蔵書目録

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「舞台のピヤニストから聴衆へ」 久野久子 (1922)

2012年11月23日 | ピアニスト 1 久野久子

 舞台のピヤニストから聴衆へ 
      西洋音楽を聴く時の心持
              東京音楽学校教授 久野久子

  

  (ピアノに向かふ久野久子嬢)

  演奏者の名を聞く人

 西洋音楽を聴く人に対して私が望むことは、第一に音楽家を聴かずして音楽そのものを聴くといふ風であつて欲しいと思ひます。
 近頃では西洋音楽に趣味を持つ人が大分多くなりましたが、まだ一般には本当の趣味は更に普及してをりません。大抵の人は、あの人のピアノだから聴きに行かうとか、大家だから名人だから聴いてみようとかいふ風に、人を標準に考へてをります。これでは真に音楽といふものを理解して聴きに行くものとは申されません。勿論人も大切ではありますが、真に音楽に対して感興を持つのでなければ、音楽を聴いたといふことはできないと思ひます。音楽の価値は弾く人によつて決定するのでなく、音曲そのものによつて決定するのであります。勿論弾く人の熱心と技巧にもよりますけれどもー。

  作曲者の前に立つて

 第二に、音楽を聴く時の態度は、たとへてみると、ベエトオヴエンの作曲であれば、聴き手は全くベエトオヴエン自身の前に立つた態度であつて欲しいと思ひます。ややもすれば演奏者の技巧について彼是と批評することばかり考へて、曲に対する敬意と申しませうか、これを厳粛な気持で受入れるといふ気持が少ないやうです。これではどんな名人の作曲でも本当のことは到底諒解されまいと思ひます。
 第三は、ただピアノを弾く人でなく、作曲家自身の前に立つてゐるといふ心持ができたならば、今度は曲そのものに全く同化し得る態度があつて欲しいと思ひます。ただ楽観的に音楽を聞いてゐるといふだけでは、折角の名曲も十分その価値を味はふことができずにしまひます。ですから、シヨパンを聴く時には、私どもがシヨパンの心持になつて初めてシヨパンの曲が理解されるのであります。即ち、シヨパンになつて初めてシヨパンがわかり、ベエトオヴエンになつて初めてベエトオヴエンがわかるのです。
 音楽を聴く人は、その小さい先入主をすつかり捨てて、全く虚心坦懐の気持にならなければなりません。それでこそ人間の魂の奥底から湧き出る悲壮な神秘をキイの響きから聴取ることができるのであります。
 第四に、これから推して考へると、演奏者は全く作曲者の仲介者であるべき筈であります。さすれば聴く人は演奏者の音楽を聴くのでなくて、演奏者に仲介して貰つて作曲者の名作を聴くのでありますから、私はピアノにむかつて演奏する時には、楽聖に対して非常に重大な責任を感じます。この厳粛な心持を聴衆が感じて聴いて下されば幸ひであると思ひます。
 私がピアノにむかふ時は、真にわれもなく人もなく、夢中に曲に同化してキイを打ちます。その時の曲そのものは私の生命の表現であります。そして、それを聴衆がいかに聴くか、如何に感ずるかといふことは少しも考へてをりません。しかし、音楽を聴く人の心得をとのお尋ねに対しては、前に申上げた通りお答する外はありません。
 私の前に美しい花束が飾られるのは取りもなほさず、これを楽聖に取次いだに過ぎません。また聴衆もその意味で楽聖に捧げる態度でゐて欲しいといふことを切望いたします。

 上の文と写真は、大正十一年 〔一九二二年〕 一月一日発行の『婦人世界』 一月 第十七巻 第一号 に掲載されたものである。

  

  忠実に演奏し終つた時 久野久子
      
      ○
 人と相対した時、又人の芸術に触れた時、何とはなしに一種の引付けられる感を抱かせられ、永く自分の印象に残る強さが強いほど、其相手の人が偉いのです。例へば其人が学者であらうと、又事務家であらうと芸術家であらうと、又男であらうと、女であらうと何人たるを問はず、其人の一言一句、又其人の腕から手から、指から沸く芸術は、其人の生まれながらの性格の根底に横たはる真実と、努力から迸(ほとばし)り出たものであるならば、他人を引付け様として意識的に技術をつかうのでも何でもなくとも、真実の波は相手の真実性に電波の様に伝はつて感動させるものです。この様な力ある人は確に偉い人です。
 この真理は音楽に於ても同じ事であつて、人を感動せしむる音楽は、音楽家自身の真実の発露でなければなりません。楽壇に立つて多くの聴衆を相手に演奏しましても、主観的には其の聴衆は相手ではありません。演奏者は自分に向つて集まる何千何万の眼と、耳を超越して、唯ひたすらに自分の内心に動く芸術の波を、忠実に演奏し終つた時が、人を最も感動せしめた時です。それは丁度兵士が戦場での命懸けの戦に等しいものです。
      ○
 此状態は芸術家のエクスターシーであつて、目に見えない偉大な力と、芸術家の力と、不可思議な合一の様に思へます。かうした芸術を生み出す人、又生み出さうとする人は、何時も自分の芸術の根本性の律動に耳を傾けて、より深い、より充実した芸術を生み出さうと努力します。かういふ人にとつて芸術は人と競争すべきものでもなく、聴衆の賛美を目的とするものでもないことは明らかです。
 私は常にピアノと健康さへあれば、それで足れりとします。名誉も、讃美も他のどの様な幸福も敢へて求めません。ピアノのキーに自分の情熱を吹き込む時にも、又練習の何回と数しれぬくりかへしの時にも、私には世界に何ものもありません。唯云ふに云はれない法悦の心に充されます。
      ○
 芸術は人格の発露ですから、真の芸術は善に強い人格から生れ出ます。悪人からは如何に技術や、才能があつても、真の芸術は生み出し得られません。かうした善に強い立派な性格の持主の情熱が、努力によつて理性に結び附けられて、よりよいものを生み出さうとして励み行くところに、真の貴い芸術が生み出されます。
 天才を気取つた放縦な芸術は、真の芸術ではありません。天與(てんよ)の才はより多く所有して居りながら、性格の破産の為に十分其才を育て得ずして終る人が多くあります。又一方に始めは、それ程才が無くとも、性格の立派さが其れを打ち破つて、立派な芸術を生み出す人もあります。私共人間の才も、宝石と同じ様に、磨いて始めて燦然たる光を放つ様になります。一度音楽に志しても、自分の才能が足りないと悲しんで、中途で止めてしまう人がありますが、其様な人も、もつとゝ努力して、自分の才の泉を掘りあててみなければ分りません。或は思ひ懸けない力が潜在して居るかも知れませんから。何しろ根強く自己の才能を開拓して行かなければなりません。その内には自分の性格もよりよく教養され、本当の芸術家に、又人間にもなれます。
      ○
 真の芸術家…云ひかへれば音楽家は、本当に芸術を理解しようとする熱心な人も、又無理解な人をも其芸術の力で陶冶して、つまり修身の教にもあたり無言の内に他の人各を教育して居るのです。どうか私共はかうした関係に於て、お互に自分達の芸術をよりよいものに磨き上げて行きたいものです。此所迄来ると修身の教も音楽も一に帰します。
 音楽は人を情熱的な気高いものに作り、そして其楽音は人の力で生作されます。

 上の一文は、大正十一年二月一日発行の『婦人画報』二月の巻(第百九十四号)に掲載されたものである。

 

 ◇私は何故に結婚しないか 

 ○ピアノが私の生命 東京音楽学校教授 久野久子

 何故に独身生活を、それから今までの心持をまた感想を、とのおたづねに、何とお答へがいたされませう!たゞざつと私の摑み得たことだけを申してお答へといたしたく存じます。
 私は明治十八年十二月二十四日、滋賀県大津市松本の石場と申す(私の家の裏手が琵琶湖でございます)ところで生れました。家から約一丁ほど離れたところにある松本神社が、産神様でございましたが、私が生れて半年目、梅といふ女中が、神社の石段から過つて私を落し、丁度器械体操などをして腕をはづしたときのやうに、私の足のつけ根をはづしてしまひました。まだ赤坊のことゝて、その夜から一週間ばかりは痛さに泣きつゞけました。幸か不幸か外面には傷を受けませんでしたので、家人には私の泣く訳がわからなかつたのでございます。やつと泣き止みはいたしましたが、三歳四歳と年をとつても、一向に歩きませんので家人は初めて不思議に思ふやうになりました。その歩き方が変なので、皆が寄つては心配いたしました。
 私の両親は不具者になつた私を、琴や三味線の師匠にしようといふので、六歳のときから私に琴の稽古をいたさせました。丁度尋常三年生のとき、兄が中学へ入りましたのと、それに京都は古くから生田流の本場でございますので、かつまた母が私を立派な師匠に仕込みたい一念からとで、たうとう私を京都へまで連れてゆき、生田流の名人古川龍斎先生について稽古をいたさせ、遂に奥許しを受けるまでになりました。それは私の十三歳のときのことでした。奥許しには誓書(誓いの証書です)には血判を捺(つ)くことになつてゐましたので、この時私は古川先生のお杯(さかづき)を受けまして母が針で私の人差指を突き、血を出して血判を捺させてくれたものでした。そのときのことを、私は今もはつきりと覚えてをります。そして私は、学校は尋常四年を卒業したきりで、それからといふものは、一年に三四度遊びますだけで、毎日く朝から晩まで、琴と三味線を仕込まれてをりました。私の十五歳の十二月二十一日、母は永らく病気をした上、この世を去つてしまひました。
 けれども兄は京都の高等学校にをり、私はやはり琴三味線を古川先生に就いて学んでをりましたが、兄が友人から、東京に音楽学校のあることを聞いて、そこへ私を入れようと、そのことを父に申しました。そこで私は明治三十四年九月、辛(から)。うじて入学することができました。このやうな訳でございますから、独身でゆく決心などをいたしてゐた訳では決してございませんでしたけれど、自然にさういふ風になつてきてしまつたのでございます。 
 現在の私の感想や心持などは、いろゝありまして、到底も書き尽されません。西洋人と同じやうに年を数へますと、私は今日で三十六年と五日この世に生きてきました。音楽学校は入学して一年後、病気でまる一ヶ年間を休学しまして、明治三十九年七月卒業いたしましたが、それから後十年余りの間にには、私のやうなものにでも結婚の話がないこともありませんでした。心の動揺もいろゝありましたが、それをやつと通り越してきた現在の私には、ピアノのキイを弾つほかに何の興味も希望もありません。どのやうな愛も宮殿も決していやとは思ひませんが、少しもそれらを望まうとは思ひません。しかし現在切に望ましく思ふものはたゞ一つあります。それは時間であります。二三年でもよろしいと思ひますが、専心勉強し得る時間が欲しうございます。それにはいろいろと理由があるのです。
 一昨九年夏、私がピアノの上に長い間の一つの疑問がありましたのが、(それは私のどうしても絶望するより外いたし方ないものと断念めてゐながら、しかもそれを思ひ切れずになほ研究を続けてゐたものでございましたが)それがやつと解決されたのでございます。そのために私は非常に力を得る様になりました。この上は、幸ひ私は身体も丈夫であり、精力さへ続けば、現在の哀れさも、十年のうちには屹度破つてゆかれよう、屹度ゆけると、激しい心に奮ひ立つたのでございます。
 しかし私の現在は、一週間の七日のうち、二日間も勉強のために時間をとることもできないくらゐの忙しい身でございます。といつて自ら身を退いてしまふことはなかゝ困難なことです。さりとてこの切なる望みを捨てゝしまふことは、尚更できないことでございます。是非にも何とかして、心ゆくばかり勉強したいと希つて止みません。
 とは、申せ、私も心の底からの深い幸福をも豊かに持つてをります。それと申すのもピアノのお蔭で、私はオールドミスの寂しさなど感じたことはありません。善と真実なるものゝほか、何ものをもまざらしむべきではない私の心には、世の中の人と人との関係の、余りにもうそ寂しい例の、多くあるのを見せられるたびに、何となく情けない気持をさせられ、自分の独身でゐることを、却て仕合せにさへ思ふほどでございます。そして自分の仕事に、身も心も打込んでゆくことのできる幸福さを、しみじみ有難く思ひます。さうは申上げますけれど、私が大正四年一月、自動車に轢かれましたとき、皆様から受けました深い御同情を、今もなほ感謝してをります。ゴッホが『恨みも愛に云々(うんぬん)』と申してをられましたが、私は如何なる人に対しても、何時(いつ)も喜びの心を持つてお対(むか)ひいたしたう存じます。ましてこのやうなお情けを受けます私は感謝と共に、力の限り勉強して、お礼をいたしたいと燃ゆるやうな心持でをります。

 ○音楽の研究に 東京音楽学校教授 小倉末子

 貴社は私が独身生活を決心したものとしてその感想を聞かせよとの御依頼状を下さいましたが、現在私はまだ音楽研究中の一学生に過ぎないのでございますから、独身生活とか、結婚とか申すやうなことにつきまして、少しも考へましたこともございませんのですから、お尋ね下さいましたことに、お答へいたす何ものをも持つてはをりませぬ。

 上の二つの文は、大正十一年二月十五日発行の 『主婦之友』 二月十五日号 第六巻 第四号 に掲載された四人〔他の二人は、小説家 田中純、小説家 三津木貞子〕の回答中のものである。



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