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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演36)

2012年10月22日 | 日記



    ひまわりさんより(10月22日)

今日は、夫が新しく勤めだしたデイサービスで、枝豆採りの行事があったそうです。とてもたくさんの収穫があって、400g150円で2袋家にも買ってきてくれました。この豆は、丹波の黒豆の種類で、大きくてとてもおいしいものでした。みんなで分ける時、職員の中に、犬が好きなのでと言ってたくさん買って行った人がいたそうです。その犬はダックスだそうですが、うちのジョイも食べるだろうかと思って、いつものご飯に豆を混ぜてやったら、ペロリとたいらげてしまい、ジョイも枝豆が好きなのだと思いました。




    創造の力を経験する(デビット・カン講演36) 

神様がその創造の力を発揮されます。私を造り変えて、再創造を行われただけではなくて、常に、これからも私に力を与えてくださいます。私が誘惑されたとき、時にはそれに勝利する力がないときに、自分が弱い者で、その誘惑に負けてしまいそうになる時に、私は直ちに叫びます。「神様、あなたは私の義なる方であります。あなたの動機を私のうちに植えつけてください。聖霊の動機を、望みを、私の心に湧き上がらせてください。私にはできません。しかし、あなたはおできになります。神様、どうぞ私を救ってください。あなたの義が私に必要なのです。パリサイ人の義は私には必要ありません。あなたの完全な義を私は必要としております」。
このように、私たちが神様の御前に屈服するとき、義なる神様がこの私の義となってくださいます。それは奇跡ですね。この奇跡を、皆さん経験しておられますか? 皆さんの生涯において、生活において、この神様の創造の力を経験しておられるでしょうか。そして、このことが、安息日を守るということなのです。



主は我らの義(デビット・カン講演35)

2012年10月21日 | 日記
  


   ひまわりさんより(10月21日)

昨日のメッセージで心に残った言葉がありました。詩篇1篇1節「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである」。この聖句には、人が罪に陥る順番が示されていて、まず、罪の道に歩み寄る、近づいていくこと、次に、立つ、立ち止まること、そして座る、罪の前に座り込んでしまう、というものでした。罪に陥らないためには、罪に近づかないことが一番でした。さて、我が家では、先日の台風以来、アンテナが故障したのか、テレビが映らない状態が何日も続いています。今日も夕方時間ができたので、何かやろうということになり、夫が持っていた、介護予防のすごろくを子供と3人でやることにしました。このすごろくは、1つ進むごとに課題があって、童謡を歌いましょう、とか、しりとりをしましょう、春の七草を言いましょう、5秒間大笑いをしましようなど、頭の体操をやりながら進むものです。私がやって一番難しかったのは、右手が勝つように自分でじゃんけんをしましょうというものでした。テレビがないせいで、久しぶりに家族で楽しい時間を過ごすことができました。

   神様の義の証人となる(デビット・カン講演35)

私たちは、すでに救われ、印されているわけですよね。その時に、私たちを通して神様は、救いの力を全宇宙に証明なさるのです。全宇宙の前で私たちは証人となります。全宇宙はこの堕落した人類をずっと見てきました。天使たちもこの地上に注目しています。神様の救いの力を理解しようとしているんです。そして神様は、私たちが、かつては邪悪なものであったにもかかわらず、義なるものになったということを証明しようとしておられます。私たちが、その生き証人となるのです。主なる神が私の義である。彼が私のうちに住んでおられる。神のご臨在、神様が聖霊を通して私のうちに常にとどまっておられる、これが生きた力となります。私ではないのです。




主は我らの義(デビット・カン講演34)

2012年10月20日 | 日記



    ひまわりさんより(10月20日)

今日の安息日は、車で1時間ほどのところにあるI教会へ出席しました。たまたま今日の礼拝者は、霊的で深い説教をされる先生で、とても恵まれました。今日のメッセージで私が感謝したのは、詩篇119篇105節の「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」について、このともしびというのは、自分の足元を照らして、先の方は見えない、それでも一歩一歩神様を信頼して歩むことが大切だ、ということでした。私たち夫婦も、引越しをしたり、職場が変わったりと、本当にこれからの事は全くわかりませんが、神様に信頼して、今日できることを一生懸命果たしていきたいと思いました。また、今日は、イエス様のあがないということについて語られましたが、私は今まで、この、あがないということが、何度も聞いてきましたが、今一つピンときませんでした。先生が、「あがない」というのは、買い戻してくださることで、私たちの命をあがなうために、イエス様は、ご自身の命によって買い戻してくださったのです、と言われ、その時、私の心に「ああそうなんだ」としっくり落ちました。私は、今までに何度も聞いていたメッセージがどうして今日はっきりわかったのか、考えてみましたが、それは、先生自身が、本当に自分の力ではどうすることもできない所に立たされ、そこで、イエス様にあがなわれるという経験をされたからなのだと思いました。あがなわれる、ということが単なる理念や教えではなく、体験されたゆえに、心に入ってきたのだと思いました。

  神の印を受けた14万4千人(デビット・カン講演34)

私たちが印される経験をした後、激しい迫害の嵐がやってきます。14万4千の人たち(黙示録7章、14章)は、SDA の残りの子ら、それとバビロン諸教会から呼び出されてきた、5時労働者と言われる人たちから構成されています。14万4千の人たちというのは、SDA教会の人たちだけで構成されていると考える人もいます。私もそのように長年教えてきました。ところが最近になって、ここ数年において私は考えを変えました。バビロン諸教会に神様が用意しておられる神の民がいるということ。いろんな人たちと私は出会いました。そして、驚きを覚えました。彼らの写真をいくつか今晩紹介できるかもしれません。私たち以外の、日曜教会において神様はご自分の民を備えておられます。そのことを、多くのアドベンチストは理解していません。最近、その人たちに出会う機会がありまして、本当にショックを覚えております。そういった教会には純粋なクリスチャンがおられます。そういった人たちは、正しい食生活、食べ方、飲み方、正しい健康的な生き方をしておられます。そして証の書も好んでお読みになります。実は安息日も守っています。SDA教会に出席していないんですけれども、今まで持っていなかった真理を受け入れる用意のできている人たちです。私たちは、悩みの時を通過するとき、イエス・キリストのようになっていなければなりません。そして仲保者がいなくなっても、立っている状態になっていなくてはなりません。なぜこのことが必要なのでしょう。




主は我らの義(デビット・カン講演34)

2012年10月20日 | 日記



    ひまわりさんより(10月20日)

今日の安息日は、車で1時間ほどのところにあるI教会へ出席しました。たまたま今日の礼拝者は、霊的で深い説教をされる先生で、とても恵まれました。今日のメッセージで私が感謝したのは、詩篇119篇105節の「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」について、このともしびというのは、自分の足元を照らして、先の方は見えない、それでも一歩一歩神様を信頼して歩むことが大切だ、ということでした。私たち夫婦も、引越しをしたり、職場が変わったりと、本当にこれからの事は全くわかりませんが、神様に信頼して、今日できることを一生懸命果たしていきたいと思いました。また、今日は、イエス様のあがないということについて語られましたが、私は今まで、この、あがないということが、何度も聞いてきましたが、今一つピンときませんでした。先生が、「あがない」というのは、買い戻してくださることで、私たちの命をあがなうために、イエス様は、ご自身の命によって買い戻してくださったのです、と言われ、その時、私の心に「ああそうなんだ」としっくり落ちました。私は、今までに何度も聞いていたメッセージがどうして今日はっきりわかったのか、考えてみましたが、それは、先生自身が、本当に自分の力ではどうすることもできない所に立たされ、そこで、イエス様にあがなわれるという経験をされたからなのだと思いました。あがなわれる、ということが単なる理念や教えではなく、体験されたゆえに、心に入ってきたのだと思いました。

  神の印を受けた14万4千人(デビット・カン講演34)

私たちが印される経験をした後、激しい迫害の嵐がやってきます。14万4千の人たち(黙示録7章、14章)は、SDA の残りの子ら、それとバビロン諸教会から呼び出されてきた、5時労働者と言われる人たちから構成されています。14万4千の人たちというのは、SDA教会の人たちだけで構成されていると考える人もいます。私もそのように長年教えてきました。ところが最近になって、ここ数年において私は考えを変えました。バビロン諸教会に神様が用意しておられる神の民がいるということ。いろんな人たちと私は出会いました。そして、驚きを覚えました。彼らの写真をいくつか今晩紹介できるかもしれません。私たち以外の、日曜教会において神様はご自分の民を備えておられます。そのことを、多くのアドベンチストは理解していません。最近、その人たちに出会う機会がありまして、本当にショックを覚えております。そういった教会には純粋なクリスチャンがおられます。そういった人たちは、正しい食生活、食べ方、飲み方、正しい健康的な生き方をしておられます。そして証の書も好んでお読みになります。実は安息日も守っています。SDA教会に出席していないんですけれども、今まで持っていなかった真理を受け入れる用意のできている人たちです。私たちは、悩みの時を通過するとき、イエス・キリストのようになっていなければなりません。そして仲保者がいなくなっても、立っている状態になっていなくてはなりません。なぜこのことが必要なのでしょう。




主は我らの義(デビット・カン講演33)

2012年10月19日 | 日記



 ひまわりさんより(10月19日)

今日は、休暇を取ったので、たまっていた家事をやり、午後からジョイ(愛犬)をドッグランに連れて行きました。ジョイはドッグランへ連れて行くと、いつもは、勝手気ままに走り回り、こちらの言うことなど全く聞かずに好き放題に過ごすのですが、今日は、遠くにいても、手を振って、「ジョイ」 と呼ぶと、私の顔を見てまっしぐらに突進してきました。何度呼んでもそうやって来るので本当に可愛くなりました。十回ぐらいやったら、さすがに疲れたらしく、「ハーハー」やって動かなくなりました。私も、神様から呼ばれたら、まっしぐらに突進していきたいと思いました。

  悩みの時を耐え抜く人々の状態(デビット・カン講演33)

先ほどの、大争闘の引用文の続きを見ますと、このように書かれています。「今、われわれの大祭司がわれわれのために、あがないをしておられる間に、キリストにあって完全になることを求めなければならない」。これはどういう意味でしょうか。完全になるなんて不可能ですよね。神のみ子は天父の戒めを守られました。そして、サタンが自分に有利に活用することのできる罪が、彼の中にはなかったのです。これは大事な点ですよ。SDAの信条について書かれている28項目には、この部分の引用がなされています。ところが、その最後の部分が割愛されているのです。最後の部分がどこか、みなさんご存知ですか。「これが、悩みの時を耐え抜く人々のうちになければならない状態なのである」というところですね。これは強い言葉で書かれています。