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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 116

2013年09月19日 | 日記

 

  福音の道しるべ 116

 十四万四千は最終世代であることが、どうして分かるのだろう?「初代文集」の66ページを読むと、十四万四千は死を見ずして天に移される人々であることが分かる。「それから、イエスが火の炎につつまれて、雲に乗っておりて来られたとき、彼の銀のラッパが鳴り渡った。彼は、眠っている聖徒たちの墓をごらんになった。そして、彼の目と両手とを天にあげて、『さめよ、さめよ、土の中に眠っている者たちよ、起きよ』と叫ばれた。すると、大きな地震が起こった。墓は開かれて、死んでいた者たちが、不死をまとって出てきた。十四万四千の人々は、死によって引き裂かれていた友人たちを認めて『ハレルヤ!』と叫んだ。それと同時にわれわれも変えられて、空中で主に会うために、彼らと共に引き上げられた」(初代文集65-66ページ)。この文は、十四万四千が、第一の復活で目覚める聖徒たちの象徴ではなく、その時点で地上に生存している人たちであることを証明している。

 しかし、この数字は、再臨の時に起こる第一の復活ではなく、その直前の特別な復活にあずかる人たちをも含んでいるだろうか?エレン・ホワイトによると、1844年以降、第三天使の使命を受け入れ、安息日を守っていながら墓に下った多くの人たちが、特別な復活にあずかる。この事について、霊感の書はなんと言っているか見てみよう。

 各時代の大争闘下巻412から434ページ(「神の民の救出」という章)には、十四万四千が最終世代、すなわち歴史上かつてないほどの悩みの時を経験する生きた聖徒たちの特別な一団として描かれている。同書の423から426ページには、生きた聖徒たちが、復活した聖徒たちと共に天にあげられる様子が描かれている。新エルサレムに入っていく前に、彼らは門の外でイエスを取り囲み、そこでイエスが彼らに勝利の印章をお与えになる。その後、428から431ページの部分で、十四万四千について、彼女は次のように述べている。「み座の前の、水晶のように透き通った海、あの、火のまじったガラスの海―神の栄光でまばゆく輝いているところの、―の上に、『獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が』集まっている」。獣とその名の数字に勝利する者たちとは、日曜休業〔遵守〕令の迫害を耐え忍ぶ人たちのことではないだろうか?もしそうであるなら、特別な復活でよみがえる人たちがどうして、獣の刻印を拒み、迫害に耐える人たちの中に数えられるのだろう?特別な復活は、これらの出来事の後に起こるのである。

  新生への道 : 献身 ④

 「悔い改めて心を低くしなければ、神に受け入れられたという保証が得られないのは、どうしたことだろう」と尋ねる高慢な人が多くいます。そういう人はキリストを見ていただきたいのです。彼は罪を犯されなかったばかりでなく、天の王子でしたが、人類の身代わりとなって罪人となられました。「とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ53:12)のです。

 私たちがすべてを捧げるといっても、いったい何を捧げるのでしょうか。それは、イエスに清められ、その血によって洗われ、彼の無比の愛によって救われるためにささげる、罪に汚れた心だけです。それなのに人々は、それを捨てがたいと思っています。私はそういう話を聞き、また書くことさえ恥ずかしくなります。

 神は、私たちが持っていて益になるものは、何ひとつ捨てるようにとはお求めになりません。何をなさるにも、いつもその子らの幸福を考えておいでになります。自分が今求めているものよりも、はるかに良いものを神は備えておられるということを、キリストを選んでいないすべての人が悟るように望みます。人は神のみ心に逆らって考え、行動するとき、自分の心に大きな害を及ぼすのです。何が最善であるかを知り、造られたものの幸福を計画しておいでになる神が禁じられる道に、本当の喜びはありません。罪の道は悲惨と滅亡の道です。




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