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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 128

2013年10月01日 | 日記

  

   福音の道しるべ 128

「さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」(ヘブル人への手紙11:39-40)。

 

 ここで強調されているのが、完全な最終世代の必要性である。パウロはそのことを、ローマ人への手紙にも書いている。「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」(ローマ8:19-21)。最終世代である十四万四千、または霊的イスラエルが整えられなければ、神は、地上歴史の最終回を締めくくることがおできにならない。再臨が遅れている理由は、他にもあるのか?神は、現代の教会をひじょうに辛抱強く待っておられる。下の引用文は、その事に関する理解を広げてくれる。

「しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人類を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。・・・人間の救いのためにキリストが死なれた行為は、人間が天にはいる道を開いたばかりでなく、神とみ子が、サタンの反逆に対してとられた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった。

 大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた」(人類のあけぼの上巻61-62ページ)。

   新生への道 7 弟子としてのテスト ②

 私たちはどのようにしても自分の心を変えたり、神と調和したりすることはできません。また、自分自身や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神の恵みを宿しているかどうかは私たちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言行動作の傾向によって知ることができるのです。

 別にキリストの力によって新しくされなくても、外見だけは正しい行いをする人がいることは事実です。自分の影響力を高めたい心や、人からよく思われたいとの気持ちから、正しい生活を送ることもできるでしょう。自尊心によって悪と思われることを避けることもあるでしょう。

 あるいは利己主義な人が、情け深い行為をすることもあるでしょう。では、私たちがどちらの側に立っているかを、どんな方法ではっきり決めることができるでしょうか。

 私たちの心を支配しているのは誰でしょうか。私たちは誰のことを考えているでしょうか。また誰のことを話すのが好きでしょうか。私たちが何よりも愛情をささげ、何よりも努力を傾けようとするのは誰のためでしょうか。もし私たちがキリストのものであれば、彼と心をひとつにし、彼を思うのが一番の楽しみとなり、私たちの持ち物も、私たち自身もすべて彼にささげてしまいます。そして主のみかたちに似ることを望み、主の霊を呼吸し、主のみ心をなし、すべてのことにおいて主を喜ばせたいと願うようになります。






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