蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『林副主席講話』 南京 (1969.6)

2012年11月18日 | 中国共産党 3 林彪

 高挙毛沢東思想偉大紅旗 
林副主席講話 一九六九・六・南京

代前言〔2頁:周恩来同志在一九六九年四月十四日“中国共産党第九次全国代表大会”全体会議上的発言〕

     

 目録 〔14頁〕 

本文 〔812頁〕

 ・関于五次反“囲剿”之戦術問題」(一九三四年四月三日)
 ・関于作戦指揮問題向軍委的建議(一九三四年五月四日)
 ・在抗大二期開学典礼上的講話(節録)(一九三七年一月)
 ・平型関戦闘的経験(一九三七年十一月)
 ・抗日戦争的経験(一九三八年三月)
 ・在抗大四期開学典礼上的演講(一九三八年四月)
 ・在抗大教育方針的講話(一九三八年五月)
 ・在抗大第三期全校幹部会議上的結論(一九三八年五月二十二日)
 ・在抗大歓迎世界学蓮代表団大会上的歓迎詞(一九三八年七月三日)
 ・論華北正規戦的基本教訓与遊撃戦争的発展条件(一九三八年七月)
 ・関于軍隊領導問題的報告(一九三八年八月)

 ・今年怎様練兵(一九四四年十月十八日陝甘寧辺区部隊高幹会議上的講話)
 ・談東北目前形勢(一九四六年六月十六日答記者問)
 ・掲露蔣介石“和平”陰謀(一九四六年十月二十日)
 ・集中絶対優勢兵力殲敵一個団的戦術指示(一九四六年十月二十五日)
 ・戦術指示(一九四六年十一月十五日)
 ・一九四七年的任務(一九四七年一月一日)
 ・在東北群衆工作会議上的講話(一九四七年二月)
 ・在軍事幹部会上的結論(一九四七年二月)
 ・在東北戦局的変化給各縦隊、各師的指示(一九四七年三月二十日)
 ・論戦術思想与戦闘作風(一九四七年四月十九日在東北師以上幹部会議上的結論)
 ・論戦局(一九四七年五月十九日)
 ・戦役指揮問題(一九四七年九月三十日)

 ・附録:硬拼仗問答(東総一九四七年十月)
 ・目前敵集中兵力守城我必須解決打較大据点与較大敵人的指示(一九四七年十二月四日)
 ・関于総攻撃開始時間問題的指示
 ・打戦仗的根本弁法
 ・関于東北地区一九四七年扭転戦局的経過
 ・関于“四快一慢”的報告
 ・関于“四快一慢”的補充報告(一九四八年二月十七日)
 ・要使司令部成為能干的指揮機関(在一九四八年三月野戦軍参謀会議上関于形勢与任務以及何使司令部成為能干的指揮機関的報告)
 ・関于軍隊教育管理問題(此文系在一九四八年三月東北軍大上干大隊的報告。我們従中選択了第三、第四両個問題)
 ・関于攻堅戦的戦術問題(一九四八年四月十九日在哈爾濱軍事会議上的報告)
 ・“一点両面戦術”与“三三制戦術”
 ・運動戦
 ・告困守東北各城市蔣軍官兵書(一九四八年五月一日)

 ・在中共中央東北局高級幹部会議上的報告(節録)(一九四八年七月)
 ・対遼西会戦的作戦指示(一九四八年九月)
 ・在歓迎民主人士大会上的講話(一九四九年一月二十六日)
 ・在中共中央華中局記念中国共産党誕生二十八周年大会上的講話(節録)(一九四九年七月)

 ・在全軍宣教文化工作会議上的報告(節録)(一九五一年十月)
 ・在全軍高級幹部会議上的講話(節録)(一九五八年五月)
 ・在全軍高級幹部会議上的講話(節録)(一九五九年九月)
 ・高挙党的総路線和毛沢東軍事思想的紅旗闊歩前進(一九五九年十月一日)

 ・在党中央会議上関于国防問題的報告(節録)(一九六〇年一月)
 ・在全軍高級幹部会議上的講話(節録)(一九六〇年二月)
 ・在全国民兵代表会議上的閉幕詞(一九六〇年四月二十七日)
 ・対海軍工作的指示(節録)(一九六〇年五月)
 ・視察部隊時的指示(節録)(一九六〇年五、六月間)
 ・対空軍工作的指示(節録)(一九六〇年六月)
 ・関于加強部隊政治工作的指示(節録)(一九六〇年七月)
 ・在第八次全軍院校工作会議小型会議上的講話(節録)(一九六〇年八月)
 ・答解放軍報社問(節録)(一九六〇年九月)
 ・在全軍高級幹部会議上的講話(節録)(一九六〇年九月)
 ・中国人民革命戦争的勝利毛沢東思想的勝利(一九六〇年十月一日)
 ・在全軍高級幹部会議上的講話(節録)(一九六〇年十月)
 ・視察部隊時的指示(節録)(一九六〇年十月)
 ・関于加強部隊政治思想工作的指示(節録)(一九六〇年十一月)
 ・関于開展部隊文化娯楽工作的指示(節録)(一九六〇年十一月)
 ・関于弁好報紙的指示(節録)(一九六〇年十二月)
 ・関于加強部隊政治思想工作的指示(節録)(一九六〇年十二月)
 ・関于部隊訓練的指示(輯録)
 ・関于加強部隊軍事訓練工作的指示(節録)(一九六〇年十二月)
 ・対一九六一年部隊政治工作的指示(節録)(一九六〇年十二月)

 ・関于加強部隊政治思想工作的指示(節録)(一九六一年一月)
 ・対広州軍区工作的指示(節録)(一九六一年一月)
 ・視察部隊時的指示(節録)(一九六一年一、二月)
 ・在全軍条令験収委員会会議上的講話(節録)(一九六一年二月)
 ・対部隊管理教育工作的指示(節録)(一九六一年三月)
 ・視察部隊時的指示(節録)(一九六一年四月)
 ・在全軍管理教育工作会議上的講話(節録)(一九六一年五月)
 ・視察部隊時的指示(節録)(一九六一年七、八、九月)
 ・在駐南京機関部隊幹部大会上的講話(節録)(一九六一年九月)
 ・視察軍事学院痔的指示(節録)(一九六一年九月)
 ・在全軍政治工作会議上的講話(節録)(一九六一年十一月)
 ・視察部隊時的指示(節録)(一九六一年十二月)
 
 ・在拡大的中央工作会議上的講話(一九六一年一月二十九日)
 ・在軍委編制装備会議上的講話(節録)(一九六二年四月)
 ・関于開展部隊文化娯楽工作的指示(節録)(一九六二年六月)

 ・関于加強部隊政治思想工作的指示(節録)(一九六三年一月)
 ・対全軍政治工作会議的指示(節録)(一九六三年一月)
 ・号召向雷鋒同志学習的題詞(一九六三年二月)
 ・為海河一九六三年防洪勝利題詞(一九六三年十月十五日)

 ・対全軍政治工作会議的指示(節録)(一九六四年一月)
 ・関于弁好報紙的指示(一九六四年一月)
 ・関于整頓機関問題給毛主席的報告(節録)(一九六四年二月)
 ・関于加強部隊政治思想工作的指示(節録)(一九六四年二月)
 ・関于学習空軍、大整機関作風的指示(一九六四年二月十三、十四日)
 ・関于弁好報紙的指示(節録)(一九六四年二、三月)
 ・関于弁好《解放軍報》的指示(節録)(一九六四年三月)
 ・対全軍報紙工作会議的指示(節録)(一九六四年四月)
 ・対部隊文芸工作的指示(一九六四年五月九日)
 ・関于突出政治的指示(一九六四年十二月二十九日)

 ・人民戦争勝利万歳 記念中国人抗日戦争勝利二十周年(一九六五年九月三日)
 ・対推広広州軍区×団抓活思想的六十多個“怎麼弁”的指示(一九六五年十一月、一九六六年三月)
 ・号召向王傑同志学習的題詞(一九六五年十一月)
 ・対中国人民解放軍一九六六年的工作的重要指示(一九六五年十一月)
 ・関于社会主義教育運動中大学毛主席著作的指示(一九六五年十一月二十三日)

 ・就工業交通戦線活学活用毛主席著作写的一封信(一九六六年三月十一日)
 ・号召向焦裕同志学習的題詞
 ・給中央軍委常委的信(一九六六年三月二十二日)
 ・在中央政治局拡大会議上的講話(一九六六年五月十八日上午)
 ・関于工作組問題的講話(一九六六年八月)
 ・在接見中央文革小組成員時的講話(一九六六年八月八日)
 ・関于幹部路線問題的指示(一九六六年八月十日)

   〔以下〕
 
 ほかに「在中国共産党第九次全国代表大会上的報告」など計56編と増補18編である。それらには「在党的八届拡大的十二中全会上的講話」(一九六八年十月二十六日)や増補に林豆豆の「爸爸教我怎様学会写文章」などの文を含むものである。


『四五論壇』 (1978-79)

2012年11月16日 | 民主化運動 1 北京之春

 ○ 四五論壇 元旦特刊 《人民論壇》、四五学会主編 一九七八年十二月三十日 〔片面刷りの5枚(5頁)〕

    ・「熱烈擁護中国共産党第十一届三中全会的公報。」ではじまる文。
    ・民主与科学 人民論壇評論員〔鉛筆で消され、「趙南」とある〕
    ・百花壇 晨光 北京一工人 〔詩文〕
    ・小品文 “入党不是為了作官、不是為了発財‥‥” -青工〔鉛筆で消され、「林」とある〕-
    ・雑談集 北京的独霧 一患者
    ・問題討論
 
     この冊子は、『四五論壇』の第二期に相当すると思われる。なお、同じもので、印刷の紙だけが青〔緑〕色のものもある。

 ○ 四五論壇 一九七九年一月六日 第三期 《四五論壇》編輯部 〔両面刷り4枚(8頁〕

          来信来稿請寄 東城区東四十四条七十六号 劉清

    ・従周恩来晩年遭遇看徹底的社会変革的必要性 徐庶
    ・百花壇 南客 献民主牆
    ・《人民万歳》質疑 安祥
    ・也従周総理的遭遇、談体制改革的必要 劉青
    ・魯迅的話 〔詩文?〕
    ・対話 暁品
    ・漫談『公徳』 (流水)
    ・倡議

 ○ 四五論壇 第5期 1979年2月10日 

        北京《四五論壇》編輯部主編 一九七八年十一月二十六日創刊於民主墻 〔両面刷り7枚(14頁)
        通訊地址 北京市東城区十四条七十六号 劉青 北京后内半歩橋供電局輸変電管理区張鉄嶺 
        普通価 0.20元 募捐価 0.40‥‥元

          
          

    ・論“民主墻” -潤生
    ・三言両語 -紫陽
    ・『套中人』節録 -〔俄〕契柯夫
    ・《人民万歳》質疑 安祥
    ・也従周総理的遭遇、談体制改革的必要 劉青
    ・中国当代社会変革之淺探(二) 徐庶
    ・国際評論
    ・“四人幇”在美国的流毒 革生
    ・略論今日之『四五運動』 余仁
    ・法制健全了、就可以保証民主了嗎? 尚民
    ・“五大領袖”為什麼不服罪? 淮安」
    ・〔河南や北京の消息と風刺漫画2つ〕
    ・『四五論壇』に対する批判投稿文
    ・通訊
    ・信陽事件 河訊
    ・民主墻賛」2種
    ・『四五論壇』の質問状

 ○ 四五論壇 第7期 1979年3月11日 

        北京《四五論壇》編輯部主編 1978年11月26日創刊於民主墻
        本報通訊処 北京東四14条76号 劉青 北京后内半歩橋供電局輸変電管理所張鉄嶺」
        募捐価 0.40 普通価 0.20元。両面刷りと片面刷りで計9枚(11頁)。

    ・是非分明、功過分明、オ能人心斉、泰山移 安祥
    ・浅談人民的権利
    ・風刺漫画
    ・幾個清醒人的夢話
    ・北京新劇
    ・略論今日之四五運動(複製版) 余仁
    ・作者与読者
    ・具有法律効力的政策条文用語必須科学  尚民
    ・征稿啓事
    ・理想
    ・情操
    ・精神生活
    ・自白
    ・対棋有感

 ○ 四五論壇 8 ・特刊・ 1979.4  

        北京《四五論壇》編輯部主編 1978年11月26日創刊於民主墻  第八期一九七九年四月一日
        通訊地址 北京東四14条76号 劉青 普通価:0.40元 募捐価:0.60元。片面刷19枚(38頁)

        

      前半は、初出のものである。

    ・記念“四五”実現四化 -偉大的“四五運動”平反午后第一個周年記念日 春風
    ・啓事   自本期始改為月刊雑誌。毎月月初出版。
    ・民主至乱還是民主止乱
    ・民主墻向何処去 -兼論社会主義民主 舟迅
    ・向林彪、“四人\x{5e2e}”討還這筆血債! -《出身論》作者遇羅克的免案応該得到昭雪 薛克
    ・民主墻頌
    ・民主広場 の詩
      
      後半は、再録である。

    ・発刊詞 一九七八年十二月二十六日(原載第一期)

     

    ・《四五論壇》編輯部章程(草案)(一九七九年一月十二日通過)(原載第四期)
    ・《四五論壇》編輯部紀律公約(草案)〔原載第四期〕
    ・中国当代社会変革之浅深(一) 徐庶〔前半省略、原載第四期〕
    ・《人民万歳》質疑 安祥〔原載第三期〕」
    ・時装広告
    ・当務之急 徐庶〔原載創刊号〕
    ・略論今日之“四五”運動 余仁(第五期原載)(引言部分)
    ・从周恩来晩年遭遇看徹底的社会変革的必要性 徐庶(原載第三期)
    ・“反革命”与“言論自由” 流水〔第四期原載〕
    ・来自重慶的来稿 夢遊古夜即感懐
    ・也談加強党的領導 淮安〔原載第四期〕
    ・情況通報
    ・声明

 ○ 論無産階級民主革命 特 10 刊 六七月合刊  

        北京《四五論壇》編輯部印刷出版 一九七九・六
        (『中国大陸地下刊物研究(一九七八~一九八二)』によると、「6月6日発行、120頁・約12万字」〕

        

        論無産階級民主革命 (学術討論稿) 陳爾晋  一九七六年五月定稿

  ・出版序言 2頁 〔下は、その最初〕

 今天、我們向大家鄭重推薦《論無産階級民主革命》這篇文章。
 任何一個認真読過這篇文章的人、恐怕都難以相信、本文出自一名高小卒業生的手筆、作者陳爾晋工作在我国西南辺辺●的一個小県份、就是盛産火腿的宣威。他成長的卅年間、正是世界革命和中国革命経歴巨大変化的卅十年。
 作者卅多年来一直生活、労働在社会的基層、和広大労働群衆一様飽嘗歓喜和憂患、経歴和目睹了中国社会和世界局勢的各個方面。作者雖然早年失年失学、但依然在艱苦的労作之余、勤奮刻苦地研読了大量的社会科学写書籍、特別是馬、列、斯、毛的著作、豊実的社会実践和刻苦的理論学習結合在一起、促使作者在中国革命面臨巨大的危機的1974~1976年期間、完成了≪論無産階級民主革命≫的写作。

  ・重印前言 陳爾晋 一九七九年五月三十一日於首都 11頁 〔下は、その最初。二以下省略〕

 一、全世界正注視着中国

 中国向何処去?中国在本世紀末到底能不能実現四個現代化?共産主義是可以実現的理想、還是一切導致災難的●?這不僅是中国人民正切身感受到在認真思索着的問題、而且也是全世界人民正密接関注着的問題。
 由于中国共産党堅靭不抜的努力、歴史巳經把這三個問題緊々地●機地聯結在一起、構成了一個艱巨的任務、交給了中国共産党和中国人民。
 
  ・目録4頁

    目録 〔章名のみ〕

 第一篇 歴史性
  第一章 修正主義 
  第二章 反修防修 
 
 第二篇 必然性
  第三章 根源
  第四章 高度組織的政経一体化公有制度社会生産 
  第五章 権力被少数人強制性固定化壟断  
  第六章 官僚壟断特権階級的崛起 
  第七章 危機 
  第八章 無産階級民主革命是歴史発展的必然趨勢
 第三篇 現実性
  第九章 基本方針
  〔以下省略〕

  ・本文47頁〔目次にある本文「第三篇 現実性」(48頁より)以下欠?〕

 ○  四五論壇 北京《四五論壇》編輯部主編 1978年11月26日創刊於民主墻 12 1979.9

         一九七九年九月九日出版 通訊地址 北京東四14条76号 劉青 定価 0.50元。〔57頁以下欠?〕

  ・論(城鎮)集体所有制及其前途 本刊評論員
  ・左傾路線和無産階級民主
  ・陳景潤「叛国」国的無恥謡言 翟辺
  ・外経革命(上) 金紅
  ・中国当代社会変革之浅探(三) 徐庶
  ・関於理論問題的問題 徐水良
  ・声明 北京《四五論壇》一九七九年八月十二日
  ・王希哲同志与《人民之声》記者的談話 摘自広州《人民之声》八期

 (註・王希哲同志是李一哲成員之一)
 為登載王希哲同志的≪為無産階級的階級専政而努力≫一文、≪人民之声≫記者採訪了王希哲同志、会見談話摘要如下:
 問:這篇文章是什麼時候開始写作的?
 答:這篇文章是我在獄中醞釀的了、出獄后、社会主義民主運動的浪潮激動着我、鼓舞着我、我吸収了這一運動中人民群衆提供的豊富的思想栄養、三月、便有了初歩的稿子、四月一日在広州大学生≪未来≫雑誌社組織的記念四五討論会上、我以発言的形式将我的初稿向与会者作了介紹、不料、我在這次会議上的発言引起了軒然大波。
 〔以下省略〕

  ・目録

   


「五十周年記念」 東京帝国大学医学部病理学教室 (1937.4)

2012年11月16日 | 医学 1 医師、軍医、教育

 東京帝国大学 医学部病理学教室 
 五十周年記念     昭和十二年 〔一九三七年〕 四月二日

 〔絵葉書〕

      

 ・故三浦守治先生、故山極勝三郎先生 〔上左から1枚目〕
 ・旧病理学教室、現病理学教室、新病理学教室(医学部第二号館)〔2枚目〕
 ・現在及び新築の病理学教室を望む 昭和十一年十月 呉健氏筆 〔3枚目〕


『北京之春』 《北京之春》編輯部 (1979.3-6)

2012年11月16日 | 民主化運動 1 北京之春

 ○ 北京之春 THE SPRING OF PEKING 1979 1」。

        
 
 発刊詞 … 封二 〔見返しに、「発刊詞」《北京之春》編輯部 一九七九年一月八日:上左から1枚目〕

 記念周総理逝世三周年

 ・周恩来精神万歳    … 民濤
 ・周伴総理宿露天(詩) … 甲必丹
 ・総理却雪中睡 (詩) … 甲必丹
 ・我想瓢洋去日本(詩) … 甲必丹

 ・遂歩廃除官僚体制和建立巴黎公社式的民主制度(理論研究) … 呂民
 ・談談経済管理民主与政治民主 … 市房修二公司 共青団第十届中央委員 韓志偉
 ・応当重新評価少奇同志 … 斉黛
 ・九死一生重逢日 悲喜交加泪縦横 ー彭真同志抵京側記 … 本刊記者
 ・“彭大脖子”的遭遇 … 礼希
 ・実事求是的表率 ー 陳雲 … 薛希
 ・李一哲無罪! … 理応 〔2、3枚目:下は、その最初〕

 在天安門事件平反的今天、広州的李一哲問題理所当然地提到了人民的面前。
 李一哲是広州市三個青年的筆名。這三個人是李正夫、陳一陽、王希哲。他們在一九七三年底、根拠自己多年来的学習和調査研究、写了≪関于社会主義的民主与法制≫一文。(以下簡称≪民主与法制≫)一九七四年経過修改、于十一月九日在広州街頭以大字報貼出后、轟動了広州、影響
遍及全国、世界近百個国家作了詳尽的報道。這一篇基本正確的文章、得到了広州市民的賛同。但這篇文章却被宣布為“反動大字報”。〔以下省略〕

 ・并非奇跡的“奇跡” … 永存
 ・践踏(報告文学) … 延雲
 ・永遠準備接受時代的考験 北京化工学院学生“四五”談判代表 … 陳子明
 ・誰是党内大奸?(節録) … 一個知内情而受迫害的老共産党員

 民主墻詩文選

 ・建議取消対文芸作品的審査和対作者的“政審” ー 致≪文芸報≫主編馮牧同志的公開信 … 一個文芸愛好者
 ・文革小組哪去了(詩) … 懐徳
 ・北京百姓少住房(詩) … 革命市民
 ・民意 … 封三

 編後記

  《北京之春》在一、二期油印本的基礎上加以編選的鉛印本出版了。本刊歓迎理論研究、政論、文芸作品等稿件、来稿請寄:北京大学39楼105号本編輯部収。来稿一経発表、即按国家規定標準付酬。            ≪北京之春≫編輯部

 目録 〔裏表紙:4枚目〕

  1979.3.5.出版 〔三月五日は、周恩来の誕生日〕 定価:0.20元

○ 北京之春 “四五”専輯 79.4. 1979.4.2. 〔謄写版〕

            
 
 ・継続闘争 迎接光明 本刊評論員

 

 在本刊鉛本本発行后的短々幾天中、我們就収到幾百封熱情的来信。全国各地各条戦線的同志們都希望≪北京之春≫能gou長期的生存下去、在闘争中不断成長壮大。也有的同志提醒我們、民主的花朶要用鮮血来澆灌、他們担憂≪北京之春≫這株幼苗是否会遭受初春的寒冷而夭折。
 本刊鉛印第二期原訂四月初発行、但是由于政治上的種々原因、這一計画不能如願以償了。為了記念偉大的《四、五》運動三周年、我們重新●起了油印滾筒趕印了這期《北京之春》ー“四、五”特輯。
 建国卅年来、特別是経過文革十年的教訓、没有人民々主就没有社会主義“這一真理巳被越来越多的人們所認識。勇于為真理而献身的群衆、党員、幹部正在運用自己的力量去積極促進理想的実現。他們是今天、人民々主運動的先鋒和主流。
 〔以下省略〕

 記念“四五”運動専欄

 ・“四五”戦士談民主 -訪問紀要  首都“四五”戦士
 ・記念“四五”運動(詩) 童懐周
 ・向総理告別(詩)  童懐周

 “四五”回億録

 ・白花  共青団十大中央委員 原清華大学学員 周為民
 ・殷紅的血跡  霊犀

 ・難以割断的歴史  亦鳴
 ・“李一哲”訪問記  本刊特約記者 〔下は、その最初〕

 時間:一九七九年二月十七日 
 地点:広州東湖招待所

 最近、我們採訪了李一哲的成員:李正天、陳一陽、王希哲、郭宏志等四位同志、請他們談了人們所関心的一些問題和看法。他們声明説:這些談話、有的是共同的意見、有的僅是個人的看法。
 下面就是採訪記録:
 〔以下省略〕  

 ・彭徳懐同志写給毛沢東同志的信

 ・読者来信 一首好詩的補遺 犂麗
 ・部分商品提価表  本刊編輯  
 ・忠冊申請  本刊編輯 

  本刊定価 0.30元(本刊没有募捐価)
       通訊地址:北京大学39楼105号《北京之春》編輯部

  ※ 本冊は、目次と内容・順番が異なる。

○ 北京之春 THE SPRING OF PEKING 79.6. 1979.6.17.   〔謄写版〕
 
 下は、その内容の一部である。

 ・自治民主与国家消亡学説 ー論南斯la夫自治制度的理論基礎〔上〕‥文其 (1-19頁)
 ・致彭真同志的一封信‥王立山
 ・法官与逃犯(独幕話劇)‥王克平
 
 ・文化大革命中大興県集体案  你知道嗎  〔「8.31事件」いわゆる「大興県虐殺事件」に関するもの〕

   

 一九六六年、当紅八月的浪潮席巻而来的時候、大興県有四、五百人被殺死了。 
 文化大革命開始的時候、康生的孫女張麗正在大興県黄村公社蹲点、這時有人、凭空捏造、説地富分子要爆動、張立得知這個消息後、立即命令造反派進行鎮圧、他們採取的弁法是召集地反及其子女開会、然後把這些人関進一間大房子、埋伏好的造反派使一●●上、乱棍斉下、乱刀一kan、連抱在懐里chi●的嬰児也未能幸免。 
 此事伝進北京、周総理得知後、非常関心、在傳崇碧同志親自安排下、《解放軍報》和《人民日報》派出記者、進行現場調査。
 記者一行十余人到達廬城公社新立村後、幾百人掌着棍棒守在村口、不許記者進村。記者説明来意後、村幹部把他面帯到大隊弁公室、問道、你們幹什麼来、是否給地富翻安 如果是 那你們今天可就有来無回了。這些“造反派”殺人殺直了眼。経了解、オ知道在黄村公社的影響下、這個村庄在前一天晩上殺死了五十六名地富及其子女。記者要求看現場、回答説巳全部埋在村後沙堆里了。
 在康生的孫女的策動下、四、五百個生命就這様完蛋了。這只不過是中国偉大的文化大革命中一件微不足道的事情、向況這只是殺了園、五百曾有罪悪的人及び他們的子女、而那些無罪有功的人被害的又有幾千万之多呢?
 這件事一九七二年準備復査、但因牽渉到康生的孫女、最後不了了之、一些罪犯逍遥法外、一些人還昇了官。
 西班牙的異端裁判所、法国的聖巴託羅夫惨案 〔サンバルテルミの虐殺〕 、比起二十世紀六十年代左派中国、顕得温和和節制多了、因為中世紀的受害人数再多、也不会超過中国的文化大革命、因為ta傷害了一億多人。

なお、『内乱的十年 ー 北京区県文化大革命時期紀略』 中共北京市委党史研究室編  2002年11月 には、この事件の記述がある〔下は、その一部である〕。 
 
 在這股大破“四旧”、“横掃一切牛鬼蛇神”的zhuo浪沖撃下、大興県発生了厳重的“8.31”殺人事件。従8月27日至9月3日、全県有14個公社的44個大隊和直属局的4個基層単位、先後発生了乱殺“四類分子”及其家属子女事件、共殺324人。殺人事件以8月31日大辛庄公社最為厳重(110人)、因此、這次波及面広、情節厳重的殺人事件統称為“8.31”事件。事件発生後、県委書記王振元、市公安局局長劉堅夫、北京衛戍区政委張益三、市委書記馬力先後gan至有関村隊制止、cai避免了事態的進一歩悪化。

 (三)“8.31事件” 

“8.31事件”是指于1966年8月27日至9月3日発生在大興県的厳重殺人事件。“8.31事件”是這様形成的。
 1966年8月26日、当時的公安部長謝富治在北京市公安局拡大局務会上講話宣布:“過去規定的東西、不管是国家的、還是公安機関的、不要受約束。”“群衆打死人、我不賛成、但群衆対壊人恨之人骨、我們勧阻不住、就不要勉強。”“民警要站在紅衛兵一辺、跟他們取得聯系、建立感情、供給他們情況、把五類分子的情況介紹給他們。”県公安局根拠這一講話精神和市公安局“支持紅衛兵、保衛紅衛兵”的指示、局務会議決定:由治安科副科長張某負責対紅衛兵進行連系。

 “8.31事件”共殺死324人(男232人、女92人)、其中35歳以上的195人、17歳至34歳的75人、16歳以下的54人、被殺人員中、最大的80歳、最小的僅出生38天。殺死“四類分子”175人、家属子女137人、其ta12人;渉及171戸、有22戸被殺絶。


『向資産階級反動路線猛烈開火 (批判譚力夫講話材料)』 2、4 (1966)

2012年11月15日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他

 ○ 向資産階級反動路線猛烈開火批判譚力夫講話材料第二集) 

         北京工業大学≪東方紅公社≫偏輯部 一九六六年 〔昭和四十一年〕 十月五日

 第二集

  ・編者按

 

 九月四日我們編輯出版了《有関譚力夫講話材料選輯》。
 為了徹底批判資産階級反動路線、我們現在将譚力夫九月七日在北京農業機械化学院的一次講話及一部分批判文章編輯出版。
 文化大革命以来、以毛主席為代表的無産階級革命路線同資産階級反動路線的戦闘還在継続、而且更尖鋭、更複雑了。反革命修正主義、形形色色的“左”右傾機会主義的反動勢力、決不会甘心它們的滅亡。它們採取了更加陰険的手法、以極“左”的面貌出現、打着“紅旗”反紅旗、施出糖衣砲弾、企図蒙蔽一部分群衆、極力挑動群衆闘群衆、対抗十六条、頑固地堅持資産階級反動路線、対抗無産階級文化大革命。譚力夫的両次講話、就是一個極為“生動的”反面教材。
 九月六日、堅持錯誤路線的校文革、突然宣告自行解散。第二天、即九月七日、譚力夫在北京農業機械化学院去抛出了一篇講話、公然為校文革違背十六条的錯誤弁解、妄図継続把革命同志打成“大右派”、極力宣揚“不要権了説不定過些時候還会回来”的為資産階級反動路線翻案的“弁証法”、打着“階級路線”的旗号、反対党的階級路線。
 這次≪講話≫仍然頑固地站在資産階級立場上、打撃革命派、制造混乱、猖狂抵毀十六条、極力為資産階級反動路線弁護、企図為修正主義復辟制造輿論準備。又是一株反毛沢東思想的大毒草。我們必須徹底批判!
 当前開展的対譚力夫≪発言≫、≪講話≫的批判、是一場厳粛的階級闘争、是革命群衆在毛主席領導下、以人民戦争的形式、向資産階級反動路線全面開火的重要組成部分。
 全体革命同志們、為了誓死捍衛毛沢東思想、誓死捍衛無産階級革命路線、誓死捍衛十六条、我們一定要徹底批判資産階級反動路線、徹底粛清它在群衆中造成的悪劣影響、把無産階級文化大革命進行徹底!
                                 北京工業大学≪東方紅≫公社編輯部

  ・不准転移文化革命的大方向      ー 二評譚力夫八月二十日発言
  ・譚力夫講話是全面抵制十六条的宣言書 ー 三評譚力夫≪講話≫
  ・撕開譚力夫的遮羞布         ー 評校革委会的階級路線
  ・従≪海瑞罵皇帝≫、≪海瑞罷官≫到譚力夫≪発言≫
  ・相似乃尓 
  ・譚力夫九月七日在農機学院講話
  ・講話補充(追憶)

 ○ 向資産階級反動路線猛烈開火批判譚力夫講話材料第四集) 

         北京工業大学≪東方紅≫公社上海連絡站編印 一九六六年十二月二日

 第四集

  一、編者按語

 

 当前無産階級文化大革命一片大好形勢、自己解放自己、自己教育自己的群衆運動全面発動起来了。
 目前日益深入人心的是毛主席為代表的無産階級革命路線。資産階級反動路線連同它的代表人物巳到了“老鼠過街、人人喊打”的地歩了。先鋒者総結了経験更加堅定了、他們窮追猛打、不打倒資産階級反動路線、不徹底粛清在群衆之中悪劣影響、決不収兵。動揺者総結了教訓、蒙蔽者得到了解放。
 就在這個形勢下、在譚力夫発言后両個月零二十多天的今天、続他的“告全校革命同志書”(十月一日見第二集)這株大毒草之后、十一月七日又抛出了一份假惺惺的“検査”、実質上是在向広大革命師生挑戦。
 因譚力夫≪講話≫散及全市、流毒全国。下面我們再把它這份検査印発出去。奇文共欣賞、対照、対比、哪里還有這様的。大家没事看看、引以為教。 

 序幕 -向同志們介紹一点情況
  二、回到毛沢東思想的大道上来 ー 我的検査(譚力夫)
  三、看譚力夫的階級感情      一評譚力夫的≪我的検査≫
  四、資産階級反動路線的又一代表作 再評譚力夫的≪告全校革命同志書≫
  五、比一比、想一想、看一看    三評譚力夫的≪我的検査≫
  六、譚力夫同志11.7≪我的検査≫与呉 65.12.24 ≪関于≪海瑞罷官≫的自我批評≫ -四評譚力夫 11.7 的≪我的検査≫
  七、譚力夫的≪自我検査≫与胡風的≪我的自我批判≫ ー五評譚力夫的≪自我検査≫
  八、后記
  附:走訪譚力夫追記



向資産階級反動路線猛烈開火(批判譚力夫講話材料)

     上海市中等学校後勤人員革命造反委員会《勤革会》 一九六七年 〔昭和四十二年〕 三月

 本冊子は、『向資産階級反動路線猛烈開火(批判譚力夫講話材料) 北京工業大学《東方紅》公社上海連絡站編印』第一集より第四集の合本である。日付は、第一集から第三集までが一九六六年十一月十一日、第四集だけが十二月二日となっている。

 第一集(本文38頁)

   前言
  ・向資産階級反動路線猛烈開火 - 全国在京革命師誓師大会通電
  ・必須徹底批判右傾機会主義思潮 - 告全国紅衛兵、革命師生書
  ・右傾機会主義路線的喪鐘敲響了 - 二致全国紅衛兵、革命師生書
  ・不准転移文化大革命的大方向 - 二評譚力夫八月二十日発言
  ・譚力夫講話是全面抵制十六条的宣言書 - 三評譚力夫≪講話≫
  ・撕開譚力夫的遮羞布 - 評校革委会的階級路線

  附件1 譚力夫≪発言≫ 八月二十日弁論会譚力夫発言記録
  附件2 譚力夫≪発言≫注釈
  附件3 譚力夫9月7日在農機学院的講話
  附件4 譚力夫的講話
  附件5 従対聯談起

 第二集(本文27頁)

  ・比一比 想一想 -両条路線
  ・za爛我校以譚力夫為代表的資産階級反動路線 - 譚力夫言行的反動本質
  ・従≪海瑞罵皇帝≫、≪海瑞罷官≫到譚力夫≪発言≫
  ・相似乃尓
  ・譚力夫是怎様下台的
  ・譚力夫的毒
  ・林彪同志 関于政治思想工作言論摘録
  ・打落水狗 - 評譚力夫十月一日≪告全校革命同志書≫

  附件1 編者按 告全校革命同志書 譚力夫 一九六六年十月一日

 第三集(本文36頁)

  ・工農兵批判譚力夫
  ・中央首長対譚力夫≪講話≫的“評価”滴抄
  ・譚家門楼的貨色 - 評譚力夫的講話
  ・討伐資産階級反動路線的吹鼓手譚力夫 - 評譚力夫発言
  ・在清華“向右傾機会主義路線猛烈開火”大会上的発言
  ・譚力夫発言的要害問題是罷官
  ・住口!不准簒改偉大的毛沢東思想 - 評譚力夫八月二十日講話
  ・根除譚力夫講話這株大毒草
  ・這是什麼階級感情 - 批判譚力夫的発言
  ・試看廬山真面目 評力夫就是工大的小呉 - 三評≪譚力夫講話≫
  ・快来帮譚力夫的忙
  ・就譚力夫発言訪問≪解放軍報社≫

 第四集(本文20頁)

  一、編者按語 序幕
  二、回到毛沢東思想的大道上来 一 我的検査(譚力夫)
  三、看譚力夫的階級感情 一 評譚力夫的≪我的検査≫
  四、資産階級反動路線的又一代表作 再評譚力夫的≪告全校革命同志書≫
  五、比一比、想一想、看一看 三評譚力夫的≪我的検査≫
  六、譚力夫同志 11.7 ≪我的検査≫ 与呉 65.12.24 ≪関于≪海瑞罷官≫的自我批評≫ 四評譚力夫 11.7 的≪我的検査≫
  七、譚力夫的≪自我検査≫与胡風的≪我的自我批判≫ 五評譚力夫的≪自我検査≫
  八、后記
  
  附:走訪譚力夫追記


『林副主席在党的八届拡大的十二中全会上的講話』 (1968.10)

2012年11月14日 | 中国共産党 3 林彪

 

絶密  林副主席在党的八届拡大的十二中全会上的講話  

    (一九六八年十月二十六日、記録稿、未経審閲)

   

林副主席在党的八届拡大的十二中全会上的講話 

 (一九六八年十月二十六日、記録稿、未経審閲)

 十二中全会、従十三号起到今天已経開了十三天。這次会議、是在毛主席親自領導、親自発動的文化大革命取得決定性勝利的大好形成下召開的、是毛主席親自主持召開的。
 会議対≪中国共産党章程(草案)≫進行了討論;討論了産生“九大”代表的問題;対大叛徒、大内奸、大売国族劉少奇的処理作了討論。同時、対“二月逆流”進行了厳粛地批判。還学習了一些文件。為“九大”作了很好的準備。会議開得很好、很成功。
 這次無産階級文化大革命運動、是毛主席親自発動和領導的。大量的日常工作是中央文革、周総理、江青、陳伯達、康生等同志按照毛主席指示不分昼夜辛勤労働工作的。
 毛主席叫我講一下、我只能講個大略、大概。不准確、不全面。同志們听听就行了、不必記録、不要去伝達。
 我講六点:
 第一、文化大革命的必要性
 第二、文化大革命的勝利、意義和它在世界歴史上的地位;
 第三、文化大革命的路線、作法的問題;
 第四、毛主席対馬列主義的偉大発展、特別是在社会主義条件下革命怎様継続前進的問題;
 第五、中国革命和世界革命問題;
 第六、今后怎麼作法

   第一、文化大革命的必要性

 毛主席説:“這次無産階級文化大革命、対于gong固無産階級専政、防止資本主義復辟、建設社会主義、是完全必要的、是非常及時的。”
 毛主席又説:“不然的話、譲地、富、反、壊、牛鬼蛇神一斉跑了出来、而我們的幹部則不聞不問、有許多人甚至敵我不分、互相勾結、被敵人腐蝕侵襲、分化瓦解、拉出去、打進来、許多工人、農民和知識分子也被敵人軟硬兼施、照此弁理、那就不要很多時間、少則幾年、十幾年、多則幾十年、就不可避免地出現全国性的反革命復辟、馬列主義的党就一定会変成修正主義的党、変成法西斯党、整個中国就要改変顔色了。”
 這次無産階級文化大革命、是一場大規模的真正的政治大革命、是一場大規模的階級闘争、是在社会主義条件下用新的形式和新的作法来継続的、是gong固無産階級専政、推動社会発展的動力。

          〔中略〕

   第六、今后怎麼作法

 就是按毛主席的最新指示辦。毛主席的指示、我全部地同意、完全擁護、全部地照辦。原来準備念一下、現在不念了。
 最后想講一下、這両年来工作是毛主席領導的、具体工作是中央文革做的、起重要作用的是江青、総理、伯達、康生同志、我未做多少具体的工作、我主観上総是願意跟着毛主席的。我有点保留意見、就是這一次党章上把我的名字写上我很不安。党章是大事情、我是不相称的、我向中央提了意見、没有採納、組織上我服従、保留我的意見。
 我的講話是夾生活、不成熟、不精練、越提練越少。
 有幾個口号要喊:
   打倒大叛徒、大内奸、大工賊劉少奇!
   打倒劉、、陶!
   打倒彭徳懐、賀竜!
   無産階級文化大革命全面勝利万歳!
   毛主席的革命路線万歳!
   馬克思列寧主義万歳!
   光栄的、偉大的、正確的中国共産党万歳!
   戦無不勝的毛沢東思想万歳!
   毛主席万歳!万歳!万歳!
   
   (這系記録稿、供伝達之用、不得翻印、不得引用、不准出大字報、不准登小報、不准発伝単

 なお、上の資料は、一九七二年の中央批林整風匯報会議で「会議参閲文件之十四 一九六八年十月二十六日在中央八届拡大的十二中全会第二次会議上的講話」とされた文件である。

   

 林副主席最新指示

 軍委各総部、各軍兵種、各軍区:
   関于宣伝工作問題、多年来、我曾向≪解放軍報≫、≪人民日報≫負責同志多次談過宣伝内容問題、就是要在一切場合和宣伝的各種方式、都応突出対毛主席的宣伝、対毛沢東思想和毛主席革命路線的宣伝、而不要宣伝我。為此、特重新提出以下各点、盼同志們厳格注意:
   一、不要在街上和刊行物中、宣伝“樹立林副主席的崇高威望”的口号。
   二、不要出我的語録和文集。
   三、戯劇、電影、小説中、不要有叙述我的革命歴史的事跡。
   四、不要呼喊“祝林副主席永遠健康”的口号。
   五、最近各地開学習毛主席著作積極分子会、要求我題詞的很多。鍳于最近一事題詞引起了個別地方両派的糾紛、因此、一概不再題詞了。
   六、応大力突出宣伝毛主席和党中央、最好完全不要提到我。在万一需要提到我時、也無論如何不可超出十分之一的比例。這様、才能造成宣伝的統一性和集中性。
   以上各点、盼在営以上幹部中印発伝到、務須落実。
       (部隊発到営以上、地方発到県以上)

      林彪  一九六七年十二月十三日 

 上の「林副主席最新指示」は、『無産階級文化大革命文件匯編』〔河南省革命員会政工組編印刷 二冊::(一)は「一九六八年八月」、(二)「一九六八年十一月」。13センチ、共1362頁。ただし、目次・本文とも外された文件あり〕。〕 の(一)に掲載されたもの。


『皇軍一体論』 『怪文書清算論』 『永田事件の反省』 (1935.10-36.1 )

2012年11月14日 | 二・二六事件 2 怪文書

 時局批判資料 皇軍一体論 (以印刷代謄写)

    皇軍一体論 中正観念の修正について 山科敏

 一、要旨
 
 二、偉大なる軍部の偉容 〔下は、その冒頭部分〕

  『最近皇軍軍人に二大潮流があると言ふことが、専ら信じられてゐるが、一体さうした事実はあり得べきはずがないと思ふが如何』
『さう言ふことが盛んに問題になつてゐるようであるが、『皇軍の動揺』とか『二大潮流の対立』などと言ふことは、断じてあり得ないことである。些々たる客観的情勢を捉えて、さも重大な事情が伏在してゐる様に、観察する者もないではないが、それは微々たる一起伏にすぎないのである。建軍の基調は磐石の統制を擁し、炳乎として一貫するその
大精神は、非常時日本の燈台として、ますゝ輝きを増すばかりである。
噫、偉大なる哉、皇軍の威容よーわれらはこの悠久にして不滅の栄光に輝く、皇軍の厳乎たる姿に、涙ぐましい感激を覚えるのである。』
 
 三、革新を阻む三大勢力
 
 四、永田事件とその人形師

  『そこでもう少し細部に就て聞きたいのだが、私兵化の一団があるとか、永田中将が現状維持派と結んで国家改造を阻止してゐたために皇軍の統制が紊 みだ れたのだ。とか言ふことを耳にするが、果してさういふ形勢はあつたのか』。
  『おれが既成勢力や、職業的革命屋や、コミンタンの陥穽 に陥らせて仕舞ふ。そして対立的な先入主であらゆる動きを斜眼視うるやうになると、デマをデマとして批判出来ない様になる。所謂「巷説妄信」と言ふ奴だ。裏で糸を引いてゐる者から見れば『思ふ壺』なのだ。私兵化の一団などと言ふことは代表的な悪質の巷説で、皇軍将校の断じて口にすべからざる言葉である。永田中将の立場にしてもだ、軍務局長の要職にあれば、内閣書記官長と折衝することもしばしばあらうし、いろんな権力者と意見を交換することもあらう。それを一つ一つ捉へて近眼視覚的に批判したり、針小棒大に非難してゐたら際限のないことだ。国事を憂ふるほどのものー国家改造を志すほどのものが、些事に抗泥したり小利や栄達を嫉むなど、およそ児戯に類うる業である。歴史を創造せんと志す大丈夫は、まづ小我を棄てゝ大同に赴くべきである。況や三月事件にしろ、十月事件にしろ、殉国の赤誠の流露だ。それを殊更曲解誹謗して、人心を誤らしめることは、すでに物を観る態度が敵本主義の私情に出発してゐるからなのだ。まことに卑しむべき自己撞着といはねばならぬ。』
  〔以下省略〕
 
 五、皇魂派と国体原理派
 
 六、社会民主主義の忠僕 〔下は、その冒頭部分〕

『皇軍団破壊の禍根が何処にあるかといふことを明らかにすることは急務である。この禍根を認識しない所にすべての禍は生ずるのである。そこで北一輝、西田税両氏に利用せられている青年将校の動向がつねに問題になるのだ。「北一輝先生の日本改造方案に拠るに非ずんば統帥命令と雖も肯せず」と絶叫しつ々ある一群があるといふのだから、この「生き神様」は余程の魅力乃至は功徳があるらしい。
『さうすると日本改造方案とかいふのが、皇魂派や国体原理派の指導原理といふわけなのか』
『さういふ見方が正しからう。ところがおかしなことには天皇機関説を排撃する限り、北、西田一党の革新理論なるものも大いに問題になるのである。この「生き神様」達の思想は社会民主主義といふ機関説を生んだ温床なのだからーこゝに問題の本があるから読んで見給へ。』

 七、十一月事件と粛軍意見書 〔下は、その冒頭部分〕

肅軍に関する意見書ーといふ文書が相当に広く頒布されてゐるやうだが、一体どういふ内容なのだ。』
『あれは十一月事件に関与した某々将校が、十一月事件に対する処分は公正を欠くものだ。最近の皇軍の乱脈は所謂三月事件十月事件を隠蔽したのを動因として、軍内の撹乱はその極に達してゐる。しかもその思想も行動も大逆不逞のものであつた。これを剔抉処断して懲罰の適正を期するのが肅軍の第一の策であるーといふ意味のもので、三月事件と十月事件の傍証として「00少佐の手記」といふものが引用してある。この手記といふものにも奇々怪々な物語が潜んでゐると言ふことだが、兜町辺りでは此の意見書が四五拾円で売買されたと言ふ噂もある。』
 
 八.絵画的実行力の正体
 
 九.中正観念の修正を要す

   昭和十年十月二十九日発行 (非売品) 編輯兼発行人 山科敏 印刷人 伊藤満重 印刷所 帝都印刷株式会社

 

 皇軍一体論補遺 怪文書清算論 以印刷代謄写

         怪文書清算論 山科敏 皇軍一体論補遺

   怪文書清算論

 一、緒言 〔下は、その前半部分〕

 満州事変を契機として、一切の古き機構を清算し、新しき全体主義的改革が、政治、経済、社会の全局面に強く要求せられるに至った。
 この国家の進路に起ちて、従来の守勢より転移し、絶大なる実力的作用を発揮し、国体の線に添ふ国家機構の樹立をめざす老廃機構の改革に躍出し、政治、経済、外交、文化、の諸領域に伸展して、「国家全体の更生」を企図したのは軍部であつた。
かヽる国家の転換期に際し、軍部の歴史的地位、役割が、改革的勢力を形成するものであることは勿論であり、限られた部門を通じて、全国的な改革態度に出ることは、「国権維持」を使命とし、「広義国防観」に立つ軍部の必然的な部外事項への進出過程でもあつた。
 この情勢に呼応して、国民大衆は軍部の改革態度に合流し、その国家改造への発言を支持して、自由主義諸機構に反撃し、惟神の大道に立脚する「天皇政治」の顕現を仰ぎ迎えんとしたのである。
 然るにこの国内情勢を利用し、貪欲飽くなき魔の手を伸ばして、営利をむさぼらんとする職業改的命屋と称せらるる怪物の一群は、赤色ロシヤを背景とする売国的不逞分子と共に、皇軍部内に潜入し、社会民主主義を「尊皇愛国」と偽装し、マルクス主義の実践を、「××××」の美名に蔽ふて××せんと企て、光輝ある皇軍を目して、権謀術数私閥私闘の府の如き疑惑を深からしめるに至つた。
 やがて、これらの怪物の作為によつて縦横に張り繞らされた陥弊の絲に操られて、改革勢力の実行的中心たる皇軍は撹乱せられ、民間改革勢力は各派各層に乱脈を暴露して、収拾すべからざる蓬乱流離の混乱に転落しつつあるのである。
   
 二、桜会と革新勢力の登場
 
 三、満州事変の発生とその表裏
 
 四、昭和維新への口火を切る
 
 五、巷説に現れた重大非違 〔下は、最初の部分〕

 以上の記述を以て、維新を阻止しつゝある者が何人であるかを知ることが出来たと思ふ。
 蓋しわれらが「怪文書清算論」などといふ一見奇異なる表題の下にこの小論をものした所以は、実に世上に流布さるゝ「怪文書」なるものによつて、革新の実行的勢力の主体が、深く蔽ひ隠され、或は誤り伝へられ、甚しきは大逆不逞の徒の如く曲歪して印象せられつゝあるを見て、痛憤を禁じ得ないからである。即ち正統なる革新勢力の実体を明示し、維新の天業を亜流の附焼匁者流に求むることの愚を反省して、まづ皇軍一体化の実践に協力し、捏造せられたる怪聞、醜聞によつて汚毒蹂躙せられつゝある軍部並に革新陣営を浄化せんと欲するからである。
 而して殊更に論旨を、満州事変を中心とする当時の説明に置いたのは、いまや三月事件並に十月事件に関する歪められたる流説が盛んに横行し、これが皇軍一体化を妨げつゝあるからに外ならぬ。怪聞流布の目的が皇軍の攪乱にあることは言ふまでもないが、これらの怪文書により『大逆不逞』と喧伝せられつゝある三月事件乃至十月事件が如何に敵本主義のデマであるかを指摘して置きたい。

 六、人事を正統化し国民に応えよ
 
 七、国民は強く昭和維新の正統を把握せよ

   昭和拾年拾壱月拾八日 発行 非売品 編輯兼発行人 山科敏 印刷所 帝都印刷株式会社 印刷人 伊藤満重

 

 皇軍一体論続編 (以印刷代謄写) 永田事件の反省

      永田事件の反省 不祥事件移禍転福の献策

 一、緒言 〔下は、その最初の部分〕

 満州事変を楔機とせる皇軍の維新的躍進は、今や逆転的兆候を露呈し来れり。この現象を以て国民思潮の反動と称し、或は現状維持諸勢力の再編成と看る者あり。これらの観察は敢て不当なる批判にあらざるも、いづれも盾の反面に過ぎずして、遂に盾の両面に非ざるべし。
 蓋し現下の革新諸陣営の行詰りは、それ自体の反省に依るにあらざれば、その真相を把握し得ざるべしと信ず。而してその代表的現象は皇軍人事の変局を基調とする上層部の弱体化を以て一切の禍根となすべくこの情弊の実態を認識し、その変態的動向を清算せざる限り、皇軍は国民信倚の中枢的位置より転落を余儀なくせしめらるべしと断言して憚らざるなり。
 
 二、永田中将論 〔下は、その一部〕

 吾人は永田中将を目して軍の至宝の一人、一世の英材たるの定説に相違なかるべきものなりしを信ぜむとす。特に或る意味に於て近代国防の組織者として決定的なる功績と権威とに輝きその英邁の才器と高風大度の人格とは期せずして部内人望の中枢に座し、何人も将来を刮目せざるものなし。
 而して中将に対する非常時国軍の輿望こそは、中将が国家革新に対し、必至緊要の認識と之が指導経綸とに関し極めて真剣且つ責任ある意識と努力と能力とに欠くる処なかりし證左なりとす。蓋し今日国軍要路に於て其度の深浅、認識の如何は別とするも、一応昭和維新断行を願はず、意識的に反対するが如き要路将校のあり得べき理なかるべしと信ずればなり。

 三、相沢三郎
 
 四、国家革新の過程と軍内維新派の主流情勢 〔下は、その一部〕

 北、西田一派は皇軍青年将校をその影響下に置き、職業的革命屋の膨大を衒はんとして、その金看板として巧みに真崎将軍らに接近し、いわゆるそのかつぎ上げに成功し、
  
 五、大御心と維新工作 〔下は、その一部〕

 蓋し北一輝氏は明白なる社会民主主義革命の御本尊にして最も徹底せる天皇機関説主義者なり、何ぞ身の程を知らず国体明徴を口にするを許さむや。而して西田税氏はその主義の免許皆伝のみ。
 
 六、八月人事問題と統帥権不安時代の到来
 
 七、事件の総合的観察

   昭和十一年一月二十日 (非売品) 責任者 山科敏 印刷人 深井誠治 印刷所 開文社印刷所

 なお、この『永田事件の反省』の一部は、後に『右翼思想犯罪事件の総合的研究』(1939)に附録として掲載された。。


『中学文革報』 (「出身論」) (1967.1-4)

2012年11月13日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他

創刊号:「中学文革報 首都中学生革命造反司令部宣伝部主弁 創刊号 1967年1月18日」。共四面。本報聯絡地点・北京四中。

  一~三面・出身論 北京家庭出身問題研究小組
      ・論辯的魂霊新作 四中(敵敵畏)
 四面  ・中央首長談聯動会(一月十日) 康生同志 江青同志 周総理
      ・堅決za瀾聯合行動委員会 首都中学生革命造反司令部
      ・這也算是紅衛兵嗎! 首都風雷  北京三中刺刀見紅戦闘隊 67.1.12
      ・不許破壊無産階級専政! 京工附中《紅旗》
      ・参考消息 〔下は、その最初〕

 △ 聯合行動委員会是于十二月五日成立的。当天晩上、就在北大附中大搞武闘、無理殴打革命同学、幷za了八・八戦闘団。
 △ 聯動会『沖鋒号』与『狂打狂沖』小組写出『致中央文革』『用毛沢東思想衡量一切』的大字報、意認為:①中央文革ting取群衆意見、対三司、北航紅旗等定調為左派、他們有材料認為不是左派。②中央文革錯誤地処理西糾問題。③公安部把専政権力下放、北航紅旗和三司乱抓人、有些『老紅衛兵』対三司、中央文革有意見就被抓。

専刊 :1967年2月。共四面、活版。定価二分。

  一~三面・出身論 北京家庭出身問題研究小組

     
     

 下は、「創刊号」の「出身論」の小見出しおよび最後の部分と注の一部などである。[ ]内は、「専刊」の記述。

 一、社会影響和家庭影響問題
 二、重在表現問題
 三、受害問題

  勝利必将属于你們!
  受圧抑最深的青年[一切受圧抑的革命青年]!、起来勇敢戦闘吧!
             1966年7月初稿
                 9月定稿
                 11月修改
 ① 《出身論》剛発表的時候、我們不得不這様写。現在看到了、一九六六年七月在団中央九中全会上講這個活的“貌似公允”的李雪峰及其一流人物、現在都成了怎様的資産階級反動路線的代表人物。
 ② ≪出身論≫剛剛張貼時、在這句話的旁辺、写満了“大毒草”、“胡説八道”之類的話、発泄gou了譚力夫之流的廉価的憤慨、他們有眼光、因為這正是“出身論”的主題。可是歴史畢竟是無情的。今天不少紅衛兵組織巳経引用這句話做為自己的組織綱領了。有一個紅衛兵組織的宣言写道:“過去的紅衛兵組織只能由所謂‘紅五類’子女組織和参加、這是不符合毛沢東思想的、我們就是要造它的反。”謹向這些組織的大無畏的行動、致以革命的敬意。
 ③ “自来紅”是北京的一種月餅的名称。
 ④ 農村中有些地区曾規定、小学昇初中時、出身占六十分、表現占二十分、学習成績占五分、其他占十五分。
 〔以下省略〕

      ・《出身論》好的很! (来信来訪者論壇)
  四面  ・我們有責任捍衛最高指示 -反駁歩曙明 北京家庭出身問題研究小組 〔《首都風雷》1月27日より転載〕
      ・凡是敵人擁護的 我們就要反対 駁北京家庭出身問題研究小組《出身論》
      ・再版説明

 自本報発表≪出身論≫以后、引起広汎的弁論。由于印数有限、不能満足各界需要、特出専刊、以饗読者。
 希望同志們能将本単位弁論的情況寄給我們、我們将辟専欄発表、来信請寄北京西安門大街西什庫北京四中≪中学文革報≫聯絡站。
                                                本報 編輯部 1967.2

第二期:1967年2月2日。共四面、活版。連絡地点:北京四中、定価二分。

  一面  ・社論 目前的形勢和我們的任務
      ・談“純” 北京家庭出身問題研究小組
      ・江青同志談階級路線(1966、11、14 江青同志接見北京中学生代表和紅衛兵代表時的講話)[一部]」
  二面  ・北京一中“労改隊”(北京一中供稿)
      ・王光華之死(根拠北京六中供稿整理)
  三面  ・《出身論》対話録:翻案篇 北京二十五中“斉声喚”戦闘小組
      ・駁秋後算悵論 人大附中《井岡山》兵団」
  四面  ・雑感四題
      ・中央首長在六中講話(摘録)
      ・連動之落水狗嗎? 本報評論員
      ・《出身論》好得很!
      ・読者来信(来信来訪者総述)
      ・参考小息

第三期1967年2月10日。共四面、活版。連絡地点:北京四中、定価二分。

  一~二面・“連動”的騒乱説明了什麼 ー兼駁清華附中紅衛兵“評《出身論》”ー 北京家庭出身問題研究小組
  三面  ・走資本主義道路的当権派優待出身不好的青年嗎
      ・《出身論》在我們単位‥
      ・読者来信 鼓起勇気鬧革命
      ・資産階級反動路線罪行点滴
      ・致読書
  四面  ・《中国青年》是推行唯出身論的罪魁禍首 本報編輯部
      ・談彭真的反革命階級路線 師大女附中東方紅紅衛兵
      ・参考消息

第四期一九六七年二月二十一日 (本報六版)連絡地点:北京四中 本期共六版[六面] 售価三分。

  一~二面・論鄭兆南烈士的生与死 北京家庭出身問題研究小組
  三面  ・我們為什麼擁護《出身論》? 二十五中斉喚戦闘小組
  四面  ・読者来信 反動的“唯出身論”在農村 -農村一位青年的来信-
      ・霊魂ー替別人或自己描象 梅魂作
      ・出身
      ・名詞解釈
      ・参考消息
  五~六面・記二月二十七日大会 本報記者
      ・徹底打破中学運動冷冷静静的局面 首都中学生革命造反司令部代表2.17大会発言
      ・為顛倒的歴史還基本来面目而奮闘! 北京四中遠征戦闘隊

第五期一九六七年三月六日 (本報四版)(毎份三分)

  一~三面・反動血統論的新反撲-駁“大毒草《出身論》必須連根鏟除” 北京家庭出身問題研究小組
      ・他們為什麼不敢表態?ー浅評“左”点比“右”点好 北京女ニ中《伏虎》戦闘隊
  四面  ・我們為什麼支持《出身論》 北京四中《紅旗》
      ・略評《雄一帥》報的四個版両万字 本報評論員
      ・読者来信 親愛的戦友們 機械研究所《試比高》戦闘組一戦士

第六期1967年4月1日 通訊地址:中学文革報編輯部 售価二分

  一~二面・為哪一条路線唱頌歌 ー再評北京軽工業学院東方紅公社的反動立場 北京家庭出身問題研究小組
      ・受毒害的青年站起来 中国作家協会XX省XXX
      ・弁論会点滴 本報記者
      ・一定要改造思想 XX市軍大附中于XX三月七日
      ・出身不同的青年団結起来 短評
  三面  ・読者来信 反動的唯出身論在工厰  銅川煤鉱ー 工人 六七年二月二十二日
      ・文化革命以前有無血統論 四中《紅旗》[四面にも]
  四面  ・略評《教工戦報》的頭版頭条 本報評論員
      ・当権派(資)与唯出身論 譚震林《1966年12月12日在紅星公社講話》 小資料
      ・致《兵団戦報》編輯部 本報編輯部
      ・参考消息


「宣判≪出身論≫以死刑」 (1967.3)

2012年11月12日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他
 教工戦報 

    第二期
 
  北京中等学校革命教職工紅色造反団宣伝部主弁 
  1967年3月11日 星期六
 
 宣判出身論以死刑

     
      

  -怒斥北京家庭出身問題研究小組的反動立場!

 一、撃一猛掌

 “北京家庭出身問題研究小組”(以下簡称“小組”)在它的許多文章中、一再要弄花言巧語、用詭弁術代替弁証法;一口経倫、満腹牢騒。同時“拉大旗作為虎皮、包着自己去吓X〔口に虎〕別人”、用種種彩衣披罪在身上、很迷惑了一些人(尤其是与“小組”地位相似、也有“情緒”、但還不反動的人)。他們似乎有了理論根拠、有了“出気”的武器、甚至把“出身論”捧到“中国社会各階級的分析”之上、像被迷魂湯灌漑醉了一様、揺揺晃晃地“抖”起來了。他們不是按照無産階級所需要的去努力、却是在邪道上去発泄……。
 〔以下省略〕

 一面には、次の論説もある。

 必須除掉這株独草 本報編輯部

 《出身論》是一株大毒草。它的出籠表現了当前社会上一股反動的右傾思潮的泛濫、一小撮別有用心的人、他們打着“批判”唯出身論的旗号、企図従根本上否定我党十七年來的階級政策。対于這股右傾反動思潮、我們必須予以無情的掲発、批判。
 但是、在我們批判《出身論》時、絶不允許“式路線”的忠実門徒和“聯動”的頑固分子趁機蠢動、絶不允許他們在垂死之中撈取半根稲草。
  〔以下省略〕

「“対聯”的五大罪状」 (1966.11)

2012年11月12日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他

   
   

 “対聯”的五大罪状

  前些時、全国盛行流伝着一幅“老子英雄児好漢、老子反動児混蛋、基本如此”的対聯。它是在7月末出籠的、剛一出籠便博得一大部分人、特別是相当多中学生的喝采。当然、也正因為這幅対聯正投合他們的心意。
  接着、清華附中斉向東的≪無産階級的革命路線万歳≫一文、北大附中紅旗的≪自来紅們站起来了≫及譚立夫洋洋大篇的毒草又紛紛問世、形成了相当強烈的一股圧倒一切的気勢。
  他們表面上装扮的都是那麼“左”、表面上看去真好象只有他們才是階級感情那麼濃厚、只有他們才最革命。但、現在只要我們用毛沢東思想這個顕微鏡仔仔細細来分析、冷静地想一想、就会感到他們這一切、離開主席思想是那麼遠、有的則完全違背了毛沢東思想。
  譚立夫講話公然悪毒地指向以毛主席為首的党中央、他懐着刻骨地仇恨咒罵的正是我們最最偉大的領袖!! 這篇大毒草、我們必須徹底批倒它!這里、我們不想提及。
  我們就対聯的種種危害及其罪状、発表我們的看法。
  我們認為:這幅“老子英雄児好漢、老子反動児混蛋、基本如此”的対聯罪状很多、就其重点、批判如下:
  (一)牠違背了毛沢東思想、 --歪曲了党的階級路線
  這幅対聯散布的完全是個唯成份的観点。你們看、対聯的崇拝者不是在自豪地大叫特叫狂叫: 我是天生的好漢、因為我老子是英雄; 你們是混蛋、因為你們老子反動; 老師一般的人、你們是騎牆……
  在他們眼里、這就是地地道道的党的階級路線ー唯成份。但是、我們却要大喝一声;不、同志!唯成份論決不是党的階級路線。党的階級路線在十六条中是明明確確給我們指明了的。簡単地説、那就是:分清敵我、発現左派、発展左派、依靠左派、争取中間派、団結大多数、徹底孤立最反動的右派。在出身問題上、党的階級路線発生糊塗認識。対聯的罪状就在于:他以“左”的形式出現、歪曲了党的階級政策、歪曲了党的階級路線、而却往往又不易為人所覚察、使許多人至今中毒未醒、毒害不浅!

 (二)這幅対聯引起了群衆闘群衆、学生闘学生的不良現象:

 (三)与十六条精神、与這場文化大革命的精神実質格格不入.

 (四)在広大青少年中、又一次散布了“自来紅”的錯誤思想、危害了不少青少年:

 (五)対聯中“老子英雄児好漢” ー這否認了青年在前進道路上需不断改造的必要性;

                           北京第二外国語学院紅旗戦闘隊 
                             1966年11月29日

 なお、譚力夫は翌12月に逮捕された。


「論新思潮 -四三派宣言ー」 (1967.6)

2012年11月12日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他

 四三戦報 東方紅抗大電校(原北京良郷電校)《四三戦報》編輯部主弁 第一期 1967年6月11日(星期日)

   
     

 論新思潮 
      -四三派宣言ー

 中央首長的四・三講話把“四三”“四三派”“四三思潮”這些名詞帯入了中学的政治生活。
 許多人為了駆逐“反動的四三思潮”而結成了神聖同盟。
 有人為了攻撃対立面而shuai給后者以“四三”的帽子。
 然而富有生気、富有革命精神、富有組織規律性地成長起来。
 関于四三的神話可以休矣!
 現在、是我們公開申明一些実質性問題的時候了!
     一、特権人物和人民
 社会主義国家之前的一切統治階級都是特権人物。無産階級専政之前的歴史上毎一次大的社会変革都相應地伴随着財産和権力的再分配。(即把社会上的財産和権力重新分配給某一些人)而毎次分配的結果、都是使統治階級ー代表少数人的階級占了絶対優勢、使他們掌握了社会財富和政治権力。而這些人従他們登上政治舞台第一天起、就同広大労働人民存在着矛盾、随着生産力的不断発展、随着再分配日益趨向統治階級的継続進行、這種矛盾逐漸尖鋭、両極分化突出、于是発生一次大的変革、再一次進行大規模“再分配”。
 無産階級奪取政権后使自己在財産和権力方面占了優勢、由于無産階級的地位決定了它必須解放全人類才能最后解放自己、所以這次的再分配実際上体現了最大多数人的利益、它應該保持到共産主義的実現。
 〔以下省略〕


「《出身論》是反毛沢東思想的大毒草」 

2012年11月12日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他
    
         

        ≪出身論≫是反毛沢東思想的大毒草

                北京三中反修戦団編

  毛主席和党中央有関論述

 “農民在全国総人口中大約占80%、是現時中国国民経済的主要力量”
 “中農在中国農村人口中約占20%左右。”
 “中国的貧農連同雇農在内、約占農村人口70%。”
 “中国無産階級中、現代産業工人約有250-300万、城市小手工業和手工業的雇用労働者和商店店員約有一千二百万、農村的無産階級(即雇農)及其他城郷無産者、尚有一個広大的数目。”

  ≪出身論≫的反動論調

 “這個問題牽渉面很広。如果説地富反壊右分子占全国人口的5%、那麼他們的子女及其近親就要比這個数字多好幾倍。不難設想、非紅五類出身的青年是一個怎様龐大的数字。由于中国是一個落后的国家、解放前只有二百多万産業工人、所以真正出身于血統無産階級家庭的并不多。這一大批出身不好的青年一般不能参軍、不能做機要工作。因此、具体到個別単位、他們(非紅五類)就占了絶対優勢。”

  編者按

  視而不見占我国人口90%以上的龐大数字、無視我国幾千万無産階級。従一個虚偽的“龐大”出発、発泄自己的不満、攻撃社会主義制度。
  在任何単位工農及其子女都應占絶対優勢、我們搞革命的任務之一、就是堅定不移地樹立這個優勢。


  毛主席和党中央有関論述

 “一、有成分論”;二、不唯成分論;三、重在政治表現。”

  ≪出身論≫的反動論調

 “出身是死的、表現是活的、用死標準和活標準同時衡量一個人、能得出同一個結論嗎?”

  編者按

 “成分”是“死”是“活”?按照您的邏輯、用毛主席提出的標准衡量一個人、也不能得出同一個結論嗎?

 この資料は、「≪出身論≫是反毛沢東思想的大毒草 北京三中反修戦団編」とあり、林彪・江青・毛選注釈巻・人民日報社論・九評等の文の引用「毛主席和党中央有関論述《出身論》的反動論調編者按」の3つに分けて、13項目を比較して表にまとめたものである。

『風雷激 《出身論》有関材料』 (1967.5)

2012年11月12日 | 文化大革命 2 譚力夫、遇羅克他

 風雷激

    《出身論》有関材料  一九六七年五月

 毛主席語録

 前言 

 

 〔下は、その一部である。〕

 七月底、一些天眞的青年人提出了“老子英雄児好漢、老子反動児混蛋”這個口号。這正中劉、下懐、他們利用了這些青年人的幼稚可笑、及他們的盲目自豪感、高喊着: “老子就是自来紅。”揮舞皮帯、去“弁論”這個口号、大打出手、転移了闘争大方向、又一次企図使毛主席剛発動的文化大革命用夭折。

 ≪出身論≫的出籠并不是偶然的、這是假批判“血統論”之名、行宣揚“無出身論”之実、它是有一定社会基礎的、也有一定市場。它其実可与那個反動口号相提并論。它与“聯動”的反撲是互相黙契配合的、它為“血統論”者提供了反撲的武器。
 因此、我們必須在批判《出身論》的同時謹防一小撮“譚氏”人物、“聯動”的頑固分子従中撈取稲草、要時刻記住反動“血統論”還僅是一只落水狗、他還没有死、一旦他爬上岸来還要咬人的!
 正是這様、受“血統論”影響很深的清華附中紅衛兵来≪評<出身論>了、但他們使用了叧一個極端、用“血統論”来駁“無出身論”。很顕然、這篇文章是為“老子英雄児好漢、老子反動児混蛋”翻訳!
 順便説一下、《評<出身論>》還頗有些阿Q精神。


 一、論出身 - 批判出身問題探討中若干錯誤思想 第五研究小組

 二、出身論 北京家庭出身問題研究小組

 三、《出身論附后

 四、出身論》 清華附中紅衛兵

 五、“聯動的騒乱説明了什麼? ー兼駁清華附中紅衛兵《評<出身論>》 北京家庭出身問題研究小組

 六、大毒草《出身論》的反動実質 -剖析受害問題》 《旭日戦報》編輯部

     聯系地点:北京四十一中《風雷激》編輯部


『毛沢東思想万歳』武漢版 全5冊(1968)

2012年11月08日 | 中国共産党 2 毛沢東

○ 第一冊   :(1913.11ー1943.6)。

26.1センチ、毛沢東の写真1頁、毛主席去安源1頁、目録5頁、本文298頁、152編。

  ・第一師範講堂録(一九一三年十一月一日)
  ・読≪明恥篇≫后題詞(一九一五年)
  ・≪新青年≫第七巻第一号(一九一七年)」
     〔中略〕
  ・関于共産国際解散問題(一九四三年五月二十六日)
  ・中央関于対待原四方面軍幹部態度問題的指示(一九四三年六月八日)
  ・関于批評彭徳懐一九四三年四月“関于民主教育談話”的一封信(一九四三年六月六日)」

○ 第二冊   :

26.1センチ、目録4頁、本文276頁、編者附言〔276頁の下にある〕、73編と補遺71編 計144編。

  ・在慶祝党的二十二周年晩会上的講話(一九四三年七月三日)
  ・視察南泥湾時的講話(一九四三年七月)
  ・中共中央関于審査幹部的決定(一九四三年八月十五日
     〔中略〕
  ・電檳榔嶼僑胞(一九四六年八月七日)
  ・我們是能gou克服困難的(一九四九年八月一日)
  ・在中国人民政協第一届全体会議上的開幕詞(一九四九年九月二十一日)

  補遺 
  ・読《倫理学原理》筆記
  ・怎様看待別人
  ・中央農民運動講習所規約(一九二六年十月)
     〔中略〕
  ・党的布爾什維克化(十二条)(一九四二年十一月二十一日)
  ・在志丹陵園紅星記念塔上的題詞(一九四三年)
  ・新年祝詞(一九四七年一月)

  編者附言には、
  「編入本書的是毛主席解放前発表過而未収入《毛沢東選集》的著作、基本上按其発表時間的順序編印。」
  「本書僅供校内革命同志学習、希望妥善保持、厳禁外伝、引用。」
  「編者 鋼二司武漢大学総部 中南民院革委会宣伝部 武漢師院革委会宣伝部 一九六八年五月」などとある。〔全文は、下の写真参照〕

  

○ 第三冊   :(1949.10ー1957.12)

25.9センチ、八期十一中全会公報1頁、目録4頁、本文268頁、129編。

  ・中華人民共和国中央人民政府公告(一九四九年十月一日)
  ・関于鉄路的指示(一九四九年十月)
  ・給徐悲鴻的一封信(一九四九年十一月二十九日)
     〔中略〕
  ・同科学家、文学家談人民内部関係(一九五七年三月十六日)
  ・事情正在起変化(一九五七年五月)
  ・関于主要矛盾問題(一九五七年)

○ 第四冊   :

26.2センチ、目録6頁、本文352頁、194編。

    なお、「在成都会議上的講話」は(一)(一九五八年三月)から(六)(一九五八年三月二十六日)までの6編、「在成都会議上的挿話(一九五八年三月)などを1編を収録する。

  ・在杭州会議上的講話(一)(一九五八年一月三日)
  ・在杭州会議上的講話(二)(一九五八年一月四日)
  ・在南寧会議上的講話(一九五八年一月)
     〔中略〕
  ・在二届全国人民代表大会常務委員会第九次会議上提出的中国共産党中央委員会的建議(一九五九年九月十四日)
  ・関于堅決地認真地清理労働力加強農業生産第一線的緊急指示(一九六〇年八月二十日)
  ・関于官僚主義厳重存在的問題(一九六〇年春)

○ 第五冊   :

25.8センチ、目録12頁、本文347頁、405編。

  ・在中央工作会議上的講話(一九六一年一月十三日)
  ・在八届九中全会上的講話(一九六一年一月十八日)
  ・≪反対本本主義≫説明(一九六一年三月十一日)
     〔中略〕
  ・革命員会的三条基本経験(一九六八年三月三十日)
  ・支持美国黒人抗暴闘争的声明(一九六八年四月十六日)
  ・対派性要進行階級分析(一九六八年四、五月)

  接見日本社会党人士佐々木更三、黒田純男、細迫兼光等的談話
          (一九六四年七月十日)

              

 〔上の写真は、その全文。下の文は、その一部である。〕

 主席: 談到政治上、難道我們在政治上不要互相支援嗎?而是互相対立嗎?象幾十年前那様互相対立嗎?那種対立的結果、対你們没有好処、対我們也有好処。同時、ling外、講一句相反的話:対你們有好処、対我們也有好処。二十年前那種対立、教育了日本人民、也教育了中国人民。
    我曾経跟日本朋友談過。他們説、很対不起、日本皇軍侵略了中国。我説:不!没有你們皇軍侵略大半個中国、中国人民就不能団結起来対付你們、中国共産党就奪取不了政権。所以、日本皇軍対我們是一個很好的教員、也是你們的教員。結果日本的命運那麼様呢?還不是被美帝控制嗎?同様的命運在我們的台、港、在南朝鮮、在菲律賓、在南越、在泰国。美国人的手伸到我們整個西太平洋、東南亜、它這個手伸得太長了。
 佐々木: 今天听到了毛主席非常寛寛宏大大量講話。過去、日本帝国主義侵略中国、給你們帯来了很大的損害、我們大家感到非常抱歉。 
 主席: 没有什麼抱歉。日本軍国主義給中国帯来了很大的利益、使中国人民奪取了政権。没有你們的皇軍、我們不可能奪取政権。這一点、我和你們有不同的意見、我們両個人有矛盾。 (衆笑、会場活躍)
 佐々木: 謝謝。
 主席: 不要講過去那一套了。過去那一套也可以説是好事、幇了我們的忙。請看、中国人民奪取了政権。同時、你們的壟断資本、軍国主義也幇了你們的忙。日本人民成百万、成千万地覚醒起来。包括在中国打仗的一部分将軍、他們現在変成我們的朋友了。
  有一千一百多人(指戦犯ー編者)囘到日本、写来了信。除一個人之外、都対中国友好。世界上的事就是這麼怪的。這一個人叫什麼名字?
 張安博: 叫飯森、現在当法官。
 主席: 我們為什麼要感謝日本皇軍呢?就是日本皇軍来了、我們和日本皇軍打、才又和蔣介石合作。二万五千軍隊、打了八年、我們又発展到一百二十万軍隊、有一億人口的根拠地。你們説要不要感謝呀!

 荒哲夫: 我提一個問題。先生剛才説両大国要控制世界。現在、日本有一個奇妙的現象。日本的沖縄和小笠原群島被美国占領、但在北方、在我居住的北海道的左辺有個千島群島、被蘇聯占領了。従我們這方面来説是被占領的。拠説、千島是根拠我們没有参加的波茨坦広告画帰蘇聯的。我們長期同蘇聯交渉、要求帰還、但是没有結果。很想听听毛主席対這個問題的想法。
 主席: 蘇聯占的地方太多了。在雅爾塔会議上就譲外蒙古名義上独立、名義上従中国画出去、実際上就是受蘇聯控制。外蒙古的領土、比你們千島的面積要大得多。我們曾経提過把外蒙古帰還中国是不是可以。他們説不可以。就是同赫魯暁夫、布爾加寧提的、一九五四年他們在中国訪問的時候。他們又従羅馬尼亜劃了一塊地方、叫做比薩拉比亜。又在徳国劃了一塊地方、就是東部徳国的一部分。把那里所有的徳国人都到西部去了。他們也在波蘭劃了一塊帰白俄羅斯。又従徳国劃了一塊帰波蘭、以補償従波蘭劃給白俄羅斯的地方。他們還在芬蘭劃了一塊。凡是能gou劃過去的、他都要劃。有人説、他們還要把中国的新疆、黒竜江劃過去。他們在辺境増加了兵力。我的意見就是都不要劃。蘇聯領土巳経gou大了、有二千多万平方公里、而人口只有両億。你們日本人口有一億、可是面積只有三十七万平方公里。一百多年前、把貝加爾湖以東、包括伯力、海参威、勘察加半島都劃過去了。那個帳是算不清的。我們還没跟他們算這個帳。所以你們那個千島群島、対我們来説、是不成問題的、応当還給你們的。 


『陸海空軍軍官佐任官名簿』 第一期 (1936.12)

2012年11月04日 | 清国・民国留日陸軍学生 名簿、教育
  中華民国二十五年 〔一九三六年〕 十二月
 陸海空軍軍官佐任官名簿 第一期 
  密 軍事委員会銓叙庁製

  

 〔上の写真は、『党軍』〔民国十七年:一九二八年発行〕の口絵にある蔣介石〕

 特級上将 

 姓名   任命年月日   出生年月日      籍貫    備考
 
 蔣中正  二四、四、一、 前二五、一〇、三一、 浙江奉化

 

 陸軍上将叙第一級 八員

 姓名   任命年月日   出生年月日      籍貫    備考

 閻錫山  二四、四、ニ、 前二九、一〇、 八、 山西五台
 馮玉祥  二四、四、ニ、 前三〇、 九、二六、 安徽巣県
 張学良  二四、四、二、 前一一、 三、 六、 遼寧海城
 何応欽  二四、四、二、 前二二、 三、一ニ、 貴州興義
 李宗仁  二四、四、ニ、 前二一、 九、 四、  広西桂林
 朱培徳  二四、四、ニ、 前二三、一〇、二九、 雲南鹽興  已故
 唐生智  二四、四、二、 前二二、一〇、三一、 湖南東安
 陳済棠  二四、四、二、 前二〇         広東防城

 海軍上将叙第一級 一員

 姓名   任命年月日   学資           出生年月日     籍貫    備考

 陳紹寛  二四、九、六、 江南水師学堂駕駛科 前二三、九、一三、 福建閩侯

   

 陸軍上将叙第二級 二二員

 姓名   任命年月日     出生年月日      籍貫    備考

 陳調元  二四、四、三、   前二六、一一、 一二、 河北安新
 何成濬  二四、四、三、   前二〇、 五、 六、 湖北隨県
 朱紹良  二四、四、三、   前二〇、       江蘇武進
 韓復  二四、四、三、   前二二、 二、 五、 河北覇県
 宋哲元  二四、四、三、   前二七、 九、二三、 山東樂陵
 劉 湘  二四、四、三、   前二五、 五、一五、 四川大邑
 劉 峙  二四、四、三、   前二〇、 六、 六、 江西吉安
 萬福麟  二四、四、三、   前三〇、 一、一一、 吉林長春
 何 鍵  二四、四、三、   前二四、 三、一七、 湖南醴陵
 白崇禧  二四、四、三、   前一八、 一、二六、 廣西桂林
 劉鎮華  二四、四、三、   前二九、 九、 七、 河南鞏県
 顧祝同  二四、四、三、   前一九、一一、二二、 江蘇漣水
 商 震  二四、四、三、   前二三、 九、一一、 浙江紹興
 傳作義  二四、四、三、   前一七、一〇、一九、 山西栄河
 徐永昌  二四、四、三、   前二三、一一、一五、 山西●県
 于学忠  二四、四、三、   前二三、一一、 二、 山東蓬莱
 楊虎城  二四、四、三、   前二〇、一〇、二〇、 陝西蒲城
 蔣鼎文  二四、四、三、   前一八、一二、三〇、 浙江諸曁
 龍 雲  二四、四、三、   前二二、一〇、    雲南昭通
 徐源泉  二四、四、三、   前二五、一〇、 七、 湖北黄岡
 楊愛源  二四、一二、一〇、 前二二、 二、 七、 山西五台
 程潛   二五、一、一一、  前三〇、 三、三一、 湖南醴陵

 陸軍上将銜 一一員

 陸軍中将 二八七員  

 この陸軍中将の「学資」は、以下の学校などである。

 ・陝西講武堂 ・日本歩校 ・黄埔軍校 ・中央軍校 ・日本士官学校 北洋講武堂 ・南苑軍官教導団 ・保定軍校 ・陸軍大学 ・四川陸軍速成学堂 ・奉天陸軍講武堂 ・陝西講武堂 ・四川軍官速成学校 ・東北講武堂 ・法国聖西爾歩騎専校 ・雲南講武堂 ・四川陸軍速成学校 ・北京将校講習所 ・陸軍測量学校 ・湖南新軍幹部教練所 ・湖南兵目学校 ・雲南幹部学校 ・湖南将弁学堂 ・日本陸軍大学 ・日本振武学校 ・広西陸軍速成学校 ・貴州陸軍講武堂 ・青海軍官講習所 ・天津武備学校 ・高等軍事研究所 ・河南将校講習所 ・江北陸軍速成学校 ・河南軍官教育団 ・保定陸軍電信学校 ・保定軍校 ・中央軍校 ・江南将弁学堂 ・湖北陸軍講武堂 ・四川高等軍事研究班 ・広西将校講習班 ・講武堂 ・日本砲工専門学校 ・広東講武堂 ・雲南武備学堂 ・湖南新軍隨営学校 ・粤軍講武堂 ・陸軍速成学堂 ・広西陸軍幹部学校 ・日本東斌陸軍学堂 ・雲南陸軍講武学校 ・湖北陸軍予備学校 ・天津武備学堂 ・粤軍第一師軍軍官教育班 ・湖南兵目学堂 ・陸軍模範団 ・貴州講武堂 ・陸軍軍官学校 ・新疆伊犂将弁学堂 ・河南陸軍小学 ・南京陸師学堂 ・奉天隨営学校 ・第十六混成教育班 ・陝西陸軍測繪学校 

 また、この二八七名中の日本関係は、およそ次の通りである。

 日本歩校 一、日本士官学校 三三、日本陸軍大学 一一、日本砲工専門学校 一、日本東斌陸軍学堂 一、日本振武学校 一、 である〔一人で二つあり〕。

 海軍中将 二員

 陸軍軍需総監 二員

 この陸軍軍需総監の学資は、次の二つである。

 ・日本法政大学 ・日本陸軍経理学校

 陸軍軍医総監 一員

 この陸軍軍医総監の学資は、次の通りである。

 ・美国哈佛大学〔米国ハーバード大学〕医学博士

 〔以下省略〕 

 軍政部中央軍事監獄承印
 
 本冊は、18.7センチ、厚さ5.2センチ、1258頁。