goo blog サービス終了のお知らせ 

SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演27)

2012年10月13日 | 日記



  ひまわりさんより(10月13日)

今日の安息日の午後は、家から5分ぐらいの所にある県民の森へ出かけました。前から、県民の森があることは知っていましたが、行くのは初めてで何があるのかも知りませんでした。行ってみると、広い芝生広場や、バーベキュー場があったりして、とてもいい所でした。芝生広場の端っこに、森林浴の遊歩道があったので、坂道を登ってみることにしました。尾根伝いに整備された山道があり、ところどころに、アスレチック広場があったり、野鳥観察小屋があったり、展望台があったりして、興味深いコースでした。最初の印象では、せいぜい10分か20分も歩けば元の所へ帰れるかと思っていましたが、かなりのアップダウンを繰り返し、結局約50分のかなりきついコースでした。でも静かな山道を、夫と二人で散策でき、いい安息日の午後の過ごし方だと思いました。そして思い出したのは、私が小さいころ過ごした安息日の午後の風景です。その頃は、礼拝が終わって、昼食をすませると、病気の人をお見舞いしたり、教会の人たちと一緒に散歩に行くのが習慣でした。自然の中で、神様の創造の御業に触れることができたのは、子供時代の私にとっては、とてもいい安息日の午後の過ごし方だったと思います。最近は教会でも、午後は忙しく、役員会だの、行事だのであわただしくしていることが多かったので、今日のような安息日は、とても印象に残るものでした。

   新生の証拠(デビット・カン講演27)

『各時代の希望』下巻150頁ですが、このように書かれています。「すべての真の服従は心から生まれる。キリストにとってそれは心の働きであった。もしわれわれが承知するなら、キリストはわれわれの思いやこころざしと一体となり、われわれの心と思いとをひとつにしてご自分のみこころに一致させてくださるのである。キリストに従うときに、われわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない」。
最後の部分ですけれど、「キリストに従うときにわれわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない」とあります。私たちが何か失敗した時に「なんでこんな事をしてしまったんだろう。もっとうまくやれたはずなのに、次はもっとうまくやろう」と・・・。そういうやり方が習慣づけられてきているわけです。証の書を研究して、イエス様の義を心に受け入れるとはどういうことか学んできてわかってきたことは、とても大事なことなのですが、私たちの持っている『スタディーバイブル』の「コリント第2の手紙5章17節」の解説にこうあります。「新しい誕生は、新しい動機、新しい好み、新しい傾向を持つことから成り立つ。聖霊によって新しい命を与えられた人々は、神性を授けられた者となったのであり、彼らはすべての習慣や行いの中に、キリストとの関係の証拠を見せるのである」
イエスキリストの義を私たちが受け入れる時、このようなことが起こります。「新しい誕生は、新しい動機、新しい好み、新しい傾向を持つことから成り立つ」




主は我らの義(デビット・カン講演26)

2012年10月12日 | 日記



   ひまわりさんより(10月12日)

今日は、長男の誕生日でしたが、同時に、夫が今の職場を退職しました。先週は同じ職場の方たちが送別会を開いてくださり、素敵な花束を下さったのですが、今日は、リハビリ科の方たちが、すばらしい花束を下さいました。夫にとっては約5年間の職場でしたが、多くの方々に支えられてきたことを感じました.また、皆さんが、寄せ書きを書いてくださったので、それを読ませていただきましたが、とても心のこもった内容で、このような方々と一緒に仕事ができた夫は、幸せだったのだなあと思いました。なお、夫は15日から、新しいデイサービスの責任者として働くことになっています。(写真は夫が今日いただいた花です)




  キリストの義に信頼する(デビット・カン講演26)

取税人は神さまの憐みを求めました。そして、使徒パウロも、神様の憐みによって救われると言います。神様はどのようにして、ご自分の憐れみによって私たちをお救いになるのでしょうか。これこそ神の恵みによって義とされるということであります。神の憐みによって再生の洗いを受け、聖霊により新たにされてとありますが、『艱難から栄光へ』の下巻にはこのように書かれています。
「使徒や預言者たちの中には、だれも罪がないと主張した者はいない。神に最も近く生きた人々、知っていて悪いことをするよりはいのちを犠牲にしようとする人々、神が聖なる光と権能をもって賞賛した人々は、自分たちの性質の罪深さを告白してきた。彼らは自分自身に信頼せず、自分の義を主張せず、キリストの義を深く信頼した」(『艱難から栄光へ』下265p)
使徒や預言者たちの中には、誰も罪がないと主張したものはいない。そういった人たちの中で、自身の義を主張した人はいないというわけです。ホワイト夫人によりますと、彼らはキリストの義に深く信頼したとあります。




主は我らの義(デビット・カン講演25)

2012年10月11日 | 日記




    ひまわりさんより(10月11日)

日曜日に「ふくらはぎマッサージ」の講習に行って以来、我が家ではふくらはぎマッサージのブームが起きています。同居の二男は、若いのに肩こりや、鼻炎がひどく、寒がりでした。最初は乗り気ではありませんでしたが、無理やりやってやると、まず、耳たぶが赤くなり血行が良くなってきました。ホットパックの後、ふくらはぎマッサージをやって、終わったら、本人は、「肩がグルグル回るようになった。すごい」といって喜んでいました。左利きの彼は、左肩が良く動かなかったのですが、30分ほどのマッサージで、肩が動くようになったのです。効果がすぐあらわれて、やる気が出てきたようです。ところで、このマッサージをやっていると、今まで気付かなかった自分の体のことに、気付かされるようになってきます。私は今まで、よく足がほてっていたので、自分が冷え症などとは思ってもいませんでした。夏などはアイスノンなどを足に貼って寝るようでした。しかし、実は、足があついのは冷え症のせいで、足だけがほてっていて、他の所は冷たかったのです。それから次に、頭の位置がすごく悪いということが分かりました、私は、歩く時や、話すときに、あごをあげていたのです。その方が頭が疲れないので無意識のうちにその様な姿勢をとっていたのですが、このマッサージをするうちに、姿勢が悪いことに気づかされ、なおすように努めています。



      義は賜物か服従の結果か(デビット・カン講演25)

ローマ人への手紙3章24節をお読みします。
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。義というのは、すべて神様からの賜物であります。次にローマ5:17をお読みします。「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか」。 義の賜物についてここに書かれていますけれども、先に進みます。イザヤ61:10 「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」
旧約聖書のこの箇所においても、義の衣をまとわせてくださる、それが賜物と書かれていますね。
しかし、問題があります。律法に対する服従によって義とされるのだとするならば、義が賜物であるという概念をどうしたらよいでしょうか。義認を受けるためには神様の律法に従わなくてはいけません。しかし、聖書によると義というのは賜物であるというわけですね。テトス3:5~7を見ますと、「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐものとなるためである」




主は我らの義(デビット・カン講演24)

2012年10月10日 | 日記



  ひまわりさんより(10月10日)

長男の誕生日が明後日12日なので、その日の日課を読んでみました、私にピッタリの言葉でしたので、ご紹介いたします。「わたしは、自分の品性の欠点を正すことはできない、などとだれも言ってはならない。そう思い込んでしまえば、決して永遠の生命を受けることはできない。不可能であるということは、自分の心の中で、そう思ってしまうからである。勝とうと思わなければ、勝つことはできない。心が清めを受けずに汚れていることと、神の支配に喜んで従わないことからほんとうに困難なことが生じるのである。…人間は、自分が定めた標準以上には出ることができないことを記憶しなければならない。そこで、どんなに苦しく、克己と犠牲が要求されるときにも、標準を高くし、進歩の階段を登らなければならない」(『キリストの実物教訓』) ここにある、高い標準というのは、罪の除去ということで、「しみもしわもそのたぐいのものがいっさいない」という、これ以上ない高い標準だと思います。この高い目標を目指しているのが、私たちSDAなのです。


   取税人の祈り(デビット・カン講演24)

では、取税人の祈りはどういうものだったのでしょうか。単純なものでした。二つのことを彼は悟っていました。「神様、私は罪人です」。神様の目から見たら、取税人もパリサイ人も、違いはなかったのです。しかし、取税人は自分が罪人であることを悟っていました。
もう一つ、彼は自分の力では義を行うことはできないと悟っていました。そこで、神様の憐みを乞い求めたのです。
このような形で、私は永遠の福音を、23年間説いてきました。結構な年数ですね。これはすなわち、1888年の「信仰による義」のメッセージなのです。そして、永遠の福音を説くことに努めてきました。そして、永遠の福音を説けば説くほど、自分のエゴがどんどん小さくなってきました。私という人間がどんどん小さい者になっていくということですね。私たちが、なかなか立派な行いをしていたとしても、時々つまずいたり、時には、大失敗をしたりして、転ぶことがあります。そして、過去の立派な行いが帳消しになってしまうことがあります。そういう経験をしたことがありますか。私だけでしょうか。義なる者になるということは、イエス様に心に入っていただいて、イエス様に心の中で生きていただくことなのです。




主は我らの義(デビット・カン講演23)

2012年10月09日 | 日記



   ひまわりさんより(10月9日)

私は、よく物忘れをするくせに、物が見つからないとイライラして、見つかるまでは気持ちが落ち着かない性格です。今日の朝、出がけに腕時計がないことに気がつきました。時間がないので、必死であちらこちら探したのですが見つかりません。そういえば昨日職場で時計を貸したので、返してもらっていないのかもしれない、と思って探すのをやめて職場へ出かけました。そして、職場でその人に聞いたら、「昨日返して、腕にはめているのを見ましたよ」と言ったのです。そのときも、一瞬、「そういうけど、この人は忘れているんじゃないかしら」、と自分を正しいとして思ってしまいました。そして、こんなことなら一度家に帰って、見つかるまで、探してみようかしらと思ったのです。でも、まてよ、こんなことでイライラしているのは、イエス様の精神ではないな、このような心でいるのはよくないなと思うようになりました。そして、物のことで心を動かされるのはおかしい、物はいつかは消えていくのだから、それよりもイエス様の品性、永遠に続くものに心を向けよう、と思いました。そうするとイライラは消え、1日平安に過ごせました。それから家に帰って、最初に、いつもメガネを収めている縦長のケースにメガネを入れようとしたら、その下の方に時計が入っていました。自分の性格のおかしさに気づかされ、大切な学びをすることができたと思いました。




    義は自分の立派な行いではない(デビット・カン講演23)

ルカ18章に、取税人とパリサイ人の祈りが書かれています。パリサイ人は、自分が邪悪な、罪深い者でないことを神様に感謝しました。たとえば、こういう祈りですね。「神様、私は健康メッセージを信じています。このような者になれたことを感謝します。私は什一献金をささげていて、いろんな諸献金もささげています。私は妾とか持っていません」。
このパリサイ人は、自分が習慣、伝統に従って忠実に正しく生きている、だから自分は義なるものだと心から信じていたんですね。一方、取税人は離れて立って、このような祈りをささげました。「神様罪人の私をお許しください」と。
この聖句を、単純に説明したいと思います。実は、今でも、自分の義に頼っている多くのパリサイ人が存在するのです。いいものを食べ、いいものを飲んで、什一を忠実にささげて、夫婦げんかもしないで、短気を起こさないで、教会で人にもやさしく接して、公衆の前で悪い態度をとらないでいるとき、「最近自分はなかなかいい生活をしているぞ」と思うようになり、自分は神様の厚意を受けるに値すると、そのように感じたならば、そのあなたこそが、現代のパリサイ人なのです。
罪や過ちを犯してしまった時あなたはどうしますか。そういう人は自分が良くなったと感じるまで待って、神様に受け入れられると思ったら、神様のもとに行こうとします。何か間違いを犯してしまったとします。短気を起こしてしまったとします。誰かとけんかをしたとします。教会の理事会でけんかをして人とぶつかったりして、面目を潰してしまった、或いは、何か見てはいけないものを見たとします。そういった形で失敗したとします。そういう時どうしますか。お祈りをしなくなりますね。そして、しばらく待って、神様の厚意を受けるにふさわしくなってから、神様のもとにきてお祈りをする、このようにやっていませんか。多くのSDAのクリスチャンが、自分の義は、自分の義なる行為、立派な行いとかにかかっていると、実際には考えています。