蔵書目録

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「高木徳子のトーダンス」 (1915)

2012年11月23日 | ダンス デニショーン、サカロフ夫妻他

   

 左の写真;

  帰朝して帝国劇場の「夢幻的バレー」に出演した大正四年〔一九一五年〕と思われる。なお、同じ写真で同じ矢吹高尚堂製の別の絵葉書には、「高木徳子のダンス」とある。

 右の写真:

  高木夫人のダンスぶり

  高木陳平夫人徳子の君は八年以前渡米し、ダンスを学んで其の技堂奥に入り、爾来米国各地に於て得意の技を演じ、到る所で大喝采を博しつゝありしが、先頃久々にて帰朝し、二月早々帝国劇場にあらはれました。-(上)高木氏夫妻。-(下)は夫人のトーダンス。

  上の写真と解説は、大正四年三月一日発行の『淑女画報』 三月号 第四巻 第三号 の口絵のものである。なお、目次では、「問題の婦人 (高木夫人 〔高木徳子〕 のトーダンス)」となっている。
  
  

 表情ダンス(高木徳子夫人演)

 右の写真:

  (上)スペインダンス『オペラトラビヤタ』の一節。
  (右)コントラルトー独唱のスタイル。
  (左)ギリシア古典舞踊『オペラジオコンダ』の一節。

 左の写真:

  (上)ロシア古典舞踊『霊島』の一節。
  (右)スペインダンス『オペラトラビヤタ』の一節。
  (左)指頭舞踊 トーダンス 『待焦れたる恋人の足音を聞いて』
 ー高木夫人は数年間米国に於てダンスを学んで其の技神に入れる斯界の名手であります。

  上の写真と解説は、大正四年七月廿四日印刷納本 の『淑女画報』 第四巻 第八号 の口絵のものである。 

   

 高木徳子の舞台振(其一)〔左〕   高木徳子の舞台振(其二)〔中〕  在米当時の高木徳子の舞姿〔右〕 

   オッチヨコチヨイ出世物語 
    爪先ダンスの名人高木徳子の半世  
                      金惠比壽

 ▲新派劇の開祖川上音二郎の前身がオツケペケペーの大道飴屋であつた如く、近頃爪先ダンスと称して一種特異のダンスを以て大モテ囃されて居る高木徳子なども亦御座敷育ちの芸人ではない。其の前身は何を隠さう、猫ぢやゝのオツチヨコチヨイ踊を売物にした極めて貧弱な旅芸人であつた。頃は明治四十年の春、北米はピッツバーグ市の郊外に花見の客を当て込んだ茶店が沢山出来たが、其中に一軒日本人ばかりの風変わりの珈琲店があつた。店員は僅に三名、其中二人の男は台所に立ち働き、専ら、客に応接のボーイを務めて居たのは未だうら若い日本の美人であつた。其身には裾模様の振袖を着け、目も覚えるような金絲の刺繍の幅広の帯を胸高に結んだ日本ムスメの粧ひが、珍しき物好きの米人には余程お気に召したものと見えて開店当日よりの大入大繁昌。初めの中は好奇心で見て居た他の茶店のものも漸 ようや く其繁昌を嫉む程に盛つたものだ。その三人の日本人とは誰あらう、男の中の一人は、神田小川町の宝石商金石舎の伜の高木陳平君で、他の一人は芝桜田本郷町の料理店今庄の森秋藏君。二人は共に金の降る亜米利加に一攫千金の夢を握みに出懸けたのだ。そしてこの店の弗箱 どるばこ とも看板娘とも言可き女こそ今日爪先ダンスの一人芸に一代の花を咲かせた高木徳子さん。良人 をつと 陳平君に嫁して僅に十五日、新婚の夢も碌々見る暇もなく、良人と共に母国を去つた、まだいぢらしい花嫁さんであつた。海山越えて幾千里、金の成る木を探しに出かけて来た程の三人の懐がいかにうら淋しかつたかは言ふまでもない。最初 はじめ の内は、男どもはお定 さだま りの料理屋の皿洗ひや硝子拭きなどに雇はれ、花嫁の徳子さんも仲働きに住み込んで互 たがひ の口を糊 ぬら しては居たものゝ、何時まで人に使はれて居たのでは金の生 な る木に廻り会へる筈もない。三人寄れば文殊の智慧、あれかこれかと儲け仕事の詮索に、不図思ひついたのが花見客を当て込みの珈琲店。それには幸ひ徳子さんが嫁入り支度をソックリ持つて来たので、パット綺麗な日本ムスメを囮鳥 おとり に、鼻の長い米国のお客を釣らうと言ふのが其魂胆であつた。
 
 ▲案の如 じやう 、三人の計画は図星に当つて、店のお客は毎日々々降つて湧く程の勢ひ。其上、夜になると、彼方 あつち 此方 こつち の家庭から来て呉れろと言ふ物好きな客も却々 なかゝ 少ないので、流行 はや る程に、稼ぐ程に、三人の懐は陽気と共に大分暖くなつた。とは言へ、世の中は三日見ぬ間のさくら哉。花の盛りも漸 やうや く過ぎて、一片 ひとひら 二片散 さ り初 そ めた頃から客足も稀になつた。元より少し許りの金が蓄 たま つたにしろ何時まで座食 ゐぐひ が出来るものではない。又も、三人が集つて善後策の相談を始めたが却々名案が浮ばない。互に顔を見合せて困りぬいて居た時、丁度東京で言へば浅草と謂ふやうな同市の演芸場から『日本の服装で日本の踊りをやつて呉れぬか』と言ふ相談を受けた。渡りに船と喜んだのは二人の男『どうか出演 で て呉れまいか』と徳子さんも頼まれて見れば厭だとは言へない、『否 いや だ』と言へば三人の口が乾上 ひあが る。幼さい時に習ひ覚えた芸が一時の口すぎ。二人の男も木戸番なり下足番なりに雇はれる約束で愈々演芸場へ出る事になつたが、それには何んとか芸名がなければ可笑しい。処が、先年、娘道成寺で名を売つた坂東玉三郎が米国で夭折したばかりでまだ、人々の頭に記憶されて居るのを幸に、無断襲名に及んで、二代目坂東玉三郎で看板をあげたのだ。 

 ▲コツテリした西洋人の踊に交つて、あつさりした日本ムスメの手踊は、非常に評判がよかつた。三人の懐合も再び春に戻つてポカゝして来たが、困つた事には根が素人の悲しさに踊の数を知らない。暫時は珈琲店を出して居た時、マーテインと言ふ人から習つた小唄などを突き交 ま ぜてお茶を濁して居たものゝ、これとて長く客を継 つな ぐ訳には行かない、又々、三人額 ひたひ を鳩 あつ めて何か目先きの変つた踊もがなといろいろ詮索した揚句が、猫ヂヤゝのオツチヨコチヨイ踊に定まつた。何しろマダム、バタフライを日本唯一の芸術として喜んで居る毛唐人の眼に、日本人が見 みて は莫迦らしい猫ぢやゝの素人踊が頗る御意に叶たのも無理はない。毎日毎晩大入満員の好景気小屋主も大喜びなら、三人も非常に優遇されたものだ。
 
 ▲猫ぢやゝの踊が呼物になつて市中到る所二代目坂東玉三郎の名がパット拡まつた。煽 あふ り立つ人気を見ては三人も黙つて蟲を殺して居られやう筈がない。何時までも人の懐ばかり肥して居るのもつまらないと言ふところから徳子を座頭に戴いて彼方此処の場末を興 う 行つて歩いたが、何れも大入満員の大景気。其時、田舎廻りの坂東玉三郎をして今日の高木徳子たらしめた一人の婦人が現はれた。
 
 ▲それは紐育 にゆよーく に住む、貴族の未亡人で、マダム、デビレラーと謂 い ふ、スペインダンスの名手であつた。この人が徳子のよちゝした腰付のオツチヨコチヨイ踊の足調子に莫迦 ばか に惚れ込み、一つ仕込んで見たならば物にならうと言ふので『教へてやるから、内弟子に来てかどうか』と言ふ先生の方からの勧誘だ。徳子も、考へて見れば何時 いつ までも猫ぢやゝでをさまつて居る譯には行かない。何とか将来の方針を立てねばならぬと窃 ひそか に思つて居た矢先、之れが幸ひと早速承諾して内弟子になつた、其間二人の男は又元の皿洗ひや、蜜柑もぎとなつて徳子の芸の上達を楽しみに待つて居た。

 ▲かくして徳子は二年の間、みつしりとスペインダンスに魂を打ち込み其傍 かたは ら唄をマダム、マツキユウムについて習つてゐた。其中に編み出したのが、未だ米国にも否 いな 世界のダンスと云ふダンスの中にも見た事のない徳子独特の爪先ダンスであつた。
 
 ▲今は最早他人の芸名を無断で借用する必要もない爪先きダンスの高木徳子で立派に通るやうになつた。デビレラーは鼻高々で徳子の爪先ダンスを紐育の上流の晩餐会や、公開の席上で紹介したので、オッチョコチョイ以上に人気を博し、交際社会の花形役者になつた。其後デビレラーは屡々 しばしば 徳子独特の爪先ダンスを自慢気に公開する毎に少からざる報酬を得たので、最早、師に報 むく ゐる丈けの事は勤めたので、此上は、一日も早く良人 をつと の陳平と森秋藏の二人と心を合せて大に働かうと考へて居た矢先き、二人の男からも『もう大抵いゝ加減の頃ぢやないかと』と言はれたので愈々師匠デビレラーの膝下を放れて単独で公演する事になつた。処が、公演の資金がないので、拠 よんどころ なく良人の陳平が情を具して実家の金石舎へ資金の調達を依頼した。実家でも伜夫婦の運が開ける事だからと言ふので早速金を送つたので、三人は其金を資本に紐育を手始めに興行して見たが、既に徳子の名を知つて居るものは勿論、其名を知らないものまでが世の評判に浮かされて押し寄せて来たので実家から借りた資金などは忽ちの中に取り戻してしまつた。其間に徳子は更に又サラコと言ふダンスの名手について教を仰ぎ、愈々全く茲に独立の技芸を築きあげたので多年辛苦を共にした森秋藏と別れ、夫婦手を携へて米国から英国、仏蘭西と到る所に人気を博し、九年振りでなつかしい実家に帰つたのである。そして帝国劇場に於て、只、一回の公演で、早くも日本一の名誉を荷つたのが高木徳さんの半世、先づはオッチョコチョイノチョイ。

 上の写真と文は、いずれも大正四年十月一日発行の『女の世界』 十月号 第壹巻 第六号にあるもの。左2枚は口絵のもの、右1枚は上文中にあるもの。

    

  世界的バライチー  高木徳子
 絵葉書 三枚壹組 金拾銭
  神戸湊川
    聚楽館

 
 大正五年の絵葉書と思われる。

  

 上左:鉛筆書きで「永井徳子」とある絵葉書のもの。
 上右:説明なしの絵葉書のもの。



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