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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演41)

2012年10月27日 | 日記



     ひまわりさんより(10月27日)

今日の安息日は、久しぶりに、長男、長女が行っている教会へ出かけました。朝6時過ぎに家を出て、9時少し過ぎに教会へ着きました。まだ集会が始まっていなかったので、1階で待っていると、2階の礼拝堂から、特別讃美歌を練習している、男性コーラスの歌声が聞こえてきました。曲は、「われは明日の日を知らず日々ゆく 晴れわたる空に厚き雲いでん まだ来ぬ未来をわれは恐れじ されど今日の日を主イエスと歩まん われは明日の日を知るをえじとも 明日を知る神はわれを導かん」という讃美歌でした。聞いていると、本当にこの讃美歌の歌詞を、心から信じて歌っておられるのだなあ、という気持ちがして、思わず感動して、涙がながれました。心からの賛美は、突然行った者の心さえ感動させる力があるのだということを感じました。(写真は我が家に咲いたナデシコです)

    イエス様をこよなく愛する(デビット・カン講演41)

私も歳をとってしまいましたが、今でも母親がいなくなったことを寂しく思います。母のそばに座っていたことを懐かしく思い出します。その頃私は、本当に母親のそばで幸せでした。本当に愛されているということを実感できました。偉大な同情を受け、感じることができました。母親には何でも言うことができました。どんなことでも母親に心の内を打ち明けることができました。それが母親です。しかし、私は、その母の愛を通して主イエス様を知るようになりました。人間にすぎない母でさえ、これほどまでに私に愛を注ぐことができたとしたならば、イエス様だったらどうだろうと思うのです。
ですから私はこよなくイエス様を愛します。十字架上のイエス様の死に対して、私が思いをめぐらすとき、瞑想するとき、毎日毎日、イエス様の愛を心から感謝することができるようになります。そうすることによって、私は義なるものにされていきます。イエス様に心の中に入っていただいて、私の義となっていただく、それを私が心から望むとき、そうしてくださいます。これこそが再創造であります。義なるものとなることであります。これが、神の戒めを守るということです。戒めを心から守ることができるようになるのです。戒めを、喜んで自発的に守りたいと思うようになるのです。そのような経験を持つときに、聖霊がご自身の動機、希望を、私たちのうちに植え付けてくださいます






主は我らの義(デビット・カン講演40)

2012年10月26日 | 日記



   ひまわりさんより(10月26日)

今日は、休みだったので、たまっていた家の事をやりました。庭の草取り、肥料やり、金魚の水槽洗い、ジョイのシャンプー、それと、鯉の水槽洗いなどです。鯉たちは、最初の頃は、私が近づくだけで、逃げ回っていましたが、最近は、全然逃げなくなり、今日は私が水槽に手を入れても、むしろ近寄ってくるぐらいで、簡単に網に入れて他の水槽に移し、水槽を洗うことができました。とても、可愛いと思いました。

  イエス様と恋におちいる(デビット・カン講演40)

次に、これは太陽系の写真です。木星、土星、そして一番左側に地球があります。こちらは太陽です。点で示されているのが地球です。太陽は地球よりも100万倍大きいのです。
次の写真。右側の大きい星はアークトゥールスです。その次はポルックスという星、ここに太陽がありまして、もうここまで来ると地球は、点ですらあらわせません。私たちはどれほど大きな存在でしょうか。何ものでもないのですね。無に等しいものです。
次の写真、アンタレスという星がありまして、それからベテルギュースという星があり、ここに点で表されているのが太陽です。ただの点に過ぎないのですね。もうこうなると地球というのはどうなってしまうのでしょう。私たちは無に等しい者ですよ。宇宙というのは本当に広大なものです。私たちの属している銀河系という星雲も、宇宙全体から見たらほんの小さい部分に過ぎません。私たちの住んでいる太陽系というのは、その銀河系の中のほんの小さな部分に過ぎません。その太陽系の中に地球があって、その中に小さな日本という国があって、さらにその中に小さな沖縄という島があるわけですね。その沖縄に小さな名護という町がありまして、それから本部半島が広がって、その中にある小さい建物、その中に私たちが存在しています。
皆さん、私たちはどれほど偉大な存在でしょうか。無に等しいのです。塵に等しいものですね。しかし、イエス様はそのような私たちを愛してくださっています。イエス様がおいでになったとき、全宇宙を通り過ぎて、ここにおいでになりました。たくさんの巨大な星雲あったのに、そこを通り過ぎてこられました。たくさんの太陽や星があって、それらを通り過ぎてこられました。そして、この小さな、汚れた星、地球においでになったのです。それは、私たちの罪を負うわれるためでした。
彼の義とはどのようなものでしょうか。私たちはどのようにして印されるのでしょうか。イエス様の愛によってです。毎日毎日、私たちがイエス様と恋に落ちるときに、そのイエス様の真理に根づくようになって、決して動かされるようなことはなくなります。毎日毎日、神様の払ってくださった犠牲を思うとき、理解するとき、決して彼の側から離れたくなくなります。








主は我らの義(デビット・カン講演39)

2012年10月25日 | 日記



   ひまわりさんより(10月25日)
  
今日は、訪問看護のスタッフとリハの職員に、昨日あったことを話してあげました。ターミナルで無意識状態の人が、ふくらはぎマッサージをすることで、顔が輝いたのです。その話をしていると、聞いている人が「すごいですね」『感動的ですね』「ありえないことですね」と言って、その人たちの顔もまた、輝いていきました。残った全身の力を振り絞った笑顔は、人々に感動を与えるのだと思いました。私たちも、全身全力で力を出し切るような生き方をしたいと思いました。それと今日は、小学校の時からわからないでいたことが、半世紀たった今日やっとわかってうれしくなったことがありました。それは、小学校の時からやっていた、ラジオ体操の歌の歌詞です。1番の後半が、「このかほるかへにひらけよ」と私には聞こえてきて、いったいどんな意味なんだろうと、ずっと分かりませんでした。今も朝の6時半からラジオで体操をやっているので、時々聞いているのですが、歌詞が良くわかりませんでした。今日夫に聞いたら,夫も知りませんでしたが、『インターネットにでているよ』といってすぐ調べてくれました。そしたら、「この香る風にひらけよ」という歌詞だったのです。たわいもないことですが、50年間わからなかったことが分かって、私はすごく感激しました。

 神様のなさるわざに信頼する(デビット・カン講演39)
  
『セレクテッド メッセージ』 第2巻33ページにはこうあります。「我々人間が何をすることができるかに頼るのではなく、キリストを通して神が何をなさることができるかに我々は依存するのである」。
最後に幾つか写真を見せたいと思います。そのあとで讃美歌を歌いたいと思います。なぜ私が皆さんのために歌うかと言いますと、イエス様を愛しているからです。本当に心から愛しています。イエス様が私の救いであります。そのイエス様の愛について皆さんの前で歌いたいと思います。以前はもっと歌がうまかったんです(笑い)。少し喉を酷使してしまいました。説教ばかりしていますから・・・。中国に行った時には夜明けから深夜までぶっ続けで説教をしたことがありました。そういう生活を続けたことによって、歌が上手ではなくなったのです。でも最善を尽くしたいと思います。





主は我らの義(デビット・カン講演38)

2012年10月24日 | 日記



   ひまわりさんより(10月24日)

今日の午後、訪問看護が利用者さんの入院などでなくなってしまったので、主任看護師と一緒に、ターミナルで入院した人を、お見舞いに行くことにしました。この人は、9月11日と10月4日に紹介した人です。ふくらはぎマッサージをとおして、いろんな症状が改善されてきたのですが、脳こうそくを起こして入院してしまわれたのです。病院へ行くと、意識がなくなっていて、あと3日ぐらいしか持たないと言われました。病室では、麻薬を使っている副作用で、無意識に手を払いのけるような動作をし、声をかけても全く反応がありませんでした。主任が一生懸命意識が戻らないか声をかけていたので、私は脳に刺激が行かないかと思い、ふくらはぎマッサージをしました。10分位やっていたら、主任が、「頬が少しピンク色になってきて、呼吸が(不規則な荒い呼吸だったのが)、安定した静かな呼吸になってきましたよ」と言ったのです。主任は、変化が出てきたので、覚醒するのではないかと思って声をかけると、その人は、ぱっちり目を開けて、「わかりますか」と言ったら、にっこり笑って(魂が洗われているというような笑顔で)にっこり笑われたのです。主任は、「○○さんありがとうございました。お疲れ様でした」と言って、泣いていました。しばらくしたら、その人は、両手を胸の前に合わせて、少し首をかしげ、幼子のようないい表情になって、また意識がなくなってしまいました。ステーションに帰ってからも、主任は、私がマッサージしたことで、○○さんにお礼が言えたし、笑顔が見れたし、その笑顔は一生忘れることはできません、と言ってまた泣いていました。

  イエス様に私の義となっていただく(デビット・カン講演38)

『キリストの実物教訓』361ページをお読みします。「聖霊の働きによって魂が清められるということは、キリストの性質を人間の中に植え付けることである」
『各時代の希望』中巻の174ページには、「神様の栄を表そうとする熱心さは、聖霊によって植え付けられる動機であって」とあります。
皆さんは、しばしば失敗していませんか。そうであるなら、イエス様に信頼をおいてください。そして、イエス様にあなたの義となっていただきたいのです。このように祈り求めればいいのです。「あなたの動機と希望を私に植え付けてください。そうしたら私は、あなたの命のうちに生きることができるようになります。あの取税人のように自分が罪人であることを認めます。主よ、どうぞ私を憐れんでください。今日、あなたの思いを、今、私のうちに植え付けてください」。 このような祈りの経験が、私たちのものとならなくてはいけません。





主は我らの義(デビット・カン講演37)

2012年10月23日 | 日記



   ひまわりさんより(10月22日)

今日の日課の言葉をご紹介いたします。「人生に成功する道は、世人がいわゆる小事と名付けていることに良心的に注意を払うことです。小さな慈善行為、自己犠牲の小さな行動、人の助けとなるちょっとした言葉を語ること、小さな罪に注意を怠らないことーーこうしたことがキリスト教です。日々の祝福を感謝のうちに認めること、日々の機会を賢明に活用することーーこうしたことが主の要求しておられるところです」。私はどちらかというと、もう少しきちんとしなければいけないことを、「まあ、いいや」と言ってやらないですますところがありました。小さなちょっとしたことを、そうやってやらずにすます心がいけないのだと反省しました。

  神様の義が私の義となる(デビット・カン講演37)

私たちは、六日かけて、毎日毎日、創造される経験をするわけです。そして第七日目がやってきた時に、神様の安息日に入ります。そして神様のうちに休みます。なぜですか。私たちは新しく作られたものとなったからです。六日間、神の義のうちに生きてきました。何を通してですか。み言葉を通してです。神様の力を通してです。それを通して私たちは、神様の約束を受けるのです。それが文字どおり私たちの義となります。それが私たちに、勝利の手助けをしてくださいます。
私はかつて、妻に対して、自分の主張を押し付ける人間でした。そういった衝動がまた起こってきます。そうするとき私は、「待てよ」、と言い聞かせるわけです。そして神様に心の中で祈ります。「イエス様、あなたが私の義であります。あなたのみ言葉を私は心から愛します。あなたの創造の力に信頼を置きます」。 そうやって祈る時に、私の目に涙がたまってきます。涙をできるだけ隠して、私が誘惑されている、誘惑にあっているということを隠しながら祈ります。そうしているときに家内が私を見るわけですね。その時彼女は、私が祈っているんだということを理解してくれます。そうする時に、彼女も穏やかになります。イエス様が私の義であります。私には立派な品性というものはありません。完全になる力もありません。しかし、神様のうちに休みを見いだします。そうする時に、神様が私のうちに働いて力を発揮してくださいます。そして同時に私達が塵に伏されてされていくわけです。