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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演22)

2012年10月08日 | 日記



    ひまわりさんより(10月8日)

栗のおいしい季節になりました。スーパーには栗が売られていて、秋になったなーと感じさせられます。利用者さんから教えていただいた、栗の保存法をやってみたら、去年の秋のものが今年のお正月まで栗ごはんとして、おいしく食べることができました。その保存方法をお知らせいたします。まず、栗は皮をむき、それを酢水にサッと浸け、ざるにあけます。次に、それを1回分に小分けして冷凍します。冷凍した栗を、栗ご飯にする時は、凍ったまま炊飯器に入れて栗ごはんにします。これだけで、おいしい栗ごはんが出来上がります。今年の分は、今から皮むきです。

    キリストの義は力(デビット・カン講演22)

どれほど皆さんの心が悪に染まっていたとしても大丈夫です。どれほど罪深い生涯を送ってきたか、皆さんが親や先祖からどんな悪の傾向を引き継いできたか・・・。ある人は、親がアル中だったかもしれません。とてもヒステリーのお母さんだったかもしれません。そんなことは、どうでもいいんです。皆さんが信仰によってイエス・キリストの義を受け入れるならば、そのみ言葉が力となって働きます。イエス様を心に受け入れ、心に入っていただくとき、約束のみ言葉を受けることになります。それが心の中で力を発揮するのです。
このことについて、実際の経験を皆さんに幾つも幾つもお話することができます。例えば、私があまり好きでない人と関わる時に、また誰かによって、何かによって、ある衝動に駆られたとします。その時、私はすぐにイエス様の義に頼ります。では、どのようにして私たちは、神様の義を受けることができるのでしょうか。






主は我らの義(デビット・カン講演21)

2012年10月07日 | 日記




  ひまわりさんより(10月7日)

4日に紹介しました、ふくらはぎマッサージの講習に行ってきました。今回はたまたまこの講習会の様子をNHKテレビが取材に来ていました。その様子は10月10日(水曜日)午後5時からの「ゆうどきネットワーク」で6分間ぐらいの番組として紹介されるそうです。わずか2人の講習会参加者でしたが、NHKの取材チームは、音声、カメラ、スタッフ3名と、5名の人が来ており、今日だけでなく、2日にも取材をし、今日も朝8時から取材をして、最終的に今日の講習会の様子を取材に来たのです。わずか6分の番組なのに、これだけの時間をかけてテレビの番組が制作されているのだと知って正直驚きました。私たちが目に見ているものの裏には、目に見えないたくさんのことがあるのだと、あらためて思いました。(上に紹介した彼岸花は、先週の安息日に集会室に飾ったものです。ちょっと色があせ気味ですが・・・)

  創造の力を体験することが信仰による義(デビット・カン講演21)

花を見る時に、何が見えますか。そこに、創造の力を見ることができるのです。動物を見る時、何が見えますか。創造の力が見えるのです。心臓の音を感じる時に何を見ますか。そこに創造の力を見ることができます。すべてにおいて、創造の力を信じるということです。それを表明するんですね。どのようにして? 安息日を守ることによってです。文字どおり1日24時間の6日間で、この天地万物が創造されたと私は心から信じています。そしてすべての物が神様の言葉によって造られました。神様の言葉には創造の力があるのです。ですから、私たちが神様の約束を受け入れる時、神様のみ言葉を受け入れる時、そのみ言葉が私どもの心の中で力を発揮します。それを経験するならばそれこそが 永遠の福音なのです。これこそが信仰による義なのです。
私は神様の力を信じています。神様の可能にしてくださる力を信じています。神様がこの土の器に息を吹きかけられると、それは生きた魂となります。これが義であります。それを私たちが経験する時にそしてその時に、主は私の義ということができるのです。





主は我らの義(デビット・カン講演20)

2012年10月06日 | 日記


 
  ひまわりさんより(10月6日)

今日の安息日は、我が家のホームチャーチで、デビット・カン先生のビデオを見て礼拝をしました。ここへきて3か月になりましたが、感謝なことに、毎安息日、集会室に飾る花が、必ず庭のどこかに咲いています。今日は、ムクゲと季節外れの八重のヤマブキ、これも季節外れのツツジ、それにカキの実を飾ることができました。ささやかな花たちですが、これも神様の祝福と思って感謝しています。それから、今日は、夫が、今の職場を退職することになり、同僚たちが送別会を開いてくれました、その時、記念にといって、素敵な花束を贈ってくれましたので、それも紹介させていただきます。

  信仰による義の真の意味(デビット・カン講演20)

たしかに、「私のためにイエス様は十字架にかかってくださった」ということを、私たちは受け入れています。それだけではなく、今現在の、私の救い主として受け入れるのです。そうすることによって、今日の、私の現在の状況をイエス様が助けてくださいます。それ故に、私は、私の義としてイエス様を受け入れるのです。イエス様だけが、人として義なる生涯を全うされた方であります。私たちは不義なる者です。自分の努力で義を作り出すことは、決してできません。それを試みるなら、必ず失敗します。それは不可能だからです。ではどのようにして、義なる者となるのでしょうか。イエス様に心に入っていただくことによってです。誘惑がやってきたとき、私の自我、罪深い性質もそれに反応します。私たちは外からも、中からも誘惑を覚えるわけです。その時、イエス様を私の義として心に入っていただくのです。そうするときに、私のエゴ、自我はなくなっていきます。(下線部は意訳しています)
韓国に行ったら、「自分たちは永遠に救われた」と称している人たちがいるそうです。「もう救いは決まっているんだから、悔い改めは必要ない。2000年前に私の罪の問題は十字架上で解決された」、と言います。「もう、未来に犯すであろう罪も解決済みだ、イエス様が2000年前に十字架上で死なれた故に、すべて解決済みだ。だのに悔い改めの祈りをやり続けるなら、それは不信仰だ」というわけですね。「もう悔い改める必要はない、永遠に救われているんだから」。 このような言い方は、信仰による義の、本当の意味を理解していないのです。信仰によってイエス様を受け入れるというのは、イエス様が私たちの心のうちに創造の力を発揮して下さることなのです。





主は我らの義(デビット・カン講演19)

2012年10月05日 | 日記




  ひまわりさんより(10月5日)

今日の日課の言葉です。「過労は時々自制心を失う原因となるが、主は決して急いだ複雑な働き強いたりはされない。多くの人は、憐れみ深い天父が彼らに授けられていない重荷をかき集めている。私たちがあまりに多くの重荷を背負うと、私たちに過度の負担がかかり、心が疲れ、頭脳がつかれて苛立ち、がみがみ言うようになって、神のみ名に栄光を帰さないということについて、私たちが気づくことを神は望んでおられる。私たちは、主を信頼しつつ、私たちの心を純潔でやさしく思いやり深く保ちながら、主が私たちにお与えになる責任だけを担うべきである」。
私は、この11月から、新しい仕事を始めますが、張り切りすぎて、あれもこれもと手を広げないようにしなければと思いました。


    イエスは私たちの主(デビット・カン講演19)

イエス様が私たちの主となっていただくとはどういうことでしょうか。自分自身を塵に伏させるということです。自分自身の栄誉、栄光を塵に伏させるということです。完全に屈服するということです。そして、自分自身を神様にささげるということです。そして、神様の前に告白します。「主よ、私にはできません。しかし、あなたはおできになります。ですから、わたし自身を土の器としてあなたにおささげします。どうぞ私の心の中に入ってきて、私の品性を形作ってください。そして、あなたの命を、私のうちで生かしてください」
時々私は、単純な歌を歌います。「今日、私の心の中に入って、とどまってください」という歌です。主なる神様だけが、私の救いの可能性なのです。





主は我らの義(デビット・カン講演18)

2012年10月04日 | 日記



 ひまわりさんより(10月4日)

先週の日曜日、私はお茶の水にある『心身健康堂』の「ふくらはぎマッサージ」を受けに行ってきました。自分の訪問看護でも、ここのパンフレットを参考に、利用者さんにやってあげたら、それまで、足がむくんでいて、だるくて身の置き所がない、夜眠れない、イライラして人に八つ当たりする、そんな症状の人が、まず眠れないと言わなくなり、それからだるいと言わなくなり、イライラしなくなり、感謝を言うようになり、足のむくみがすごくよくなってきたのです。ただパンフレットを見て、見よう見まねでやっただけなのにこんなに良くなったのなら、本家本元に行って、もっと勉強したいと思って行ってみました。そうしたら、その先生と意気投合してしまいた。この「ふくらはぎマッサージ」の発端は、ある外科医の先生の救急医療の現場で、どうしても点滴がはいらなくて困っていた時、何とかしてあげたいと思ってふくらはぎをマッサージしたところ、点滴が良く落ちるようになったところから始まったというのです。困った人のために何とかしてあげたいと気持ちが、新しいアイデアを生むことは、私も何度も経験しています。その心意気が大切なのだと思いました。そのことを先生に伝えたら、先生も、「そこなのよ!」と言ってくださり、意気投合したのです。そして、今度は、このマッサージを、他の人にやってあげるための講習を、今週の日曜日に受ることにしました。そしたら、今日、先生から電話がかかってきて、この講習会の様子をNHKテレビが取材することになったので、よろしく頼むという連絡がはいりました。思いがけないことですが、これも何かのお導きかもしれませんので、取材の結果をそのうち報告できるかもしれません。



   キリストを受け入れるとは(デビット・カン講演18)
  
多くのクリスチャン、神学者、牧師たちは、このような解釈をします。「イエス様は、私のために完全な生涯を送られた。私のために、イエス様はすべての罪に勝利なさった。彼は完全であられた。完全に義なるおかたであった。イエス様を個人的救い主として受け入れる限り、彼の義が私の義とみなされるようになる。それは無償の賜物である」と・・・。ある意味でこれは正しい教えですけれども、しかし、本当の意味で、イエス様を個人的救い主として受け入れるということを理解していないのです。このことは、単なる概念、知識ではないのです。イエス様を受け入れるということは、イエス・キリストが私のうちに生きるということなのです。私の主として、心の中に生きていただくことなのです。私の心を、私のすべてを支配していただくことです。私の生涯の、瞬間、瞬間を支配していただくということなのです。