蔵書目録

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『武漢戦紀』 (1919)

2012年11月21日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 武漢戦記〔武漢戦紀〕

        己未五月新城王氏刊行 陶盧叢刻之十一 〔線装本、27.3センチ、18枚〕
 
 武漢戦紀   
            野史氏

   
 
 宣統三年夏六月四川以保路案激民変粤東湖北諸省均洶洶起反抗朝議人心僨張時革党張振武孫武楊鴻勝等潜聚湖北乗機煽動陸軍将卒文武学堂諸人士分挙代表謀乗大軍秋操後起事張振武暗運炸弾夾黄絲箱内武昌城守卒堅欲開検張振武度不可免以拳碎鎖血濺衣袖守卒驚愕不復疑放入城八月十八日孫武楊鴻勝試演炸弾於漢租界火暴発俄領事偵知函告両湖総督瑞徴拿獲革党三十三名並捜得軍火印信旗幟及同党名冊楊鴻勝彭楚藩劉堯徴皆伏誅余繋獄孫武時受炸傷匿同仁院秘與張振武等謀日事急矣案名冊索人無倖免免者惟速挙事可以一逞乃定計翌日夜二鼓城内外挙火為号工程隊熊炳坤方維王光国玉麟蔡済民等趨拠楚望台軍装庫礟隊自中和門入混成協輜各営自通湘門入群衆楚望台置礟蛇山以攻督署是夜火発斉奪門入遂踞武昌水師統領陳得龍擁護瑞徴避楚泰兵輸尋遁楊羅陸軍統領張彪亦遁二十日革党入漢陽工厰兵士逐其官吏與革党合〔以下省略〕

 

 上は、瑞徴関連の書物である。表紙には、「武漢禍種 瑞澂 四馬路中市新漢学社印行」とある。また、表紙の次には、「満奴醜史 湖広総督瑞澂」とその図がある。奥付には、「民国元年 正月出版 発行所 新漢学社」などとある。18センチ。叙、14頁〔含奥付頁〕。

 第一章 帯罪図功

  瑞澂電奏十八夜革匪創乱拿獲各匪正在提訊核辦革匪余党勾結工程営輜重営突於十九夜八鐘饗応工程営則猛撲楚望台軍機局輜重営則就営縦火斬関而入瑞澂督同張彪鉄忠王履康分派軍警随時布置並親率警察隊抵禦無如匪分数路来攻其党極衆其勢極猛瑞澂退登楚豫兵輪移往漢口〔以下省略〕

 第二章 始末情形
 第三章 瑞澂岑争権閙意見
 第四章 武漢之帰客談

  昨有友人乗隆和船到滬略述所聞如下有人至武昌城内者見諮議局門首植立大紅旗幟上標黒字丈為(中華民国軍政府大統領黎)十一文字諮議局門首血跡甚多聞係斬殺匪徒皆在其地〔以下省略〕

 第五章 瑞澂第一次電奏
 第六章 瑞澂第二次電奏
 第七章 割鬚而逃
 第八章 瑞澂逃来海上記
 第九章 瑞澂不得安居
 第十章 瑞澂之囈

 

 上の絵葉書には、「No.36 General Chang Piao 1911.」とあり、張彪と思われる。13.4センチ。
 『国士』第十四号 福島安正君 講話「セルビヤとブルガリヤとの戦いに就いて」:明治三十二年十一月 に、次の文がある。

 昨年 〔明治三十一年:一八九八年〕 でありましたか、湖広総督の張之洞からして日本の軍制その他の制度観察をするために、三四名の人〔黎元洪も含む〕が来ました。其中の張彪とて、日本で言へば聯隊長と同じ職務に当る人がありました。此人は能く日本軍隊の要点を見て、武昌に帰った後に、其事に着手をして、漸く其結果が見えやうと云ふ場合に達して居ります。



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