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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 115

2013年09月18日 | 日記

 

   115

十四万四千に関しては、二つの一般的な考え方が存在する。まず、十四万四千は、アダムの時代以来の贖われた全聖徒の象徴であると説く人たちがいる。この見解は、どんどん広まりつつある。何年か前に、北米の某アドベンチスト大学の神学教授が、アドベンチスト・レビュー誌の中で、この信条を支持する記事を書いた。記事の中で彼は、十四万四千は何も特別な一団ではなく、その一員となるために奮闘努力する必要もない、と述べた。

 神の恵みと聖霊の力によってのみ、十四万四千の役割を果たすことができる。土の器である私たちには何の取柄も力もない。しかし神の力を受けて、おのれの役目を果たす最終世代は、世界レベルを超えた、宇宙規模の戦闘へと突き進むであろう。

 もうひとつの一般に認知されている意見は、十四万四千は時の終わりに生存するが、必ずしも最後の大艱難を通過して、生きたまま天に移される人たちのことではない、というものである。この意見は、地球歴史の終末事件における十四万四千の特別な役割を否定するという点では、最初のものと似ている。

 十四万四千という数字が象徴的なものか字義通りのものかは定かでないが、それは特定の数字であり、この一団が同世代の人たちで構成されていることは、はっきりしている。彼らは特異な一団である必要はなく、「十四万四千」は特徴的な数字に過ぎないという理論は、神の民の準備を妨げるものである。それは、私たちに託された使命の理解を妨げ、心を鈍らせてしまう。


  新生への道 : 献身 ③

 しかし、神に仕えていると公言しながら、自分の努力によって神のおきてに従い、正しい品性を形づくり、救いを得ようとしている人がいます。このような人の心は、キリストの愛に強く動かされたのではありません。天国に入るために神が要求されたものであるからという理由で、クリスチャン生活の義務を遂行しようと努めているにすぎません。そのような宗教は何の役にも立ちません。もしキリストが心に宿るならば、魂は彼の愛と、彼との交わりからくる大きな喜びに満ちあふれて、キリストに結びつき、彼を熟視して自分を忘れてしまいます。そしてキリストへの愛が行動の源泉となります。神の強く迫る愛に感激した者は、どのくらいささげれば神のご要求を満たすことができるか、などと最低の標準を尋ねたりしないで、あがない主のみ心に全く服従したいと望みます。熱心に、希望にあふれてすべてをささげ、彼らが求めている価高いものにふさわしい関心を示します。この深い愛がなくて、キリストを信じると告白することは単なる話だけのことであり、無味乾燥な形式、また重苦しい苦役にすぎないのです。

 あなたはキリストに全く服従することは、あまりにも大きな犠牲と感じられるでしょうか。「キリストは私に何を与えてくださったか」ということを考えていただきたいのです。神のみ子は、すべてのものを―いのちと愛と苦しみとを―私たちをあがなうためにお与えになりました。こうした大きな愛の対象としてはあまりに無価値な私たちが、自分の心を神にささげないでいられるでしょうか。私たちは、生涯の一瞬一瞬、キリストの恵みを受けて生きてきました。私たちは、どのような無知と悲惨のどん底から救われたのかを自覚していないのです。私たちは、自分の罪が刺し通したキリストをながめながら、彼の愛と犠牲を侮蔑することができるでしょうか。栄光の主の無限のへりくだりをよく知りながら、罪との戦いや、自分を低くしなければ命に入ることができないと言って、つぶやいてもよいのでしょうか。



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