?
ひょっとすると、昭和のある時代のように、若い将校たちによるクーデターが起こるかも知れぬ。「平成維新」などと呼ばわって。その危険がこれから二十年以内にやってくる危険はあるであろう。天皇が次代へと遷移した後、そのときがやってくるかもしれない。腐敗がいっそう進むからである。
その腐敗を止める力を、ジャーナリズムがもたないこと。
その腐敗を正す力が、われわれ国民にあることを祈るほかない、というのが現状である。そのようなクーデターの時代になる前にこの世を去りたいものである。生きている間はできるかぎりの努力はしてはみるけれども……。
