蔵書目録

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『現代名流婦人』 「音楽関係」 (1911.1)

2011年08月31日 | 音楽学校、音楽教育家

 表紙には、「婦人画報 増刊 現代名流婦人 〔明治〕四十四年 〔一九一一年〕 一月十日発行」、また「THE LADYS GRAPHIC NO.51. JANUARY 10TH. 1911」とあり、奥付には「発行所 東京社」とある。26センチ、96頁。
 口絵の音楽関係には、次の6人の写真がある〔1頁に2人掲載〕。

  ・幸田延子女史と柴田環女史 ・安藤幸子女史と神戸絢子女史 ・頼母木こま女史と橘糸重女史 

                     

 西洋音楽関係の記事には、次のようなものがある。

 
 音楽界の婦人

 一 音楽に乏しい家庭の空気  幸田延子

  指折り数ふれば早や二十余年

 経 た つて見ると造作も無いやうなものゝ、指折り数へて見ますと、早 は や二十何年と云ふ昔、今の女子高等師範学校が東京師範学校と云ふ名義になつて居りました時分、其 その 附属学校へ私は通学致して居りました。当時、音楽を受持つて居られた先生はメーソンさんで、私も此の先生について唱歌を習つたことを記憶して居ります。
 その頃また本郷森川町、只今の高等学校の前に、音楽取調掛と云ふものが出来て居りまして、メーソンさんは此処に住んで居られました。この音楽取調掛が後日 のち に音楽取調所と云ふ名義になりました。今日上野に在る東京音楽学校は、この音楽取調所からだんゝと変遷して来たもので御座います。

  たゞ何とはなしにヴアイオリンを……

 長く女子師範学校の校長として居られまして、昨年物故されました高嶺秀夫先生の御夫人がが、このメーソン先生の一番弟子で在 あ らつしやいましたが、昨年お亡くなりになりました。この奥さんは其の頃には未だ中村さんと仰有 おつしや いまして、私が音楽の手ほどきをして戴 いただ いたのは、この中村さんからで御座いました。
 メーソンさんや中村さんに種々 いろいろ 願つて居りまするうち、唯だ何と云ふ気もなしに、私は音楽学校に這入 はい ることになりました。これは私が十五歳の砌 みぎり で、明治十三年のことゝ覚えて居ります。
 その頃の音楽学校には、今日のやうに外国から参られた教師がたはお一人も居られませんで、私がピアノの教授を受けましたのは、瓜生男爵夫人からで御座いました。
 今日はヴアイオリン専門になりましたが、その時分には、ヴアイオリン専門にならうなぞとは、夢にも思ひませんでした。また、その頃、音楽学校には、今日のやうに大勢の生徒が有ると云ふ譯 わけ ではなく、至つて少数の人で御座いまして、皆さん方大概はピアノばかりを習つて居られました。また、私もピアノを学び通さうかと云ふやうにも思つて居りましたのでした。それが、私ばかり、他の人のしないヴアイオリンを学ばされるやうになりましたから、何ですか、他の人々 かたゞ よりも、余計に課税されたやうに思はれまして、何と無く可厭(いや)に思はれましたのは、今日から考へますと、実に不思議なほどで御座います。先づ斯ういふ次第で、ヴアイオリンをはじめましたのですから、最初から何ういふ考へが在つての、何 ど うのと云ふ次第では無かつたので御座います。他人 ひと から学 やつ て見よと申され、その云はれたまゝに学んだと云ふに過ぎないので御座います。

  ヴヰエナ〔ウィーン〕の三年

 学校の名義が音楽取調所であつた頃にも、卒業された方もあつたでしやうが、東京音楽学校と云ふ名義になりましてからは、私が一番初めの卒業生であつたものと見へまして、卒業證書は第一號となつて居ります。爾来 それからのち だんゝと大勢 たいぜい の方が卒業されましたのですから、今日の卒業證書は何百號と云ふやうな番号になつて居ることゝ思ひます。ヂツトリツヒさんが、音楽学校へ見えられるやうになりましたのは、私の卒業する少し以前 まへ のことで御座いました。ですから、私はヂツトリツヒさんに就いて学んだのでは御座いませんのです。
 学校を卒業後、私は更にヴヰエナで学ぶことになりまして彼國 あちら へ出向きました。その頃、音楽学校の外国語は英語ばかりでしたから、彼地へ参るにつきまして独逸語を学んだので御座いました。彼地へ参りますと、何事も当時 そのころ は驚くことばかりで、それに御存知のやうに有名な大家 かたがゞ が居られましたから、留学中の三年間は耳と手との働き、練習に唯だゝ一三昧 いつさんまい になつて居りましたやうな次第でした。申 まを さばヴヰエナの三ケ年間は夢のやうに過ぎたとでも申しませうか、眞 ほん に彼地で音楽の十分発達致して居りますことは、羨しいことで御座います。これは、先頃二度目で欧洲 あちら へ参りました節にもつくゞ左様感じました。

  集会に不便な日本家屋

 それに、御教授を致して居る方々とも好く左様 さう 申すことで御座いますが、未だ今日の日本には、お互に集つて、お茶でもいたゞき、親睦会とか、談話会とか云ふやうにして、音楽の小集会を催したいと思ひましても、何分にも適当な場所がないので困ります。お互の家屋 うち が、斯ういふ集会の出来るやうに建てゝありますと、何の雑作も無いことなのですけれども、天井の低い日本風の家屋では、何うも斯ういふ集りには都合が宜しく御座いませんので……。
 この点から考へますと、欧洲の家屋のやうな建築法 たてかた で御座いますと、何時何処のお家へ寄り合つても、直ぐに打ち解けた、音楽の小集会が出来まして、練習の助けとなるので御座いますけれども、これだけは、催したいと思ふばかりで、何分にも場所の関係が思はしくないので、何時も困つて居るので御座います。

  私に取ては音楽が唯一の慰楽

 ヴヰエナの三年を夢の裡 うち に過ごしまして帰朝致しました後 のち は先頃、欧洲へ参りますまで、引きつゞき音楽学校教授を致して居りましたので、私に音楽上どんな著しい苦心があつたか、何ういふ考へが有つて音楽を習ひはじめたなぞと申すやうな、むづかしいことは取止めて申上げ兼ますが、唯今の私に取りましては、音楽は確かに心の慰めでもあり、楽しみでも御座います。お酒を上 あが る方は、お酒で心を慰められ、花や植木を心慰 こゝろなぐ さにして居られることゝ思ひますが、それと恰度同じやうに、私も此の音楽をば心慰さに致して居ります。ですから、世間にお一人でも多く、音楽を解せられ、音楽趣味を持ち、音楽を心慰さとする方があるほど、日本の音楽も進んで行きます譯で、私と致しては、左様いふ方々が日に増し殖 ふ え、欧米の家庭のやうに、日本の家庭でも、音楽を一般に家庭の方々の楽しみとさるゝ日が、一日 いちじつ でも早く到着することを望んで居るので御座います。何うも音楽に乏しい家庭の空気は、何か物足りないやうで、何処となく陰気なやうに思はれまして……

 二 独逸の三年間       安藤幸子

  ・欧州の楽壇を風靡したヨワヒス先生
  ・手を見てヴアイオリンを勧めらる
  ・私に今少し体力があらば       

 三 橘糸重女史にお目かかる記 白芙蓉

  ・名聞を好まれぬ斯道の名家
  ・眩しい電燈の下にすらりとしたお姿
  ・音楽家との会見にふさはしき琴の音  〔下は、その一部〕 

 「その鴎外さんの『即興詩人』のやうに認めることの出来る履歴でも私が持つて居りますと、それは、お話し致すことも有るので御座いませうが、何に致せ、唯だ空しく二十年ばかりも学校を教へて居ると申すばかりで、他には何のお話し致しますほどの経歴もない私で御座いますから……。」

 「私は高等師範学校の附属学校に居りました。それから、母や兄から申さるゝまゝに、音楽学校這入つたと云ふばかりなので御座います。入学当時は勿論のこと、在学当時、卒業当時でさへ、母校で今日までも引きつヾき音楽を教へるやうにならうなぞとは、更々思つて居りませんので御座いました。
 御言葉は、また途切れた。途切れたお言葉は、また暫くしてから断片的に発せられたのでありました。

  ・若き楽人の意味深く味はふべきお言葉

 「私は音楽が大好きで御座いますが、その好きと申すのは、他の方が上手になさるのを楽しく聞いて居りますことで御座いまして、私が自分で致すのは、楽しみ処ではなく、反て苦痛なほどで御座います。」

 四 巴里で学ばれた神戸絢子女史 いくよ 〔下は、一部〕 

  苦しんだのも音楽、楽しんだのも音楽

 「巴里 パリー で、特別に、私の心を慰めたものとては御座いません。-苦しんだのも音楽、楽しんだのも音楽……何しろ、この官立音楽堂(コンセルヴアトール)にても這入(はい)つて居らるゝ方々は、皆な立派な素養のある方ばかりなのですから、日本から彼地へ参りたては、何うかして、斯ういふ人々と肩を並べたいものと、随分焦りも致しますし、骨も折りました。」

  苦心を苦心とも思はず

 「官立音楽堂は、我国 こちら の東京音楽学校とは違つて、皆な専門に習ふやうになつて居りまして、ピアノを終業するものは、ピアノばかり、ヴアイオリンを修業するものは、ヴイオリン一三昧になつて居ると云ふ状況 ありさま なのです。で、他の課目を学ぶと云ふ必要は御座りません。自修時間も十分あるやうでは御座いますが、それでも、私なぞには、未だゝ自修時間が不足のやうに思はれましたので御座います。」

 五 音楽の修行から得た苦しい経験  東京音楽学校教授 頼母木こま子

   楽みよりも苦みが余計

 これぞと申す際立つた考へもなく、何の気もなしに東京音楽学校に這入り修行を致し、別に臨んだわけでもなく、卒業後引きつゞき、今日まで学校を教へて居ると申す他には、私、何とも格別申し上げることも無いので御座います。先輩のお勧めがあつて、そのきつかけに音楽の修業をはじめたと云ふやうなことで私に在りませば兎も角、私の音楽をはじめましたのは、そんなきつかけなぞ有つた譯 わけ では無いので御座います。
 今日と違ひまして、私の在学当時には、未だ音楽学校には余計に生徒は御座いませんでした。それに、一時 ひとしきり なぞは、教師の側でも、外国教師の一人もお出でなかつた時も御座いました。何に致せ、音楽のことで御座いますから、他の人が御覧になりましたら、いかにも楽みの多いやうに思し召すか知れませんが、やはり、一つの職業になつて居りますと、楽しみと申すよりも、苦しみの方が余計なので御座いまして、決して他からお考へになるやうなものではありません。それも、何か特別の天才でもあつたらば、また楽しみも御座いませうが、私のやうに天才どころか、何の取り所 え もないものには、決して音楽の楽しみなぞがあらう譯はないので御座います。
 併しこれは、何の道でも同じことで御座いませう。それに私なぞは、宅へ帰りますと、主婦 かない で御座いますから、一軒の家相応の用事があるので御座いまして、唯今から考へますと、修業中の方が未だ音楽の楽みがあつたかも知れぬと、斯う思ふので御座います。

   第一は天才、第二は忍耐

 楽才が御座いませんなら、骨を折つて勉強致しました所であまり効 かひ がないかと思はれます。音楽学校なぞの生徒に致しましても左様で御座います。先づ最初から、この人はと、目をつけた生徒は、進みも充分はか取るので御座いますが、左様いふ生徒で御座いませんもので……。尤 もつと も、最初 はじめ に何うかと思はれた生徒 かた でも、だんゝ練習が積み、勉強を重ねるうちにはじめに考へましたとは違つて、大層見直すやうな人も無いのでは御座いませんが、斯ういふ人 かた はまた格別の人と云つても宜しいので御座いません。
 日本の音楽と違ひまして、この西洋音楽の方は、取りかゝりが誠に退屈なもので御座いまして、はじめから、これと一つ纏つた曲 もの を初めると云ふ譯には参らず、練習にばかり時を費すので御座いますから、それを能 よ くも御忍耐なすつて皆さんが好くこそお稽古をなさることゝ思はれるほどで御座います。
 それに何か何か一曲まとまつたものが済ました後でも、その次の曲をはじめるまでには、またゝ長い間、単に練習の曲を致さなければなりませんのですから、習ひはじめの方は、決して楽しみがあらう筈はありません。楽しみ所 どころ か、殆んど苦痛ばかりをお感じにならうと思はれます。
 斯ういふ次第ですから、何うやら人通り仕あげやうとするのにも、第一幾分か天才がなければならず、第二には、余程忍耐強くなければ、到底 とても 仕上がる理 わけ にはまゐりますまいと思ひます。音楽を学ぶにも、随分な精神上の犠牲が要 い るので御座います。しかも、そんなに苦労をして、どれほど上手になるかと思ひますと、たゞ一通りのことが出来ると云ふまでゞ御座いまして。-誠に音楽の修行も容易なものでは御座いません。
 
 六 柴田環女史の半面                有隣子

  ・飾り気の無き女史が母堂の物語
  ・祖母君の声音を遺伝した環女史
  ・天才の母と趣味の遺伝



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