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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 88

2013年08月18日 | 日記

 

   88

芽を出したアロンの杖は、神の戒めを守る真の民、イスラエルを簡潔に表している。神が、生命のない木の棒を生きた枝へと一変させ、芽吹かせられた。これは、義の働きを表している。アロンの杖についた新鮮な芽は、イエスにあって新しい命に生まれ変わった者たちだけが、神の戒めを守ることができるようになると証言する。新しい命とは、神の戒めに服従する生活への聖化である。契約の箱の両側には、二人の金製の天使が置かれていた。これらの無言の肖像は、大いに研究の価値がある啓示を明らかにしてくれる。

契約の箱を見下ろしている天使たちは、地上から贖われた人々を象徴している。これらは、贖われた民の中から、神の御座の周りで仕えるために選抜される者たちを表している。二人のケルビムは、黙示録とエゼキエル書に描かれている四つの生き物だろうと、筆者は見ている。荒野の聖所において、契約の箱を見下ろしていた天使は二人だけであった。が、後にソロモンは、神殿の建築に関する特別な指示を主から受け、二体のケルブを加えて、契約の箱の前に据えた(列王記上6章参照)。契約の箱を見下ろしている二人のケルビムは、純金で造られていた。その前の床に置かれた天使たちは、オリーブの木で造られ、純金がかぶせられた。木材は常に、堕落した人間の性質を象徴する。

  新生への道:神の愛 ⑦

イエスは、「父は、わたしが自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)と言われました。これはつまり、こういう意味です。

「私の父は、あなたがたをこの上なく愛しておられますから、私があなたがたの救いのために命を捨てたことによって、以前にもまして私を愛してくださいます。あなたがたの負債と罪を負って生命を捨て、あなた方の身代わり、保証人となったため、私は父にいっそう愛されるようになったのです。なぜなら、私の犠牲によって神は義であることができると同時に、私を信じる者をも義とすることがおできになるからです」

神の子のほかには、誰も私たちのあがないを全うすることはできません。というのは、神のふところにいたものでなければ神をあらわすことができないからです。神の愛の高さ、深さを知る者だけがそれをあらわすことができるのです。堕落した人類のためにキリストが払われた限りない犠牲ほど、失われた人類に対する神の愛をあらわすことのできるものはありません。

「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)。神はキリストを、ただ人々の間に生活し、人々の罪を負い、彼らの犠牲となって死ぬためにお与えになったばかりでなく、神は、キリストそのものを堕落した人類にお与えになったのです。キリストは人類の利害、また必要を人々と共に味わわれました。神と一つであったキリストは、人々と切っても切れない絆で結ばれ「彼らを兄弟と呼ぶことを恥」(へブライ2:11)とされません。彼は私たちの犠牲、また助け主、私たちの兄弟です。神のみ座の前に人間の姿をもって立ち、永遠に自らあがなわれた人類の一人となられた「人の子」です。これはみな罪の渕より、また滅びより人が引き上げられ、神の愛を反映し、清い者となる喜びにあずかるためでした。

 



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