蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『毛沢東選集』 (線装本) (1965.・1977)

2012年11月26日 | 中国共産党 2 毛沢東
 ○ 『毛沢東選集』 〔線装本:全四巻で四秩(計16分冊)、26センチ〕

 ・第1秩 4分冊で計604頁

  本書出版的説明

 這部選集、包括了毛沢東同志在中国革命各個時期中的重要著作。幾年前各地方曾経出過幾種不同版本的『毛沢東選集』、都是没有経過著者審査的、隊例頗為雑乱、文字亦有錯訛、有些重要的著作又没有収進去。現在的這部選集、是按照中国共産党成立後、所経歴的各個歴史時期並且按照著作年月次序而編輯的。這部選集尽可能地捜集了一些為各地方過去印行的集子還没有包括在内的重要著作。選集中的各篇著作、都経著者校閲過、其中有些地方著者曾作了一些文字上的修正、也有個別的文章曾作了一些内容上的補充和修改。
 〔以下省略〕

   中共中央毛沢東選集出版委員会
            一九五一年八月二十五日
 
 ・第2秩 4分冊で計845頁
 ・第3秩 4分冊で計638頁
 ・第4秩 4分冊で計713頁

 〔奥付〕

   毛沢東選集 第四巻(一-四冊)
          人民出版社出版 新華書店発行 上海中華印刷厰印刷
            根拠一九六四年一月線装本縮小製版 
            一九六五年十月第一次印刷
            統一書号一〇〇一・六七七 定価十二元

 

 ○ 『毛沢東選集 第五巻』 〔線装本:26センチ、一秩(四分冊)〕。

 ・第一分冊 出版説明4頁、目録14頁、本文1-246頁

  出版説明

 偉大的領袖和導師毛沢東主席的著作、是馬克思列寧主義的不朽文献。根拠中共中央的決定、『毛沢東選集』第五巻現在出版了、以後各巻也将陸続出版。
 過去出版的『毛沢東選集』第一巻至第四巻、是新民主主義革命時期的重要著作。第五巻和以後各巻、是社会主義革命和社会主義建設時期的重要著作。
 〔中略〕
 『毛沢東選集』第五巻是一九四九年九月到一九五七年的重要著作。〔以下省略〕
 〔中略〕 
 収入選集的毛沢東同志在社会主義革命和社会主義建設時期的著作、有一部分公開発表過、有一部分没有公開発表過、包括毛沢東同志起草的文件、手稿和講話的正式記録。講話記録在編輯時作了必要的技術性的整理。

    中共中央毛沢東主席著作編輯出版委員会
                 一九七七年三月一日
 
 ・第二分冊 本文247-506頁
 ・第三分冊 本文507-712
 ・第四分冊 本文713-984頁、奥付。

 〔奥付〕

   毛沢東選集 第五巻(一-四冊)
          人民出版社出版 新華書店発行 上海中華印刷厰印刷
            根拠一九七七年四月第一版排版影印 
            一九七七年十月第一次印刷
            書号一〇〇一・一一三七 定価十六元

毛沢東語録 テキスト版 カセット・テープ (1971)

2012年11月25日 | 中国共産党 2 毛沢東

   毛沢東語録 テキスト版 ★ カセットテープ (株)満江紅

     毛沢東語録 テキスト版
       吹込:北京放送学院  毛沢東著作言語研究会編
          株式会社 満江紅  
         テキスト共 定価3,000円 (テープのみ2,520円) 〔値段は、変更後の値段が貼られているようである。〕

   

  毛沢東語録テキスト版 

   テープ御利用の皆様へ 

          (株)満江紅

 このテープは、1967年8月~9月に、毛沢東著作言語研究会第一回訪中団が中国を訪問した際、団の依頼により、中国科学院語言研究所および北京放送学院の好意で日本人民のために吹きこまれたものです。
 内容はテキスト用として特に選ばれた183編((株)満江紅発行:毛沢東語録テキスト版 \480)がおさめられております。(ただし※印は含まれず)。
 形式は、現在中国でおこなわれている方法にしたがい、冒頭に「第~頁、第~段」と読みあげ(テキストでは、1-1、1-2と表示)、次に「我們偉大的領袖毛主席教導我們説」、「我們心中最紅最紅的紅太陽毛主席説」などという言葉が入り、それから本文につづきます。
 皆様の中国語学習のお役にたてば幸いです。

 上巻:90分
   (表)第1章:共産党~第5章:戦争与和平
   (裏)第6章:帝国主義和一切反動派都是紙老虎~第19章:革命英雄主義
 下巻:60分
   (表)第20章:勤倹建国~第27章:批評和自我批評
   (裏)第28章:共産党員~第33章:学習

 ※ カセットテープの発行年月日: 記載は無し。ケースにあるテキスト版の本の値段から、1971年とした。

 なお、『毛沢東語録 テキスト版』 1968年 大安 には、5インチテープの広告がある。

         

 ○ 毛沢東語録 テキスト版  毛沢東著作言語研究会編 株式会社 大安  〔初版:上左〕

    :「1968年 〔昭和四十三年〕 4月1日第一刷発行 編者 毛沢東著作言語研究会 発行所 株式会社 大安」「¥400」。21センチ、目録2頁、解説-序をかねて-8頁、本文・注釈188頁。

  下は、学習用テープの広告である。

  毛沢東語録 -テキスト版- 学習用テープ

   5インチテープ 全2巻 定価 上巻 2,000円 下巻 1,500円
   毛沢東著作言語研究会代表団訪中の際、中国科学院語言研究所の指導と、放送学院(北京)の吹込による。
   発音正確、明快、中国語学習の決定版。

 ○ 毛沢東語録 テキスト版  毛沢東著作言語研究会編  株式会社 満江紅  〔改訂再版:上中〕   

     :「1971年 〔昭和四十六年〕 3月15日第一刷発行 編者 毛沢東著作言語研究会 発行所 株式会社 満江紅」「¥480」。21センチ、目録2頁、このテキストの意味するもの(まえげきに代えて)6頁、本文・注釈188頁。

 下は「このテキストの意味するもの -まえがきに代えて-」(代表者 香坂順一)の一部。

 《毛主席語録》のテキスト版の編集にもとりくみ、68年4月に大安書店から出版した。このテキスト版におさめた語録の各条は、前期訪中のさい、中国科学院語言研究所の人たちが、私たちの申し出をうけいれ、録音してくれたテープによって選択したものであり、語録が中国でどのように具体的に読まれているかを、はじめて日本に紹介したものとして、日本の中国語界に熱烈に歓迎され、大きな影響をあたえた。

 このテキスト《毛沢東語録》テキスト版は以上のようないみから、日本の中国語教育の再度の出発をうながす役割を果しうるものと信じ、あえて改訂再版にふみきったものである。
 なお、この初版本は、その「まえがき」でものべたように、中国科学院語言研究所・歴史研究所・哲学研究所および北京広播学院の紅衛兵諸氏のご好意と、さらに私たちの訪中実現に尽力された日中文化交流協会のご配慮によって完成されたものであることを、かさねて明らかにし、感謝の意を表わしておきたい。

 なお、本文は、三十三項目の183条が見開きで、左頁は中国語簡体字、右頁はピンインで記され、最後にまとめて〔注釈〕がある。

 ○ 毛沢東語録 テキスト版 毛沢東著作言語研究会編  株式会社 満江紅 〔改訂三版:上右〕

     :「1971年3月15日第一版 1972年5月1日第二版 編者 毛沢東著作言語研究会 発行所 株式会社 満江紅」「¥560」。21センチ、目録2頁、このテキストの意味するもの -まえがきに代えて-6頁、本文・注釈188頁。


『林副主席語録』 (1969.1)

2012年11月23日 | 中国共産党 3 林彪

 表紙には、毛沢東と林彪の写真、金字で「忠忠忠」と「林副主席指示」とある。背表紙には、金文字で「林副主席指示」とある。10.2センチ、写真4葉〔毛沢東肖像1葉、毛沢東と林彪4葉〕、毛沢東と林彪の題辞など、目録3頁、本文344頁。

 目録

 一、大海航行靠舵手、干革命靠毛沢東思想
  (一)毛主席是当代無産階級最傑出的領袖
  (二)毛沢東思想是当代馬克思列寧主義的頂峰
  (三)毛主席的革命路線勝利万歳
  (四)一定要把毛沢東思想真正学到手 
 二、念念不忘階級闘争 
 三、一定要突出無産階級政治
  (一)突出政治
  (二)四個第一
  (三)三八作風
  (四)四好運動
  (五)政治教育
  (六)批評与自我批評
  (七)幹部
  (八)軍民団結、虚心向地方学習
 四、領導作風和領導方法
  (一)提唱活的領導
  (二)群衆路線
  (三)雷歴風行
  (四)調査、研究、実践
  (五)抓両頭
  (六)集体領導和分工負責
 五、戦備与訓練
  (一)加強戦備
  (二)訓練方針和原則
  (三)訓練方法
 六、作戦指揮
  (一)偵察
  (二)堅定霊活的指揮
  (三)近戦、夜戦
  (四)戦闘作風
  (五)殲滅戦
  (六)一点両面戦術
  (七)四快一慢戦術
  (八)三猛戦術
  (九)四組一隊戦術
  (十)三三制戦術
  (十一)三種情況三種打法
  (十二)積極防御
  (十三)集中兵力、重点防守
  (十四)積極主動、打撃敵人
  (十五)頑強堅守要点、各個撃破敵人
  (十六)要使司令部成為能干的指揮機関

 

 表紙には、「大海航行靠舵手、幹革命靠毛沢東思想  林副主席語録」とある。内表紙には、さらに「内部発行 一九六九年一月」とある。10.3センチ、毛沢東肖像写真1頁、毛沢東と林彪の写真2頁、林彪の題辞3頁、代前言4頁、目録2頁、本文326頁。

 目録

 一  、毛主席是当代最偉大的馬克思列寧主義者
 二  、毛沢東思想是当代馬克思列寧主義的頂峰
 三  、一定要把毛沢東思想真正学到手
 四  、中国共産党是用毛沢東思想起来的党
 五  、人民革命
 六  、念念不忘階級闘争
 七  、念念不忘無産階級専制
 八  、念念不忘突出無産階級政治
 九  、無産階級文化大革命
 十  、打倒美帝!打倒蘇修!打倒各国反動派!
 十一 、人民戦争
 十二 、人民軍隊
 十三 、四個第一
 十四 、三八作風
 十五 、四好連隊運動
 十六 、革命英雄主義
 十七 、加強戦備
 十八 、革命的群衆運動
 十九 、培養共産主義新人
 二〇 、幹部
 二十一、思想方法和工作方法
 二十二、批評和自己批評
 二十三、勇于改正錯誤
 二十四、紀律
 二十五、教育和訓練
 二十六、理論和学習
 二十七、一定要弁法報紙
 二十八、革命文芸

 

 表紙には、「毛沢東思想勝利万歳」とある。内表紙には、さらに「(供内部発行) 一九七〇年六月」とある。10.1センチ、毛沢東写真4頁、毛沢東と林彪の写真2頁、林彪の題辞4頁、最高指示551頁、林副主席語録633頁、中国共産党第九次全国代表大会文献124頁。

 最高指示
 林副主席語録

  代前言
  目録
 一  、毛主席是当代最偉大的馬克思列寧主義者
 二  、毛沢東思想是当代最高水平的馬克思列寧主義
 三  、毛主席的無産階級革命路線勝利万歳
 四  、永遠忠于毛主席、忠于毛沢東思想、忠于毛主席的革命路線
 五  、大海航行靠毛沢東思想
 六  、偉大、光栄、正確的中国共産党万歳
 七  、無産階級文化大革命
 八  、階級闘争
 九  、無産階級専政
 十  、突出政治
 十一 、政治工作
 十二 、群衆路線
 十三 、人民戦争
 十四 、人民軍隊
 十五 、四個第一
 十六 、三八作風
 十七 、四好連隊運動
 十八 、管理教育
 十九 、部隊訓練
 二〇 、戦略技術
 二十一、敢于闘争、敢于勝利
 二十二、加強戦備
 二十三、反帝反修、把世界革命進行到底
 二十四、社会主義革命和社会主義建設
 二十五、自力更生、艱苦奮闘
 二十六、政策和策略
 二十七、領導作風和領導方法
 二十八、思想方法和工作方法
 二十九、理論連系実際
 三十 、調査研究
 三十一、民主集中制
 三十二、団結和闘争
 三十三、紀律
 三十四、破私立公
 三十五、糾正錯誤思想
 三十六、批評和自我批評
 三十七、幹部
 三十八、青年
 三十九、教育革命
 四十 、文芸革命
 四十一、一定要弁好報紙
 四十二、学習

 中国共産党第九次全国代表大会文献


「楽聖グノー百年祭記念大演奏」 (1918)

2012年11月23日 | ピアニスト 2 小倉末子

    

 音楽学校に於ける楽聖グノー百年記念大演奏会

 音楽春秋会の主催に係る楽聖グノー百年記念演奏会は大正七年 〔一九一八年〕 三月二日上野なる東京音楽学校で開かれたが春の音楽期に於ける記録を破る程の大盛会であつた。来会者仏国大使夫妻始め貴紳淑女の群は楽堂に溢れ、先づ横枕新楽長の指揮する海軍々楽隊の演奏多大の興味を以て迎へられ武岡鶴代の独唱、小倉末子女史のピアノ独奏、芝杉山東儀多四氏の絃楽四重音等何れも大喝采を博したるが殊に花の如きルマノフ夫人とカール教授のピアノ二部合奏は満場唯一人其妙音に魅せられぬものはなかつた、最後は海軍々楽隊の管絃楽「フアス」〔ファウスト〕七種の大連舞の演奏があつて同会は耳に美しき印象を残して散会した。写真は当日の演奏者右より小倉末子、ルマノフ夫人、横枕海軍々楽長、長坂好子、武岡鶴代子、原みち子である。

 A memorial concert was held at the Tokyo Music School.

 上左の写真と説明文は、『写真通信』 第四十八号 大正七年 四月号 に掲載されたものである。

 楽聖グノーの百年祭記念大演奏会 

Great memorial concert of Gounod, the French composer.

 独逸の楽聖グノーの百年祭記念演奏会は大正七年三月二日午後東京上野の音楽学校に於て催された。グノーの写真を美々しく飾った前で小倉末子女史のピアノ独奏、芝、杉山、東儀、多四氏の弦楽四重奏は共に大喝采。次で花形ルマノフ夫人とカール教授とのピアノ二部合奏は当日の白眉であった。尚最後にグノー傑作中のファウストは管絃楽で奏せられたが当日の入場者は千五百、近時稀に見る盛会であった。写真は当日音楽会の光景で右より小倉末子女史、ルマノフ夫人、横枕楽長、長坂好子嬢等である。

 大正七年三月、在東京上野音楽学校、開徳国楽聖顧納百年祭記念演奏会、由右方起、小倉末子女史、魯瑪諾福夫人、横枕楽長、長坂好子嬢。

 上右の写真と説明文は、『歴史写真』 第六十号 大正七年 四月号 に掲載されたものである。

  

 体育に注意する独逸の女学生 東京音楽学校教授 小倉末子

 独逸の女学生の夏の生活!其れはなかゝ面白うございます。平生は側目(わきめ)もふらずに専念自分の研究に没頭してゐますので、夏休みには身体を主として、涼しい郊外に運動するとか遊戯するとか、多くさうした方面に日を送り、学問とか研究とか云つたものからすつかり離れて頭脳を空にして遊ぶのでございます。

 ◎緑蔭に端艇 ボート を浮べ庭球を遊ぶ

 独逸では六月が割合に暑いので、夏休みはこの月から始まります。私は重 おも に伯林 ベルリン に居りましたが、日本の夏に比べると幾らか涼しくはありますが、町には舗道に敷きつめたアスファルトの照返しでかなり暑苦しく感じられます。それで多くは思ひゝに避暑地へと出かけます。こんな風で十一月頃から翌年五月初旬頃までは音楽会 オペラや其他の催しがあつて華やかな交際の季節になつてゐるのですが、夏になると都はひつそりとなつて、避暑地が賑かなにるのでございます。
 女学生は名目の家の経済状態で行く先は一様ではありませんが、何処かしらへ出かけます。或は遠く端西 スイス あたりへ出かけて風光明媚な山水に思ふ存分接して平生の疲れを休める者もあれば、亦伯林から程近き郊外、ザクセン王宮の所在地で且 かつ は名所旧跡多いポツダムなどに遊びます。そして湖水や河にモーターボートを浮べ、或る時は端艇を操り、運動場に出て庭球やゴルフ等の遊戯に耽ります。その快活な様子は見てゐても気持よく思はれます。服装の関係もありますが、活発な運動を自由にする事が出来て、登山等をする人も大分あります。道を歩いてゐても私共日本の婦人では追付ない位よく歩きます。

 ◎独逸婦人の強健は平生の資 たまもの

 私は音楽学校に居たのですから、他の学校の様子は余りよく存じません。私共の先生はお一人で十一人位の生徒しか受持たれないので、総べての方面に細かく気をつけていたゞくことが出来ました。就中 なかんづく 体育には絶えず注意して下さいまして、一日の中でも必ず一度は運動しなければと云つて散歩や遊戯をお勧めになりました。夏休みになる一寸前には伯林を少し離れた景色の善い所にお招き下さいまして、楽しく一日を遊んだ事もございました。
 こんな風に彼地 あちら の女学生はよく運動する事と云つたら、とても日本婦人の及ぶ所ではありません。独逸の婦人が強健なのは斯 こ うした平生の注意が與 あづか つて力のある事を思ひます。私なども彼地に居りました際にはよく運動しましたが、さて帰つて来ますと運動する設備も充分備つてゐない為でもありませうが、運動する機会が無いので少し歩くと疲れてしまひます。日本の習慣として女が一人で唯ぶらゝ町を歩いてゐるのも何だか変に思はれますので、つひ運動不足になつてしまひます。

 ◎設備の整うてゐる海水浴場

 それから又海水浴も盛んに行はれて、誰でも自由に行ける所ではまるで人の海かと思はれます。風光明媚な瀬戸内海あたりの海岸は彼地には見当たりません。それでも入場券のいるやうな所は設備もよく出来て居ります。海岸の砂地に行つて見ると、身体に日光の直射しないやうに出来た椅子が幾つもあつて、海に入らない人でも子供を伴れて遊んでゐます。着物を脱ぐには車の附いた箱のやうなものがあつて、其の中ですつかり海水浴衣に着更へて車を水の中まで入れる事が出来ますから身を人の前に見せる事なく水の中に入つて行けるのでございます。

 ◎忘れられぬ独逸の夏の思出

 瑞西あたりへ避暑に出かけるのは先づ贅沢な方で極く質素にいたしますには伯林に近い田舎の旅館か農家などの一室を借りるのです。彼地では町から避暑に行く人を喜び迎へて深切に世話して呉れます。それから伯林から遠く離れぬ処にスプレーウオルドと云ふ水の清い河に沿うた道には日本の櫻のやうな樹の茂つてゐる村がありました。其処にはスプレーウォルダリングと云ふ昔のまゝの優美な服装をした婦人がゐて、伯林あたりでは其処の婦人を子守に雇ひました。頭に美しいレースの頭巾を被つた婦人の姿の見える並木道に沿うて、半日位流れを舟で上つたのも今に忘れぬ思出の一つであります。

 上の一文は、大正七年七月発行の『女学世界』 七月号 第十八巻 第七号 に掲載されたものである。

 

 海外の誌友 伯林小倉末子

 上の写真と説明は、明治四十五年八月発行の『淑女画報』 第一巻 第五号 に掲載されたものである。


「舞台のピヤニストから聴衆へ」 久野久子 (1922)

2012年11月23日 | ピアニスト 1 久野久子

 舞台のピヤニストから聴衆へ 
      西洋音楽を聴く時の心持
              東京音楽学校教授 久野久子

  

  (ピアノに向かふ久野久子嬢)

  演奏者の名を聞く人

 西洋音楽を聴く人に対して私が望むことは、第一に音楽家を聴かずして音楽そのものを聴くといふ風であつて欲しいと思ひます。
 近頃では西洋音楽に趣味を持つ人が大分多くなりましたが、まだ一般には本当の趣味は更に普及してをりません。大抵の人は、あの人のピアノだから聴きに行かうとか、大家だから名人だから聴いてみようとかいふ風に、人を標準に考へてをります。これでは真に音楽といふものを理解して聴きに行くものとは申されません。勿論人も大切ではありますが、真に音楽に対して感興を持つのでなければ、音楽を聴いたといふことはできないと思ひます。音楽の価値は弾く人によつて決定するのでなく、音曲そのものによつて決定するのであります。勿論弾く人の熱心と技巧にもよりますけれどもー。

  作曲者の前に立つて

 第二に、音楽を聴く時の態度は、たとへてみると、ベエトオヴエンの作曲であれば、聴き手は全くベエトオヴエン自身の前に立つた態度であつて欲しいと思ひます。ややもすれば演奏者の技巧について彼是と批評することばかり考へて、曲に対する敬意と申しませうか、これを厳粛な気持で受入れるといふ気持が少ないやうです。これではどんな名人の作曲でも本当のことは到底諒解されまいと思ひます。
 第三は、ただピアノを弾く人でなく、作曲家自身の前に立つてゐるといふ心持ができたならば、今度は曲そのものに全く同化し得る態度があつて欲しいと思ひます。ただ楽観的に音楽を聞いてゐるといふだけでは、折角の名曲も十分その価値を味はふことができずにしまひます。ですから、シヨパンを聴く時には、私どもがシヨパンの心持になつて初めてシヨパンの曲が理解されるのであります。即ち、シヨパンになつて初めてシヨパンがわかり、ベエトオヴエンになつて初めてベエトオヴエンがわかるのです。
 音楽を聴く人は、その小さい先入主をすつかり捨てて、全く虚心坦懐の気持にならなければなりません。それでこそ人間の魂の奥底から湧き出る悲壮な神秘をキイの響きから聴取ることができるのであります。
 第四に、これから推して考へると、演奏者は全く作曲者の仲介者であるべき筈であります。さすれば聴く人は演奏者の音楽を聴くのでなくて、演奏者に仲介して貰つて作曲者の名作を聴くのでありますから、私はピアノにむかつて演奏する時には、楽聖に対して非常に重大な責任を感じます。この厳粛な心持を聴衆が感じて聴いて下されば幸ひであると思ひます。
 私がピアノにむかふ時は、真にわれもなく人もなく、夢中に曲に同化してキイを打ちます。その時の曲そのものは私の生命の表現であります。そして、それを聴衆がいかに聴くか、如何に感ずるかといふことは少しも考へてをりません。しかし、音楽を聴く人の心得をとのお尋ねに対しては、前に申上げた通りお答する外はありません。
 私の前に美しい花束が飾られるのは取りもなほさず、これを楽聖に取次いだに過ぎません。また聴衆もその意味で楽聖に捧げる態度でゐて欲しいといふことを切望いたします。

 上の文と写真は、大正十一年 〔一九二二年〕 一月一日発行の『婦人世界』 一月 第十七巻 第一号 に掲載されたものである。

  

  忠実に演奏し終つた時 久野久子
      
      ○
 人と相対した時、又人の芸術に触れた時、何とはなしに一種の引付けられる感を抱かせられ、永く自分の印象に残る強さが強いほど、其相手の人が偉いのです。例へば其人が学者であらうと、又事務家であらうと芸術家であらうと、又男であらうと、女であらうと何人たるを問はず、其人の一言一句、又其人の腕から手から、指から沸く芸術は、其人の生まれながらの性格の根底に横たはる真実と、努力から迸(ほとばし)り出たものであるならば、他人を引付け様として意識的に技術をつかうのでも何でもなくとも、真実の波は相手の真実性に電波の様に伝はつて感動させるものです。この様な力ある人は確に偉い人です。
 この真理は音楽に於ても同じ事であつて、人を感動せしむる音楽は、音楽家自身の真実の発露でなければなりません。楽壇に立つて多くの聴衆を相手に演奏しましても、主観的には其の聴衆は相手ではありません。演奏者は自分に向つて集まる何千何万の眼と、耳を超越して、唯ひたすらに自分の内心に動く芸術の波を、忠実に演奏し終つた時が、人を最も感動せしめた時です。それは丁度兵士が戦場での命懸けの戦に等しいものです。
      ○
 此状態は芸術家のエクスターシーであつて、目に見えない偉大な力と、芸術家の力と、不可思議な合一の様に思へます。かうした芸術を生み出す人、又生み出さうとする人は、何時も自分の芸術の根本性の律動に耳を傾けて、より深い、より充実した芸術を生み出さうと努力します。かういふ人にとつて芸術は人と競争すべきものでもなく、聴衆の賛美を目的とするものでもないことは明らかです。
 私は常にピアノと健康さへあれば、それで足れりとします。名誉も、讃美も他のどの様な幸福も敢へて求めません。ピアノのキーに自分の情熱を吹き込む時にも、又練習の何回と数しれぬくりかへしの時にも、私には世界に何ものもありません。唯云ふに云はれない法悦の心に充されます。
      ○
 芸術は人格の発露ですから、真の芸術は善に強い人格から生れ出ます。悪人からは如何に技術や、才能があつても、真の芸術は生み出し得られません。かうした善に強い立派な性格の持主の情熱が、努力によつて理性に結び附けられて、よりよいものを生み出さうとして励み行くところに、真の貴い芸術が生み出されます。
 天才を気取つた放縦な芸術は、真の芸術ではありません。天與(てんよ)の才はより多く所有して居りながら、性格の破産の為に十分其才を育て得ずして終る人が多くあります。又一方に始めは、それ程才が無くとも、性格の立派さが其れを打ち破つて、立派な芸術を生み出す人もあります。私共人間の才も、宝石と同じ様に、磨いて始めて燦然たる光を放つ様になります。一度音楽に志しても、自分の才能が足りないと悲しんで、中途で止めてしまう人がありますが、其様な人も、もつとゝ努力して、自分の才の泉を掘りあててみなければ分りません。或は思ひ懸けない力が潜在して居るかも知れませんから。何しろ根強く自己の才能を開拓して行かなければなりません。その内には自分の性格もよりよく教養され、本当の芸術家に、又人間にもなれます。
      ○
 真の芸術家…云ひかへれば音楽家は、本当に芸術を理解しようとする熱心な人も、又無理解な人をも其芸術の力で陶冶して、つまり修身の教にもあたり無言の内に他の人各を教育して居るのです。どうか私共はかうした関係に於て、お互に自分達の芸術をよりよいものに磨き上げて行きたいものです。此所迄来ると修身の教も音楽も一に帰します。
 音楽は人を情熱的な気高いものに作り、そして其楽音は人の力で生作されます。

 上の一文は、大正十一年二月一日発行の『婦人画報』二月の巻(第百九十四号)に掲載されたものである。

 

 ◇私は何故に結婚しないか 

 ○ピアノが私の生命 東京音楽学校教授 久野久子

 何故に独身生活を、それから今までの心持をまた感想を、とのおたづねに、何とお答へがいたされませう!たゞざつと私の摑み得たことだけを申してお答へといたしたく存じます。
 私は明治十八年十二月二十四日、滋賀県大津市松本の石場と申す(私の家の裏手が琵琶湖でございます)ところで生れました。家から約一丁ほど離れたところにある松本神社が、産神様でございましたが、私が生れて半年目、梅といふ女中が、神社の石段から過つて私を落し、丁度器械体操などをして腕をはづしたときのやうに、私の足のつけ根をはづしてしまひました。まだ赤坊のことゝて、その夜から一週間ばかりは痛さに泣きつゞけました。幸か不幸か外面には傷を受けませんでしたので、家人には私の泣く訳がわからなかつたのでございます。やつと泣き止みはいたしましたが、三歳四歳と年をとつても、一向に歩きませんので家人は初めて不思議に思ふやうになりました。その歩き方が変なので、皆が寄つては心配いたしました。
 私の両親は不具者になつた私を、琴や三味線の師匠にしようといふので、六歳のときから私に琴の稽古をいたさせました。丁度尋常三年生のとき、兄が中学へ入りましたのと、それに京都は古くから生田流の本場でございますので、かつまた母が私を立派な師匠に仕込みたい一念からとで、たうとう私を京都へまで連れてゆき、生田流の名人古川龍斎先生について稽古をいたさせ、遂に奥許しを受けるまでになりました。それは私の十三歳のときのことでした。奥許しには誓書(誓いの証書です)には血判を捺(つ)くことになつてゐましたので、この時私は古川先生のお杯(さかづき)を受けまして母が針で私の人差指を突き、血を出して血判を捺させてくれたものでした。そのときのことを、私は今もはつきりと覚えてをります。そして私は、学校は尋常四年を卒業したきりで、それからといふものは、一年に三四度遊びますだけで、毎日く朝から晩まで、琴と三味線を仕込まれてをりました。私の十五歳の十二月二十一日、母は永らく病気をした上、この世を去つてしまひました。
 けれども兄は京都の高等学校にをり、私はやはり琴三味線を古川先生に就いて学んでをりましたが、兄が友人から、東京に音楽学校のあることを聞いて、そこへ私を入れようと、そのことを父に申しました。そこで私は明治三十四年九月、辛(から)。うじて入学することができました。このやうな訳でございますから、独身でゆく決心などをいたしてゐた訳では決してございませんでしたけれど、自然にさういふ風になつてきてしまつたのでございます。 
 現在の私の感想や心持などは、いろゝありまして、到底も書き尽されません。西洋人と同じやうに年を数へますと、私は今日で三十六年と五日この世に生きてきました。音楽学校は入学して一年後、病気でまる一ヶ年間を休学しまして、明治三十九年七月卒業いたしましたが、それから後十年余りの間にには、私のやうなものにでも結婚の話がないこともありませんでした。心の動揺もいろゝありましたが、それをやつと通り越してきた現在の私には、ピアノのキイを弾つほかに何の興味も希望もありません。どのやうな愛も宮殿も決していやとは思ひませんが、少しもそれらを望まうとは思ひません。しかし現在切に望ましく思ふものはたゞ一つあります。それは時間であります。二三年でもよろしいと思ひますが、専心勉強し得る時間が欲しうございます。それにはいろいろと理由があるのです。
 一昨九年夏、私がピアノの上に長い間の一つの疑問がありましたのが、(それは私のどうしても絶望するより外いたし方ないものと断念めてゐながら、しかもそれを思ひ切れずになほ研究を続けてゐたものでございましたが)それがやつと解決されたのでございます。そのために私は非常に力を得る様になりました。この上は、幸ひ私は身体も丈夫であり、精力さへ続けば、現在の哀れさも、十年のうちには屹度破つてゆかれよう、屹度ゆけると、激しい心に奮ひ立つたのでございます。
 しかし私の現在は、一週間の七日のうち、二日間も勉強のために時間をとることもできないくらゐの忙しい身でございます。といつて自ら身を退いてしまふことはなかゝ困難なことです。さりとてこの切なる望みを捨てゝしまふことは、尚更できないことでございます。是非にも何とかして、心ゆくばかり勉強したいと希つて止みません。
 とは、申せ、私も心の底からの深い幸福をも豊かに持つてをります。それと申すのもピアノのお蔭で、私はオールドミスの寂しさなど感じたことはありません。善と真実なるものゝほか、何ものをもまざらしむべきではない私の心には、世の中の人と人との関係の、余りにもうそ寂しい例の、多くあるのを見せられるたびに、何となく情けない気持をさせられ、自分の独身でゐることを、却て仕合せにさへ思ふほどでございます。そして自分の仕事に、身も心も打込んでゆくことのできる幸福さを、しみじみ有難く思ひます。さうは申上げますけれど、私が大正四年一月、自動車に轢かれましたとき、皆様から受けました深い御同情を、今もなほ感謝してをります。ゴッホが『恨みも愛に云々(うんぬん)』と申してをられましたが、私は如何なる人に対しても、何時(いつ)も喜びの心を持つてお対(むか)ひいたしたう存じます。ましてこのやうなお情けを受けます私は感謝と共に、力の限り勉強して、お礼をいたしたいと燃ゆるやうな心持でをります。

 ○音楽の研究に 東京音楽学校教授 小倉末子

 貴社は私が独身生活を決心したものとしてその感想を聞かせよとの御依頼状を下さいましたが、現在私はまだ音楽研究中の一学生に過ぎないのでございますから、独身生活とか、結婚とか申すやうなことにつきまして、少しも考へましたこともございませんのですから、お尋ね下さいましたことに、お答へいたす何ものをも持つてはをりませぬ。

 上の二つの文は、大正十一年二月十五日発行の 『主婦之友』 二月十五日号 第六巻 第四号 に掲載された四人〔他の二人は、小説家 田中純、小説家 三津木貞子〕の回答中のものである。


「高木徳子のトーダンス」 (1915)

2012年11月23日 | ダンス デニショーン、サカロフ夫妻他

   

 左の写真;

  帰朝して帝国劇場の「夢幻的バレー」に出演した大正四年〔一九一五年〕と思われる。なお、同じ写真で同じ矢吹高尚堂製の別の絵葉書には、「高木徳子のダンス」とある。

 右の写真:

  高木夫人のダンスぶり

  高木陳平夫人徳子の君は八年以前渡米し、ダンスを学んで其の技堂奥に入り、爾来米国各地に於て得意の技を演じ、到る所で大喝采を博しつゝありしが、先頃久々にて帰朝し、二月早々帝国劇場にあらはれました。-(上)高木氏夫妻。-(下)は夫人のトーダンス。

  上の写真と解説は、大正四年三月一日発行の『淑女画報』 三月号 第四巻 第三号 の口絵のものである。なお、目次では、「問題の婦人 (高木夫人 〔高木徳子〕 のトーダンス)」となっている。
  
  

 表情ダンス(高木徳子夫人演)

 右の写真:

  (上)スペインダンス『オペラトラビヤタ』の一節。
  (右)コントラルトー独唱のスタイル。
  (左)ギリシア古典舞踊『オペラジオコンダ』の一節。

 左の写真:

  (上)ロシア古典舞踊『霊島』の一節。
  (右)スペインダンス『オペラトラビヤタ』の一節。
  (左)指頭舞踊 トーダンス 『待焦れたる恋人の足音を聞いて』
 ー高木夫人は数年間米国に於てダンスを学んで其の技神に入れる斯界の名手であります。

  上の写真と解説は、大正四年七月廿四日印刷納本 の『淑女画報』 第四巻 第八号 の口絵のものである。 

   

 高木徳子の舞台振(其一)〔左〕   高木徳子の舞台振(其二)〔中〕  在米当時の高木徳子の舞姿〔右〕 

   オッチヨコチヨイ出世物語 
    爪先ダンスの名人高木徳子の半世  
                      金惠比壽

 ▲新派劇の開祖川上音二郎の前身がオツケペケペーの大道飴屋であつた如く、近頃爪先ダンスと称して一種特異のダンスを以て大モテ囃されて居る高木徳子なども亦御座敷育ちの芸人ではない。其の前身は何を隠さう、猫ぢやゝのオツチヨコチヨイ踊を売物にした極めて貧弱な旅芸人であつた。頃は明治四十年の春、北米はピッツバーグ市の郊外に花見の客を当て込んだ茶店が沢山出来たが、其中に一軒日本人ばかりの風変わりの珈琲店があつた。店員は僅に三名、其中二人の男は台所に立ち働き、専ら、客に応接のボーイを務めて居たのは未だうら若い日本の美人であつた。其身には裾模様の振袖を着け、目も覚えるような金絲の刺繍の幅広の帯を胸高に結んだ日本ムスメの粧ひが、珍しき物好きの米人には余程お気に召したものと見えて開店当日よりの大入大繁昌。初めの中は好奇心で見て居た他の茶店のものも漸 ようや く其繁昌を嫉む程に盛つたものだ。その三人の日本人とは誰あらう、男の中の一人は、神田小川町の宝石商金石舎の伜の高木陳平君で、他の一人は芝桜田本郷町の料理店今庄の森秋藏君。二人は共に金の降る亜米利加に一攫千金の夢を握みに出懸けたのだ。そしてこの店の弗箱 どるばこ とも看板娘とも言可き女こそ今日爪先ダンスの一人芸に一代の花を咲かせた高木徳子さん。良人 をつと 陳平君に嫁して僅に十五日、新婚の夢も碌々見る暇もなく、良人と共に母国を去つた、まだいぢらしい花嫁さんであつた。海山越えて幾千里、金の成る木を探しに出かけて来た程の三人の懐がいかにうら淋しかつたかは言ふまでもない。最初 はじめ の内は、男どもはお定 さだま りの料理屋の皿洗ひや硝子拭きなどに雇はれ、花嫁の徳子さんも仲働きに住み込んで互 たがひ の口を糊 ぬら しては居たものゝ、何時まで人に使はれて居たのでは金の生 な る木に廻り会へる筈もない。三人寄れば文殊の智慧、あれかこれかと儲け仕事の詮索に、不図思ひついたのが花見客を当て込みの珈琲店。それには幸ひ徳子さんが嫁入り支度をソックリ持つて来たので、パット綺麗な日本ムスメを囮鳥 おとり に、鼻の長い米国のお客を釣らうと言ふのが其魂胆であつた。
 
 ▲案の如 じやう 、三人の計画は図星に当つて、店のお客は毎日々々降つて湧く程の勢ひ。其上、夜になると、彼方 あつち 此方 こつち の家庭から来て呉れろと言ふ物好きな客も却々 なかゝ 少ないので、流行 はや る程に、稼ぐ程に、三人の懐は陽気と共に大分暖くなつた。とは言へ、世の中は三日見ぬ間のさくら哉。花の盛りも漸 やうや く過ぎて、一片 ひとひら 二片散 さ り初 そ めた頃から客足も稀になつた。元より少し許りの金が蓄 たま つたにしろ何時まで座食 ゐぐひ が出来るものではない。又も、三人が集つて善後策の相談を始めたが却々名案が浮ばない。互に顔を見合せて困りぬいて居た時、丁度東京で言へば浅草と謂ふやうな同市の演芸場から『日本の服装で日本の踊りをやつて呉れぬか』と言ふ相談を受けた。渡りに船と喜んだのは二人の男『どうか出演 で て呉れまいか』と徳子さんも頼まれて見れば厭だとは言へない、『否 いや だ』と言へば三人の口が乾上 ひあが る。幼さい時に習ひ覚えた芸が一時の口すぎ。二人の男も木戸番なり下足番なりに雇はれる約束で愈々演芸場へ出る事になつたが、それには何んとか芸名がなければ可笑しい。処が、先年、娘道成寺で名を売つた坂東玉三郎が米国で夭折したばかりでまだ、人々の頭に記憶されて居るのを幸に、無断襲名に及んで、二代目坂東玉三郎で看板をあげたのだ。 

 ▲コツテリした西洋人の踊に交つて、あつさりした日本ムスメの手踊は、非常に評判がよかつた。三人の懐合も再び春に戻つてポカゝして来たが、困つた事には根が素人の悲しさに踊の数を知らない。暫時は珈琲店を出して居た時、マーテインと言ふ人から習つた小唄などを突き交 ま ぜてお茶を濁して居たものゝ、これとて長く客を継 つな ぐ訳には行かない、又々、三人額 ひたひ を鳩 あつ めて何か目先きの変つた踊もがなといろいろ詮索した揚句が、猫ヂヤゝのオツチヨコチヨイ踊に定まつた。何しろマダム、バタフライを日本唯一の芸術として喜んで居る毛唐人の眼に、日本人が見 みて は莫迦らしい猫ぢやゝの素人踊が頗る御意に叶たのも無理はない。毎日毎晩大入満員の好景気小屋主も大喜びなら、三人も非常に優遇されたものだ。
 
 ▲猫ぢやゝの踊が呼物になつて市中到る所二代目坂東玉三郎の名がパット拡まつた。煽 あふ り立つ人気を見ては三人も黙つて蟲を殺して居られやう筈がない。何時までも人の懐ばかり肥して居るのもつまらないと言ふところから徳子を座頭に戴いて彼方此処の場末を興 う 行つて歩いたが、何れも大入満員の大景気。其時、田舎廻りの坂東玉三郎をして今日の高木徳子たらしめた一人の婦人が現はれた。
 
 ▲それは紐育 にゆよーく に住む、貴族の未亡人で、マダム、デビレラーと謂 い ふ、スペインダンスの名手であつた。この人が徳子のよちゝした腰付のオツチヨコチヨイ踊の足調子に莫迦 ばか に惚れ込み、一つ仕込んで見たならば物にならうと言ふので『教へてやるから、内弟子に来てかどうか』と言ふ先生の方からの勧誘だ。徳子も、考へて見れば何時 いつ までも猫ぢやゝでをさまつて居る譯には行かない。何とか将来の方針を立てねばならぬと窃 ひそか に思つて居た矢先、之れが幸ひと早速承諾して内弟子になつた、其間二人の男は又元の皿洗ひや、蜜柑もぎとなつて徳子の芸の上達を楽しみに待つて居た。

 ▲かくして徳子は二年の間、みつしりとスペインダンスに魂を打ち込み其傍 かたは ら唄をマダム、マツキユウムについて習つてゐた。其中に編み出したのが、未だ米国にも否 いな 世界のダンスと云ふダンスの中にも見た事のない徳子独特の爪先ダンスであつた。
 
 ▲今は最早他人の芸名を無断で借用する必要もない爪先きダンスの高木徳子で立派に通るやうになつた。デビレラーは鼻高々で徳子の爪先ダンスを紐育の上流の晩餐会や、公開の席上で紹介したので、オッチョコチョイ以上に人気を博し、交際社会の花形役者になつた。其後デビレラーは屡々 しばしば 徳子独特の爪先ダンスを自慢気に公開する毎に少からざる報酬を得たので、最早、師に報 むく ゐる丈けの事は勤めたので、此上は、一日も早く良人 をつと の陳平と森秋藏の二人と心を合せて大に働かうと考へて居た矢先き、二人の男からも『もう大抵いゝ加減の頃ぢやないかと』と言はれたので愈々師匠デビレラーの膝下を放れて単独で公演する事になつた。処が、公演の資金がないので、拠 よんどころ なく良人の陳平が情を具して実家の金石舎へ資金の調達を依頼した。実家でも伜夫婦の運が開ける事だからと言ふので早速金を送つたので、三人は其金を資本に紐育を手始めに興行して見たが、既に徳子の名を知つて居るものは勿論、其名を知らないものまでが世の評判に浮かされて押し寄せて来たので実家から借りた資金などは忽ちの中に取り戻してしまつた。其間に徳子は更に又サラコと言ふダンスの名手について教を仰ぎ、愈々全く茲に独立の技芸を築きあげたので多年辛苦を共にした森秋藏と別れ、夫婦手を携へて米国から英国、仏蘭西と到る所に人気を博し、九年振りでなつかしい実家に帰つたのである。そして帝国劇場に於て、只、一回の公演で、早くも日本一の名誉を荷つたのが高木徳さんの半世、先づはオッチョコチョイノチョイ。

 上の写真と文は、いずれも大正四年十月一日発行の『女の世界』 十月号 第壹巻 第六号にあるもの。左2枚は口絵のもの、右1枚は上文中にあるもの。

    

  世界的バライチー  高木徳子
 絵葉書 三枚壹組 金拾銭
  神戸湊川
    聚楽館

 
 大正五年の絵葉書と思われる。

  

 上左:鉛筆書きで「永井徳子」とある絵葉書のもの。
 上右:説明なしの絵葉書のもの。


「久野久子女史」 三木楽器店 (大正)

2012年11月23日 | ピアニスト 1 久野久子

  

 左の写真: Miss. H. Kuno Stainway Piano スタインウエーピアノ総代理店 大阪 三木楽器店 神戸
 右の写真: 久野女史 山葉ピアノ発売元 三木楽器点 大阪市東区北久寶寺町四丁目
切手を貼る所には、「ピアニスト久野嬢獨奏會記念」とある。  

 ○久野久子愛用のピアノ

 新潟県村上市の村上歴史文化館で展示されている。ドイツ・ベルリンのキャロル・オットー〔CARROL OTTO〕のピアノである。

 

 ○久野久子女史恢復祝賀演奏会

 

     曩に自働車で大負傷の東京音楽学校教授久野久子女史全快後十二月三日同校に一大祝賀会が開かれた中央は同女史也

   上の写真と説明は、大正六年 〔一九一七年〕 一月一日発行の『写真通信』 壹月号 第三十三号 にあるもの。

  久野久子女史恢復祝賀演奏会曲目梗概   乙骨三郎

 一、ベートーヴヱン作ヘ短調ソナータ(作品五七)

   一八〇七年に出た此のソナータは作者の成熟期の作品中異彩あるものと評せられて居る。『激情的 アパショナータ 』といふ通称は作者自身の命名でないので、不当又は無用との説がある。曲趣は暗澹たる嵐の夜の様で、ベートーヴェンの作中にも、これ程物凄いものは前後にないとマルクスは言つて居る。この恐ろしさの中で第二の緩徐調は敬虔な祈祷の如くに聞える。

 二、グリーヒ作
  (イ)春に
  (ロ)諾威 〔ノルウェー〕の婚礼行列

   作者は諾威の国民的楽家、本曲は其の秀実なるピアノ小曲の中なり。

 三、ショパンのホ短調コンセルト(作品一一)

   波蘭 〔ポーランド〕 の天才が遺せるコンセルト二二中の一、一八三〇年の作で、最初ワルソー 〔ワルシャワ〕 で演奏せられた今度は第一楽章快速調 アレグロ のみに止む。
   リストはショパンのコンセルトやソナタの作に『神様よりも寧ろ多くの意思』を認むるに難からず為したが、而も『ショパンの古典的企図は稀に見る精美の作風によりて異彩を放ち、非常に興味ある通過句、意外い壮大なる部分を含む』と言うて居る。
   ショパン研究者ニークスはショパンのコンセルトの全体の構造に就て批評し且つ管絃部(殊にピアノと連合せる場合)の独奏部に比して聴き劣りすること等を説いた後、語を改めていふ。『しかも細部の嬌絶可憐纎麗優雅絢爛なるは能く人をして其の全体上の欠点を忘れしむ』と。
   作者は創作当時の書簡に於て自ら此の快速調を、『活溌』なるものと評せり。

 四、リスト作リゴレット改作曲

   ヴェルディ(Verdi)の歌劇『リゴレット』の第三幕に出る美しい歌詞をピアノに移して華美な装飾を加へたもので、一八五九年ビューローの為に作つたといふ。

 五、(イ)ブラームス作ト短調ラプソディー(作品七九ノ二)

   近代器楽のラプソディーといふは普通に若干の民謡調を接ぎ合せたファンタジーの様な曲を指すが、ブラームスのこれは作者自身の考へたバラッド風のピアノ曲で、全体陰鬱の情趣に充ちて居る。旋律 メロデイ が時々停つて考へ込む様なのも此の曲の一特性である。

   (ロ)ショパン作曲短ハ調練習曲 エチュード (作品一〇ノ一二)

   一八三一年ワルソーが露国に占領せられた時、之に檄して(スツットガルト滞在中に)作つたものといふ。ショパンのエチュード中の秀逸に属し、又た全作中の最も壮大なものである。左手が性急に走過する間に右手は激烈な怒声の如き音を打ち込む凡て作者の憤怒に堪えぬ気分を表はすものと見られる。ショパンの作曲上の特性も遺憾なく此の曲に現はれて居る。

 六、リスト作フンガリア 〔ハンガリー〕 (ニ短調)

   所謂『管絃楽の詩』(symphonische Dichtung)を二箇のピアノ曲に改作したるものゝ一である。管絃楽詩はリストの大成した曲体で、詩的内容を器楽にて表出せんとするものである。全篇は三部に分れ、其の第一は圧制を脱せんとして武装するフンガリア、第二は自由の為の戦闘、最後は勝利せるフンガリアを表はすものだといふ。即ちリストが祖国の歴史を概括的に描いたもので、フンガリア風の調に充ちて居る。曲の中頃の戦闘を描いた部分に勢よき国民的軍歌に次で現はるゝ葬送進行曲 フユネラルマーチ (緩徐調)は名誉の戦死を遂げた勇士の弔ひ歌に聞かれる。(十月廿七日)

 上の曲目梗概は、大正五年 〔一九一六年〕 十一月発行の『音楽』七巻十一号に掲載されたものである。

 なお、翌十二月発行の『音楽』七巻十二号 の楽人動静に次の記載がある。

 ■同日〔十一月十六日〕御前演奏を承つた光栄あるピアニストの久野久子女史は予報の如く十二月三日に音楽学校で学友会の女子大学桜楓会主催の大独奏会を終つた後京阪在住同窓及び有志の熱心な需めに応じて十二月九日及び十日の両日同地に於て、盛大な独奏会を開かれるとの事である。

 

 名誉の久野女史

 昨年十一月十六日、皇后陛下が上野の音楽学校に行啓あらせられた時、御前にてピアノを奏して名誉を博したる楽壇の天才久野久子女史です

 上の写真と説明は、大正六年一月発行の『婦人世界』第十二巻第一号の口絵にあるもの。

 

 指から血の出るのも知らずに 東京音楽学校教授 久野久子

  京都で琴と三味線を習ふ

 私は滋賀県の生れで、小さい時は身体が弱うございましたから、学校は尋常四年を終へただけで、上の学校にはまゐりませんでした。母は芸事が好きでしたから、学校に通ふ代 かはり に京都に出て琴と三味線とを習ひました。三味線はさほどでもありませんが、琴は生田流で、古川といふ名人の先生について三百曲以上も修め、奥許 おくゆるし を取りました。
 十八歳の時、兄が東京の大学に入学することになりました。当時、東京へまゐるのは、世界を廻るよりも偉いことのやうに思つてをりましたが、兄は、母も亡くなつてゐましたし、私の末のためを思つてくれまして、一緒に上京して音楽学校に入学させてくれると申しました。
 兄は別に詳しい話はいたしませんでしたが、友人は、『西洋音楽は学校の教師になることができてよい』と申します。その頃、音楽学校出身の人が高等女学校の教師になつてをられるのを見て、『私もああいふ人になりたい』などと思ひました。

  師範科には入学ができぬ

 ところが、中学校や高等女学校の教師になるには、師範科に入学しなければなりません。さうするには中学校なり高等女学校なりを卒業してゐなければなりませんが、私は前にも申します通り、尋常四年を修業したばかりですから、師範科に入学する資格がありません。そこで、『教師は偉いものだ』と思つてゐても、学力がなくてはどうすることもできませんから、技芸教育を主とする本科を選びました。
 本科ならば、高等女学校二年の学力さへあればよいといふので、その入学試験を受けることにしました。普通の人は英語と唱歌さへできればよいといふのですが、私は、国語、漢文、作文、その他いろいろの試験を受けなければなりませんので、半年ばかりいろいろの学科を勉強しました。

  ピアノの音を琴かと思ふ

 明治三十四年 〔一九〇一年〕 の夏に 入学試験を受けました。その時、予科に本入学を許可された人が四十人あまりと仮入学を許可された人が四五人あつて、私は仮入学者の一人でした。九月から通学することになつて、生れて初めて海老茶の袴を穿くやうになりましたが、西洋音楽の素養は少しもありません。国にゐる時分に、オルガンは見たこともあり、その音を聞いたこともありますが、ピアノは見たことがないので、初めてその音を聞いた時、琴かと思ひました。
 しかし、学校といふことを知らないだけに呑気なもので、入学後七八ヶ月も経つのにピアノも買はず、音譜の見方もピアノの弾き方も知らずに過してをりました。それに、先生の講義の筆記ができないで困りました。幸ひに、深切な方があつて、筆記帳を貸して下さいましたので、それを見て勉強して、末から二番目の成績で本科に移りました。

  肋膜を煩つて一年間休学

 それでも及第したといつて、大きな顔をして帰郷しましたが、直ぐに肋膜を煩つて、一年間休学しなければならぬことになりました。慣れぬ学校生活をしたために、そのやうになつたのでせう。皆さんは、『気の毒だ。折角本科になつたのにー。』と同情して下さいましたが、私はそれほどにも思はず、故郷で呑気に暮して、一ヶ年間にすつかり癒(なほ)してしまひました。その時、父や親戚の人たちは、『また病気になつては困るから。』と申しましたが、本科になつたまま退学するのも残念ですから、『身体を大切にする』といふ条件で上京いたしました。そして、何といふ理由もなく、ただ『ピアノがよいから』と、ピアノを選んで選考することにしたのです。

  音譜が読めないで困る

 前に申しましたやうに、予科の時はさう勉強もいたしませず、おまけに一年間休学したので、何が何やら少しも分りません。幸ひに幸田延子先生に就くことになつて、深切に指導して頂きましたが、思ふやうに音譜を読むことができません。仕方がないから手を動かす練習をしましたが、音譜が満足に読めないくらゐですから、自由に手の利かう筈はありません。漸(やうや)くボツンボツンと弾くことができるくらゐのものです。
 しかし、ピアノに向ひますと、次第に身体が引締つて、何ともいへぬ感じがして来るやうになりました。心の奥に潜んでゐる或るものが現はれて、それが自分の手を伝てピアノに移つて行くやうに思はれてー今の言葉でいへば、芸術的感興とでも申すのでせう、知らず識らずピアノに引寄せられて行くといふ風でございます。

  卒業式の演奏で認めらる

 自分ながら拙いと思つて練習してゐるうちに、幾らかづつ上達したのでせう。一年より二年、二年より三年と、次第に成績がよくなつて、明治三十九年に首席で卒業しました。そして、卒業式の時、首席だといふので、貴顕紳士の面前でベエトベンのコンセルトを演奏しました。
 その時の文部大臣は、今度講和会議の委員として巴里にまゐられた牧野男爵で、卒業式に列席してをられました。私はその時は夢中で、お目にかかりませんでしたが、人の話に依れば、男爵は大層立派な方だといひます。大使として外国ににをられて、自然に音楽にも趣味を持たれるやうになつたのでせう、私の演奏に対して、有難いお言葉を下さいましたさうです。また理学博士田中正平先生もおいでになつて、やはり御厚意に満ちた、有難いお言葉を頂きました。

  助手になつて研究する

 私は卒業してから半年経つて、オオケストラ伴奏で音楽学校春季大演奏会に出ました。その時、ユンケル先生は熱心にタクトをして下さいました。これは、私の『門出の演奏』でございます。
 その後、左の人差指に●疽 ひょうそ ができて、骨がボロボロになるところを、当時赤十字病院の部長をしてをられた難波先生に治療して頂きました。指が癒つてから、『補助』として音楽学校にまゐいることになりました。補助といふのは教授の助手をするのですが、私は、『もう少し研究させて貰ひたい。』と申して、研究ばかりしてをりました。それから二年経つて助教授に任命され、一昨年(大正六年 〔一九一七年〕 )教授に任命されました。

  苦しいのは芸術的の煩悶

 音楽家といへば派手な生活をしてゐるもののやうに思はれますが、真の芸術に生きようとすれば、そのやうなことはできません。学校にゐる時にどのような苦しい思ひをしても、卒業してからの苦しみー芸術的煩悶よりは楽なやうに思ひます。私も、次第に自分の貧弱さが分つて来て、自ら進んで演奏会をするやうなことはありません。大抵外の人に勧められて出るのでございます。四年前に自働車で怪我をして、それが全快した時、田中先生を始め皆さんが、『全快祝に「独奏会」でもしたらよからう。』と申されて、初めて個人の演奏会をいたしました。その時、世間から好評を得まして、引続き諸方から『演奏会に出てくれ。』と頼まれます。どうしてもお断りができないで出席することも少なくありませんが、『もつと自分の技術を進歩させなければ申訳がない。』と、自分に寄せて下さる世間の同情を思ふにつけ、自分自身を責めて、苦しみながら生きてをります。

  三時間近くもかかつた曲

 最近に演奏会をいたしましたのは昨年 〔大正七年:一九一八年〕 の十二月七日でした。主催者は音楽学校の学友会で、場所はやはり音楽学校でございました。曲はベエトベンのソナタで、一期の終から二期までの作曲を五曲演奏しましたが、長いものばかりで、他の曲の十六曲分もあります。間に少しづつ休みましたが、全部で三時間足らずかかりました。
 これをいたします時、『少し多過ぎはしないか。』と思いひましたが、『私の力のかなふ限り弾いて見よう。』 と決心したのでした。その時においでになつた方は、『よく弾かれたものだ。』といつて、感心してをられました。

  十一回も演奏会を催す

 それが評判になつて、女子大学の『桜楓会』から演奏を依頼されました。女子大学は一週間に一度づつ、長い間勤めてをります上に、日頃から深い同情を寄せて下さいますので、まゐりましたやうな次第でございます。その音楽会は、寄附するためにも催されたのだといふことでございました。
 続いて、白樺同人の音楽会が催されて、やはり演奏いたしました。それから、名古屋、京都、神戸、広島、奈良、呉、福岡と、各所に熱心な音楽会が催されて、招聘されました。そのために、前後十一回も演奏いたしました。

  鍵盤を血だらけにする

 私は外のことにはさうでもありませんが、ピアノに向ひますと、自分の演奏する曲以外のことは何にも考へません。『どうすれば自分の思ふやうな音を出すことができるか』とか、『どうすれば、この曲を私の心の要求のままに生かすことができるか』とかいふことに夢中になつて、自分の身体のことなど考へてゐる暇はありません。
 ピアノを弾くには随分力が入りますので、感興に任せて一生懸命に叩いてをりますと、指に傷ができて血が流れ出ることがあります。しかし、自分ではさほど痛いとも思はず、終つてから鍵盤に血が着いてゐるのを見て驚くことがあります。

  変つた進みやうをしたい

 私は、まだ成功者と申されるどころか、月日が経つと共に技芸の未熟な点が眼について、自分自身を苦しめてをります。
 『どうしたら音楽の真髄を確実に摑み得るか。』
と、そればかりが気がかりでなりません。
 それて、今後どこまで、形の上にも生命の上にも、摑み得るか分りませんが、できるだけ勉強したいと思つてをります。私どもの到達すべきところは、ズツと遠い、限(かぎり)知れぬ深さと広さがあるので、うツかりしてゐることはできません。
 できるならば、グツと変つた進みやうをしたいと思つてをります。自分の哀れな力を磨き尽(つく)して、行きつけるところまで行き尽すより外に、よい方法はないと思ひます。

 上の文は、大正八年 〔一九一九年〕 三月五日発行の『婦人世界』 第拾四巻 第四号 婦人世界春季増刊 婦人成功号 に掲載されたものである。


『林彪文選』 (武漢) (1967・68)

2012年11月22日 | 中国共産党 3 林彪

 林彪文選  一九六七年十一月・武漢  〔26センチ、本文306頁〕

  ・写真・林彪題辞

   

  ・代前言 (一九六六年十月十日《人民日報》)

 第二次国内革命戦争時期
 
  ・紅一軍団龍岩漳両役戦闘経過報告(一九三三年四月一日至四月三十日)
  ・関于五次“囲剿”之戦術問題(一九三四年四月)
  ・関于作戦指揮問題向軍委的建議(一九三四年五月四日)

 抗日戦争時期
 第三次国内革命戦争時期
 社会主義革命和者冀主義建設時期
 無産階級文化大革命時期

  〔前略〕
  ・十月二十四日重要指示(一九六四年九月二十四日)
  ・在首都人民記念十月革命五十周年大会上的講話(一九六七年十一月六日)
  ・抓好形勢教育(一九六七年十一月九日《解放軍報》社論)

 后記

  

 林彪同志是毛主席最親密的戦友、最好的学生、毛沢東思想偉大紅旗挙得最高、是活学活用毛主席著作最好的榜様。党的八届十一中全会確定林彪同志為我們的副統帥、這是我們全党、全国、全世界革命人民政治生活中具有重大歴史意義的大事。
 為了更好地向林彪同志学習、我們特編印了這本撰輯。
 本選輯主要内容来源于《林彪同志関于政治思想工作言論摘録》(中国人民解放軍総政治部編、一九六四年人民出版社出版)、以及《人民日報》、《解放軍報》、《紅旗》雑誌等報刊和其他文件材料、由于編輯時間緊迫、加之有些材料一時無法核対、遺誤之処是難免的。因此、本選輯僅供同志内部学習時参考、不能作為引用之根拠。請妥善保存、勿外伝、勿翻印。
                                     編者
                                       一九六七年十一月
               毎冊定価:玖角

 

 林彪文選 ★  華中師範学院革命委員会 一九六八年二月・武漢 〔26センチ、408頁〕

  ・毛主席論林彪同志

 林彪不僅是個人材、而是個将材、這個人能顧全大局、将来我們的武装部隊就需要這様的人来領導。 (一九二八年)
 我們的抗大、要培養出幾百個、幾千個、幾万個象林彪同志那様的幹部来。 (一九三八年)
 四個第一好、這是個創建。解放軍的思想政治工作和軍事工作、経林彪同志提出四個第一、三八作風之后、比較過去有了很大的発展、更具体化又更理論家了。 《関于学習解放軍加強政治工作的批示》 (一九六三年十二月十六日)
 〔以下省略〕

 第二次国内革命戦争時期
 
  ・紅一軍団龍岩漳両役戦闘経過報告 報告四月一日至四月三十日 (一九三三年四月)
  ・関于五次反“囲剿”之戦術問題(一九三四年四月三日)
  ・関于作戦指揮問題向軍委的建議(一九三四年五月四日)
  ・在抗大二期開学典礼上的講話(節録) (一九三七年一月二十日)

 抗日戦争時期
 第三次国内革命戦争時期
 社会主義革命和社会主義建設時期

  ・接見六十九軍幹部時的講話 (一九六八年四月九日)
  ・関于旅大地区的三点指示 (一九六八年五月八日)
  ・在接見曾思玉、劉豊同志時的指示 (一九六八年六月十三日)

 題詞

  ・努力学習  
        為抗大三期同学題詞(一九三八年四月) 
          見抗大校刊《我們的生活》第二十二期
   〔中略〕
  ・大海航行靠舵手 
        干革命靠毛沢東思想 給海軍首次学習毛主席著作積極分子代表大会的題詞(一九六七年十一月二十九日)
          原載《解放軍報》(一九六七年十二月一日)

    内部文件 僅供学習 請勿引用 請勿外伝

   林彪文選 華中師範学院革命委員会 一九六八年二月・武漢・

 

 「林副主席文選」とある。内表紙には、「林副主席文選 一九六九年元月」とあり、「首都毛沢東思想 紅衛兵」の赤い印が押されている。13センチ、写真1葉(毛沢東と林彪)、代序2頁、目録4頁、本文370頁。

 目録

 ・≪毛主席語録≫再版前言(1966.12.16)
 ・把活学活用毛主席著作群衆運動推向新階段(1966・10・10)
 ・「林彪同志在中央政治局拡大会議上的講話(1966.5.16) … 解放軍報
 ・中共中央軍委副主席林彪同志対中国人民解放軍一九六六年工作的重要指示(1965.11.18)
 ・中共中央関于≪林彪同志在中央政治局拡大会議上的講話≫的批示(1966.9.22)
 ・林彪同志在中央政治局拡大会議上的講話(1966.5.18)
 ・林彪同志在中央工作会議上的講話(1966.10.25)
 ・毛主席対林副主席三月二十日講話的批示(1967.3.30)
 ・林彪同志在軍以上幹部会議上的講話(1967.3.20)
 ・中共中央批転林彪同志“八.九”重要講話(1967.10.29)
 ・林彪同志的重要講話 - 一九六七年八月九日接見曾思玉、劉豊同志的講話
 ・林副主席対政治工作的指示(1967.12.8)
 ・林彪同志慶祝無産階級文化大革命群衆大会上的講話(1966.8.18)
 ・林彪同志在接見外地来京革命師生大会上的講話(1966.8.31)
 ・林彪同志在接見全国各地来京革命師生大会上的講話(1966.9.15)」、
 ・林彪同志在接見全国各地来京革命師生大会上的講話(1966.11.3)
 ・在首都人民記念十月革命五十周年大会上林彪同志的講話(1966.11.7) … 人民日報
 ・在中華人民共和国成立十七周年慶祝大会上林彪同志的講話 … 人民日報
 ・在中華人民共和国成立十八周年慶祝大会上林彪同志的講話 … 人民日報
 ・在中華人民共和国成立十九周年慶祝大会上林彪同志的講話 … 人民日報
 ・高挙党的総路線和毛沢東軍事思想的紅旗闊歩前進 … 1959≪紅旗≫雑誌第19期
 ・人民戦争勝利万歳
 ・林副主席関于正確処理政治工作領域中的四個関係問題的講話
 ・林副主席関于三八作風的指示
 ・林副主席関于四好連隊運動的指示
 ・林副主席対政治工作的重要指示
 ・林副主席対開展四好連隊運動的最新重要指示 


「小倉末子嬢 ピアニスト小倉嬢獨奏會記念」 絵葉書 (1916.7)

2012年11月22日 | ピアニスト 2 小倉末子

 

 写真の下には、「小倉末子嬢 三木楽器店 神戸市元町三丁目」とある。14.2センチ。
 切手を貼る所には、「ピアニスト小倉嬢獨奏會記念」とある。

 下は、日本語版および英語版の『新築記念帖』〔昭和九年:一九三四年 神戸女学院〕にある小倉末〔第二十七回音楽部卒業生〕の履歴などの記載である。

     ヨハネス・ブラームス像牌 (在音楽館)
        第二十七回音楽部卒業生小倉末記念


 明治24 2月6日生誕。 ※ 東京生れ、大垣に籍 〔蔵書目録注〕
 同 38 神戸女学院普通科に音楽特科生として入学。  
 同 40 同学院音楽部の創設と同時に之に転科した。
 同 43 同校卒業。 
 同 44 東京音楽学校に入学。
 同 45-大正3 ベルリンの王立高等音楽学校に在学。大戦勃発の為同地を去つた。
 大正3-5 米国滞在、音楽会に出演し、後半はシカゴに於てピアノを教授した。
 同 5 帰朝、東京音楽学校に奉職しつゝ音楽会に出演、現在に至る。
    正五位勲六等。
   小倉末女史は八歳の時から本学院音楽部の創設者ヱリザベス・ターレーに就きピアノを始めた。大正10年その師の逝去をきいて、記念演奏会を思ひ立ち、大正11年10月本学院講堂に於て同窓会主催の下に之を開いた。
   その収入は、当時同窓会が募集してゐた新敷地購入資金に寄贈した。このブラームス像牌はその後、前述の寄附記念として音楽館に設置されたものである。

      MUSIC BUILDING
    BRAHMS MEDALLION
      In honor of

    Sue Ogura, pianist
  Kobe College Music Department, Class of 1910


 Born February 6, 1891.
 1905, enterd Kobe college Academy as a part-time student specializing in music.
 1907, transferred to the Music Department when it was organized.
 1910, graduated.
 1911-12, studied at the Tokyo School of Music.
 1912-14, studied at the Royal Conservatory in Berlin, leaving after the outbreak of the Great War.
 1914-16, in the United States, giving concerts and the latter year teaching piano in Chicago
 1916, returned to Japan. Has been giving concerts and teaching in the Tokyo School of Music ever since.
 Holds the Six Order of Merit and the fifth rank of the senior grade.
  Miss Ogura began at eight years of age to study piano with Miss Elizabeth Torrey, the organizer of the Kobe college Music Department. On learning of Miss Torrey’s death in 1921, Miss Ogura planned to give recital in her memory. This was done on October 27, 1922 in the Kobe college hall, under the auspices of the Alumnae Association. The proceeds of the concert were given to the Alumnae Land Fund to help purchase the land for the new building, and the medallion of Brahms was later presented to the Music Building in memory of that event.

 ○ ゴットシャルク (ゴッチョーク Louis Moreau Gottschalk:19世紀 米国)
   「最後の望み」(最後の希望 The Last Hope : Religious Meditation   1854年)

      

 上の写真は、改訂版の楽譜表紙(1856年)及び見返し 

 

 ピアノのトーンに就いて 小倉末子

 我々は此忙しい生活を致して居ります間にも、音と云ふものと離れられない関係を持て居ります。それが即ち聴力の必要な大原因で心地よい音も聞きますが又不愉快な思はず耳を覆ふ様な場合も往々御ざいます。何れも音ではありますが前者は音楽的でありまして鳥の声、木々のさざやき、小川のながれ、寺院の鐘の音等皆聴て心を澄す心地が致します。後者は申までもなく非音楽的なものであります。
 外国の社交会では普通の会話にも音楽的なクルティウェートされた声を用ひ、地声で話すのをヴㇽガとして直ちに其人の社交的教育の程度を批判されると申します。
 偖 さ て音楽は芸術の最高のものでありますから単に心地のよい音を現はすのみではありません、その音と云ふものに最大の注意を払う必要がある事は亦明かであります。
 音楽は声楽と器楽の二つに分れて居りまして感じのにぶい人に最も感動を與へるのが声楽であります。それは声のよい悪いが誰にも容易に解り易く且詞歌が伴ふ為でありませう。
 天より賜つた如何なよい声でもそのまゝでは音楽的価値に乏しいのであります。その声を音楽的に美しく発声する事を学び、芸術の理解を得て初めて人間の霊を魅する力を得るのでありませう。殊に声の性質が大切で音量は第二であります。
 声楽に続いて早く感動を與へるのは器楽中でも絃であります。例へばワ〔濁点あり〕ァイオリンに就て申ますれば、詞歌はありませんが声楽とよく似て一つの音に於て美しいクレシェンド及ディミニュエンドが自由に出来るのみならず、メロディーを思ふ様にあらゆる感情を表はしつゝ奏する事が出来るのであります。そこが絃楽及声楽の長所であります。けれども絃楽は声楽と同じく只音を出すだけでは其特徴を発揮する事は出来ませんのみならず美しい音を出すと云ふ事に於ては声楽以上の努力を要します。何故かと申しますれば楽器及即ち死物によつて生命のある音を作り出さなければならないからであります。
 これに反してピアノは多数のキーがありまして、どれでも打てば音が出るのでありますから、甚だ容易な様でありますが、それでは単に音を発するのみに過ぎませぬ。
 ピアノは現在ある楽器中最複雑で且つ完全に近いものとされていますだけに、その長所も他の一楽器では到底真似る事が出来ないのであります。従つて音楽的音(トーン)に就き努力を要する点が種々ありますが、取分け其著しいものは次の二つであります。ピアノの長所は自由にハーモニーを現はす事が出来る事で、スィムフォニーのスコーアでもピアノでは弾く事が出来ます。
 ハーモニーに豊富なだけ曲も複雑になります。例へばベートヴウェンのソナタの大部分はオルケストレーションが出来ます。従つてオルケストラ中の種々の楽器即ち、バス、セロ、ウァイオリン、クラリネット、オボー、フルート等の音を現はし、それ等の色彩を加へなければなりません。それには以上列記致しました各楽器及其配合を知る必要があります。これ等をよく知った上に非常の努力と研究を以つて始めて其目的に達し得るのであります。ピアノ研究者がオルケストラと親しみを得なければならない理由はこゝにあります。
 ピアノの短所は声楽や絃楽に反し、一打鍵を以つてクレジェンド及ディミニュエンドを自由に行つたり、或は一音を伸したりする事が不可能である事であります。サステイントペダルは限られた場合の一音のみを伸す為に用ひられるのであります。其短所を補ふ為には一音の打ち方、及それに伴ふ和声の補助によつてクレシェンド及ディミニュエンドの印象を與へねばなりません。勿論此場合に於てペダルは非常な助となります。斯様な困難な事を巧みに行ふ事が非常な努力と研究を要する第二の理由であります。
 これ等の困難があるにも拘らずピアノ研究者は音(トーン)と云ふ事に兎角冷淡であるかの様に思はれます。それはピアノなる楽器が鍵盤に触れさへすれば非ピアニスティツクなテクニックでも発音するからでありませう。尚他の一つの理由は余りテクニックに捕はれ過ぎて音楽の真髄とも云ふべき、音は即ち一種の言語である事と、音の色彩を以つて音楽を描写しなければならない事を忘れて居るからではございまますまいか。美しい発音は語学のそれと同じく一朝一夕になし得るものではありません。ピアノを研究する方々は日常の練習にも其辺に留意して努力研究する事が最も必要であると申上たいのであります

 上の文は、大正十二年 〔一九二三年〕 一月一日発行の『詩と音楽』 新年号 第二巻 第一号 発行所 アルス に掲載されたものである。

 

 音楽で名高き三女史 

 ピアニストとして有名なる小倉末子女史と令姉マリヤ子の君。-女史邸にて。

 上の写真と説明は、大正八年〔一九一九年〕 四月一日発行の『淑女画報』 第八巻第四号 のものである。この号には、下の文もある。

 訪問印象 現代名流婦人一百人(四) TOK女

 小倉末子女史

 非常に輪廓の鮮やかな、強みのあるお顔立で、一度お目にかゝつたら、何千何百人の婦人方の間にでも決して見逃しするやうな事はない、印象の深い方です。洋装の時は水色か純白、日本服の時は黒の地質がお好みで時々華やかなオレンヂの帯なんかお締めになる事もあります。弾奏に於ては恐らく日本の楽壇で第一人者でありませう、女史のテクニツクは非常に鮮かです。何を弾いても、どんな難曲を弾いてもそれを統一する丈けの理解力を持つてゐらつしやる。日本の楽壇、妙に狭くるしい官僚主義を真向に振りかぶつてゐる日本の楽壇で、この立派なピアニストを割合歓迎しないとは何うした偏見でありませう。官僚主義を薙ぎ倒せ、そして世界の広い公平な眼を以つて芸術の花を愛せよと、ピアニスト小倉女史のために叫び度い位です。

   

  ピアニスト 小倉末子 Miss Suyeko Ogura, pianist.

 上の写真と説明は、大正十四年〔一九二五年〕 一月十五日発行の『アサヒグラフ』 新年増刊 婦人号 の 楽壇の明星(一) のものである。


『毛主席的接班人ー林彪副統帥』 (1969.6)

2012年11月21日 | 中国共産党 3 林彪

 毛主席的接班人  ー林彪副統帥  〔18センチ、64頁〕

      

 毛主席的接班人 -林彪副統帥

  中国共産党第九次全国代表大会一致通過的中国共産党章程、明確規定林彪同志是偉大領袖毛主席的接班人。這是無産階級文化大革命的偉大勝利、是馬列主義、毛沢東思想的偉大勝利。林副主席是我党久経考験的卓越領導人、是毛主席最親密的戦友、最好的学生、是我們的副統帥。他一貫最忠実、最堅定地站在毛主席革命路線一辺、勇敢捍衛了偉大的毛沢東思想、為党的事業作出了卓越的貢献。林副主席毛沢東思想紅旗擧得最高、是活学活用毛沢東思想的光輝典範。我們一定要以林副主席為光輝榜様、永遠忠於毛主席、永遠忠於毛沢東思想、永遠忠於毛主席的無産階級革命路線。


 ・革命的家庭 紅色的故郷

 一九〇七年農暦十一月初一、我們敬愛的林彪副主席誕生於湖北省黄崗県回龍山区白羊山下林家大湾的一個貧苦家庭裏。  林家大湾位於黄崗県一丘陵地帯。這個地区解放前人多地少、広大労働人民多以手工、職布為業、在軍閥地主圧迫下、生活十分貧苦。林彪同志全家九口、常年只種九担谷的田(折合二点二五畝)、所収糧谷除交捐納税外、所剰無幾、父兄多以職布養活全家老小。林彪同志的一個姉妹、因家中生活艱難、忍痛送給附近的人家作童養媳。
 林家大湾一帯是我党創立時期在湖北省最早的策源地之一、這裏人民有着光栄英(張浩)是我党優秀的領導幹部、他們都先後為中国人民的革命事業献出了自己宝貴的生命。
 林毓南烈士是湖北共産主義小組創始人之一。早在一九一七年林毓南同志就到蘇聯接受了馬列主義真理、一九二〇年他在林家湾子後面的八斗湾(即林彪同志出生的地方)組織共産主義小組、為我党在黄崗地区的創立奠定了基礎。大革命時期、林毓南同志長期従事工人運動、担任全国総工会秘書長、執行委員和全国労働組合書記部武漢区分主任、中央委員、後因叛徒出賣被捕、一九三一年同李求實等二十五位同志在上海龍華英勇就義。
 〔以下省略〕

 ・戦闘的童年 光輝的青春  為革命而学、造旧世界的反
 ・謙虚、勤奮、倹樸的優秀品質
 ・北伐作先鋒 南昌擧義旗  “鉄軍”中的青年指揮員
 ・南昌起義擧紅旗 耒陽戦闘建奇動
 ・登上蘶井岡山
 ・無限忠於毛主席 頂逆風戦悪浪
 ・不到長城非好漢
 ・平型関全殲日寇
 ・忠誠党的教育事業
 ・横掃千軍如捲席
 ・独有英雄駆虎豹 更無豪傑怕熊羆
 ・大海航行靠毛沢東思想

 林彪同志是毛主席親密的戦友、最好的学生。他対毛主席和毛沢東思想無限熱愛、無限信仰、無限忠誠、無限崇拝。
 早在井岡山上、林彪同志就如飢似渇地学習毛主席著作。有時在馬上還学習。在第二次国内革命戦争時期、林彪同志就説:“幹什麼事情都要以毛沢東思想為標準、対毛主席的思想、毛主席的指示、不論在任何時候、任何問題上都要堅信無疑。”
 幾十年来、林彪同志対来自任何方面的対毛主席的攻撃、対毛沢東思想和毛主席革命路線的攻撃、都針鋒相対、予以迎頭痛撃。他指出:毛主席是当代無産階級最傑出的領袖、是当代最偉大的天才。像毛主席這様的天才、中国幾千年、世界幾百年才出現了一個。毛主席是当代的列寧、是我們時代的代表。他指出:毛沢東思想是当代最高最活的馬克思列寧主義、是反対帝国主義、反対修正主義和教条主義的強大的思想武器。毛沢東思想是全党、全軍和全国一切工作的指導方針。誰反対毛主席、反対毛沢東思想、就全党共誅之、全国共討之!
 林彪同志最英明、最積極、最認真地領導和組織了毛沢東思想的大普及運動、為工農兵直接掌握馬列主義、毛沢東思想作出了最偉大最卓越的貢献。
 早在全国勝利之前、林彪同志就告訴我們:“対我們具有重大意義的就是要努力学習、用馬克思列寧主義、毛沢東思想把自己的頭脳武装起来る。”全国解放後、尤其是林彪同志主持軍委工作以後、他更高地挙起了毛沢東思想偉大紅旗、在全軍展開了轟轟烈烈的活学活用毛主席著作的群衆運動、並把它推向全中国、全世界。
 〔中略〕
 通過以上很不全面的介紹、可以看出我們敬愛的林副統帥幾十年如一日、無限忠於毛主席、無限忠於毛沢東思想、無限忠於毛主席的革命路線、他対偉大領袖毛主席跟得最緊、毛沢東思想偉大紅旗挙得最高最高。我們一定要以林副統帥為光輝傍様、永遠忠於偉大領袖毛主席、永遠忠於光焔無限的毛沢東思想、永遠忠於毛主席的無産階級革命路線!

                    (一九六九年六月)

〔蔵書目録注〕
 下の写真は、文化大革命当時の林家大湾である。

  


『武漢戦紀』 (1919)

2012年11月21日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 武漢戦記〔武漢戦紀〕

        己未五月新城王氏刊行 陶盧叢刻之十一 〔線装本、27.3センチ、18枚〕
 
 武漢戦紀   
            野史氏

   
 
 宣統三年夏六月四川以保路案激民変粤東湖北諸省均洶洶起反抗朝議人心僨張時革党張振武孫武楊鴻勝等潜聚湖北乗機煽動陸軍将卒文武学堂諸人士分挙代表謀乗大軍秋操後起事張振武暗運炸弾夾黄絲箱内武昌城守卒堅欲開検張振武度不可免以拳碎鎖血濺衣袖守卒驚愕不復疑放入城八月十八日孫武楊鴻勝試演炸弾於漢租界火暴発俄領事偵知函告両湖総督瑞徴拿獲革党三十三名並捜得軍火印信旗幟及同党名冊楊鴻勝彭楚藩劉堯徴皆伏誅余繋獄孫武時受炸傷匿同仁院秘與張振武等謀日事急矣案名冊索人無倖免免者惟速挙事可以一逞乃定計翌日夜二鼓城内外挙火為号工程隊熊炳坤方維王光国玉麟蔡済民等趨拠楚望台軍装庫礟隊自中和門入混成協輜各営自通湘門入群衆楚望台置礟蛇山以攻督署是夜火発斉奪門入遂踞武昌水師統領陳得龍擁護瑞徴避楚泰兵輸尋遁楊羅陸軍統領張彪亦遁二十日革党入漢陽工厰兵士逐其官吏與革党合〔以下省略〕

 

 上は、瑞徴関連の書物である。表紙には、「武漢禍種 瑞澂 四馬路中市新漢学社印行」とある。また、表紙の次には、「満奴醜史 湖広総督瑞澂」とその図がある。奥付には、「民国元年 正月出版 発行所 新漢学社」などとある。18センチ。叙、14頁〔含奥付頁〕。

 第一章 帯罪図功

  瑞澂電奏十八夜革匪創乱拿獲各匪正在提訊核辦革匪余党勾結工程営輜重営突於十九夜八鐘饗応工程営則猛撲楚望台軍機局輜重営則就営縦火斬関而入瑞澂督同張彪鉄忠王履康分派軍警随時布置並親率警察隊抵禦無如匪分数路来攻其党極衆其勢極猛瑞澂退登楚豫兵輪移往漢口〔以下省略〕

 第二章 始末情形
 第三章 瑞澂岑争権閙意見
 第四章 武漢之帰客談

  昨有友人乗隆和船到滬略述所聞如下有人至武昌城内者見諮議局門首植立大紅旗幟上標黒字丈為(中華民国軍政府大統領黎)十一文字諮議局門首血跡甚多聞係斬殺匪徒皆在其地〔以下省略〕

 第五章 瑞澂第一次電奏
 第六章 瑞澂第二次電奏
 第七章 割鬚而逃
 第八章 瑞澂逃来海上記
 第九章 瑞澂不得安居
 第十章 瑞澂之囈

 

 上の絵葉書には、「No.36 General Chang Piao 1911.」とあり、張彪と思われる。13.4センチ。
 『国士』第十四号 福島安正君 講話「セルビヤとブルガリヤとの戦いに就いて」:明治三十二年十一月 に、次の文がある。

 昨年 〔明治三十一年:一八九八年〕 でありましたか、湖広総督の張之洞からして日本の軍制その他の制度観察をするために、三四名の人〔黎元洪も含む〕が来ました。其中の張彪とて、日本で言へば聯隊長と同じ職務に当る人がありました。此人は能く日本軍隊の要点を見て、武昌に帰った後に、其事に着手をして、漸く其結果が見えやうと云ふ場合に達して居ります。


「米国から帰朝した閨秀洋琴家」 小倉末子 (1916)

2012年11月21日 | ピアニスト 2 小倉末子

 □米国から帰朝した閨秀洋琴家
  =小倉スヱ子女史が昨日鎌倉丸で=
    ◇東京音楽学校の教授となり華族会館で音楽会◇

 郵船会社の鎌倉丸は去る二十一日横浜入港の予定であつたがシヤートルを出帆して一週間目に二日続きの時化に遭ひて船尾の方に少し許り破損を生じた位で予定より二日間遅れ、二十三日の未明に横浜へ着いた
 ▽積荷は鉄材が 重である為め赤腹はウント水に浸つて船客も満員で其内には三浦環女史と共に日本音楽家として米国の楽壇を騒がし、義姉のマリヤ夫人に伴はれて五年振りで帰朝した閨秀洋琴家小倉スヱ子女史がある。記者は女史を船室に訪うて土産話を聞いた、女史は身に紫紺地の服を着け真珠の首飾りを掛け雪を欺く白毛のボーアと同じマツフを手にダイヤの指環光らせつゝキツと引締まつた口元を綻ばせて語る、『私は今から

   □鎌倉丸甲板上の小倉季子〔小倉末子〕女史 〔上の写真〕


 ▽五年以前に シベリヤ経由で一直線に伯林〔ベルリン〕へ行き、王立音楽学校の入学試験を受けました、試験の科目はピアノと音調でしたが、受験者は五十四名で、合格したのは僅かに十四人でありましたが幸ひに私も合格者の一人に数へられました、私の教師は同校の教頭であるパールト博士で、博士は非常に親切にしてくれました、私も熱心に勉強して居ましたが、恰度一昨年の八月日独戦争が始まりまして同じ月の十五日に伯林を退去し倫敦〔ロンドン〕に渡りました、夫れから米国へ行つて紐育〔ニューヨーク〕に半年市俄古〔シカゴ〕に一年居りました、市俄古ではメトロポリタンコンサバトリー学校の高級教授となり一時間
 ▽四弗の俸給 で教授をしました、独逸と米国との楽界を比較して見ますと、独逸の方が無論立優つて居ります、今米国へは欧洲から音楽家が非常に多く入り込んで居まして楽壇は中々盛んな者であります、米国の音楽界は紐育と市俄古が其中心となつて居る様であります、東京音楽学校の校長さんから私を教授に頼みたいと云ふ通知が来て居ります、又華族会館の音楽会からも出るやうにとの通知を受け承諾をしまして既にプログラム迄送つてあります、夫れはバーク、シヨーパン、ベート及びリストであります』と女史の言葉に次ぎ、同席の義姉マリヤ夫人は、『環さんのコンパニーは皆白人でありますが
 ▽環さんが一番 評判であります、元来彼地の人は日本人には西洋音楽は出来ないものと信じて居ましたが三浦さんの独唱や洋琴を聞いて日本人も西洋音楽が出来ると云つて非常に感心して居ります』

 上の写真と文は、「大正五年 〔一九一六年〕 四月二十四日 第一万一千七百四十号」の「時事新報」に掲載されたものである。

 

 欧米婦人の音楽趣味 新帰朝者 小倉末子


 △婦人の音楽

  欧米では音楽の発達して居ない国は真の文明国でないと申しますから、男女を問はず一般に音楽を尊重致しますが、婦人には特に密接の関係があるやうに思はれます。男の方でも音楽に対する趣味の深い人は多くありますけれども、一般には如何 どう しても婦人の方が男子よりも熱心であるやうで御座います。独逸の歌劇 オペラ の作者リヒアルト・ワーグネルと言へば、今日では子供でも知つて居る位有名で、其作は他の歌劇よりも確かに優れたものと認められて居りますが、其ワーグネルが当時の楽壇を風靡して居りました伊太利の歌劇から脱して、初めて自己の歌劇ー独逸の歌劇を創造した時には、非音楽的であるとか、気狂染 きちがいじ みた音楽であるとか、世間からは様々の酷 きび しい悪評批難を蒙つたので御座います。其当時ワーグネルは友人に手紙を寄せて、「婦人は天性感情に富んで居るから、私の音楽即ち私を男子よりも能く理解してくれる。」といつたことがあります。これは男子よりも婦人の方が一層遥かに音楽に対して鋭敏な感受性を持つて居ると云ふことを、ワーグネルが裏書して呉れた訳で御座います。

 △子供の時からの音楽的教養

  欧米の婦人が常に音楽に対して、深い趣味と鋭い鑑賞力を持つて居ることに就 つ きましては、索 もと めたら種々の原因もありませうけれど、其著しいものは次の二つであらうと私は思ひます。其一つと申しますのは、小供時代からの教育にあるので御座います。外国では中流以上の家庭ですと、音楽は必ず普通教育に伴ふべきものとなつて居ります。ですからピアノやヴアイオリンのお稽古は、外国語とか歴史とか云つた他の学科と並行して行はれて居ります。それで子供に音楽の才能でもあるとすれば、更に家庭に良い教師を招くとか、或は専門の学校へ通はせるとかするので御座います。それに人間の一生は何時 いつ 迄も長閑 のどか な春が続くとは限られませんし、又何時如何 どん な変化が其境遇を襲ふか分りません。それですから万一 もし 一旦境遇に変化が起つて、自活の必要に迫られた場合などにも、少しも差支へを来たさないやうに、平常 ふだん から娘達に何か一廉 ひとかど の芸を授けて置きたい、それには音楽などは一番婦人の性情に適して居るからと言ふやうな訳で、ますゝ音楽が普及されるので御座います。貴族の令嬢の中より音楽の専門家となられる方が往々御ざいます。斯 こ うして一般の家庭では音楽を奨励いたしますから、子供衆のニ三人も御座いますお家では、一人がピアノを弾けば、一人がヴアイオリン、も一人はセロを奏すると云ふ風に、一家内で楽しく合奏が出来る有様で御座います。ですから必然音楽の趣味が培 つちか はれ、発育して行きます。

 △交際上に欠くべからざる音楽

  も一つの著しい理由は、只今申しました通り家庭で音楽が盛んに行はれて、子供の時分から音楽的な雰囲気 アトモスフエア の中に生 お ひ育つて居ります外に、交際上の必要から音楽の教養が是非無くてはならないものとされてゐます。御承知の通り、西洋では芸術を最も高尚な、最も尊いものとして居りますが、わけても音楽は眼に見ることの出来ない極めて神聖なものと思はれて居ります。そんな理由 わけ で音楽は上流社会の最大の娯楽で、又交際の中心となつて居ります。それ故 ゆえ 欧米の交際時季と時を同じく致します音楽時節は実に華々しいもので御座います。夜毎にオペラを始め種々な音楽会や大家の演奏が御座いまして、何処 どちら の奥様でも其等の一つに出席いたしませんのを恥辱のやうに心得て居られます。平常左程 さほど 音楽に趣味をお持ちでない婦人でも、争つてオペラや音楽会へ出掛けになり、次第に面白味を有 も たれる様になられるので御座います。又午後の婦人の客室 ドローイング の会話 はなし と云へば趣味に関する事が多く、取りわけ音楽のとが其主なる話題 サブゼクト となつて居りまして、例へば昨夜のXX歌劇へはお出席なさいましたかとか、一昨夜のダルビアの演奏をお聞きになりましたかとか、イザエの演奏は何と思ひでしたとか云つた風で御座います。恁 か かる話題は単なる無駄話でないのみならず、会話が卑俗な世間話に陥るとから遠ざかることが出来ます。欧米の社会で歌劇や音楽会 コンセルト の絶えた時季、つまり音楽季節 ミュージカルシーズン でない時は、都会の生活も物淋しいものとなつて了 しま ふので御座います。
 亜米利加では音楽は欧羅巴 ヨーロッパ ほど一般に発達はして居りませんけれど、それでも近頃では随分盛んなもので、戦争の影響を受けて渡米される欧洲大家の音楽会は毎日の如く御座います。又婦人が熱心に音楽の普及に力 つと めて居るやうで御座います。唯単に趣味を持つと云ふ許りでは御座いませんで、盛んに活動して音楽倶楽部などを組織したり音楽教修団 ミューヂカル、エヂュケーション、リーグ などを設けたりして、自分の研究に尽くす上にまた、天才があつてもそれを充分に磨き上げて行く程の資力のない子供の為めに多くの便宜を與 あた へて居ります。又沢山のお金を払つて音楽会へ出掛けられない人達のために、大きな会を開いて大家の演奏を聞かせる事も度々御座います。
 要するに欧羅巴でも亜米利加でも、音楽が最も婦人に適 ふさ はしい趣味の一つであると認められて居るので御座います。尤 もつと も茲 ここ に音楽の趣味と申しましても、必ずしも自分で弾ひたり唄つたりしなければならないと申すのではなく、音楽に関する書物を読むとか、有名な楽人の演奏を聴くとかして、兎に角音楽と云ふものに対する智識を養はうとするのが一般の傾向で御座います。西洋では婦人として一通り音楽の智識を有て居りませんでは、教育が未だ充分でないやうに自分でも感じますれば、人からも然 こ う思はれますので、厭 いや でも音楽の一般的智識を得やうと努力 つとめ るので御座います。実際欧米では有名な曲や偉大な音楽家や、殊 こと に歌劇の名前や其内容を一通り知らないやうでは日常の会話にさへ差支えるので御座います。

 上の文は、大正五年九月一日発行 の『婦人公論』 九月号 第一巻 第九号 に掲載されたものである。


「東京女医学校」 (1904-12)

2012年11月20日 | 医学 1 医師、軍医、教育

 

 上の写真は、明治三十七年 〔一九〇四年〕 十月五日発行の『女学世界』第四巻 第拾参三号 に「東京女医学校職員并に生徒  校長鷲山彌生氏」として掲載されたものである。

 

 上の写真は、明治四十一年 〔一九〇八年〕 八月一日発行の『東洋婦人画報』第十五号 に掲載されたものである。

 刀圭界の女流

  鷲山彌生女史校長たる牛込河田町女医学校卒業生にして○印は何れも医術開業試験に合格したる者、前列対つて右より、○弘田貞猪子、中川だい子、校長鷲山彌生女史、井出茂代子、○福田ますの子、○岩佐りん子、後列右寄り、○藤田静子、○飯田てい子、○倉田みね子、○米山はつ子。

 Female doctors, who have obtained government license to practise. They are pupils of Dr. Yayoi Washiyama, a well-known female physician of Tokyo.

 当時の東京女医学校については、上の写真にも見える最初の卒業生の竹内茂代女史の『吉岡弥生先生と私』(一九六六年8月)が興味深い。〔下は、その目次の一部〕

  一、医学を志すまで
  二、東京女医学校を知る
  三、東京女医学校に入学
  四、学校生活と学友さまざま
  五、弥生先生の出産を見学
  六、東京女医学校創立記念音楽会
  七、寄宿舎建設と医院の開設
  八、女子高等教育否定論と吉岡先生
  九、東京大学解剖教室に導かれる
  一〇、はじめて医術開業試験に合格
  一一、女医界創刊と入学志望者の激増
  一二、弥生先生との心のふれあい
  一三、第一回卒業式と祝賀会
  一四、東京女医学校昇格問題
  一五、七年間の医局生活

   

 ・上左の広告:明治四十二年 〔一九〇九年〕 四月一日発行の 『婦人世界』 四巻 第四号 に掲載されたもの。
 ・上右の広告:明治四十二年八月一日発行の 『婦人世界』 四巻 第九号 に掲載されたもの。



 上の写真は、明治四十四年 〔一九一一年〕 一月十日発行の『婦人画報 臨時増刊 現代名流婦人』 に掲載されたものである。

  鷲山彌生女史

  研究室に於ける東京女医学校長東京至誠病院長鷲山彌生女史

 また、同号には、次の一文もある。

 面白いこと、いやなこと   東京女医学校長 至誠病院長 鷲山彌生

 男子に混じつて学んだ

 私の父は医者でありまして、一つは其の家庭に生長 そだつ た為もありませう、私も婦人ながらいや婦人であるため女医にならうと決心しました。それは当方が婦人である為に、患者たる婦人又其の親族 みうち も安心して治療を受けることが出来ます。それやこれやの理由から女医にならうとした次第であります。併 しか し何をいふても私が医学を学びました時分は時が時でしたから、別に女医の学校といふものもなく、男子の中に混つて稽古いたすものですから、いろゝな圧迫や屈辱がありました。それを通り抜けて自己の意思を貫かうとするは容易なことではありませんでした。然し其等の間の苦心や経歴は毎度申し上げたことですから、今回は私が女医となりましてからのことに就いて一つ二つお話し申しませう。

 

 上の写真は、昭和十六年 〔一九四一年〕 五月一日発行の『女子青年 愛知県版』 五月号 の掲載記事「吉岡彌生女史の母堂 みせ子刀自 市川喜久子」中に「晩年のみせ子刀自」として掲載されたものである。

 忙しい間に面白いこと

 私は朝起ますと、もうそろゝ外来の患者が詰めかけてまゐります。朝餐 あさげ をしまひ身支度をし、此等の患者の診察をはじめまして、午前中は総て外来患者の治療や診察をして、それから午後は往診、其の間には皆様に御面会をいたしたり、又私の経営いたして居ります女医学校の教授其の他のこともありまして、猶自宅には病室の患者もあるといふ次第であります。一家の主婦といふ外に、私は日々此等のことをいたして居ります。多忙と申したら、私程多忙のものは沢山は無からうと思ひます。到底人様の様に音楽を聞いて楽むとか、演劇を見て喜ぶといふ様なことは出来ません。全然 まるで 、趣味も何も無い様な人間と思はれるかも知れません。然し私は何とも思ひません。趣味、面白いといふことも自 おのづか ら此の忙 いそが はしい間に湧いて来ます。

 患者の快復が面白い

 例へますなら、朝病室を廻診いたします、患者が私の顔を見ますや否や、今朝 けさ 程はお蔭様で気分が善いとか何とかいはれます時は私は愉快とも何ともいはれません。それから従前 いままで 、病気の為に食物も充分に頂けなかつた、いや仮令 たとへ 好物にせよ私より或食物を禁制し居りました患者に、其の病気の快方に向つて行くことから其の禁制を解いてやりまして、其の患者の喜ぶ顔を見ます時など、私は其の患者の心を思ひやり私も共に喜ぶ様になります。又外来患者にしましたところが、日々通つてまゐります中 うち にだんゞと其の病状が薄らいて行くのを見ますと真に我を忘れて其の治療が面白くなります。其の患者の来ます時刻が待ち遠い様な気持ちがします。それから婦人病の慢性に罹つたものが、あちら、こちらの医師ー男子ーの許 もと を迷ひ廻つたものが、遂に私の処にまゐり、いろゝの打ち明け話までも出て其の経過が充分に聞き取られて、其の治療に取りかゝり、それが全快する時などは、私が真に女医たる目的が達せられた様な心になり、女医の世に必要なることを唱道いたして居ります私は何だかますゝ勝利者となつた様な気がいたします。この外医師とし患者に接して、それが私の研究となりましたりいろゝなことがありますが、要するに、私は患者の恢復といふことが面白いのであります。

 出し抜かるゝ程不愉快はない

 然し私がかうやつて女医として世に立つ行きますに、一から十まで尽く愉快面白づくめなことばかりではありません。中には随分不愉快なやなことも少くはありません。其の中でも最も不愉快に感じますことは、往診の家で、何時の間にか医師を変へて置き、私が其の家に往診にまゐりますと折角のお出 いで でありますが、親類共の勧めで患者は病院の方に入れましたから、お戻りを願ひますとか、何とか、一寸と体裁のよい繕 つくろ い語 ことば !其の実は疾 とく に当方に察せらるゝ語で逐 お ひ帰さるゝことです。実に此時ほど不愉快ないやなことはありません。また新来の外来患者で、当方がよく其の患者を知らぬことから、其の経過を見る為に試みの治療をやつて居ります中に、患者は其の治療の効がてきめんに現はれませぬものから、当方の技倆を疑がひ、ふいと来なくなることがありますこれが面白くないことの一であります。

 

    東京 女医学校 組織変更 生徒 募集

 今般文部大臣ヨリ専門学校ノ認可ヲ得東京女子医学専門学校ト改称シ来ル四月八日ヨリ新学年ヲ開始ス
   ○入学志望者ハ四月五日迄ニ入学願書ヲ提出ス可シ
   ○入学資格高等女学校卒業
   ○募集定員壹百名
   ○規則要郵券参銭

  東京市牛込区市ヶ谷河田町
    私立 東京 女子 医学専門学校

 上の広告は、明治四十五年 〔一九一二年〕 四月一日発行の『新婦人』 四月の巻 に掲載されたものである。


「神戸絢子女史」 (1914.1)

2012年11月20日 | 音楽学校、音楽教育家

 

 寅年の名流(三)

 東京音楽学校教授神戸絢子 〔神戸絢〕 の君。独逸 〔実は、仏蘭西〕 仕込みのピアニストとして有名な方ですが、教場以外の楽壇にお出でになつた事はありません。明治十一年のご誕生で、今年は三十七歳、四まはり目の当り年です。

 上の写真と説明は、大正三年 〔一九一四年〕 一月一日発行の『淑女画報』第三巻第一号の口絵に掲載されたものである。

 

 頼母木駒子女史 神戸絢子女史 大音楽会出演ノ為 梅田駅到着ノ光景

    絵葉書:大阪市東区博労町四丁目 中央写真館撮影 三木楽器店印行、大阪開成館

  写真は、左が頼母木駒子、右が神戸絢子である。

 なお、ヴァイオリンの頼母木駒子については、田辺尚雄が、東京音楽学校ヴァイオリン選科でその教えを受けた思い出などを記している(『明治音楽物語』〔藤村操や久野久子の思い出なども記している〕また『田辺尚雄自叙伝:明治篇』など、明治三十九年七月撮影の先生や友人らと一緒の写真もある)。

 

 仏国より帰朝せし閨秀音楽家の実歴
     
     東京音楽学校助教授 神戸絢子

 東京音楽学校助教授神戸絢子女史(三十二)は、一昨年 〔明治四十年:一九〇七年〕 の三月、文部省から選まれたフランスパリに渡り、専らピアノを研究されて、六月十七日めでたく帰朝されました。一日 いちじつ 記者はパリ留学中のお話を承 うけたまは はらうと思つて、東京神田駿河台鈴木町のお宅へ伺ひました。まだ木の香の失せない新しい御門、それに続いて青葉若葉のすがすがしい植込。案内を請ふと、間もなくお二階の広間に通されました。
 やがて優しい衣ずれの音と共に、薄い緑色の洋装をされた女史は、しとやかに出ていらつしやいました。
 『ようこそおいで下さいました。お待たせ申して失礼いたしました。』
 と、つつましやかに御挨拶をあそばしました。御縹緻 ごきりやう のお美しいのに、自らなる愛嬌。わざとらしからぬ温情は頬 ほほ に眼に口にあらはれてをります。真の天才は、あらゆる瑣事にまで流露するものであると聞きましたが、女史の如きは、まつたくそれであらうと思ひました。次に掲げますのは即ち女史のお話でございます。

 『毎日音楽会が二つ三つある』

 申すまでもなく、パリは音楽が非常に発達してをりまして、下流社会の人でも音楽を解しない人はないくらゐでございます。日本で申しましたら、丁度琴三味線をといふ具合に普通の家庭でピアノの一台ぐらゐの備へない家 うち はございません。単に室内の装飾品としても、なければならぬもののやうになつてをります。どんな日でも音楽会の二つ三つない日はございません。男も女も、年をとつた人も、若い人も、皆それぞれ番附を見て、好きなところへ聴きにまゐります。音楽趣味の普及してゐることは、実に驚きますほどで、パリ人で音楽を聴く耳を持つてゐない人は一人もないと申してよいくらゐでございます。

 『厳重極まる官立音楽学校』

 私のまゐりましたのは、フランスでも有名な巴里官立音楽学校でございます。パリは音楽の盛んなところだけに、私立の音楽学校は数へ切れないほど沢山ございます。けれども私立学校は容易 たやす く入学ができるだけに、生徒の学力もまちまちでございますが、この官立音楽学校は学制が非常に厳重で、毎年幾百人といふ多数の応募者の中 うち から、七十人か八十人かの秀才を選抜して、入学させるのでございます。入学年齢は十八歳までで、二十二歳まで在学することが出来ます。このやうに厳重でございますから、この学校に入学出来たといふだけでも、もう立派な音楽家というてよいので、非常な名誉としてあります。男の生徒も随分多うございます。
 私はパリに着きますと直<す>ぐ、その音楽学校の傍聴生となつて、校長のホーレーさんに就いて親しく研究しましたが、その傍ら、ホーレーさんの紹介で、有名なヒリツプ先生にも学びました。
 パリの市中にをりましては、人家は稠密でございますし、それにいろいろな事情が起つて来て、一日音楽を聴いていることができませんから、私は町はづれの或る寄宿舎の一室を借りて、出来るだけ音楽に親しんでをりました。

 『流行嫌ひなパリ音楽生気質』

 一級の生徒は十人か十二人で、家庭から通つてゐる人が多いやうでございます。学校の授業時間は一週間に三度で、大抵二時間づつ教授を受けます。先生では、校長のホーレーさん、その他、リエーメンレスリーヒリツプなどといふ方が最も有名でございます。
 音楽学校の生徒は、一般に極く質素でございます。尤 もつと も中には、流行を追うてゐる人がないでもありませんが、十人のうち九人までは、衣裳でも持物でも、流行を追ふやうなことはないやうです。何しろ流行の中心といはれるパリのことでございますから、流行を追ふとなれば制限がありませんからでもあらうと存じます。
 パリの処女は一体に快活で、家庭も何となく晴れやかなやうに感じます。厳格な家もあり放任主義の家もありますが、総じて自由といふことを尊 たつと んでをりますから、皆ある程度までは解放されてゐるやうでございます。

 『聴衆の熱心は驚くの外なし』

 音楽会は、稀に劇場で開くこともございますが、到る処に音楽堂がございますから、大抵の演奏は音楽堂で開きます。演奏は皆専門的で、ピアノの時はピアノばかり、合奏の時は合奏ばかりといふ風で、一人で数時間づつ演奏をつづけるのが例です。少し有名な人の演奏でもありますと、皆競つて来会する熱心は、実に驚くの外はございません。
 音楽会の一番多いのは十一月頃から翌年の三月頃までで、暑中になりますと、有名な音楽家は大抵避暑にまゐりますから、随つて盛んでありません。入場料はなかなか高価ですから、来会者の多くは中流以上の人ですが、中には下流の人も見受けます。
 音楽堂で一番大きいのはエラール音楽堂です。これはピアノハルプを販売する有名なエラールといふ楽器屋で建てたものでございます。
 私は今年 〔明治四十二年:一九〇九年〕 の三月パリを去つて独逸の伯林にまゐりました。そして著名な音楽家を訪ひ、または音楽会などにまゐりまして、五月九日、マルセーユ出帆のツーラヌ号に搭乗して、無事に帰国いたしました。

  洋楽と家庭

    ピヤノと床の間

 私の居ました仏蘭西は流石芸術の国と呼ばれる丈御座いまして、彼地 あちら の家庭には中々能く音楽趣味が普及して居ります、大抵な家庭には必ずピヤノが一台御座います誰も弾く人が無くても必ずあります、是はピヤノを以て客間の装飾と迄考へて居るからで、日本なら床の間がないと可笑しく思はれる様に、ピヤノは是非客間に無くてならぬ物となつて居ます、彼地の風と致しまして客の訪問は午後で、お客を招きまするは多く晩餐で御座いますが、其後では必ず奥様とか令嬢とかゞピヤノを弾いてお客を楽しませます、又普通の日でも主人が会社なり店なりから疲れて帰つて参りますと、主婦は晩食を勧めた後で自らピヤノ台を開いて一曲面白く弾じて所夫 をつと の一日の疲労を休めます

    音楽の解る耳

 何も私の専門がピヤノであるからピヤノでなければならぬ様に申すではありませんが、凡て音楽の原 もと はピヤノでヴアイオリンなども結構で御座いますが、先づ最初にピヤノのお稽古を少しなさいまして、夫 それ からでないとヴアイオリンも上手には参りません、又ヴアイオリンはピヤノの伴奏がないと奏 ひ かれぬ位のものです、西洋では先づピヤノが家庭にも学校等にも全盛を極めて居ると申しても宜しいので、日本では小学校にはオルガンが必ず御座いますが、彼地ではオルガンはお寺にしか御座いません、勿論彼地と日本とは富の状態が大層違ひますから、四百円五百円、少し良いのになりますと千円以上もするピヤノの日本の家庭に入れることは困難の事情も御座いませうし、他の事物との釣合も取れますまいが、私の希望としては夫々の家庭に相応な琴もオルガンでも何でもよろしうございますから、日本の家庭に音楽趣味を普及して、大人や子供も音楽を聞いて楽 たのし む耳を持つ様になりたいと思ひます

    稽古に良い年齢

 これは私一人の考へかも知れませんが昨今日本の音楽、琴とか三味線とか申す方は洋楽に次第に地盤を蚕食されて居ると思ひます、成程三味線は下町の家庭に深く根ざして居り琴は官吏や純日本的家庭に大層勢力を有して居ますが学校で洋楽を稽古なさるものですから、卒業後も洋楽に趣味をお持ちになる方が次第に増えて参ります殊に上流の家庭にはピアノが今非常なる勢力をもつて居ます、上流の奥様で随分おやりの方もありますけれども、何かと御用がおありなさるもんですから私は止めますから今度は嬢に稽古して下さいなど仰しやいますピヤノのお稽古によい年齢 としごろ はと申しますと、九歳か十歳からですが日本では多く十一二歳からです、夫 それ 以上になりますと指が堅くなつて上達は中々の骨です

    音楽よりも芝居

 私は此の間フイハーモニーの会で帝国劇場でピヤノを弾きましたが、彼処 あそこ は劇場としては立派ですが、音の響きは建築のよくない為か大層悪う御座います、私のが出来が悪かつたのかとロイテルさんの後ろで聞きましたが、矢張り響きがいけませなんだ、先づ日本で音楽に最も適したのは上野、音楽学校の講堂でせう、彼処は日本一と云はれる三千円のピヤノもあります、音楽学校では毎週音楽会を催しまして、土曜には無料日曜には二円取りますが土曜の日には夫はゝ沢山の人で廊下に迄一杯と云う有様ですが、日曜には只西洋人許りと云うてもよい位です、日本人は未だ音楽の趣味が乏しいもんですから二円出す位なら芝居の方が面白いと大抵な方は仰しやつて来 いら しやいません(神戸絢子)

 上の文「洋楽と家庭」は、大正元年 〔一九一二年〕 十二月一日発行の『淑女画報』 第一巻第九号 に掲載されたものである。

 なお、東京朝日新聞 大正八年三月十三日(五)面 には、「神戸女史の光栄」良子女王御教育係としてピアノ御教授 という記事がある。


『清華大学大字報選 (蒯大富同志的大字報)』  (1966.11?)

2012年11月19日 | 文化大革命 1 紅衛兵

 

 清華大学大字報選(蒯大富同志的大字報)

           全国科協 毛沢東思想戦闘団 毛沢東思想紅衛兵 椿樹印刷厰革命造反派連合指揮部 〔本文86頁〕

 目録

 人物表

        

   葉林 : 国家経委副主任、原清華大学工作組組長。
   周赤萍: 国家冶金部副部長、原清華大学工作組副組長。
   楊天放: 国家林業部副部長、原清華大学工作組副組長。
   王光美: 中共中央弁公庁工作人員、清華大学工作組不普通的“普通工作組員”。(実為高級顧問)
   薄一波: 中共中央政治局候補委員、国家経委主任、是叛党叛国的大叛徒、解放前化名在国民党報紙上写了一篇臭名運揚的自首書。
   賀鵬飛: 賀龍同志的児子、原清華大学臨時籌委会主任。后自我罷官。
   劉濤 : 劉少奇的女児、原清華大学臨時籌委会副主任。后自我罷官。

   蔣南翔: 中共中央候補委員、高教部部長、原清華大学党委第一書記兼校長。
   劉冰 : 清華大学党委第一副書記。
   胡健 : 清華大学党委第二副書記。
   何東昌: 清華大学党委第三副書記。
   艾知生: 清華大学党委第四副書記。
                       (以上均為原職、現均停職)

 一 、工作組往哪里去?

 一場厳重的闘争又開始了!
 清華大学無産階級文化大革命工作組是九日晩上進校的、当日晩上、当我們听到這個消息后、我們高興得跳了起来。但是、我們只高興了幾個小時、工作組到校巳整整六天了、大批工作隊員都干了些什麼呢?是否促進了我校文化大革命?是否能把我校文化大革命引向最后勝利!這是毎個革命左派、広大師生必須認真考慮的問題、下面我們提出一些現象和分析供大家思考。
    一、運動方向問題
    〔以下省略〕

 二 、叶林同志、這是怎麼一回事?
 三 、給北京軽工業学院革命師生的一封信
 四 、関于6月27日大会声明
 五 、致劉才堂、王鉄成等同志
 六 、致叶林同志
 七 、6月24日弁論会中蒯大富的発言
 八 、6月27日弁論会中蒯大富的発言
 九 、蒯大富給鮑長康的一封絶密信
 一〇、告全校人員書
 一一、6月22日蒯大富給北師大附中的一封信
 一二、再致叶林同志
 一三、声明
 一四、絶食抗議非法政治迫害
 一五、給叶林同志再封信
 一六、向党祝賀
 一七、6月9日ー30日活動状況
 一八、致保蒯派
 一九、澄清幾件事実
 二〇、対学校従前幾点異常現象的看法
 二一、三致叶林同志
 二二、向党、向全校革命師生承認和検討錯誤
 二三、站住!叶林. 把帳算清再走
 二四、当前必須解決的八個重大問題
 二五、給総理的一封公開信
 二六、革命造反隊宣言
 二七、致化902十七人小組公開信
 二八、致“8・8”革命串連会
 二九、致外地外校串連的戦友們
 三〇、我対目前形勢的看法
 三一、一論叶林是党内走資本主義道路的当権派ー従党中央十六条決定看叶林
 三二、一論叶林是党内走資本主義道路的当権派ー叶林貶低、歪曲、低制、攻撃和反対毛沢東思想
 三三、関心国家大事
 三四、緊急声明

      

 三五、談権
 三六、告全体人員書
 三七、幾個問題