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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 106

2013年09月05日 | 日記

   

  デビット・カン著 福音の道しるべ  106

 本章では、次のことを吟味していく。第一に、罪の赦しと罪の除去との違いを。第二に、罪が消し去られるのは正確にはいつなのかを。第三に、罪の除去の過程を。そして最後に、罪が拭い去られたら、私たちはどうなるのかを吟味していく。

 罪の赦しと罪の除去〔消去〕は、全くの別物である。聖所において、罪の赦しは、日ごとの儀式の結果与えられた。罪の除去は、年ごとの儀式の結果なされた。従って、罪の赦しは年中与えられていたが、罪の除去は、年に一度の贖罪の日に、罪が最終的に赦され排除された結果なされるものであった。私たちの経験に当てはめるならば、赦しには、日常的につきまとう罪の悔い改めが含まれる。神は憐れみのうちに、私たちの名前のそばに「赦免済み」と書くことによって罪を免除なさる。神が個々人の件を調査し、私たちの誠意と品性を調査しておられる間は、罪の記録が消去されることはない。罪は、巻物に書かれたままである。しかし、それにもかかわらず、悔い改めるたびに、私たちは神の恵みによって、永遠に赦された者とみなされる。もしこの経験を最後まで継続するならば、赦しも永続するのである。神は忠実で、決して変わらないお方であり、変わりやすいのは人間のほうである。人の心は移り気で、一度は罪を悔い改めても、その同じ罪に立ち戻り、滅びの道を選んでしまうことさえある。赦しはまだ手の届く範囲にあるが、もしも不服従の道を最後までたどり続けるならば、人は裁きの時に、自らの罪の責任を負わなければならなくなる。この移り気のゆえに、完全な罪の除去、あるいは覚えの書から罪の記録が永久的に消去されるのは、私たちの件が決定されるまで持ち越されるのである。この観念は、霊感の筆によって支持されている。

  新生への道:悔い改め  ⑫

たとえそれがどんな小さい悪癖、どんな欲望であっても、いつまでも心の中でもてあそんでいるなら、ついには福音のすべての力を無にしていまいます。魂は罪にふけるごとに、神をきらう心が強くなります。頑固に神を信じようとせず、真理に対して全く冷淡であるという人は、ただ自分の播いた種を収穫しているにすぎません。昔の賢人は、罪人は「自分の罪のなわにつながれる」(箴言5:22)と言いましたが、悪をもてあそぶことが恐ろしいということを、これほど適切に忠告しているものはありません。

 キリストは、いつでも私たちを罪から解放しようとしておられます。けれども、私たちがどこまでも罪を犯し続け、その結果、意志は全く悪に傾き、罪から解放されることを望まず、キリストの恵みを受け入れようとしないならば、キリストは何をなさることができるでしょうか。私たちは彼の愛をどうしても受け入れようとしないため、自らを滅びに陥れるのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、・・・心を、をかたくなにしてはいけない」(ヘブル3:7,8)

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)。人の心には、喜びと悲しみがあるかと思えば、横道にそれようとするわがままな心があって、さまざまな不純と虚偽が宿っています。神は、その動機、意図、また目的そのものをごらんになります。汚れたそのままの心で、神のみもとに行きましょう。詩篇の記者がうたったように、すべてをごらんになる神に心を大きく開いて、「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、私を試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23,24)と願いましょう。



 


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