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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

エリコ陥落の現代的意味 第9回

2015年06月10日 | 日記

神に栄光を帰すとは

皆さん、外にある敵よりも内にある敵が怖いんですね。みなさん、アカンの物語をよく知っていますね。彼はむさぼりましたね。エリコの城壁をこんなにも驚くべき方法で滅ぼして大勝利をあげたのに、次の小さな町を攻め取るのに彼らは失敗してしまったのです。なぜこのようなことが書いてあるんでしょうか?この戦争は、自分たちの優位さ、武器とかそういったものによるのではないんですね。この戦いは神様に栄光を帰し、神様の名誉のためになされるものなのです。私たちは単なる道具であり、器で、私たちが自分の力でやるのなら、その結果として、何か自分にご褒美を得る必要があるかもしれません。ところがそうではないんですね。これは全て神様の戦いであったので、神様に栄光を帰して、すべてを神様に捧げて火で燃やしなさいとおっしゃったんですね。なぜなら、私たちはただの器ですから、自分たちの能力や努力によって戦ったのではないからです。

ですから、終わりの時代に、自分の力や能力に頼る人は、神様の最後の戦いに参加することはできないわけですね。自分の事を考え、自分の、何か評価とか自分の安心、そういった自分の事に捕らわれている人は、この戦いに加わることはできないですね。

 

エリシャのしもべだったゲハジの物語がありますね(Ⅱ列王記5章)。ゲハジはナアマンからの贈り物が届けられた時に、エリシャは断ったのですけど、ゲハジは後でナアマンに言いましたね。「今お客さんがやってきたので、さっきのを分けて下さい」、そしたら「どうぞ、どうぞ、あげます」と。ところがゲハジは戻って来た時にライ病にかかってしまいますね。なぜでしょうか?考えてみましょう。ナアマンが来てから、ゲハジはずーっと彼に仕えてきたんですね。食事を用意したり色々やってあげていたのです。ゲハジが失敗したのは、ゲハジは自分のした事に対する報いを得ようとしたことなんです。これだけやったんだから、そのために苦労したんだから、自分はこれくらい貰ってもいいんじゃないか、一生懸命仕えたから少しぐらい貰ってもいいんじゃないか、と思ったのです。

でもそうじゃないですよ。このナアマンが癒されたことは、神様にのみ栄光を帰さなければならない時だったのです。少しは自分に手がらがあるから、自分も少しは働いたから、そう思って衣服を取ろうとしました。そのことを神様は罰せられたんですね。

 

アカンのときも同じだったんです。アカンの罪によってイスラエルの民は負けたんですね。同じように終わりの時代にも、教会の中のたった一人の罪によって、全イスラエルに災いがもたらされることがあります。一人の人、一人の罪、残されている罪、こういったものによって、教会が大混乱におとされてしまうことがあるんですね。

でも、神様はこのアカンを見つけられる時に、本当に憐れみと義を尽くされたのです。くじの範囲が一つひとつせばめられていくたびに、アカンはいつでも悔い改めて告白出来るようにされたんです。ところが最後の最後まで、アカンは神様の勝利と力とそういったものを見ながらも、自分の罪を告白しなかったんですね。

皆さんよく考えてみて下さい。私たちにそのような罪はないでしょうか。いくら神様の力を見ても、み業を見ても、神様の前に断ち切られていない罪が私たちのうちに残されていないか、もう一度調べてみる時代なのです。