
ひまわりさんより(10月13日)
今日の安息日の午後は、家から5分ぐらいの所にある県民の森へ出かけました。前から、県民の森があることは知っていましたが、行くのは初めてで何があるのかも知りませんでした。行ってみると、広い芝生広場や、バーベキュー場があったりして、とてもいい所でした。芝生広場の端っこに、森林浴の遊歩道があったので、坂道を登ってみることにしました。尾根伝いに整備された山道があり、ところどころに、アスレチック広場があったり、野鳥観察小屋があったり、展望台があったりして、興味深いコースでした。最初の印象では、せいぜい10分か20分も歩けば元の所へ帰れるかと思っていましたが、かなりのアップダウンを繰り返し、結局約50分のかなりきついコースでした。でも静かな山道を、夫と二人で散策でき、いい安息日の午後の過ごし方だと思いました。そして思い出したのは、私が小さいころ過ごした安息日の午後の風景です。その頃は、礼拝が終わって、昼食をすませると、病気の人をお見舞いしたり、教会の人たちと一緒に散歩に行くのが習慣でした。自然の中で、神様の創造の御業に触れることができたのは、子供時代の私にとっては、とてもいい安息日の午後の過ごし方だったと思います。最近は教会でも、午後は忙しく、役員会だの、行事だのであわただしくしていることが多かったので、今日のような安息日は、とても印象に残るものでした。
新生の証拠(デビット・カン講演27)
『各時代の希望』下巻150頁ですが、このように書かれています。「すべての真の服従は心から生まれる。キリストにとってそれは心の働きであった。もしわれわれが承知するなら、キリストはわれわれの思いやこころざしと一体となり、われわれの心と思いとをひとつにしてご自分のみこころに一致させてくださるのである。キリストに従うときに、われわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない」。
最後の部分ですけれど、「キリストに従うときにわれわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない」とあります。私たちが何か失敗した時に「なんでこんな事をしてしまったんだろう。もっとうまくやれたはずなのに、次はもっとうまくやろう」と・・・。そういうやり方が習慣づけられてきているわけです。証の書を研究して、イエス様の義を心に受け入れるとはどういうことか学んできてわかってきたことは、とても大事なことなのですが、私たちの持っている『スタディーバイブル』の「コリント第2の手紙5章17節」の解説にこうあります。「新しい誕生は、新しい動機、新しい好み、新しい傾向を持つことから成り立つ。聖霊によって新しい命を与えられた人々は、神性を授けられた者となったのであり、彼らはすべての習慣や行いの中に、キリストとの関係の証拠を見せるのである」
イエスキリストの義を私たちが受け入れる時、このようなことが起こります。「新しい誕生は、新しい動機、新しい好み、新しい傾向を持つことから成り立つ」