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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 75

2013年08月05日 | 日記

  74

キリストの義が罪人を覆うように、香はある意味において、キリストの義の生涯をも表している。キリストのとりなしの結果、罪人が神の御前に立とうと出て行くとき、天父は彼のことを、キリストのような完全な生涯を送った者とみなされる。香の成分は実に独特であった。聖所の香は神聖なものとみなされており、キリストの清く罪なき生涯を表していたので、誰もそれを模造することは許されなかった(出エジプト30:34-38参照)。自分はキリストと同じくらい純潔であると、誰も言うことはできないが、キリストの執り成しがそれを可能にするのである。

 罪祭の血は香壇の四隅の角に塗られたが、それは、悔い改めるすべての人を赦す、すぐにいただける神の恵みを象徴していた。また、香の祭壇を点火するのに、「異火」を用いてはならなかった。外庭の祭壇からの、神聖な火が用いられねばならなかった。この火は、聖所の儀式が始められたときに、神ご自身が起こされたものであり、その火は決して絶やしてはならなかった。人類への神の愛を表す、神からの聖なる火がなければ、カルバリーの贖いの犠牲ととりなしの祈りは不可能となるのであった。神聖な火を起こすことができたのは、神だけであった。


    原稿:職場新聞への投稿より・来たるべき日に備えて  終わりに

 ひるがえって自分自身はどうなのだろう。パウロの言葉に出会って40数年が過ぎてしまった。パウロのように「戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくした」など到底言えるものではない。むしろ、「恥ずべし、痛むべし愚禿鸞」(『歎異抄』)と言わせた親鸞の心境に近い。60歳を越えた今もなお、自分の足りなさ、愚かさを感じさせられる日々である。そんな私にとって慰めとなるのは、冒頭のパウロの言葉の続き、「わたしばかりでなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも(義の冠を)授けて下さるあろう」という言葉である。パウロのように堂々とした生き方でなくても、申し訳なさと恥ずかしさで一杯で、小さくなっているしかな者でも、キリストの来臨を心から待ち望むなら、使徒パウロと同じ冠を授けてくださるという約束である。 (この稿終了)



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