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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演32)

2012年10月18日 | 日記



    ひまわりさんより(10月18日)

私の職場では、市の委託を受けて、「元気向上プログラム」というのをやっています。今日は13回にわたって行われた講座の最終日でした。私は看護師として、1回だけ鬱予防についてお話ししました(9月20日の記事紹介)。今日、その修了式で挨拶をすることになり、「みなさん、今回の講座はいかがでしたか」と聞いてみたら、一番前にいた女性が、すぐに「笑顔の話が良かった」とにこにこしながら言ってくれました。「良かったから、畑に行って朝日にあたって大きな声で笑っている」ということで、友達にもすすめているそうです。それから、最後に皆さんの血圧測定をしている時、「ふくらはぎマッサージはいかがでしたか」と聞いたら、一人の男性が、「おお、やってるよ。こりゃいいよ。元気になるよ。肩もめだの腰もめだの言われるとできないけど、ふくらはぎなら一人できるから、毎日やってるよ」と言ってくれました。1か月ほど前に話したことを、ちゃんと聞いて実行して、いい結果を報告してくださる方がいて本当にうれしくなりました。

 愛を得る方法(デビット・カン講演32) 
 
その時になって倒れて、失敗して、罪を犯してしまうなら、もう望みはありません。印される経験というのは、もう、深くイエス・キリストに恋する経験です。私たちの品性に、神様の御かたちが刻み付けられる経験です。それは、時には痛みも伴います。いろいろな、余計なものを神様は取り除こうとされます。それは、切り刻まれる経験でもあります。私たちの経験、苦しみを通して、試練を通して、神様の御かたちが刻みつけられていくのです。
愛を祈り求める時に、神様はかえって敵を私たちに送られます。そうすることによって、神様は愛について教えてくださるんです。忍耐を下さいと祈り求める時に、神様は、いろんな悩ましい経験が起こることをお許しになります。印する働き、神の印というのは、過程、プロセスなのです。ですから、私たちは、今現在も、印されつつあるのです。




主は我らの義(デビット・カン講演31)

2012年10月17日 | 日記



  ひまわりさんより(10月17日)

今日の祈祷会では、エレン・ホワイト著『各時代の大争闘』下巻を読みました。その中に、とても大切なことが書いてありました。「キリストが地上にくだって苦難と死を受けられたのは、ただ人類の贖いを成し遂げるためだけではなかった。キリストは「律法を大いなるものとし」(英語訳)これを「光栄あるものとする」ために来られたのである。この世界の住民が律法を正しく認識するようにするだけでなく、神の律法が不変なものであることを、宇宙の全世界に対して証明するためであった。
多くの教会では、イエス様の十字架の出来事は、完全であって、これで十分だ、と教えられているそうです。それは聖所の働きの中の、外庭の経験であって、その後、聖所の中へ入る経験、そして、恥じるところなく律法の前に立つことができるようにされる経験が必要なのです。

    仲保者なしの経験(デビット・カン講演31)

私たちが印されたあとで、全部の人が印されたら、恩恵期間が終了します。その間に、後の雨、大いなる叫び、迫害とか、様々なことが起こります。そして恩恵期間がとうとう終了した後で、神様は私たちが試みられるために、悪魔に手渡されるのです。その時に「ヤコブの悩み」と呼ばれる悩みの時に私たちは投げ入れられることになっています。
それがどういう意味か、皆さん理解しておられるでしょうか。詳しい内容については、明日の午後話そうと思っていますが、これは極めて重要な、私たちが理解していなければならない点です。イエス様の義が、私たちの義となっているということについて、私たちは理解していなければなりません。そうするときに、やがて私たちは、仲保者なしに神様の前に立つことができるのです





主は我らの義(デビット・カン講演30)

2012年10月16日 | 日記



  ひまわりさんより(10月16日)

今日の日課の言葉がとても心に残りましたので、ご紹介させていただきます。『キリストがお赦しになるように、赦されるということは、単に許されることではなく、わたしたちの想いの霊をあらたにしていただくことを意味している。主は「わたしは新しい心をあなたがたに与える」と仰せになる。キリストのみかたちが、まさに思いと心と魂に押されなければならない。使徒は、「わたしたちはキリストの思いを持っている」と言っている。神の力を通してのみもたらされる変化の過程がなければ、罪に対する生来の性向は、力が余すことなくそのまま心の中に残され、新しい鎖をつくり出して 、人間の力では決して破ることのできない奴隷の状態にしてしまうのである』。
私は以前、教会の人が、「イエス様によって罪を赦していただきました」などというのを聞いて、何か自己愛っぽい言い方だなあ、イエス様の赦しってそんなレベルなんだろうかと思っていました。しかし、今日の読み物にもあるように、私たちの心が新しくされること、イエス様の品性が形作られるようにしてくださること、罪に勝利することができること、そのようなイエス様の力を体験することができることを含めて、イエス様の赦しなのだということがわかって感謝になってきました。


    自分の義でキリストを証する(デビット・カン講演30)

その時には、イエス・キリストの義が私達をおおってくださることはなくなります。「あなたの義」「私の義」なんです。それはどういうことかと言いますと、心のうちにイエス様の義をたえず求め、受け入れてきたからなのです。そうすることによって、その経験のうちに私たちは印されるわけです。真理に深く根づいていくわけです。そうすることによって、私たちは動かされることがなくなります。もう、長い時を経て、一貫して得られた経験によって、それが確立されていくんですね。瞬時の経験ではありません。ですから今、その経験を持つことが必要なのです。恩恵期間が終了してからは、私たちが自分で立って、全宇宙に証をする時であります。私たちの生き方を通して、神様が救いの力を証しなさいます。




主は我らの義(デビット・カン講演29)

2012年10月15日 | 日記


   ひまわりさんより(10月15日)

11日に書きましたが、私は ふくらはぎマッサージをすることを通して、自分の姿勢の悪さ、特に、頭の位置が悪かったことに気づかされました。そこで、意識して顎を引き、背中と頭を壁につけたように真っ直ぐな姿勢でいるようにしました。そうすると、今まで私は、首が痛くて左右に振り向くことができなかったのですが、痛みなく振り返ることができるようになってきました。また、顎を引いて話をすると、不思議に、「どうもすみません」という謙虚な気持ちになりやすいのだということも発見しました。顎をあげて話すと、なんとなく「ふん、なによ」という気持ちになるのに対して、顎を引くだけで低い気持ちになれるように思いました。本当だろうかと思われる方は、ぜひお試しください。


   自分の義で救われる(デビット・カン講演29)

ある教会員が私のところに来て、「カン先生、私の家内はとても敬虔な人間なんですよ。素晴らしいクリスチャンです。私はまだそういうものにはなっていないんですが、私は彼女をきちんと支えて、助けているので、彼女が天国に行く時、私は彼女のスカートの裾につかまっているだけでいいと思います。私は彼女を助けていますから。彼女に親切にしていて、好意的ですから。神様はその事をよく理解してくださると思います」。
 ところが、この証の書によりますと、誰も自分の義で他の人を救うことはできないとあります。これは本当に衝撃的な言葉だと思います。自分たちの義によって、自分の命を救いうるのみであると、エゼキエルの言葉にあります(エゼキエル14:14)。ここには、あなた自身の義によって、私自身の義によってとあります。覚えていただきたいのは、ここで、イエス・キリストの義によってと書かれてはいないことです。ちょっとおかしいのではないでしょうか。これは、イエス・キリストの義が私の義となってくださるということではなかったでしょうか。ですから、多くの、セブンスデーの神学者でさえ、この引用文を読んで、これは律法主義だというわけです。しかしここに描かれていることは、恩恵期間が終了した後の事なのです。




主は我らの義(デビット・カン講演28)

2012年10月14日 | 日記




    ひまわりさんより(10月14日)

今日は、知り合いの人のお兄さんの所へ、「出張ふくらはぎマッサージ」に行ってきました。この方は、5か月間の入院生活のあと、足が立たなくなり、とても困っておられるということでした。介護3ということでしたが、介護4でもいいぐらいに弱っておられました。糖尿病のため、左足の親指は少し紫色に変色していて、氷のように冷たく、筋肉もほとんどないぐらい痩せておられたので、足湯やホットパックを使い、それから軽いマッサージと、オイルマッサージを行いました。やっているうちに、「足がぽかぽかしてきて、とても気持ちよくなってきた」と言われました。マッサージのやり方を、奥様にも話してきましたので、やってあげられたら、いい結果が望めるのではないかと思いました。



   大いなる悩みの時に立つ信仰(デビット・カン講演28)

『キリストの実物教訓』にはこうあります。「聖霊の働きによって魂が清められるということは、キリストの性質を人間の中に植えつけることである」361p・
ローマ8:14 「すべて神の御霊に導かれているものは、すなわち、神の子である。」
この聖句の最後の部分ですね。「すべて神の御霊に導かれているものは、すなわち神の子である」とあります。どういう意味でしょうか。ここに衝撃的な言葉があります。『各時代の大争闘』下巻396~397ページにある言葉ですが、これは皆さんにとって極めて必要な言葉だと思いますので、しっかりと読みましょう。「かつてなかったほどの悩みの時が、まもなくわれわれの前に展開する。それだからわれわれには、一つの経験――今我々が持っておらず、また多くの者が怠けて持とうとしない経験――が必要なのである。現実の困難というものは、予想したほどではないということがしばしばある。しかし、われわれの前にある危機の場合は、そうではない。どんなに生々しく描写しても、この試練の激しさには、とうていおよばない。この試練の時に、人間は、みな、自分で神の前に立たなければならない。『主なる神は言われる、私は生きている、たといノア、ダニエル、ヨブがそこにいても、彼らはそのむすこ娘を救うことができない。ただその義によって自分の命を救いうるのみである』」。